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3 望まない申し出

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 丁度侍女のアニが淹れてくれたハーブティーを飲んで横になろうとしていた所で、扉が叩かれた。返事をして入ってきたヴァートは茶器を片付けているアニを見ると僅かに目を見開いている。ヴァートはもともと感情が表に出る方ではない。だからほとんどの者は気が付かないかもしれないが、長年ヴァートだけを見てきたエミリアとしてはあまりおもしろくない表情だった。

「アニ、いたのか」
「お茶をお出ししておりました」

 そういってカートを押していく背中をずっと見送っているヴァートの背に、堪らずに声を掛けた。

「何か用なの?」
「急ぎではありませんので、お休みになられるのでしたら後でも構いません」
「長くならなければいいわ」

 幾分ぶっきらぼうになってしまい、バツが悪く目を逸らすとヴァートはそばに立った。

「実はお嬢様が学園に戻られる時なのですが、力不足ではありますが私もお供させて頂く事になりました。宜しいでしょうか?」
「駄目よ!」

 とっさに口から出たのはそんな言葉だった。困惑したヴァートの表情に言葉が出てこない。理由ならある。でもそれを告げる訳にはいかない。学園の中までヴァートが来るようになったらきっと、必ずヴァートに近づいてくる女達がいるに決まっている。それら全てを一掃するには骨が折れるだろう。

――躓いちゃった。
――これを資料室まで運ばなくちゃいけないの。
――具合が悪くて。

 あの手この手を使ってヴァートに近づいてくるかもしれない。

「そんなのは道端にでも転がしておけばいいのよ!」

 言ってとっさに口を噤んだ。嫌な妄想が一気に頭の中を駆け巡り、一瞬の内に何人もの女達が頭の中で廊下に転がる。

「お嬢様? やはりご体調が優れないようですね」
「た、体調は大丈夫よ。ねえヴァート、学園に付いてくるのは他の者じゃ駄目なの?」
「お嬢様は私がご一緒ではご不安ですか? そうですよね、落馬の時にお助けする事が出来なかったのですから甘んじてお叱りはお受けします。でも名誉挽回させてください。もう二度とお嬢様を危険な目には遭わせません!」

 懇願するような、真剣な眼差しが心を鷲掴みにされる。頷かずにはいられなかった。

「分かったわ。あなたに守られてあげる」

 ヴァートは安堵したように微笑むと、毛布を引き上げてくれる。手元が近づくと清潔な石鹸の香りに混じってルイスの匂いがした。それだけでまた胸が苦しくなる。本当はこの大きな手に触れてみたい。もっと近づいたからどんな匂いがするのだろうか。自然と広い肩に視線を向けると、ふと目が合った。

「ゆっくりお休み下さい。何も心配はいりませんよ。全ての事から私がお守り致します」
「大袈裟ね。ヴァートからしたら私はまだ子供に見えるのかしら……」

 段々と眠気が襲ってくる。とろんとした瞼を持ち上げてヴァートを見ていると、不意に大きな掌で目元を隠された。

「これじゃあ見えないわ」
「もうお休み下さい、エミリアお嬢様」

 落ち着きのある低めの声に誘われるように、エミリアは夢の中へと落ちていった。




落馬事故から一週間。
 エミリアは危機に直面していた。ソファの正面には王太子のフェリド。なぜか毎日、フェリドは父親が出掛けたタイミングで来訪して来るのだった。どこかに見張りを付けているとしか思えない見事な時間差で訪れるものだから、登城してから毎度慌てて返ってくる父親が不憫でならなかった。

「毎日お越し頂き申し訳ございません、殿下」
「婚約者の心配をするのは当然だろう? それといい加減殿下呼びは止めろ。お前はずっとフェリドと呼んでいたろ」

 苛立ったようにつま先が脛に当たる。痛い程強くはなかったが、侍女を下がらせる時の合図よりは強めにぶつかり、とっさに足を引っ込めていた。張り付けた笑みにひびが入りそうになる。それでも表情を変えずに微笑んでいられるのは、王妃教育の賜物なのだろう。確かにフェリド様、と呼んでいた。控えているヴァートを見るとこくりと頷かれる。小さく息をつくと苛立ったような視線が突き刺さってきた。

「何故ヴァートを見るんだ? 俺の言う言葉では信じられないのか?」
「そんな事ございません! 記憶を失ってから一番そばにいるのか彼なので、色々と教わっているのです。なにせ記憶がないものですなら」

 するとフェリドは閃いたように膝を叩いた。

「どうかなさいましたか?」

――フェリド様がこんな顔をする時は嫌な予感しかしないわね。

「いい事を思いついたぞ。エミリアは城に住めばいいんだ! そうすればわざわざ見舞いに来る事もないし、公務の合間を縫ってだが俺達の話をしてやれる。お前もいい考えだと思うだろう?」

 縋るようにヴァートを見つめると、僅かに視線を伏せてからにっこりと微笑んだ。

「王城に住むという事について私の意見は申し上げられませんが、お屋敷ばかりにいても失った記憶が戻るとはあまり思えませんので、もう少し外に出てみるのは良い案かと思います」
「ほら、ヴァートもそう言っているんだ。いいな?」
「いえいえ王城に住むのはいいとは言っておりませんでしたよ! 私達は婚約者とはいってもまだ夫婦ではないのです。共に暮らすなど良からぬ噂が流れでもしたら、殿下の……フェリド様のお名前に傷を付ける事になってしまいます!」
「誰が共に暮らすと言った。お前には離れの離宮を用意してやる。学園に通うにしてもその方が断然近いし、送り迎えの手間も省けるだろ」
「……父に相談してみます」
「ならば早々に決定し連絡を寄越すように!」

 そう満足げに微笑んだフェリドを見送ったのも束の間、入れ違いで父親が慌てて帰宅してくる。完全に遊ばれている父親を哀れんだ目で見ていると、隣りに来たヴァートが窘めるように呟いた。

「そんなに醒めた目はお止め下さい。あれでも王城では有能な文官なのです」
「ヴァートこそ酷いわ。曲がりなりにもポミエ家の当主なのよ」

 二人で言ったあと、笑いそうになる唇を必死で結んだ。

「また入れ違いだったか。本当に殿下はこちらの動きを呼んでおられるようで困るな」

 侍女に水の入ったグラスを渡された父親は取り敢えず玄関の脇にあるソファに座った。

「お父様、お疲れの所申し訳ございません。先程殿下からお話があったのですが、殿下は私の症状をお気になされて王城に住まないかとご進言して下さいました。離宮をご準備下さるようです」

 すると今まで汗を拭ってぐったりとしていた父親は跳ね起きた。

「駄目だ! そんなの駄目に決まっているだろ!」

 まさかの反対に驚いていると、父親はブツブツと口元に手を当てながら小さな声で悪態をついていた。

「あのお父様? どうかなさいましたか?」
「実はな、前々からそんな話を打診されていたんだ」
「なんですって??」

 思わず出た素っ頓狂な声に自分でも驚いてしまう。それはこの記憶喪失の一件の前からだろうか。そんな事一言も言ってはいなかったし、今までも聞いた事などなかった。

「実はな、フェリド殿下はエミリアを側に置いておきたいようなんだ。これはエミリアが学園に入学した時からある話になるな」
「私を王城に閉じ込め……いえ、住まわせようとされていたのですか? それはまさか陛下からのご提案だったのでしょうか?」

 陛下からというのは正直考えられないが、フェリドからというのはもっと考えられなかった。今までそれなりに仲良くはやってきていたと思う。子供の頃は確かに楽しく遊んだりもした。でもそれも王妃教育が始まるまで。朝から晩まで厳しい教育を受けるようになったのと同時にフェリドもほぼ同時に公務を始めた為、顔を合わせるのは月に一度の茶会の短い時間のみだった。あとは夜会。フェリドが出席する夜会で同伴者が必要なものに関しては共に出席していた。でもダンスの練習には付き合ってもらえずに、息が合わず冷や汗を掻いたのは一度や二度ではない。全く持って好かれているという感覚がなかっただけに呆けていると、父親の咳払いが聞こえて我に返った。

「それでエミリアはどうしたいんだ? 王城に住みたいと思うか?」
「婚約者とはいえまだ夫婦ではないのです。離宮と言っても良からぬ噂はすぐに広まるでしょう」
「本当にエミリアは聡い子で助かったよ。きっとお母様似なのだろうな」

 そう言いながらしみじみと階段の上に掲げられている大きな肖像画、しかも母親一人だけの肖像画を見つめながら、目にうっすら涙を浮かべていた。正直母の記憶はない。本当にない。
 母が亡くなった原因は出産後に体調を崩し、そのまま伏せってしまったからだと聞いた事がある。そしてそのまま帰らぬ人となった。でも父親は物心ついた時からずっと過保護だったし、少しおっちょこちょいな所も変わっていない。だからこそ愛する母親が亡くなった時、一体どれほどの悲しみの中にいたのだろうと思うと自然と優しくなるのだった。

「記憶がないと言っても王太子殿下の婚約者はお前一人なんだよ。実際殿下の見目はかなり良いだろう? 沢山のご令嬢方の心を鷲掴みにしているのだから、記憶を失ったお前も惚れるんじゃないかと思っていたんだ」

――そんなのヴァートの方が格好いいに決まっているじゃない! 肩書きに騙されて良く見えるだなんて信じられないわ。私のヴァートの方がよっぽど、よっぽど……。

 見つめようとしていた顔が逆にこちらへ向いている。思いがけず近くにあった顔にごくりと息を飲んだ。

「お嬢様がお嫌なら断られては?」
「私は王城なんかに住みたくないわ。記憶がない上にそんな所に入れられたら不安で発狂してしまうかもしれないもの」
「発狂? それは由々しき事態だな」

 真剣に悩む父親を尻目に考えを巡らせていた。記憶を失った振りをしていれば、フェリドはそれなら用なしと切り捨てると思っていた。それなのに毎日の見舞いに始まり、学園の送り迎えや王城に住めなどわがままとも取れる言動を繰り返してくる。婚約者であった頃は適切な距離……つまり近すぎず遠からずのいわゆる同志のような関係だったはずだった。

――まさか、フェリド様は本当は私が好き? いやいやありえないわ。だって今までそんな目で見られた事など一度もないもの。でももしかしてそれに気が付かなかっただけで本当は私をそういう目で見ていた?

「……お嬢様、お顔の表情が豊か過ぎます」
「え? そ、そう?」

 モニモニと頬を揉んでいるとヴァートはその手をそっと押さえ取ってきた。

「何をするの?」
「お肌が荒れてしまいます。お嬢様のお肌はすぐに赤くなりやすいのですからご注意ください」
「……ありがとう」
「いえ、お忘れかと思いましたので念の為です」

 そう言いながらヴァートは頭を悩ませている父親に向き直った。

「それでは今回の殿下からの申し出についてですが、今まで通り学園には私が送迎をし、しばらくの間は学園内でも共に行動する事になったので殿下のお手を煩わせるまでもないと、陛下にお話をしてはいかがでしょうか? 言うまでもございませんがおそらく王城に住まわせるというのはさすがの陛下でも却下されると思います。まだ結婚まで期間があるというのに、万が一にも間違いが起こる事態は陛下としても避けたいでしょう」
「万が一の事態?」

 首を傾げてヴァートを見上げると、同じ様な仕草が返ってきた。ぼっと頬が熱くなったのが分かる。

「お嬢様はまだ分からなくてよいのです」

 その瞬間、言葉の意味を理解し思わず自分の身体を両腕で引き寄せた。

「いやよ、絶対にいや!」
「大丈夫、エミリアの貞操はお父様が守り抜くぞ!」

 そう言って意気揚々と屋敷を出て王城へ戻る背中を見ながら更に身体を擦った。

――父親にそう言われるのは、なんかもっと嫌よ。

 エミリアはぶるりと身を震わせた。 
 ヴァートが場を和ませる為かお茶でも淹れましょうと言ってくれた時には、まさか好物の焼き菓子が出てくるとは思いもしなかった。本当は食べたくて食べたくて仕方なかったが、街に行かないと手に入らない。そして記憶を失っているのに好物を買ってきてというのが果たして正解なのか測りかねていた。早く食べたくてそわそわしているとふっと笑い声が頭上から降ってくる。ヴァートはポットの中で茶葉を蒸らしながら焼き菓子を皿に分けてくれた。柔らかめの少し厚いクッキーの上にはキャラメルに絡んだナッツがたっぷりと乗っている。ねっとりさっくりとした食感を頬張ると、思わず溜め息が漏れた。

「最高に美味しいわ」

 そう言う横でヴァートが程よく蒸されたお茶をカップに注いでくれる。まさに至福の時間だった。

「ジャスミンね! いい香り」

 カップに注ぐ前から深呼吸をすると、ヴァートが小さく笑みを溢した。

「ジャスミンの事は覚えていらっしゃるのですね? そのクッキーも買いに行ったかいがありました」
「もちろんよ。だって好きな物は身体が覚えているんだもの」
「それなら私は“お茶の時間“に負けたという事になりますね」

 ヴァートはそう言いながら前にカップを差し出してくれた。その動きには無駄がなく、美しくて、たった今言われた言葉を何度も心の中で反芻しながら鳴り止まない心臓を抑え込むのに必死だった。

「ねえヴァート今のって……」
「お嬢様、食べながらでいいので少しお足を拝見しても?」
「足?」
「殿下のお足がぶつかった所を確認しておきたいのです」
「ぶつかったって大袈裟よ。直接ではないし」

 真面目に見上げてくるヴァートをそれ以上断れなく、おずおずと蹴られたというかぶつかった方の足を出した。失礼します、というと裾を持ち上げてくる。そして目視すると小さく安堵の息を漏らしていた。終わったと思い緊張を解こうとカップを口に運んだ時だった。離れ際にヴァートの指がすっとふくらはぎを撫でていく。驚いたエミリアはそのままの勢いでお茶を口に付けてしまった。

「あつッ」
「大丈夫ですか? おっちょこちょいですね、今度はどこです?」

 誰のせいだと恨めしく見上げて息が止まる。頬を掴まれ、目の前にはヴァートの顔があった。

「どこです? どこが触れたんですか?」
「しあ……」

――噛んでしまった! というかヴァートが頬なんか掴んでくるからいけないんじゃない!

「しあ?」

――駄目だ、まねっこヴァート可愛過ぎるッ!!

 心の中で悶えていると、心配そうに下がっていた目が閃いたように開いた。

「ああ、舌ですね」

 コクコクと頷くと、ヴァートは自らの舌先を出して見せてきた。

「こうして見せてみて下さい」

 激しく首を振る。しかしヴァートは逃さないとばかりに更に顔を近づけてきた。

「駄目です、確認するまでは離せません」

――ああもうどうにでもなれ!

 エミリアはぺろりとほんの少しだけ舌先を出した。

「お嬢様ふざけているんですか? そんなの出ていないも同然です。もっと出してください」

 早くこの妙に恥ずかしさが込み上げてくる時が早く過ぎるように舌をもっと出していく。半分近くになった所でヴァートを見上げた。もう顔が熱くて恥ずかしさのあまり涙が出そうだった。

「……ッ」

 とっさに離された頬は手の強さを残したまま固まっていた。

「大丈夫そうですが舌を冷やせる冷たい飲み物をもらってきます。お茶は飲まないように!」

 振り返りざまにビシッと言われて、乾いた舌先を潤そうとして持ったカップを勢いよく置いた。



 
~Sideヴァート~
 部屋を出たヴァートは壁に背をついていた。

「あっぶな」

 口元を押さえて深く息を吐く。ちょっとしたいたずら心でふくらはぎを撫でてしまったが、反応は予想通りのものだった。しかしその後のあまりにも従順で可愛らしいエミリアに、思わず理性が飛びそうになったのをぐっと押さえて部屋を出てきた。真っ赤な顔、潤んだ瞳に震えながら出された小さくて可愛らしい舌を思い出してしまう。自分の腿を思い切りつねると、台所へと向かった。

 フェリドがエミリアを王城に住まわせると言った時には殺意が湧いていた。王太子に対して殺意が湧くのは今に始まった事ではない。エミリアがフェリドの婚約者に決まった時はまだ大丈夫だった。何せエミリアはまだ子供だったからだ。そんな幼い子供を好きだと思う程変態ではない。どちらかというと、積み重ねてきた日々がいつしか特別な想いに変わったという方が正しい。だから今更どうこうなりたいとか、ましてや使用人の自分がどうにかできるとも思ってもいなかった。ただそばで幸せを願いたい、それが自分の唯一にして最大の願いだった。
 少なくともエミリアが記憶を失うまでは、こんな邪な想いを一欠片も表に出す気はさらさらなかった。
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