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第2話 悲劇のその先
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「ねえ! まだ外に出ちゃ駄目なの!? もうこんなに晴れているんだよ!」
玄関の前でとっさにエルザに服を掴まれたルイスは、今にも暴れ出しそうな勢いで喚いていた。
雨が上がって丸二日が経ち、外はあの連日の雨が嘘のような晴天。眩しい太陽に暑いくらいの空気。そして敷地の日陰辺りはぬかるんでいたが、もう外に出て遊んでもいいくらいには乾いているように見える。それでも父親からの外出禁止令が解かれないものだからルイスが暴れ出したくなるのも無理はない。
「お母様を呼んで来てくれる?」
隙きを見て脱走を試みようとしたルイスの腕をエルザの代わりにがっちりと掴んだ。しかしまだ八歳だと侮っていた。ルイスは勢いよく腕を振ると玄関を飛び出して行ってしまう。カトリーヌもとっさにその後を追って走り出した。
数日振りに出た外に出ると太陽は肌を焼くように熱く、それでいて空気は水分を含んだベタつきがあった。それでも地面のほとんどは乾いていて、普段の雨上がりと何ら変わりはない。外出禁止令は父親の杞憂なのだろう。
モンフォール領は広大で比較的平地ではあるが、場所によっては起伏が激しい大地だった。伯爵家の屋敷は高台にある為、街がある方向へは急な坂を下って行く事になる。走り続けて次第に息が苦しくなっていたが、前方にルイスの背中を見つけた時には自然と足が早くなっていた。
「ルイス! 待って! ルイスったら!」
なんとか追いついて背中の服を掴むと、ルイスは乱暴に振り払ってきた。しかし思いのほか強くなってしまった力にルイスの方が泣き出しそうな顔で振り返ってくる。カトリーヌは振り払われた手でルイスの体をぎゅっと握り締めた。
「連れ戻したりしないから! ここまで来たんだもの、一緒に街へ行ってみましょう」
「いいの? 姉さまも怒られるかも」
「お父様の所に行きましょう。それなら何の心配もないでしょ?」
するとさっきまでの泣き出しそうな顔が嘘のように一変して笑顔になる。そこからは二人仲良く手を繋いで街を目指した。
次第に街が見えてくると、そこから先に違和感を感じた。何かがいつもと違う。いつもの雨上がりとは違う臭い。そして街の一部が見えてくると、カトリーヌとルイスは言葉を失った。
街の中には淀んだ茶色い物が流れ込んでいる。その奥の大地も茶色い何かで染まっていた。よく目を凝らすとそれはゆったりと流れているように見える。本来ならこの季節は緑の葉で覆われているはずの農地には、緑色の代わりに淀んだ川が流れていた。
「姉さま、あれなに?」
「川みたいね」
「あんなところに川なんかなかったよ!」
パッと手を離したルイスが走り出す。カトリーヌもその後を追ったが街の中に入ってしまえばルイスの方が知り尽くしている為、あっという間に見失ってしまった。ルイスを探して迷い込んだ先で見た光景は変わり果てた街の姿だった。
地面には厚い泥が溜まり、進む度にぬちゃぬちゃと嫌な音を立てていく。そして歩きづらさと共に、悪臭が満ちていた。街の人々は鼻から口にかけてタオルを巻き、無言のままスコップで地面に積もった泥や瓦礫を掻き出している。その光景を二階以上の家の窓から覗いている子供達の姿や、何もしないまま立ち尽くしている人達の姿もあった。白い壁が多かった街は茶色い泥で汚れ、知らない場所のように思えた。
「ルイス! どこにいるの? ルイス!」
街の中は作業をしている人々が道を塞ぎ、進むのに時間が掛かってしまう。どこに向かっているのか分からないまま歩いていると不意に腕を引っ張られた。
「お嬢様? やっぱりカトリーヌお嬢様だ!」
後ろには父の従者のカールが息を切らせて立っていた。ずっと父と共に帰って来ていなかったカールを見た瞬間、カトリーヌは無意識に泣き出してしまっていた。
「お嬢様? どうなさいました? お一人ですか? エルザも一緒ですか!?」
「ルイスがいないの! 見失ってしまったのよ! 私のせいだわ!」
腕で涙を拭いながらカールの服にしがみつくと、カールは一瞬たじろいでその手を離そうとしてきた。
「お嬢様、俺は今凄く汚れているので離してもらえますか?」
「そんな事言っている場合じゃないでしょ!」
「た、確かにそうですね。一緒にルイス坊っちゃんを探しましょうッ」
カールに手を引かれて人々の間を縫うように歩き出す。カールは進むに連れ、険しい顔になっていった。
「確か坊っちゃんが仲良くしているパン屋のお子さんの家はこの先ですよね。……まずいな」
「何がまずいの?」
「お嬢様はここにいてもらえませんか? 俺が坊っちゃんを探してくるんで」
「嫌よこんな臭い所に一人きりだなんて! 絶対に嫌!」
カールは辺りを見渡して仕方なく、服を掴んでいた手を取って強く握り締めてきた。
「それじゃあ一緒に行きますが、恐らくこれから見る光景はきっと辛いものです。そのご覚悟がありますか?」
「ルイスを探さないといけないもの」
進む先は更になだらかな下り坂になっている。本来ならその先にも家々があるはずだった。
泥水の川の際で立ち尽くすルイスを見つけると、カトリーヌは後ろからルイスの顔を覆うようにして腕を回した。目の前にあったはずの沢山の家々は消え去り、瓦礫と化している。ぷかりと浮く牛の姿を見つけた後に目に入ったのは、瓦礫の上に引っかかって動かない人の姿、身体の一部だけが浮かんでいる姿が次々に視界に飛び込んできた。
「お嬢様もあんまり見ない方がいいですよ。ここから先はまだ水が引かなくて進めないんです。瓦礫が多くて小舟も出せません。……この暑さですし腐敗が進み前に迎えに行ってやりたいんですけど」
「まだ生きているんじゃ」
震える声で言うと、カールは残念そうに首を振るだけだった。
「……ッわぁ、うわああああああああッ」
突然叫び出したルイスをとっさに捕まえるとカールは肩の上に担いだ。ルイスはカールの肩の上でこれでもかという程に暴れ、髪を掴み手で背中を殴り、足を無心でバタつかせている。初めて見るルイスの取り乱した姿にカトリーヌも泣きながら、それでも足を止めないカールの後に続いた。
カールが向かっていたのは街の上の方にある酒場だった。木の机が幾つもある中の一つに、見慣れた姿を見つけた瞬間、カトリーヌは走り出していた。
「お父様! 良かった!」
驚いたまま受け止めてくれた父は、カールの肩で動かなくなっているルイスを見ると大きな溜息をついた。カトリーヌにしがみつかれたままカールの肩からルイスを受け取る父もまた、酷く疲弊しているように見える。ルイスはさっきまで暴れていたのが嘘のように全く動かない。難しい顔をしたままじっと目を見開き、父に抱かれるまま微動だにしないその姿は異様なものだった。
「外出は禁止だと話していたはずだがお母様が許したのか?」
「お母様は知らないの。二人で……その、飛び出してきたから」
俯くと誰かが後ろから頭をグリグリと撫でてきた。
「子供に何日も大人しくしていろって方が無理なのさ! なあ嬢ちゃん」
「嬢ちゃんなんて失礼よ! 私はお父様の娘なのよ!」
「だからお嬢ちゃんだろ」
やけに楽しそうに話す男からは濃い酒の匂いがしている。父と同じ年の頃の男は、上機嫌に再び頭を撫でてくると、そのまま机に突っ伏してしまった。
「なによこの人!」
怒りのままに言葉が口をついて出そうになった時、カールが優しく乱れた髪を直してくれた。
「どうか大目に見てやって下さい。その者は今朝妻の遺体が見つかったばかりなんです」
「死んでしまったの?」
「濁流に飲まれて、本来いた場所から離れた所から発見されました。その後浴びるほど酒を飲んでしまったんですよ。でも、今日だけは勘弁してやってください」
カトリーヌは机に突っ伏す男をじっと見つめると、そっと父が声を掛けてきた。
「すぐに馬車を用意するから家に帰りなさい。きっとお母様達も心配しているぞ」
「ルークとエレナがいないの。どこにいるか知らない?」
「ルークとエレナ?」
するとカールは父親にそっと耳打ちをした。小さく目を見開いた父親は小さく息を吐いた。
「あの辺り一帯は逃げる時に皆散り散りになってしまったから、どこかの家で避難しているかもしれないな。私が探しておくからお前達はもう家に帰っていないさい。さあカールと一緒に……」
「嘘だよ。二人共死んだんでしょ」
膝の上でそう言ったルイスは降りるという合図なのか父親の肩を叩くとするりと床に降りた。それ以上は何も言わずに立ち尽くしている。カトリーヌは堪らずにその手を繋いだ。
「いいかルイス。今皆で必死に生きている者達を探しているんだ。だけどお前達がここにいたら私は心配で気が気ではない。だから捜索に専念する為にもお前達には屋敷にいてもらいたいんだ」
「お母様が心配しているだろうから家に戻りましょう?」
くいっと手を引いてみたが返事はない。カールに促されるまま酒場を出ていく時も、ルイスは置物のように青白い顔をしたまま一言も発しなかった。馬車はゆっくりと坂を上がっていく。その間、カールは何が起きたのかをかいつまんで話してくれた。
事の発端はモンフォール領に流れ込む大きな川が大雨のせいで決壊し、下流にあたるモンフォール領に大量の水が流れ込んできてしまったというのが原因らしかった。
「水が引くにはまだ数日はかかるでしょうが、すでに水位は下がっているんで、もう少ししたら立ち入れなかった場所にも調査に入ろうと思います。だからお嬢様達は心配せずに屋敷で待っていてくださいね」
やつれてはいるが人懐っこい表情は変わらない。優しく微笑まれとほんの少しだけ安心する事が出来た。
「お父様もあなたも少し休んでね。ずっとあそこにいたら身体を壊すわ」
「お嬢様は優しいですね。でも屋敷の者達はもちろん街の兵団や集まった男達と交代制で休んでいるんで、俺もまだまだ若いんで体力も十分にありますから!」
「でも、酷い臭いだわ」
するとカールはしょんぼりとして大きな身体を小さくした。
「すみません、昨日身体は拭いたんですが作業しているとすぐに汚れちまうもので」
「別にそこまで臭う訳ではないから大丈夫よ。でも無理しないでね」
「お嬢様ぁ! ほんっとうにお嬢様はモンフォール領の宝です! もちろん坊っちゃんもですよ」
ヘラっと笑ったカールにも反応する事なく、ルイスは抜け殻のように窓の外をただじっと見つめていた。
屋敷に到着すると、門の前は騒然としていた。母親とエルザは身を寄せ合いながらウロウロとしている。他の使用人も馬を出して今まさに乗ろうとしている所だった。
「お母様! エルザ!」
馬車の窓から身を乗り出して手を振ると、二人が走ってくる。馬車から出たカトリーヌとルイスは力強く母親の腕の中に収まった。カールは泣いているエルザに苦笑いしながら何やら話をしているようだった。
「勝手にごめんなさい」
「いいのよ。何も教えずに閉じ込めてしまってごめんなさいね」
「お父様に会ったのよ! 疲れているようだったけれど、怪我もなくて元気そうだったわ」
「ご無事で何よりだわ。それで、あの人はいつ頃戻られるの?」
母親の視線がカールに向く。カールは困ったように考えながら言いにくそうに答えた。
「しばらくは戻られないようです。奥様も危ないから街には近づかないようにと仰っておりました」
「くれぐれもお身体にはお気をつけくださいと伝えて頂戴」
「かしこまりました。それではお二人共今日みたいな無理はしないようにして下さいよ!」
カールは馬に乗り換えると再び街へと戻っていく。離れていく馬車をずっと見送るエルザの様子が気になったカトリーヌは、ひょいっと顔を覗き込んだ。
「やっぱり心配よね」
「別にカールの事なんて……」
「街の事よ。どんな様子か気になるでしょう? あと孤児院の事も」
エルザは孤児院から引き取った孤児の一人だった。定期的に支援に行っているが今様子を見てくる事は出来なかった為、カトリーヌも気掛かりだった。
「もちろんとても心配ですよ! またカールが来たら聞いてみます」
「そうね、そうしましょう」
その時掴んでいた手が離される。そのままルイスは屋敷の中に入って行ってしまった。追いかけようとしたが母親に静かに首を振られた。
「少し一人にしてあげましょう」
集まっていた使用人達は返事をすると散り散りになっていく。そうしてまさかこの日から三ヶ月も身動きが取れないままになるとは、この時は思いもしなかった。
玄関の前でとっさにエルザに服を掴まれたルイスは、今にも暴れ出しそうな勢いで喚いていた。
雨が上がって丸二日が経ち、外はあの連日の雨が嘘のような晴天。眩しい太陽に暑いくらいの空気。そして敷地の日陰辺りはぬかるんでいたが、もう外に出て遊んでもいいくらいには乾いているように見える。それでも父親からの外出禁止令が解かれないものだからルイスが暴れ出したくなるのも無理はない。
「お母様を呼んで来てくれる?」
隙きを見て脱走を試みようとしたルイスの腕をエルザの代わりにがっちりと掴んだ。しかしまだ八歳だと侮っていた。ルイスは勢いよく腕を振ると玄関を飛び出して行ってしまう。カトリーヌもとっさにその後を追って走り出した。
数日振りに出た外に出ると太陽は肌を焼くように熱く、それでいて空気は水分を含んだベタつきがあった。それでも地面のほとんどは乾いていて、普段の雨上がりと何ら変わりはない。外出禁止令は父親の杞憂なのだろう。
モンフォール領は広大で比較的平地ではあるが、場所によっては起伏が激しい大地だった。伯爵家の屋敷は高台にある為、街がある方向へは急な坂を下って行く事になる。走り続けて次第に息が苦しくなっていたが、前方にルイスの背中を見つけた時には自然と足が早くなっていた。
「ルイス! 待って! ルイスったら!」
なんとか追いついて背中の服を掴むと、ルイスは乱暴に振り払ってきた。しかし思いのほか強くなってしまった力にルイスの方が泣き出しそうな顔で振り返ってくる。カトリーヌは振り払われた手でルイスの体をぎゅっと握り締めた。
「連れ戻したりしないから! ここまで来たんだもの、一緒に街へ行ってみましょう」
「いいの? 姉さまも怒られるかも」
「お父様の所に行きましょう。それなら何の心配もないでしょ?」
するとさっきまでの泣き出しそうな顔が嘘のように一変して笑顔になる。そこからは二人仲良く手を繋いで街を目指した。
次第に街が見えてくると、そこから先に違和感を感じた。何かがいつもと違う。いつもの雨上がりとは違う臭い。そして街の一部が見えてくると、カトリーヌとルイスは言葉を失った。
街の中には淀んだ茶色い物が流れ込んでいる。その奥の大地も茶色い何かで染まっていた。よく目を凝らすとそれはゆったりと流れているように見える。本来ならこの季節は緑の葉で覆われているはずの農地には、緑色の代わりに淀んだ川が流れていた。
「姉さま、あれなに?」
「川みたいね」
「あんなところに川なんかなかったよ!」
パッと手を離したルイスが走り出す。カトリーヌもその後を追ったが街の中に入ってしまえばルイスの方が知り尽くしている為、あっという間に見失ってしまった。ルイスを探して迷い込んだ先で見た光景は変わり果てた街の姿だった。
地面には厚い泥が溜まり、進む度にぬちゃぬちゃと嫌な音を立てていく。そして歩きづらさと共に、悪臭が満ちていた。街の人々は鼻から口にかけてタオルを巻き、無言のままスコップで地面に積もった泥や瓦礫を掻き出している。その光景を二階以上の家の窓から覗いている子供達の姿や、何もしないまま立ち尽くしている人達の姿もあった。白い壁が多かった街は茶色い泥で汚れ、知らない場所のように思えた。
「ルイス! どこにいるの? ルイス!」
街の中は作業をしている人々が道を塞ぎ、進むのに時間が掛かってしまう。どこに向かっているのか分からないまま歩いていると不意に腕を引っ張られた。
「お嬢様? やっぱりカトリーヌお嬢様だ!」
後ろには父の従者のカールが息を切らせて立っていた。ずっと父と共に帰って来ていなかったカールを見た瞬間、カトリーヌは無意識に泣き出してしまっていた。
「お嬢様? どうなさいました? お一人ですか? エルザも一緒ですか!?」
「ルイスがいないの! 見失ってしまったのよ! 私のせいだわ!」
腕で涙を拭いながらカールの服にしがみつくと、カールは一瞬たじろいでその手を離そうとしてきた。
「お嬢様、俺は今凄く汚れているので離してもらえますか?」
「そんな事言っている場合じゃないでしょ!」
「た、確かにそうですね。一緒にルイス坊っちゃんを探しましょうッ」
カールに手を引かれて人々の間を縫うように歩き出す。カールは進むに連れ、険しい顔になっていった。
「確か坊っちゃんが仲良くしているパン屋のお子さんの家はこの先ですよね。……まずいな」
「何がまずいの?」
「お嬢様はここにいてもらえませんか? 俺が坊っちゃんを探してくるんで」
「嫌よこんな臭い所に一人きりだなんて! 絶対に嫌!」
カールは辺りを見渡して仕方なく、服を掴んでいた手を取って強く握り締めてきた。
「それじゃあ一緒に行きますが、恐らくこれから見る光景はきっと辛いものです。そのご覚悟がありますか?」
「ルイスを探さないといけないもの」
進む先は更になだらかな下り坂になっている。本来ならその先にも家々があるはずだった。
泥水の川の際で立ち尽くすルイスを見つけると、カトリーヌは後ろからルイスの顔を覆うようにして腕を回した。目の前にあったはずの沢山の家々は消え去り、瓦礫と化している。ぷかりと浮く牛の姿を見つけた後に目に入ったのは、瓦礫の上に引っかかって動かない人の姿、身体の一部だけが浮かんでいる姿が次々に視界に飛び込んできた。
「お嬢様もあんまり見ない方がいいですよ。ここから先はまだ水が引かなくて進めないんです。瓦礫が多くて小舟も出せません。……この暑さですし腐敗が進み前に迎えに行ってやりたいんですけど」
「まだ生きているんじゃ」
震える声で言うと、カールは残念そうに首を振るだけだった。
「……ッわぁ、うわああああああああッ」
突然叫び出したルイスをとっさに捕まえるとカールは肩の上に担いだ。ルイスはカールの肩の上でこれでもかという程に暴れ、髪を掴み手で背中を殴り、足を無心でバタつかせている。初めて見るルイスの取り乱した姿にカトリーヌも泣きながら、それでも足を止めないカールの後に続いた。
カールが向かっていたのは街の上の方にある酒場だった。木の机が幾つもある中の一つに、見慣れた姿を見つけた瞬間、カトリーヌは走り出していた。
「お父様! 良かった!」
驚いたまま受け止めてくれた父は、カールの肩で動かなくなっているルイスを見ると大きな溜息をついた。カトリーヌにしがみつかれたままカールの肩からルイスを受け取る父もまた、酷く疲弊しているように見える。ルイスはさっきまで暴れていたのが嘘のように全く動かない。難しい顔をしたままじっと目を見開き、父に抱かれるまま微動だにしないその姿は異様なものだった。
「外出は禁止だと話していたはずだがお母様が許したのか?」
「お母様は知らないの。二人で……その、飛び出してきたから」
俯くと誰かが後ろから頭をグリグリと撫でてきた。
「子供に何日も大人しくしていろって方が無理なのさ! なあ嬢ちゃん」
「嬢ちゃんなんて失礼よ! 私はお父様の娘なのよ!」
「だからお嬢ちゃんだろ」
やけに楽しそうに話す男からは濃い酒の匂いがしている。父と同じ年の頃の男は、上機嫌に再び頭を撫でてくると、そのまま机に突っ伏してしまった。
「なによこの人!」
怒りのままに言葉が口をついて出そうになった時、カールが優しく乱れた髪を直してくれた。
「どうか大目に見てやって下さい。その者は今朝妻の遺体が見つかったばかりなんです」
「死んでしまったの?」
「濁流に飲まれて、本来いた場所から離れた所から発見されました。その後浴びるほど酒を飲んでしまったんですよ。でも、今日だけは勘弁してやってください」
カトリーヌは机に突っ伏す男をじっと見つめると、そっと父が声を掛けてきた。
「すぐに馬車を用意するから家に帰りなさい。きっとお母様達も心配しているぞ」
「ルークとエレナがいないの。どこにいるか知らない?」
「ルークとエレナ?」
するとカールは父親にそっと耳打ちをした。小さく目を見開いた父親は小さく息を吐いた。
「あの辺り一帯は逃げる時に皆散り散りになってしまったから、どこかの家で避難しているかもしれないな。私が探しておくからお前達はもう家に帰っていないさい。さあカールと一緒に……」
「嘘だよ。二人共死んだんでしょ」
膝の上でそう言ったルイスは降りるという合図なのか父親の肩を叩くとするりと床に降りた。それ以上は何も言わずに立ち尽くしている。カトリーヌは堪らずにその手を繋いだ。
「いいかルイス。今皆で必死に生きている者達を探しているんだ。だけどお前達がここにいたら私は心配で気が気ではない。だから捜索に専念する為にもお前達には屋敷にいてもらいたいんだ」
「お母様が心配しているだろうから家に戻りましょう?」
くいっと手を引いてみたが返事はない。カールに促されるまま酒場を出ていく時も、ルイスは置物のように青白い顔をしたまま一言も発しなかった。馬車はゆっくりと坂を上がっていく。その間、カールは何が起きたのかをかいつまんで話してくれた。
事の発端はモンフォール領に流れ込む大きな川が大雨のせいで決壊し、下流にあたるモンフォール領に大量の水が流れ込んできてしまったというのが原因らしかった。
「水が引くにはまだ数日はかかるでしょうが、すでに水位は下がっているんで、もう少ししたら立ち入れなかった場所にも調査に入ろうと思います。だからお嬢様達は心配せずに屋敷で待っていてくださいね」
やつれてはいるが人懐っこい表情は変わらない。優しく微笑まれとほんの少しだけ安心する事が出来た。
「お父様もあなたも少し休んでね。ずっとあそこにいたら身体を壊すわ」
「お嬢様は優しいですね。でも屋敷の者達はもちろん街の兵団や集まった男達と交代制で休んでいるんで、俺もまだまだ若いんで体力も十分にありますから!」
「でも、酷い臭いだわ」
するとカールはしょんぼりとして大きな身体を小さくした。
「すみません、昨日身体は拭いたんですが作業しているとすぐに汚れちまうもので」
「別にそこまで臭う訳ではないから大丈夫よ。でも無理しないでね」
「お嬢様ぁ! ほんっとうにお嬢様はモンフォール領の宝です! もちろん坊っちゃんもですよ」
ヘラっと笑ったカールにも反応する事なく、ルイスは抜け殻のように窓の外をただじっと見つめていた。
屋敷に到着すると、門の前は騒然としていた。母親とエルザは身を寄せ合いながらウロウロとしている。他の使用人も馬を出して今まさに乗ろうとしている所だった。
「お母様! エルザ!」
馬車の窓から身を乗り出して手を振ると、二人が走ってくる。馬車から出たカトリーヌとルイスは力強く母親の腕の中に収まった。カールは泣いているエルザに苦笑いしながら何やら話をしているようだった。
「勝手にごめんなさい」
「いいのよ。何も教えずに閉じ込めてしまってごめんなさいね」
「お父様に会ったのよ! 疲れているようだったけれど、怪我もなくて元気そうだったわ」
「ご無事で何よりだわ。それで、あの人はいつ頃戻られるの?」
母親の視線がカールに向く。カールは困ったように考えながら言いにくそうに答えた。
「しばらくは戻られないようです。奥様も危ないから街には近づかないようにと仰っておりました」
「くれぐれもお身体にはお気をつけくださいと伝えて頂戴」
「かしこまりました。それではお二人共今日みたいな無理はしないようにして下さいよ!」
カールは馬に乗り換えると再び街へと戻っていく。離れていく馬車をずっと見送るエルザの様子が気になったカトリーヌは、ひょいっと顔を覗き込んだ。
「やっぱり心配よね」
「別にカールの事なんて……」
「街の事よ。どんな様子か気になるでしょう? あと孤児院の事も」
エルザは孤児院から引き取った孤児の一人だった。定期的に支援に行っているが今様子を見てくる事は出来なかった為、カトリーヌも気掛かりだった。
「もちろんとても心配ですよ! またカールが来たら聞いてみます」
「そうね、そうしましょう」
その時掴んでいた手が離される。そのままルイスは屋敷の中に入って行ってしまった。追いかけようとしたが母親に静かに首を振られた。
「少し一人にしてあげましょう」
集まっていた使用人達は返事をすると散り散りになっていく。そうしてまさかこの日から三ヶ月も身動きが取れないままになるとは、この時は思いもしなかった。
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ファンタジー
今から七年前。
婚約者である王太子の都合により、ありもしない罪を着せられ、国外追放に処された一人の令嬢がいた。偽りの悪業の経歴を押し付けられ、人里に彼女の居場所はどこにもなかった。
そして彼女は、『魔の森』と呼ばれる魔窟へと足を踏み入れる。
そして現在。
『魔の森』に住まうとある女性を訪ねてとある集団が彼女の勧誘にと向かっていた。
彼らの正体は女神からの神託を受け、結成された魔王討伐パーティー。神託により指名された最後の一人の勧誘にと足を運んでいたのだが——。
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