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21 遠い日の記憶

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 メリベルが最初に記憶に鍵を掛けた日から、一週間置きに記憶を一つ閉じていっていた。
 先生にはすでに全部で三つ鍵を渡していたが、忘れた内容はもちろんもう覚えていない。それでも記憶を消すかはその時の自分で決めている為、消したという事はおそらく忘れてもいいと自分が判断したからに違いなかった。

 婚約を公にするという話の延期は、一体父親がどう話してくれたのか、特に侯爵家がお咎めを受ける事はなかった。あれからジャスパーとは話をしておらず、週末に王城で会うという約束も流れてしまっていた。もしかしたら、このまま一年後までジャスパーと話す機会はもうないのかもしれない。そもそも、いつからジャスパーとは普通に話せなくなってしまったのか。婚約者だと公にならなくても、クレイシーのように学友として過ごしたっていいはず。それなのにジャスパーからは目に見えない線引をされているようで、声を掛ける事も今となっては憚れた。
 生徒が帰った教室に戻り、あの紙を広げる。そして今まさに四つ目の記憶を消そうとしていた。


 視えてきたのは、十歳の記憶だった。
 メラニーと手を繋ぎ、喪服を着て聖堂に入っていく幼い自分の姿を少し離れて見ている。トボトボと小さい歩幅に合わせるようにしてまだ若いメラニーも歩いていた。この時のメラニーは今の自分と同じくらいに見える。それなのにあの時のメリベルからは、とてもお姉さんに見えていた。でも今こうして見ると、母親を失って二年経っても立ち直る事の出来ないメリベルと同じように、泣き出しそうな顔をしていた。

「お嬢様、少しお庭に行きませんか? 聖堂のお庭はそれはそれは美しいらしいですよ」
「中に入らなくてもいいの?」
「大丈夫です。まだ時間はありますから」

 幼い自分にとって母親の命日こそ辛いものはなかった。
 いつもは家族の中で母親の話が出てくる。それは楽しい思い出話ばかりで、その時に思い出すのは優しい笑顔だった。でもこうして聖堂に行き、大きな母親の肖像画の前で神官が魂を鎮める祈りを捧げ、皆が黙ったまま俯く姿は、この世のどこにも母親はいないのだと突き付けられているようだった。メラニーと共に聖堂から逃げるように中庭に向かっていく。そこには可愛らしい野花と小さな池、そして模様の珍しい黒い蝶がその上をフワリと飛んでいた。王城や侯爵邸の珍しい花、手入れの行き届いた庭園、噴水といった作りではなかったが、手入れをしていないようでしている自然に近い絶妙な景観を維持しているようだった。

(最も、あの時の私にそんな事分からなかったのよね)

 小さく笑いながらその後を付いて行くと、この後に起こる事を思い出して緊張が走った。

「メリベル様ッ! 誰か誰か来て下さい! メリベル様ーーッ!」

 メラニーが僅かに目を離した瞬間、メリベルは池に足を踏み入れてしまっていた。足が水の上に進んでしまったのは、池の上を飛ぶ蝶に誘われての事だった。

(あの蝶は!)

 声を出そうと思っても記憶の中の事なので、出せるはずもなくこの姿が誰かに見えるはずもない。子供の時はただの蝶だと思っていたが、今視るとその蝶は魔素を帯びていた。

(メラニーそばに行かないで!)

 メラニーは魔廻がない。蝶に触れられれば危険だった。

「どけ!」

 銀髪の若い男が池の前で素早く宙に陣を描くと何事かを叫んだ。すると池の水はメリベルのいる所だけ減り、顔が覗く。銀髪の若い男は膝までになった池に入っていくと、メリベルを肩に乗せて戻ってきた。

(先生! あの時助けてくれたのは先生だったのね……)

 まだ妙な格好をしていない大魔術師としてのイーライだった。

「メリベル! メリベル大丈夫?」

 真っ青な顔をしているメリベルに駆け寄ってきたのは、同じく喪服に身を包んだジャスパーだった。意識のないメリベルに泣きそうな顔で駆け寄っている。しかし先生はジャスパーの事などお構いなしにメリベルを担いだままどんどん進んで行ってしまう。

「あんたこの子のお付きだろ? 一緒に来いよ」

 メラニーは泣きながらイーライの後を追った。

「イーライ殿! 待って下さい! 俺も!」
「殿下は邪魔ですので来なくて結構ですよ。ほらほらお祈りが始まるのでさっさと聖堂に入って下さい。ですが今はくれぐれも侯爵には伝えないで下さいね。今日は侯爵にとって奥様を悼む大事な日なんですから」
「メリベルが目を覚ますまでそばにいたい!」
「そんな事を言って殿下は聖堂に行きたくないだけではありませんか?」

 歩みを止めないままイーライがそう言うと、ジャスパーは怯えたようにびくりと足を止めてしまった。魔素を纏った蝶はメリベルの後を追うようにして飛んでくる。しかしイーライは付いてくる蝶をそのままにした。

(あの蝶は何? 先生は気づいていないのかしら)

 イーライは歩きながら風魔術を使うと、濡れていたメリベルの体が一気に乾いた。それと共に激しく咳き込んだメリベルを広い廊下の椅子に座らせた。そして振り向かぬまま手を伸ばすと、付いてきていた蝶を誘うように朦朧としているメリベルの元へ誘導していく。そしてメリベルに吸い込まれるように蝶を吹いた。蝶は溶け込むようにしてメリベルの中へ消えていってしまった。

(何、今の……)

「……イーライ殿、やっぱり俺もそばにいます。いたいです」

 池に落ちたのはメリベルだというのに、メリベルよりも青い顔をしたジャスパーが駆け寄って来る。イーライは盛大な溜息を吐くと冷たい視線をジャスパーに向けた。

「殿下は祈りにご参加されるべきでしょう」
「ッ、分かっています。でもメリベルが心配で……」
「こうなったのは殿下のせいだとは思いませんか? 殿下がこの子の母親を死に追いやってからずっと、この子が苦しんでいるとは思いませんか?」

 小さな拳をぎゅっと握り締め、真っ青な顔をしたままジャスパーは固まっていた。

「だんまりですか。身を守る手段としてはそれもまあいいでしょう。幸いにもこの子は母親の死の場面を覚えてはいないようですから、あなたが関与しているという事も都合よく忘れているようです。良かったですね、ジャスパー殿下」
「……う、んん」
「お! 起きたか? 気分はどうだ?」
「お嬢様! 私が分かりますか!?」
「もちろん……メラニー。 あ、ジャスパー様も……」

 うっすらと開けた目でジャスパーを見つけると、メリベルはニッコリと微笑んだ。その時ジャスパーがどんな顔をしていたかなど見えてはいなかった。


 メリベルは手の中に現れた鍵を使う事はせず、そのまま引き離されるように紙から目を離していった。バクバクと鳴る心臓を落ち着かせる為に何度か深呼吸をしていく。すると手の中にあった鍵の感触はもう消えていた。紙を直様折り畳み、教室を後にした。
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