隠された第四皇女

山田ランチ

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7.運命の出逢い

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 景色が皇宮に近づいて行くにつれ、次第に馬車の数が増えていく。ウィノラは何度も深呼吸をしながら逸る心臓を落ち着かせようとしていた。
 イリーゼとデリカと共にヒュー娼館の馬車で到着したのは、皇宮の正面の広場だった。ヒュー娼館の馬車が普通に見える程の豪華絢爛な馬車が次々に止まっていく。まさか自分が貴族に混じって皇宮に赴く日が来るなど夢にも思わなかったウィノラは、その場にいながらまるで本の世界でも眺めているかのような不思議な感覚に陥っていた。前を歩く二人の姿は貴族のご令嬢達にも負けないくらい堂々として、それでいて輝いていた。招待状を受付に渡している間も惚けた男性達の熱い視線に微笑みを返している。二人の姿が光の入り口に吸い込まれるように入っていくのを遠目から見つめていた。

「ウィノラ、遅れないようにね」

 二人に見惚れてぼんやりとしていたウィノラは、着慣れないドレスに裾を持ちながら二人の後に続いた。
 夢のような世界。
 舞踏会はまさにそんな場所だった。信じられない程に高い天井には大きく豪華なシャンデリアが幾つも吊るされ、その輝きに目が眩み、白く輝く床には自らの姿が映っている。二階にもすでに人が溢れ、帝国の贅を尽くした会場はどの場所も輝いて見えた。それでも一際美しさが際立っていたのは、婦人や令嬢のドレスだった。広間に大輪が咲き誇ったようなドレスは一つとして同じ物はないように見え、この場所に集まる全ての人と物は異次元の美しさだった。

「ウィノラ、私達はもう側にいられないわよ。迎えはまだなの?」

 こそりとデリカが耳打ちしてくる。その間にもイリーゼとデリカの周囲には着飾った男性達が集まり出す。こういった場所でも気後れする事なく堂々と立ち振る舞う二人を見ていると、なおさら自分が高級娼婦になるなど夢のまた夢なのだと思えた。
 ふいに頭の上で大人しかったレンがもぞりと動き出した。レンの尻尾が頬に伸びてきてパシパシと叩いてくる。強引に向かせられる方向を見ると、そこには遠くからこちらを真っ直ぐに見ている男性が目に入った。格好からするに従者だろうか。そのとなりには侍女もいる。しかし侍女はこちらをちらりと見ただけでどこかに離れて行ってしまった。従者だけはその場に留まり、遠くから軽く会釈をされた気がした。なんとなしに周囲を確認するがやはり従者はこちらを見ているようでウィノラも小さく頭を下げた。すでにイリーゼ達は男性達に連れられて人混みの中に紛れてしまっている。レンが反応したのだからあの者達で間違いない。ウィノラもぶつからないように周囲を避けながら会場を進んで行くと、従者は声を絞るようにして言った。

「ウィノラ様ですね、こちらへどうぞ」

“さっきいた女も魔女だぞ”

 おそらく先程この従者といた侍女が魔女で、レンを確認したのだろう。今日の格好はイリーゼ達が選んだドレスと宝飾品を身に纏っていたおかげか、幸いな事に誰にも呼び止められる事はなかった。ただ従者が令嬢を案内している、そんな光景は皇宮ではありふれたものだった。

「これから第二側妃様の後宮に向かいますが、ここから先は騎士が巡回しています。もし呼び止められたら具合の悪い事にしてください。後宮の入り口で他の者と交代します」
「分かりました。でも家門を聞かれたらどうしますか?」
「具合が悪いと誤魔化して頂いて結構ですが、もしどうしても答えなくてはならない場面になりましたら、ヘイワード男爵の三女という事になさってください」
「でもそれじゃあその方にご迷惑がかかるのではありませんか?」
「問題ありませんよ。ご本人様は帝国の端に領地を持っており帝都にはお越しになりません。他の貴族の方々とも交流はない方ですし、それにヘイワード男爵もご承知の事ですから」

 従者は薄暗い廊下を進み、広い中庭が見える回廊へと進んだ。会場から離れると共に静けさが心地よくなっていく。次第に人通りが少なくなっていくが全くいない訳ではない。使用人や兵士達、それに正装をした者達とも通り過ぎるが、時折視線を感じるくらいで誰もウィノラ達を怪しむ程に気に止める者達はいなかった。

「あそこの通路が後宮へと繋がっております」

 視線の先には明らかに造りの違う通路が伸びていた。と言っても閉鎖的ではなく門もない。ただここから先は別の入口だと分かるように通路は花々の彫刻で縁取られていた。通路の入り口には一人の女が立っていた。

「それでは私はこれで……」

 そう言いながら、従者はじっと見つめてきた。

「あの何か?」
「どうして戻って来たのか」

 ぽつりと呟かれた言葉をウィノラは聞き取る事が出来なかった。振り返りながら侍女の待つ通路に向かおうとした瞬間、侍女を追い越して後宮の通路から飛び出すように出てきた男とぶつかりそうになってしまった。

「おっと、すみません。大丈夫でしたか?」
「こちらこそ失礼致しました」

 侍女がとっさにウィノラの前に出た。

「いえいえこちらこそ失礼致しました。ご令嬢にお怪我がないか確認をさせて頂きたいのですが宜しいでしょうか?」
「お気遣いは無用です。では私達はこれで」

 侍女に隠されるように引かれて歩き出す一瞬、使用人の男とふと目が合った。ペコリと会釈されるままにウィノラも返すと、人の良さそうなその男は通路を小走りに行ってしまった。

「少しだけ焦りましたね」
「歩きながらで申し訳ありません。私は第二側妃リナ様の侍女頭をしておりますローザと申します。この度は突然の申し出にも関わらずこうしてご足労頂き、ありがとうございました」
「あ、はいッ。ウィノラと申します、宜しくお願い致します」

 勢いよく頭を下げながらも、先程の使用人の男が気になってしまいちらりと後ろを振り返ってしまう。もちろん怪しまれている訳もなく誰も着いて来てはいないようだった。

「あの方はフックス公爵家の使用人です。高位貴族の家門でございますよ。さあ、参りましょう」

 なぜ公爵家の使用人が後宮から出てくるのかなどという質問は、ローザの歩く速さに追いつくのが精一杯で質問する事は出来なかった。




「ライナー様! 戻りました!」

 廊下の先で主の姿を見つけたロタリオは、手を上げながら走って行った。

「走るな、転ぶぞ」

 そう言われた瞬間、ロタリオは足をもつれさせてライナーに受け止められていた。

「……へへ、もし僕がご令嬢ならきっと今ので恋に落ちてますよね」
「くだらない事を言っていないでどうだったんだ?」

 ポイッと投げるように離された手にロタリオはヘラっと笑っていた顔を引き締めると、申し訳なさそうに俯いた。

「やっぱり面会は叶いませんでした。申し訳ございません」
「お前が謝る事じゃないさ。それにしてもやはりご体調を崩されているというのは本当のようだな。出入りをしている者達はどうだった?」
「特におりませんでした。いつもの顔ぶれの侍女達が出入りするだけでし……」
「どうした? 途中で止めるな」
「でもローザさんとご令嬢を見ました」
「見た事はない令嬢か?」
「綺麗な方だったので一度見たら忘れないと思いますが、僕はお見かけした事はないですね」
「少し心配だな。妙な者でないといいが。とにかく今度は手紙で公爵家の医師を送りたいと伝えてみるか」
「かしこまりました。でも旦那様は大丈夫でしょうか」
「父上も第二側妃様の権威を重要視されていなから気にしないだろう。俺がこんな事をしても昔のよしみで勝手にしている位にしか思わないさ」
「そうだといいんですけど。この後はどうされますか? 会場に向かわれますか?」
「そうだな。そろそろ適当に姿を現しておくか」
「ライナー様はこういった場がお嫌いですからね。いつ参加されても皇族の方々にご挨拶をされてすぐに帰られて……って、すみません」

 叱られた子犬のように身を縮こませたロタリオの肩を叩くと、ライナーは会場の方向へと歩き出した。




 通された部屋は薄暗く、まるで葬式のような状態だった。
 大きな窓にはカーテンが引いてあり侍女は僅かに三人。皆表情を失い、ただ自分のするべき事を淡々とこなしているように見えた。

「ウィノラ様、早速ですがあちらでございます」

 奥の大きなベッドには中央にこんもりとした小さな膨らみがある。その横には籠が置かれており、中には毛布に包まれた赤ん坊が入っていた。赤ん坊はぐっすりと眠っているのか寝息を立てながら口を動かしていた。

「そちらは第六皇子のエデル様です。リナ様は元々お体が丈夫な方ではありませんでしたが、エデル様をご出産後に起き上がるお力もなくなられてしまいました。リナ様のフェッチがお視えになれますか?」

 視線で動かすと、赤ん坊の腹の上で僅かに動く光が視えた。

「リナ様のフェッチは元々は鳥のような姿をしておられ、それは自由に羽ばたいておられました。でも出産毎にもうその形を成さず……」

 なぜかローザはハッとしたようにこちらを見てから言葉を切った。

「時間があまりありません。早速ご治療頂けますか?」

 ごくりと息を飲み、ベッドを覗き込む。するとそこにはとても三人を出産したとは思えない程に可愛らしい女性が眠っていた。

「近付いてもいいですか?」
「ウィノラ様のご治療しやすいようにして頂いて構いません」
「では、手を握らせて頂きます」

 レンはするりと頭の上から降りると、小さく漂っているフェッチに寄り添った。

“こっちからも入れるぞ”

 ウィノラは頷くと、毛布の中から取り出したリナの手を握ると額に当てて祈るように目を閉じた。

「やはり毛布の中に入ってもいいでしょうか?」

 リナの手を握ってみて分かった事は、癒やしの力がほとんど流れていかないという感覚だった。ローザは一瞬驚いていたが、すぐに毛布を半分開いてくれた。
 どのくらいそうしていただろう。リナの細い身体を抱き締めながらウィノラはただひたすらに頭の上から通ってくる光をリナに流す事だけを意識し続けた。
 だからローザに声を掛けられるまで、数時間も経っている事には全く気が付かなかった。治療と言葉にすれば大げさだが、実際は手を握ったり身体の一部に触れるだけで癒やす事が出来る。どこまで触れ合えば効果が多いのかは、娼館の者達が体調を崩した時に添い寝をして検証済みだった。外傷の時はむしろ手を重ねて集中的に力を流した方が効き目がある。外傷でないものはこうして全体を包み込んだ方が効果的だった。

「ウィノラ様? そろそろお時間になりますが治療はどうでしたか?」
「多分上手く流れたと……上手く出来たと思います」

 ウィノラは気がつくと、涙が出ているのに気が付いた。無意識に流れていた涙が恥ずかしくて急いで拭いていると、不意に周囲から啜り泣く声が聞こえてきた。

 ――ああ、ここの人達は悲しかったのね。

 最初にここに来た時、侍女達の表情があまりにも乏しく淡々としていたから、側妃の側仕えを任されただけで側妃にはなんの思い入れもなく悲しくないのかと思っていた。しかし本当は違ったのだ。悲しくて辛いから、平静を装って何かをしていなければ耐えられなかったのかもしれない。そう思うと自然とウィノラの目から更に涙が溢れていた。

“おい、目を覚ますぞ”

 レンの言葉にリナを見ると、瞼がピクピクと動いている。食い入るように見つめているとやがてゆっくりと目が開いていった。

「リナ様? 良かったです、リナ様!」

 ローザは毛布にしがみつきながら声を上げて泣いていた。その光景を見ながらふと、リナと目が合った。美しい容姿の女性に少し照れながらベッドを降りると不意に手首を掴まれる。掴まれたと言ってもその力はとても弱く、触れただけのような感触だった。

「……誰?」
「私は、その」

 突然の事で言葉が出てこない。伺うように顰められた顔にどう返事をしていいのか分からなかった。

「私が治療の為にお呼びしたのです。申し訳ございません」

 なぜローザが謝るのかも分からない。リナは治療を望んでいなかったという事なのか。

「あの、ご体調はどうですか? お辛くはないですか?」

 その瞬間、ぐっすりと眠っていた皇子が大声で泣き出した。リナはハッとしたように籠の中を見ると顔を歪めて叫んだ。

「早く帰りなさい。早くここから出て行って!」

 そう叫んだ瞬間、激しく咳き込んでしまう。訳が分からないままウィノラはベッドと飛び降りた。

「すぐに薬湯を!」

 ローザの緊迫した声に泣き叫ぶ大きな声。そして頭の中で鳴り響くリナの拒絶の言葉に、ウィノラは部屋を飛び出していた。

 何が起きたのか分からなかった。突然に拒絶され、怒りに満ちたリナの顔が頭から離れない。ウィノラは夢中で、ただあの部屋から離れるように廊下を走った。ここへ来る途中にあった中庭に飛び出し、どんどん奥へと入っていく。そして花壇の後ろに回り込むとその場にしゃがみ込んだ。周囲には薔薇の香りが充満している。乱れる息でその香りを嗅ぎながら、心臓が信じられない程に早鐘を打っていた。外はまだ夜明けには早い。でももうじき日が登り始める。本当ならすぐに会場に戻りイリーゼ達と合流しなくてはいけないのに、足が震えて立てそうになかった。

“あの女はもう大丈夫だぞ”

 レンの尻尾がフサフサと頬にぶつかってくる。もちろん痛い訳でもくすぐったい訳でもない。ただ温かい物が触れている感覚だった。

「なんであんなに怒っていたのかな。私何か間違えた?」

“さぁね。本人に聞いて見たら?”

「そんな事出来る訳ないじゃない。むしろもう会いたくないわよ」

 そう言いながら、胸の奥でズクンとした鈍い痛みが走った気がした。

「……レン?」

 返事がない事にふと顔を上げると、薄く透けたレンの向こう側に誰かの足が見える。とっさに後退ろうとして、不意に頭の後ろに手が回ってきた。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。目の前には触れそうな位置で男性の胸がある。きっちりと着こなした正装の胸元からは、極薄いムスクの香りが鼻先を掠めた。赤ワインのような渋い色のシャツに黒いジャケット。襟元には光沢のある白乳色のタイが掛けてある。そして胸ポケットには宝石を金で縁取ったブローチが付いていた。ウィノラは顔を上げラなれないまま固まってしまっていた。後宮内にいるのだから貴族なのは間違いない。それで、一体この状況はなんなのだろうか。急に現れた男性が何故か自分の後頭部を持っている。近過ぎる距離にウィノラは一切の思考が停止していた。

――まずいわ、戻らなくちゃ。

 思わず立ち上がろうとした瞬間、小さい呻き声が聞こえた。とっさに後ろを振り返ると、腕まくりをして剥き出しになっていた腕からうっすらと血が流れていた。ウィノラの後頭部を抑えていた手は、薔薇の棘から守ってくれていたのだった。

「手当をッ……」

 男性を仰ぎ見た瞬間、金色の瞳と視線がかち合う。シャツと同じ赤ワイン色の髪の毛が風に靡いてその目に掛かった。

「このくらい別に大した事じゃない」
「服に血が付いてしまいますよ! 血はなかなか落ちないんですからね!」

 娼館ではよく血を見ていたから、どれだけ血が落ちないかは経験済みだった。もちろん事件などではなく女達の月のものせいだ。どれだけ気を付けていても必ずシーツや下着は血で汚れてしまう。すると男はおかしな者でも見るように瞳を綻ばせて見返してきた。

「そんな事より、君は今さっき誰かと話していなかったか?」
「誰とも話してなどおりませんでした」

 ブンブンと首を振るしか出来ない。もちろん普通の人にはレンは視えない。それでもとっさに地面を見うと、すでにレンは姿を消していた。

「でも話し声が聞こえた気がしたが……」
「独り言です! 少し疲れてしまって涼みに来たら迷ってしまって」
「ああ、舞踏会に参加していたのか。実は私も抜けて来たんだ。この調子であともう二日も続くのだから少しくらい良いだろう」
「あと二日? 舞踏会ってそんなに長いんですか?」

 すると男性は驚いたように目を見開いたまま、不思議そうに頷いた。

「もしかして舞踏会は初めてか?」
「はい、イリ……姉達に連れられて来たんですけど見失ってしまったんです」
「今回の舞踏会は第二皇女様が属国のエミル王国に嫁いでから初めての帰国だから、歓迎の意味も込めて三日続く予定だ。日毎に招待状を出している家門も違う」

 探るような視線にウィノラは視線を逸らした。初日の今夜参加しているという事は間違いなくこの男性は皇族にとって重要な家門という事になる。そして今日参加している自分もそう思われているに違いない。それなのに舞踏会の事も、目の前の人の事も知らないというのはあまりに怪し過ぎた。

「私の事は知っているか?」

「存じ上げません。先日田舎から出てきたばかりなのです、どうかご容赦ください」

 不安に見上げると、予想外に金色の瞳は笑っていた。

「私の妹も先日領地から連れてきたばかりなんだ。機会があれば会う事もあるかもしれないな。さて、私も会場に戻るから迷子のレディをお送りしようか」

 高貴な身分の方の好意を断って気分を害されでもしたら、今夜ここに来た事も探られてしまうかもしれない。むしろ会場に連れて行ってくれるのだからここは甘えておくべきだと思えた。
 男性からの慣れないエスコートに頭が真っ白になりながら、足元はフワフワしたように揺らいでいた。静かな廊下から次第に音楽と賑やかな声が聞こえてくる。段々と現実に戻っていく感覚が、無性に寂しく感じた。
 まるで夢を見ているようだった。綺麗な会場で見たこともないくらいに格好いい男性のエスコート。イリーゼ達は慣れっこだろうが、きっと自分にはもう二度と訪れない機会だと思うと、また緊張感が増してしまい、袖をぎゅっと握ってしまっていた。

「家族は見つかりそうか?」

 会場に着いた途端、入り口付近にいた者達はぎょっとした顔でウィノラ達を振り見ていた。

――何よ、不釣り合いなのは承知よ。そんなに驚かなくたっていいじゃない。

 少しだけ高揚していた気分が周囲の視線で再び沈んでいってしまう。気に留めないようにし広い会場内に視線を巡らせた。広い会場は人がひしめいており、この中から一人を探すのは不可能に思える。しかしそれも普通の人ならばの話。ウィノラは会場全体を俯瞰するように見渡すと、頭の上でレンがぴょんと飛び跳ねた。

――イリーゼさん達を見つけたのね。

「ご案内下さりありがとうございました。姉達が見つかりましたのでこれで失礼致します」

 ウィノラは恐れ多くて触れる程度に腕を掴んでいた手を一瞬だけ名残惜しそうに離すと、すかさず指先が捕らえられた。

「まだ名前を聞いていなかったな。私はライナー・フックスだ」

 その瞬間、言葉を失った。
 ライナー・フックス。
 フックス公爵家。帝国で唯一の公爵家にして、皇帝陛下の粛清の夜を唯一免れた数少ない家門の一つ。それくらい貴族でなくとも帝国民ならば誰もが知っている事。血の気が引いたが指先はぎっちりと掴まれたまま、探るように動かされた。

「あなたは名乗ってはくれないのか?」
「わ、私は……」
 
 従者に言われた名を必死で思い出す。そして声が震えないように気を付けて言った。

「ウィノラ・ヘイワードと申します。父は、男爵の位にございます」
「ヘイワード男爵?」

 ライナーが訝しげに眉を寄せる。ウィノラは嘘がバレないかヒヤヒヤしながら握られていた手をとっさに離した。

「姉達が心配していると思いますのでこれで失礼致します」

 早口でそう言うと敢えて人混みの中に飛び込むように進んだ。

「リナ様の後宮付近でお会いしたのはあのご令嬢ですよ。ライナー様も抜かりないですね」

 後ろから着いて来ていたロタリオは面白いものでも見るようにニヤニヤとしている。会場入口にいた者達は、ライナーが見知らぬ女性を連れていた事にざわめき出していた。

「常に皇女様の婚約者だったあなたがどこぞのご令嬢を連れているものだから、ほら、周りを見て下さいよ」
「別にそんなに騒ぐ事じゃないだろ。それに今俺に婚約者はいないんだから誰といても問題ない」
「だからこそご令嬢達の視線が怖いんですってば。それでなくてもライナー様がこういった場にお姿を表されるのは珍しいんですから」

 ライナーは視線を巡らせながらやれやれというように息を吐いた。

「そんな事より、ヘイワード男爵という名を聞いた事があるか?」
「ライナー様がご存じないのに僕が知る訳ないじゃありませんか」
「知らない事を偉そうに言うんじゃない。ヘイワード男爵について調べてみてくれ」
「もしかしてライナー様! まさかあのご令嬢に惚れてしまったんですか? いけませんよ、まだ正式にではないとはいえいずれ第五王女とのご婚約が控えているんですからね?」
「あの令嬢がリナ様の後宮から出てきたという事は、ヘイワード男爵とリナ様がどのような関係なのかが気になるだけだ」
「ほんっとうにライナー様はリナ様を大切に思われているのですね」
「……誤解を生む言い方をするんじゃない。さて、俺も一度家に帰るか。バラードをどこかで見なかったか?」

 するとロタリオは苦笑いを浮かべて、賑やかな方向に視線を向けた。
 少し離れてはいるが人だかりの中心に目が留まり歩き出す。すると、最初は話をしているだけのように見えた集団がなにやら不穏な空気が満ちている事に気がついた。

「ですからここにいたはずなんです、見間違えるはずがありません、間違いなく彼女でした! どうして隠されるのですかッ!」
「だからそんな者はヒュー娼館にはいないよ。君の勘違いだ」
「いいえ! 僕が彼女を見間違えるはずがありません! 間違いなくあなたが懇意にしている高級娼婦と共にここを去って行ったんです!」
「バラード?」

 ライナーは騒ぎの中心にいた白銀色の背の高い男の名を呼んだ。
 バラード・クラウゼは若くして伯爵の地位を受け継いだライナーの古い友人だった。バラードはうんざりしたようにちらりと視線を送ってきたが、来るなという合図を受け、ライナーは足をその場に止めた。

「どうかお願い致します、クラウゼ伯爵! なぜ隠そうとされるのですか? あなたにはデリカさんがいらっしゃるではないですか。そのように欲張られては困ります!」

 その名前を出した瞬間、困っていたバラードの表情が一変した。

「気安くその名を口にする事は許さないぞ。それにその言い方はまるで、私がデリカ以外の女性にも気を掛けているような言い方に聞こえたが違うか?」
「そ、そういう訳ではありません。ですが! それでなくてもヒューの者達にはそう簡単には会えないのです。クラウゼ伯爵からの紹介であればあの女将も承諾するのではありませんか?」
「あの者達は自分の商売に口を出される事を好まない。妙な親切心を出して私が愛しい人と会えなくなってしまったら、ハーン子爵のご子息は責任が取れるのかな?」

 言葉に詰まったレナードを過ぎてバラードは歩き出した。

「お待ち下さい! どうか一度だけでも構わないのです。一度抱けばきっとこの思いも勘違いだと……」

 その瞬間、バラードは振り返ると一歩で距離を詰め、見下ろした。

「その言葉は最近耳にした物の中で特に不快だ。やはり彼女達は見る目があるな。君のような人間の事を即座に理解したのだろう。今後二度と私の前で今の話はするな」

 レナードは黙ったまま拳を握り締め、立ち尽くしていた。

「問題ないか?」

 ライナーはこちらに向かってくるバラードに向かって声を掛けた。

「ない」

 バラードは短くそう言うとそのまま通り過ぎていく。ライナーは小さく笑いながらその後を追い掛けた。

「一度帰ろうと思っていたんだ。うちに来るか?」

 するとバラードは足を止めないまま、行くと返事をした。




 壇上に設けられた椅子に座っていた皇帝に側近が耳打ちをすると、皇帝は即座に席を立った。

「どちらに行かれるのですか? 娘の為の舞踏会ですよ」

 皇帝の椅子の横には皇妃、そして第一側妃、そして第三側妃の椅子が距離を開けて置いてある。もう一つの椅子は空席のままだった。皇妃は真っ直ぐに会場を見ながら言った。

「私がどこに行くのかいちいちお前達に言わなくてはならないのか?」

 威厳のある声にも皇妃は臆する事なく続けた。

「いいえ仰る必要はございません。ですがあなたがいないと知ったら娘が悲しむと思ったのです」
「あれはすでに他国の王妃なのだ。そのような事で悲しんでいては務まらぬぞ」

 中心を空白にした玉座を囲むように座り続ける皇妃達は、ただじっと黙って人々が談笑する声と音楽の鳴り響く騒がしいホールを見つめ続けた。




「ガリオン殿下! 本当に舞踏会にはご出席されないのですか? 皇族は全員出席するようにと陛下のお達しなのですよ!」

 ウィリアムは廊下を大股で歩いて着いて行く。

「ハッ、狩猟大会でも開いてくれりゃ喜んで行くがな」
「それでしたらせめてエミル王国の王妃様にご挨拶だけでも……」

 その瞬間、ガリオンは足を止めると視線で射殺せそうな程の眼差しでウィリアムを見た。

「もし俺の名を使って勝手にあの女に贈り物でもしてみろ。一生前線送りにしてやるからな」
「ですがエミル王国の同行者もいらしております。第一皇子であらせられるあなた様に軽んじられていると、万が一国王のお耳に入ったらエミル王国との関係にヒビが入るかもしれません」
「お前はこの俺よりもあんな敗戦国の王が恐ろしいのか?」
「ッ、決してそのような事は……」

 ウィリアムはとっさに目を瞑った。しかし何も落ちてはこない。てっきり罰を与えられると思って身構えていたが、その視線はその先を見つめていた。

「ガリオン、お久し振りね」

 いつの間にか廊下の先にいたのは、今まさに話に出ていたエミル王国の王妃にしてこの国の第二皇女のセリアだった。一層表情が厳しくなったガリオンは、セリアの後ろに立つエミル王国の騎士達を睨み付けながら腕を組んだ。

「まさか俺に会いたかったなんて言うなよ?」
「会いたかったわよ。同い年の兄妹同士、仲良くしたいと思うのはいけない事なのかしら?」
「ハッ! エミル王国に行って更に性格がねじ曲がったようだな。お前まさか、エミル王国から追い出された訳じゃないよな?」

 その瞬間、セリアの後ろに控えていた騎士に緊張が走った。

「今の発言はお取り消し下さいガリオン殿下。このお方はエミル王国の王妃でいらっしゃいます」
「おい、誰が話しかけて良いと言った? 死にたいのか?」
「私はエミル王国の近衛騎士です」

 しかし発言をした騎士の前に行くとじっと見下ろした。

「随分軟弱な近衛騎士だな。ウィリアム、こいつを捕らえろ」

 ガリオンが叫んだ瞬間、後ろにいたウィリアムと第一師団の兵達がその騎士を取り囲んだ。

「王妃様、お止め下さい! こんな事で捕らえるなど馬鹿げています!」
「あれは手負いの獣なのよ。目を付けられたら仕留めるまで向かって来るわ。口を出したお前の責任よ」
「そんな! 私は王妃様の御身の為に……」
「頼んでないわ。私はただ兄と会話をしていただけだもの。一番上の兄とはいつもあんな感じだったの。ほんの少し先に生まれたというだけでいつも偉そうなのよ。でも私達はあれが普通なの」

 そう微笑むセリアは、連行されていく自国の騎士には目もくれなかった。

「まさかここで会ったのが偶然だなんて言うなよ?」
「まさかそうだって言ったらどうするつもりかしら」
「早く要件を言え。俺だって暇じゃないんだ」
「一年前にローデリカが死んだわよね。その犯人を知りたいと思わない?」
「俺が兄妹を大切にするように見えるか?」

 いつの間にか周囲には人払いがされ、廊下にはガリオンとセリアの二人きりになっていた。

「まどろっこしいのは性に合わないんだ。言いたい事があるならさっさと言え!」
「ローデリカを殺したのは母達の内の誰かよ」

 その瞬間、ガリオンはセリアを睨み付けた。

「あいつの死は病死だと公表された。それなのにそんな事を俺に話してどうするつもりだ? 何を企んでいる」
「企んでいるなんて酷い事言うのね。犯人が捕まって欲しいと思うのは当然じゃない。そもそも病死だなんて笑ってしまうわよね」
「お前の掌で踊らされるのはごめんだ」
「それならもう結構よ。そうそう、ミモザの香りには気を付ける事ね」
「腹の探り合いは嫌いなんだ! 言いたい事はさっさと言え!」
「嫌いなんじゃなくて苦手なのでしょう? お兄様、言葉は正確に使わなくてはね。それじゃあ特別にもう一つだけ。皇宮に魔女が紛れ込んでいるわよ。魔女はミモザの香りが好きみたい。だからミモザの香りを纏っていたら、魔女を憎むこの帝国ではうっかり殺されてしまうかもしれないわね」

 ガリオンの表情が一気に凍りつく。しかしセリアは楽しそうに廊下を後にした。
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「パパと結婚する!」  8万年近い長きにわたり、最強の名を冠する魔王。勇者を退け続ける彼の居城である『魔王城』の城門に、人族と思われる赤子が捨てられた。その子を拾った魔王は自ら育てると言い出し!? しかも溺愛しすぎて、周囲が大混乱!  拾われた子は幼女となり、やがて育て親を喜ばせる最強の一言を放った。魔王は素直にその言葉を受け止め、嫁にすると宣言する。  シリアスなようでコメディな軽いドタバタ喜劇(?)です。 【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう 【表紙イラスト】しょうが様(https://www.pixiv.net/users/291264) 挿絵★あり 【完結】2021/12/02 ※2022/08/16 第3回HJ小説大賞前期「小説家になろう」部門 一次審査通過 ※2021/12/16 第1回 一二三書房WEB小説大賞、一次審査通過 ※2021/12/03 「小説家になろう」ハイファンタジー日間94位 ※2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過作品 ※2020年8月「エブリスタ」ファンタジーカテゴリー1位(8/20〜24) ※2019年11月「ツギクル」第4回ツギクル大賞、最終選考作品 ※2019年10月「ノベルアップ+」第1回小説大賞、一次選考通過作品 ※2019年9月「マグネット」ヤンデレ特集掲載作品

普段は地味子。でも本当は凄腕の聖女さん〜地味だから、という理由で聖女ギルドを追い出されてしまいました。私がいなくても大丈夫でしょうか?〜

神伊 咲児
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主人公、イルエマ・ジミィーナは16歳。 聖女ギルド【女神の光輝】に属している聖女だった。 イルエマは眼鏡をかけており、黒髪の冴えない見た目。 いわゆる地味子だ。 彼女の能力も地味だった。 使える魔法といえば、聖女なら誰でも使えるものばかり。回復と素材進化と解呪魔法の3つだけ。 唯一のユニークスキルは、ペンが無くても文字を書ける光魔字。 そんな能力も地味な彼女は、ギルド内では裏方作業の雑務をしていた。 ある日、ギルドマスターのキアーラより、地味だからという理由で解雇される。 しかし、彼女は目立たない実力者だった。 素材進化の魔法は独自で改良してパワーアップしており、通常の3倍の威力。 司祭でも見落とすような小さな呪いも見つけてしまう鋭い感覚。 難しい相談でも難なくこなす知識と教養。 全てにおいてハイクオリティ。最強の聖女だったのだ。 彼女は新しいギルドに参加して順風満帆。 彼女をクビにした聖女ギルドは落ちぶれていく。 地味な聖女が大活躍! 痛快ファンタジーストーリー。 全部で5万字。 カクヨムにも投稿しておりますが、アルファポリス用にタイトルも含めて改稿いたしました。 HOTランキング女性向け1位。 日間ファンタジーランキング1位。 日間完結ランキング1位。 応援してくれた、みなさんのおかげです。 ありがとうございます。とても嬉しいです!

勇者パーティを追放された聖女ですが、やっと解放されてむしろ感謝します。なのにパーティの人たちが続々と私に助けを求めてくる件。

八木愛里
ファンタジー
聖女のロザリーは戦闘中でも回復魔法が使用できるが、勇者が見目麗しいソニアを新しい聖女として迎え入れた。ソニアからの入れ知恵で、勇者パーティから『役立たず』と侮辱されて、ついに追放されてしまう。 パーティの人間関係に疲れたロザリーは、ソロ冒険者になることを決意。 攻撃魔法の魔道具を求めて魔道具屋に行ったら、店主から才能を認められる。 ロザリーの実力を知らず愚かにも追放した勇者一行は、これまで攻略できたはずの中級のダンジョンでさえ失敗を繰り返し、仲間割れし破滅へ向かっていく。 一方ロザリーは上級の魔物討伐に成功したり、大魔法使いさまと協力して王女を襲ってきた魔獣を倒したり、国の英雄と呼ばれる存在になっていく。 これは真の実力者であるロザリーが、ソロ冒険者としての地位を確立していきながら、残念ながら追いかけてきた魔法使いや女剣士を「虫が良すぎるわ!」と追っ払い、入り浸っている魔道具屋の店主が実は憧れの大魔法使いさまだが、どうしても本人が気づかない話。 ※11話以降から勇者パーティの没落シーンがあります。 ※40話に鬱展開あり。苦手な方は読み飛ばし推奨します。 ※表紙はAIイラストを使用。

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