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序章 出生の秘密
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第二側妃であるリナの寝室は、緊迫した空気に支配されていた。
まだ幼さの残るリナが産気づいてから丸一日。皇帝の従者がぴったりと部屋の前に張り付き、その時を今か今かと耳を澄ませていた。
部屋の中では痛みに耐えるリナの声が響いている。夜も深まり寝静まった皇宮内で、ここだけが緊迫した夜を過ごしていた。リナは産婆の掛け声と共に、最後の一呼吸をすると止めてから一気に力んだ。
その瞬間、部屋の中に大きな赤子の鳴き声が響き渡った。
「どっちなの? 早く!」
リナは荒い呼吸をしながら首を上げ、額の汗を拭おうとする侍女の手を払いながら下に視線を向けた。強張った表情はとても愛する我が子を産み終えた女性のものとは思えない程に強張っている。産婆は取り上げた赤子を丁寧な手付きで清潔な布に包むと、無表情のまま答えた。
「……皇女様でございます」
リナは一瞬息を止め、すぐ側にいた侍女のローザを見た。無意識に繋いだ手にローザが頷く。そして寝室から続く別室で待機していた医師を呼んだ。
「医官様お入り下さい」
まだ若い男の医官は場違いのように恐縮しながら、僅かに開けられた布の隙間から赤子の性別を確認すると頷いた。
「お元気な皇女様でございますね。それでは早速皇帝陛下にご報告して参ります」
その間も赤子の大きな泣き声が響いている。医官が扉を開け、待機していた従者に声を掛けた時だった。
ぴたりと赤子の泣き声が止んだ。不審に思った医官はすかさず踵を返すと、産婆の腕の中にいる皇女を見た。皇女はさっきまでの泣き声が嘘のように全く動いていない。不意に手を伸ばした瞬間、その手首をローザが掴んで止めた。
「いけません! お手を失う事になりますよ」
ローザが声を荒げると医官はびくりとして手を引いた。皇族の女性に夫もしくは婚約者以外の男性が触れる事は禁忌とされている。その為診察の場合、普段は女性の医官が診察をするのだが、今日は事情があり元々少ない女性の医官は皆手が一杯だった。我に返った医官は皇女に触れないようにして赤子の前に手をかざした。
「息をされていない……」
医官が恐れるように一歩下がると、様子を見に近付いてきた従者とぶつかった。
「陛下には、子は死産だったと伝えて」
リナの声に医官は驚いたまま首を振った。
「たった今まであれ程大きなお声で泣いておられました! 僅かな間に何があったのですか? 急変するきっかけがあったのでは?!」
しかしリナは横になったまま小さく首を振った。顔は青白く、髪は汗で張り付き、弱々しいその姿に医官は言葉を止めた。命を掛けて子を産み、その子を失ったばかりの母親があまりにも不憫で医官はとっさに目を逸らした。
「そうしなければここにいる者達は皆死罪よ。生きていた皇女をみすみす死なせてしまったのだから」
医官と従者は互いに顔を見合わせると押し黙った。
「今ここにいる五人だけしか知らない事よ。私はみすみすあなた達を死刑にはしたくない。分かってくれるわね?」
「……こ、皇女様は死産であったと、そう陛下にご報告申し上げます」
「皇帝陛下に虚偽のご報告をするおつもりか!」
医官は従者に声を荒げた。
「あなた達の為を思ってなのよ」
すると観念したのか、医官はちらりと動かない赤子に視線をやってから逸らした。
「明日の朝、司祭様をお連れしてご遺体をお預かりに参ります」
「司祭様は必要ないわ」
「それはなりません!」
医官は怪訝そうにリナを見た。
「死産の赤子は皇族とは認められず満足な葬儀を受けられないと聞いた事があるの。だからこの子は、せめて私の手でしっかりと見送ってあげたいのよ。そう陛下にお願い申し上げて頂戴。子を失った憐れな母の我儘をどうかお聞き入れ下さいと」
医官と従者は同時に目を合わせたが、頭を下げると部屋を後にした。
二人が部屋を出た瞬間、赤子から何かが離れ、リナの布団の上にふわりと乗った。それは形の定まっていない光の塊のようでほんのりと赤みを帯びて時折揺れている。その瞬間、息をしていなかったように見えた赤子は胸を上下にさせ、スヤスヤと眠りについているようだった。
産婆が赤子を腕に抱いたままリナに近付いていくと、リナはとっさに顔を背けた。
「抱かれませんか?」
「……もう連れて行って」
「二度と会えないのですよ」
返事はない。産婆は頭にマントを被って顔を隠すと、更に赤子を隠すようにマントを掛けた。リナは光の塊をそのマントの上に動かすように手を上げた。すると光はとろりと伸びて産婆を覆うように広がっていった。ローザは薄暗い部屋から産婆が出ていこうとする背を追おうとして、腕をぎっちりと掴まれた。爪が食い込む。それでもローザはその手を振り解く事は出来なかった。
「本当にこれで良かったのでしょうか」
「いいのよこれで。最初から何もかも間違っていたのだから」
「せめてお名前くらい……」
「ローザ、忘れなさい。子は死産だったの」
真夜中に叩かれた裏門近くに居た見張りの男は、その音に小窓を少しだけ開けた。
「“癒やしの女神の祝福は黄金の光となって降り注ぎ”」
小窓の向こうに立つ者の顔はマントで見えない。見張りの男は内側の閂に手を掛けながら言った。
「“戦いの男神は極彩色の瞳を持って真実を暴くだろう”」
「“二神に導かれし者、混沌を統べる真の統治者とならん”」
閂は引き抜かれ、裏門が開かれる。産婆はマントを剥ぐと門の中に滑り込んだ。
「アデリータを呼んでおくれ」
見張りの男は老婆に言われるなり頷くと走り出した。
ほどなくしてガウンを引っ掛けた寝間着姿の女が大股で走ってくる。産婆の抱いている赤子は大きな口を開けて泣いているが、光の膜が全ての音を吸収しているかのように一切の音は聞こえてこなかった。長くうねりのある赤い髪に、豊かな身体、そして意志の強そうな太い眉毛が印象的な女主人は、産婆が抱いている赤子をやうやうしく受け取るなりぎゅっと抱き締めた。
「リナ様はお疲れのようだね」
アデリータは光の膜を見ながら言った。
「だけど元気な女の子をお産みになったよ」
アデリータは微笑みながら、ぷっくりとした頬に自分の頬を寄せた。
「この子は今日からこのヒュー娼館の子さ。名前はウィノラだ」
「姉貴ったらずっと名前を考えていたんだよ」
「マイノうるさいよ! 早く見張りに戻りな!」
「はいはい。素直じゃないんだからさ、全く」
マイノは老婆に耳打ちしながらそう言うとアデリータはマイノの脛に蹴りを入れた。声にならない声で悶絶しているマイノなど気にも止めない様子で、老婆はアデリーノに抱かれる赤子を見つめた。
「ウィノラ様、どうかお健やかにお育ち下さい。我ら同志はウィノラ様のお幸せを心から願っておりますよ」
その瞬間、役目を果たしたとばかりに包まれていた薄赤い光が下から徐々に上がってくる。そしてウィノラの頭の上で小さく一つになると撫でるような動きを見せ、ふっと消えた。
「私も夜が明ける前にもう行くとするかね。くれぐれもウィノラ様を頼むよ」
「街を離れるのかい?」
「真実を知る者は少ない方がいいからね。今はどんなに小さな火種もないに越した事はないだろう」
「あてはあるのかい?」
「我らの故郷にでも行ってみようかね」
「リナ様のお生まれになられた地だね。いいじゃないか」
アデリータは不器用に笑うと、老婆の額に額を付けた。
「“二神と共に、真の統治者が現れるまで”」
産婆は頷くと再びフードを被ってひっそりと裏門を出て行った。
光の膜がなくなった赤子の声は敷地中に響いている。しかしここは娼館。子供の一人や二人いた所で、誰も気に留める者など居はしなかった。
「死産だったか。なんの為にあれを娶ったのか分からんな」
執務室で従者から報告を受けたギルベアト帝国の皇帝ルシャード・ツーファールは、薄明かりの中で書類を眺めたまま言った。シャツから覗く身体は鍛え上げられ、古傷も見え隠れしている。剣ダコまみれの大きな手で手早くサインをすると、目頭を揉みながら顔を上げた。
「それで? あれはどうしている」
「今は出産のお疲れもありお休みになられております。実は、第二側妃様より陛下にご伝言をお預かり致しました」
金色の瞳がランプの明かりを受けて鈍く光る。従者はごくりと喉を鳴らすと、無意識に視線を下げた。
「皇女様のご遺体はご自身で丁重に埋葬されたいとの事でした。憐れな母親の願いをどうかお聞き入れ下さいと、そう仰っておられました」
ルシャードが溜息を吐くと、従者はびくりと肩を震わせた。
「死んだ子などどうでもよい。気が済むようにさせてやれ」
「かしこまりました。ですが朗報もございます。半日お早くお生まれになられた第三皇女様はお健やかにお過ごしのようでございます。明朝に第一側妃様の元へは行かれますか?」
しかしルシャードはもう興味を失ったように視線を机の上に戻していた。
「……差し出がましい事を申し上げました」
返事の代わりに手が出ていけというように振られる。従者は素早く頭を下げると部屋を後にしようとした。
「待て。皇女の葬儀にはお前も出席し、子細を報告しろ」
「仰せのままに」
部屋を出ると待っていたのは医官とローザだった。少し離れた廊下から二人の姿を認めると、従者は足早に向かった。
「陛下はなんと?」
従者は二人を無言のまま更に扉から引き離すと、不意に立ち止まって額の汗を拭った。
「特にお気にされていないようでした。そして葬儀に関しては第二側妃様のお気に済むようにと、ご寛大なお考えをお示し下さいました」
「感謝致します、これでリナ様もご安心されるはずです」
「ですが、私に葬儀に参加し子細を報告するようにとのご命令をなさいました」
「それで他にはなんと?」
「ただそれだけでしたから意図は分かりかねます」
「ただ単にご心配だからという事も考えられますね。それでしたら、お二人ともご葬儀にご参加願います」
すると医官は声を裏返らせて身を引いた。
「僕もですか? もう無理です! もうこれ以上は関われません。今夜はたまたま行く羽目になってしまいましたが、本来僕はまだ見習い……」
そう言うと医官は口を押さえてちらりとローザを見た。
「医部は随分いい加減な所のようですね。それともリナ様は蔑ろにされたのでしょうか。見習いを送りつけてきたばかりに皇女様が死産されたと陛下に申し上げてもよいのですよ?」
「なッ! 皇女様はお元気にお生まれになられたではありませんか!」
「ですがもう死産だったとご報告したのですよね? それとも従者のした報告は虚偽の報告だったと、そう改めてご報告されるおつもりですか? 見習いのあなたが?」
「……ご葬儀には参加させて頂きます。ですがこれきりにしてください。今後一切あなた方との接触は持ちたくありません」
「その方が互いの為でしょうね。お二人は明朝、後宮の裏門前にお越し下さい」
「分りました。……産後なのですから、側妃様にはくれぐれもお身体をご自愛くださるようにお伝え下さい」
ローザは僅かに目を見開き、そして頭を下げた。
まだ幼さの残るリナが産気づいてから丸一日。皇帝の従者がぴったりと部屋の前に張り付き、その時を今か今かと耳を澄ませていた。
部屋の中では痛みに耐えるリナの声が響いている。夜も深まり寝静まった皇宮内で、ここだけが緊迫した夜を過ごしていた。リナは産婆の掛け声と共に、最後の一呼吸をすると止めてから一気に力んだ。
その瞬間、部屋の中に大きな赤子の鳴き声が響き渡った。
「どっちなの? 早く!」
リナは荒い呼吸をしながら首を上げ、額の汗を拭おうとする侍女の手を払いながら下に視線を向けた。強張った表情はとても愛する我が子を産み終えた女性のものとは思えない程に強張っている。産婆は取り上げた赤子を丁寧な手付きで清潔な布に包むと、無表情のまま答えた。
「……皇女様でございます」
リナは一瞬息を止め、すぐ側にいた侍女のローザを見た。無意識に繋いだ手にローザが頷く。そして寝室から続く別室で待機していた医師を呼んだ。
「医官様お入り下さい」
まだ若い男の医官は場違いのように恐縮しながら、僅かに開けられた布の隙間から赤子の性別を確認すると頷いた。
「お元気な皇女様でございますね。それでは早速皇帝陛下にご報告して参ります」
その間も赤子の大きな泣き声が響いている。医官が扉を開け、待機していた従者に声を掛けた時だった。
ぴたりと赤子の泣き声が止んだ。不審に思った医官はすかさず踵を返すと、産婆の腕の中にいる皇女を見た。皇女はさっきまでの泣き声が嘘のように全く動いていない。不意に手を伸ばした瞬間、その手首をローザが掴んで止めた。
「いけません! お手を失う事になりますよ」
ローザが声を荒げると医官はびくりとして手を引いた。皇族の女性に夫もしくは婚約者以外の男性が触れる事は禁忌とされている。その為診察の場合、普段は女性の医官が診察をするのだが、今日は事情があり元々少ない女性の医官は皆手が一杯だった。我に返った医官は皇女に触れないようにして赤子の前に手をかざした。
「息をされていない……」
医官が恐れるように一歩下がると、様子を見に近付いてきた従者とぶつかった。
「陛下には、子は死産だったと伝えて」
リナの声に医官は驚いたまま首を振った。
「たった今まであれ程大きなお声で泣いておられました! 僅かな間に何があったのですか? 急変するきっかけがあったのでは?!」
しかしリナは横になったまま小さく首を振った。顔は青白く、髪は汗で張り付き、弱々しいその姿に医官は言葉を止めた。命を掛けて子を産み、その子を失ったばかりの母親があまりにも不憫で医官はとっさに目を逸らした。
「そうしなければここにいる者達は皆死罪よ。生きていた皇女をみすみす死なせてしまったのだから」
医官と従者は互いに顔を見合わせると押し黙った。
「今ここにいる五人だけしか知らない事よ。私はみすみすあなた達を死刑にはしたくない。分かってくれるわね?」
「……こ、皇女様は死産であったと、そう陛下にご報告申し上げます」
「皇帝陛下に虚偽のご報告をするおつもりか!」
医官は従者に声を荒げた。
「あなた達の為を思ってなのよ」
すると観念したのか、医官はちらりと動かない赤子に視線をやってから逸らした。
「明日の朝、司祭様をお連れしてご遺体をお預かりに参ります」
「司祭様は必要ないわ」
「それはなりません!」
医官は怪訝そうにリナを見た。
「死産の赤子は皇族とは認められず満足な葬儀を受けられないと聞いた事があるの。だからこの子は、せめて私の手でしっかりと見送ってあげたいのよ。そう陛下にお願い申し上げて頂戴。子を失った憐れな母の我儘をどうかお聞き入れ下さいと」
医官と従者は同時に目を合わせたが、頭を下げると部屋を後にした。
二人が部屋を出た瞬間、赤子から何かが離れ、リナの布団の上にふわりと乗った。それは形の定まっていない光の塊のようでほんのりと赤みを帯びて時折揺れている。その瞬間、息をしていなかったように見えた赤子は胸を上下にさせ、スヤスヤと眠りについているようだった。
産婆が赤子を腕に抱いたままリナに近付いていくと、リナはとっさに顔を背けた。
「抱かれませんか?」
「……もう連れて行って」
「二度と会えないのですよ」
返事はない。産婆は頭にマントを被って顔を隠すと、更に赤子を隠すようにマントを掛けた。リナは光の塊をそのマントの上に動かすように手を上げた。すると光はとろりと伸びて産婆を覆うように広がっていった。ローザは薄暗い部屋から産婆が出ていこうとする背を追おうとして、腕をぎっちりと掴まれた。爪が食い込む。それでもローザはその手を振り解く事は出来なかった。
「本当にこれで良かったのでしょうか」
「いいのよこれで。最初から何もかも間違っていたのだから」
「せめてお名前くらい……」
「ローザ、忘れなさい。子は死産だったの」
真夜中に叩かれた裏門近くに居た見張りの男は、その音に小窓を少しだけ開けた。
「“癒やしの女神の祝福は黄金の光となって降り注ぎ”」
小窓の向こうに立つ者の顔はマントで見えない。見張りの男は内側の閂に手を掛けながら言った。
「“戦いの男神は極彩色の瞳を持って真実を暴くだろう”」
「“二神に導かれし者、混沌を統べる真の統治者とならん”」
閂は引き抜かれ、裏門が開かれる。産婆はマントを剥ぐと門の中に滑り込んだ。
「アデリータを呼んでおくれ」
見張りの男は老婆に言われるなり頷くと走り出した。
ほどなくしてガウンを引っ掛けた寝間着姿の女が大股で走ってくる。産婆の抱いている赤子は大きな口を開けて泣いているが、光の膜が全ての音を吸収しているかのように一切の音は聞こえてこなかった。長くうねりのある赤い髪に、豊かな身体、そして意志の強そうな太い眉毛が印象的な女主人は、産婆が抱いている赤子をやうやうしく受け取るなりぎゅっと抱き締めた。
「リナ様はお疲れのようだね」
アデリータは光の膜を見ながら言った。
「だけど元気な女の子をお産みになったよ」
アデリータは微笑みながら、ぷっくりとした頬に自分の頬を寄せた。
「この子は今日からこのヒュー娼館の子さ。名前はウィノラだ」
「姉貴ったらずっと名前を考えていたんだよ」
「マイノうるさいよ! 早く見張りに戻りな!」
「はいはい。素直じゃないんだからさ、全く」
マイノは老婆に耳打ちしながらそう言うとアデリータはマイノの脛に蹴りを入れた。声にならない声で悶絶しているマイノなど気にも止めない様子で、老婆はアデリーノに抱かれる赤子を見つめた。
「ウィノラ様、どうかお健やかにお育ち下さい。我ら同志はウィノラ様のお幸せを心から願っておりますよ」
その瞬間、役目を果たしたとばかりに包まれていた薄赤い光が下から徐々に上がってくる。そしてウィノラの頭の上で小さく一つになると撫でるような動きを見せ、ふっと消えた。
「私も夜が明ける前にもう行くとするかね。くれぐれもウィノラ様を頼むよ」
「街を離れるのかい?」
「真実を知る者は少ない方がいいからね。今はどんなに小さな火種もないに越した事はないだろう」
「あてはあるのかい?」
「我らの故郷にでも行ってみようかね」
「リナ様のお生まれになられた地だね。いいじゃないか」
アデリータは不器用に笑うと、老婆の額に額を付けた。
「“二神と共に、真の統治者が現れるまで”」
産婆は頷くと再びフードを被ってひっそりと裏門を出て行った。
光の膜がなくなった赤子の声は敷地中に響いている。しかしここは娼館。子供の一人や二人いた所で、誰も気に留める者など居はしなかった。
「死産だったか。なんの為にあれを娶ったのか分からんな」
執務室で従者から報告を受けたギルベアト帝国の皇帝ルシャード・ツーファールは、薄明かりの中で書類を眺めたまま言った。シャツから覗く身体は鍛え上げられ、古傷も見え隠れしている。剣ダコまみれの大きな手で手早くサインをすると、目頭を揉みながら顔を上げた。
「それで? あれはどうしている」
「今は出産のお疲れもありお休みになられております。実は、第二側妃様より陛下にご伝言をお預かり致しました」
金色の瞳がランプの明かりを受けて鈍く光る。従者はごくりと喉を鳴らすと、無意識に視線を下げた。
「皇女様のご遺体はご自身で丁重に埋葬されたいとの事でした。憐れな母親の願いをどうかお聞き入れ下さいと、そう仰っておられました」
ルシャードが溜息を吐くと、従者はびくりと肩を震わせた。
「死んだ子などどうでもよい。気が済むようにさせてやれ」
「かしこまりました。ですが朗報もございます。半日お早くお生まれになられた第三皇女様はお健やかにお過ごしのようでございます。明朝に第一側妃様の元へは行かれますか?」
しかしルシャードはもう興味を失ったように視線を机の上に戻していた。
「……差し出がましい事を申し上げました」
返事の代わりに手が出ていけというように振られる。従者は素早く頭を下げると部屋を後にしようとした。
「待て。皇女の葬儀にはお前も出席し、子細を報告しろ」
「仰せのままに」
部屋を出ると待っていたのは医官とローザだった。少し離れた廊下から二人の姿を認めると、従者は足早に向かった。
「陛下はなんと?」
従者は二人を無言のまま更に扉から引き離すと、不意に立ち止まって額の汗を拭った。
「特にお気にされていないようでした。そして葬儀に関しては第二側妃様のお気に済むようにと、ご寛大なお考えをお示し下さいました」
「感謝致します、これでリナ様もご安心されるはずです」
「ですが、私に葬儀に参加し子細を報告するようにとのご命令をなさいました」
「それで他にはなんと?」
「ただそれだけでしたから意図は分かりかねます」
「ただ単にご心配だからという事も考えられますね。それでしたら、お二人ともご葬儀にご参加願います」
すると医官は声を裏返らせて身を引いた。
「僕もですか? もう無理です! もうこれ以上は関われません。今夜はたまたま行く羽目になってしまいましたが、本来僕はまだ見習い……」
そう言うと医官は口を押さえてちらりとローザを見た。
「医部は随分いい加減な所のようですね。それともリナ様は蔑ろにされたのでしょうか。見習いを送りつけてきたばかりに皇女様が死産されたと陛下に申し上げてもよいのですよ?」
「なッ! 皇女様はお元気にお生まれになられたではありませんか!」
「ですがもう死産だったとご報告したのですよね? それとも従者のした報告は虚偽の報告だったと、そう改めてご報告されるおつもりですか? 見習いのあなたが?」
「……ご葬儀には参加させて頂きます。ですがこれきりにしてください。今後一切あなた方との接触は持ちたくありません」
「その方が互いの為でしょうね。お二人は明朝、後宮の裏門前にお越し下さい」
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