義弟の恋路と私の初恋

ランチ

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11 赤き竜

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「姉ちゃんが目を覚まさないってどういう事だよッ! あんたがそばにいながら何してたんだ!」

 城の貴賓室に飛び込んでくるなり怒鳴り声を上げたグラオザームは、ユストゥスの胸ぐらを掴んで勢いよく殴り付けた。息を荒げたままもう一回拳が振り上げられる。止めたのはヴィントだった。

「一回目は目を瞑りましょう。ですが二回目はありません。団長も大人しく殴られてやるなど馬鹿ですか。あなたのせいではないでしょうに」

 呆れたヴィントにも誰も口を開かない。それくらいに重苦しい空気が部屋を支配していた。

「クソッ! この女のせいか!」

 ローゼが眠っているベッドの上にはグラティアも眠っていた。本来ならグラティアは別場所に監禁したい所だったがそうも出来ずに、二人を同じベッドに眠らせるしかなかった。なぜなら、二人が触れている“彷徨う心臓”に二人の手が吸い寄せられぴたりと付いたまま離れなかったからだった。
 二人共ただ眠っているように見える。時折瞼がピクリと動くのは夢を見ているからだろうか。ユストゥスは遠目からローゼを見ると苦しそうに視線を外した。

「ホルツ子爵を連れて参りました」

 軟禁状態は罰にはならなかったらしい。顔色の良いホルツ子爵は悪びれもしない表情で貴賓室に入って来ると、部屋の中に集まっている面々を見てようやく事の重大さを理解したようだった。

「お前はリンドブルム王国と繋がっているという嫌疑が掛けられているが間違い無いか?」
「陛下までそのような虚言に付き合われるのですか!? 私は陛下の寝室に王女を手引きなどしておりません! 証拠もないではないですか!」
「その事については証拠はないな」
「そうでしょうとも! 私は一切無関係なのです!」
「それならばこれはどうだ」

 ユストゥスはホルツ子爵の前に手紙を差し出した。怪訝そうにユストゥスを見上げながらもその手紙を取ると、みるみるうちに目を見開いていく。証拠はその表情だけで十分だった。

「し、知りません! こんな物は捏造です! 証拠にはなりません!」

 突っ返された手紙を丁寧に開くと、ユストゥスは部屋にいる者達に向かって見せた。

「十年以上前にホルツ子爵家が没落の危機にあったのは、皆の記憶にも残っているだろう。その原因は多額の負債に他ならない。ホルツ子爵は鉱石を秘密裏にリンドブルム王国へ流していた。ホルツ領はグレンツェ領同様に国境沿いにあったが、当時の国の認識としては険しい岩山に遮られているからと国境という認識を持っていなかった事は事実だ。だが突然、リンドブルム王国から鉱石の代金が支払われなくなってしまった。ホルツ子爵は買い入れた鉱石の代金を支払う事が出来なくなり、ドライヴァルト侯爵がその借金を立て替えた。ここには借用書が残っている。だが実際ドライヴァルト侯爵は取り立てる事はなく、この借用書はただの形に過ぎなかった。そして侯爵はホルツ子爵のリーリエ殿を娶ったのだ」
「そもそも鉱石をリンドブルム王国に売れる訳がないでしょう! まず道がないのですよ! あの国は周囲を硬い岩山で覆われているのです! それは唯一、二国との間に開かれた領地を持つグレンツェ辺境伯の皆様がご存知のはずです!」

 血走った目がグレンツェの面々に向く。するとグレンツェ辺境伯は小さく溜息を吐いた。

「確かに我が領地から以外であの国に入る事は難しいでしょうな」
「ほ、ほら! ご覧なさい! 我が領地はリンドブルム王国に近いとはいえ入国は不可能なのです!」
「しかし……」

 グレンツェ辺境伯は顎を擦りながら唸った。

「空ならばどこからでも入る事が出来ますな」
「な、にを馬鹿な。空からどうやって行くと言うんですか! あなたはどうかしているぞ!」
「言葉を謹んで下さい、ホルツ子爵。グレンツェ殿は今やあなたよりも爵位が上なのですよ」

 ヒルシュ伯爵の言葉にも飛びかかりそうな勢いでホルツ子爵は拳を握り締めた。

「そこまで言うのなら証拠をお見せ下さい。どうやったら空からあの国へ入れるのですか!」
「竜を使うのだよ」

 一瞬静まり返った室内で、ホルツ子爵の高笑いだけが響いた。

「何を言い出すかと思えば! あなたは戦い過ぎて頭がおかしくなってしまったようですね! 幾ら何でも酷い妄想です!」
「百聞は一見に如かずだな。陛下、宜しいですか?」

 グレンツェ辺境伯の言葉にクレメンスが頷くと、続いていた隣の部屋から一人の侍女が連れて来られた。一人の侍女に対して護衛の騎士が三人も付いている。更に侍女は腕を後ろで固く縛られ、目隠しもされていた。

「なんです、その者は……」
「外してやれ」

 クレメンスの許可に、目隠しが外される。現れたのは少女のような侍女だった。

「ホルツ子爵、見覚えは?」
「全くありません。まだ子供ではないですか」
「ならばこれではどうだ」

 クイッと上げられた指が合図で、侍女の腕を縛っていた縄が外されていく。そして自由になった侍女が立っていた。

「この侍女が一体なんだと言うのです……」
「約束は守るんだろうな?」

 侍女の声にクレメンスが頷くと、騎士が侍女に宝石の欠片を渡した。侍女は乱暴にそれを受け取り、勢いよく口に放り込んだ。ガリガリとした硬い音が部屋に響く。ギョッとしたのはホルツ子爵だけ。そして侍女は体をごくりと飲み込むとカッと赤い目を見開いた。その瞬間、侍女の姿は消え去り、そこにいたのは大人三人分程ある竜になっていた。

「これなら見覚えがあるのではないか?」

 ホルツ子爵は全てを理解したようにその場にずるずると座り込んでしまった。

「陛下のご質問に答えろ。この竜を見た事はあるかと問われているのだ」

 ユストゥスの言葉に項垂れたホルツ子爵は、生気の無くした顔で頷いた。

「知っていますとも。その竜が鉱石を運んでいたのですから」
「リンドブルム王国に鉱石を流していた事を認めるのだな?」
「まさか人に化けられるなんて。どうせ隠しても全て話してしまっているんだろう? この呪われた種族が!」

 騎士がホルツ子爵を捕らえて部屋を出ていく。人型に戻った侍女は紅い目をパチパチとさせて小さく鳴いた。

『約束は守れよ。人間共』




 目の前に広がっていたのはどこまでも続く草原だった。その光景を見た瞬間、ローゼは涙を流しながら足を踏み出していた。足裏には柔らかい草の感触。雨でも降ったのか濃い緑の匂いが沸き立つ。深呼吸をしながら、まるで現実にいるかのように世界の隅々を感じる事が出来る。

ーーここを知っている気がするわ。

 誰もいない草原にいつしか鳥の囀りが加わっていた事に気づき、とっさにそちらの方向を振り見た時だった。一斉に鳥達が飛び立ち、空に舞っていく。それと入れ替わるようにフワリと大きな竜が降り立った。

ーー竜! 

 紅い鱗に覆われた見上げる程の竜は、こちらに気がついたように新緑色の瞳を向けてきた。逃げる場所はない。例え走り出してもあんなに大きな竜ならば、ひとっ飛びで目の前に来る事が出来るだろう。ローゼは一瞬構えたが、ふと体から力が抜けたのを感じた。竜もしばらくこちらを観察していたようだったが、やがてこちらに歩いて近づいて来ると、じっと見下ろしてくる。ローゼはゆっくり膝を曲げるとドレスの裾を摘んで礼をした。

『フッ、我が恐ろしくないのか』

 ローゼはギョッとして顔を上げた。

『ふむ、聞こえているようで何よりだ。愚かな弱き者共は声を訊く事すら出来なくなっている者も多いからな』

 声は確かにする。それも頭に直接叩き込んでくるような声だった。

「あなたが話されているのですか?」
『他にいると思うか? だが珍しいな。お主、どうやって此処に来た?』

 状況が分からない。ユストゥスとグラティアの結婚式で騒動が起り、グラティアの追っていたルビーをローゼも追った事までは覚えている。その後、気がつくとここにいたのだった。

ーー夢でも見ているのかしら。

 夢を夢だと認識する事も珍しいが、そうでなくては聖堂にいたのに理屈が通らなかった。

『夢などではないぞ』
「頭の中が読めるんですか!?」
『ふはははッ! 自分がどこに来たかも分かっていないとはな』
「教えて下さい! ここはどこなんですか? あなたは一体誰なんです?」

 すると見下ろしてきていた竜の瞳がすっと細くなった。

『なぜ私が教えねばならん。お主は不法侵入とでもいうべき存在。本来なら即刻食らうているところよ』

 びくりとして恐怖しているのさえ楽しまれているかのように、竜は尻尾を緩やかに動かした。その尾すら、少し勢いをつければきっと遠くの方まで飛ばされてしまうだろう。

『そんな事はせん。もし我に聞きたい事があるのなら、対価は持って来たのだろうな?』
「対価だなんて、私何も持っていません」
『持っているではないか。ほれ、そこに』

 竜に言われるままその視線を辿ると、いつの間にか手には割れたルビーを握っていた。

「いつの間に……」
『おかしな事を言う。ここに来た時から手にしていたではないか。だがしかし割れているのは残念だ』
「これは渡せません。これはある御方の大切な物なのです。何か他の物でしたら……」
『それならお前の心臓だ。それで譲歩してやろう』
「それも、差し上げられません」
『死が怖いか。何故か人間は皆死ぬ事を怖がる。この世に生きている方がずっと苦しいであろうに』

 ローゼは小さく首を振った。

「大切な人達を悲しませたくないんです。私が死んだらきっと凄く悲しみますから」
『やれやれ、あれも駄目。これも駄目。それが人に頼む態度か?』
「人?」

 その瞬間、竜はフンと鼻息を鳴らした。
 赤く大きかった体はどんどん縮んでいき、あっという間に目の前には紅い髪を無造作に結んだ男性が立っていた。新緑色の瞳は横に線が入り人の目とは違う。それでも悪戯がバレたように口端を上げて笑っている姿は、どこにでもいるような青年に見えて、どこにもいない妖艶さを纏っていた。

「まさかそれが正体ですか?」
「正体だと? いちいち大袈裟だな。こっちの姿が便利は時はこちらを使っているだけだ」

 言葉もいつの間にか頭に直接響くのではなくちゃんと耳で聞いている事に気が付くと、青年は楽しそうに肩を揺らして笑った。

「よし! それなら我を楽しませてみよ。長い事退屈していたのだ。何よりこんな場所に入って来る者は久方振りなのでな、きっと愉快な者なのだろう?」
「ゆ、愉快かは分かりませんが長居は出来ないんです。ここが夢の中じゃないのなら、きっと今頃私がいなくなって騒ぎになっていると思うんです」

 その時、人の瞳に見えてそうでない眼がじっとこちらを捉えた。その瞬間動けなくなってしまう。目の前にいるのは人の姿をしているのに、体が萎縮して震え出していた。

「少しでしたら、お付き合い致します」
「そうか! それでは行こうか」

 パッと明るくなった表情と共に見えない圧迫感が瞬時に消える。しかし次の瞬間、体を鷲掴みにされると……そう、いつの間にか再び竜の姿になった青年はその鉤爪にローゼの体を捉えると一気に大空へ飛び立った。
 声が出せない。
 息が出来ない。
 顔に掛かる霧が冷たく風が強く微動だに出来ないまま、目をぎゅっと瞑っているしかなかった。そして再び突然に終わったと分かったのは、足先が何かにぶつかったからだった。別に痛かった訳ではない。それでも不意に触れたそれが冷たかった事に驚いて跳ね上がってしまった。

「ここは……この、白い物はなんです」

 そっと触れると冷たく、そしてすぐに溶けてしまう。辺り一面という訳ではない。所々の地面は土が見え、そしてよく見ると多くの瓦礫が散乱していた。

「ここはどこですか?」

 竜を見る為に振り向いた瞬間、ローゼは言葉を発せないまま固まってしまった。
 エーデルシュタイン城の倍はあったであろう城は激しく朽ち、高かったであろう塔は半分に折れていた。朽ちて随分経過しているのか人の姿はなく、ただ風の音と所々にかかった白く冷たい物があるだけ。動物の姿もなく、廃墟という言葉がぴったりの場所だった。

『以前ここには大きな国があった。この城にも大勢の人が住み、活気に溢れ、城下には更に大勢の人々が住んでいたのだぞ。想像出来まい?』
「随分前に滅んだのですか?」

 竜が唸ると、地響きのように地面が揺れる。まるで大地が竜に共鳴しているようだった。

「災害ですか?」
『戦争だ。人と人が争った結果、これだけ大きな国が滅んだ。激しい戦闘で多くの悲鳴が大地を満たしていた。人間だけではない。動物達も多くが犠牲になった』
「あなたはそれを見ていたような口振りですね」
『見ていたさ。実際に。それが我を奪い合って起きた事だったからな』
「戦争の原因があなたに?」

 竜はそっと首を下げると、目の前に顔が迫ってくる。そして瞳が覗かれた。
 耳に人々の喧騒が湧き上がるように聞こえてくる。あるはずがないのに、目の前には通り過ぎる女性の楽しそうな光景に、上手く焼けたと自慢のパンの呼び込みをする威勢のいい声が通り、大道芸人が道で始めた音楽に集まってくる子供達。その瞬間、意識が剥がされるようにパチンと音が鳴って音が切れた。

『これじゃあないな。そうだこれだ』

 情景が切り替わりまた別の情景が視えてくる。そこにはまだ崩れる前の大きな城が聳えていた。
 紅い髪の青年が騎士のような格好をして歩いている。長い髪を三編みにして後ろに垂らし、首まで高い
シャツをしっかりと着ている。羽織っていた上着は上等の物だと分かる金糸と赤の糸で刺繍が細かく施されていた。その少年がこちらに気がついたように振り向く。その瞳は竜と同じ新緑色の人ならざる眼をしていた。声を掛けようにも動けない。瞬きすら出来ているのか分からない状況で、少年は廊下の先から呼ばれたようだった。

「陛下! こちらにいらしたのですね! すでに王妃様方がお待ちですぞ」

 少年は“陛下”と呼ばれ、連れて行かれる。少年はどこか戸惑った様子で足早に歩き出していた。

『ここでもないな。今のは忘れてくれ』

 声が頭の中でする。段々とこの竜に視せられているのだと分かると、何となく落ち着きを取り戻せている気がした。

「陛下! あの女が子を身籠りました! なぜ私にはお恵み下さらないのです! 我が家は元々この地を治める豪族なのです! あのような他国から来た貴族とは名ばかりの女に先を越されるなど我慢なりません!」

 泣き腫らし衰弱しきった女は乱れた髪も服装も構わず、先程よりも成長した紅い髪の青年に縋り付いていた。

「お前は体が弱いのだから安静にしていなくてはならないだろう。ほら、しっかり立つ事も出来ないではないか」
「陛下があの女にばかり構うから体調がおかしくなるのです! ……いいえ、違うわ。あの女が私に毒を盛ったに違いありません。きっとそうです! 陛下、あの女を処刑して下さいませ!」
「何を馬鹿な事を。さあ、早く戻り休むがよい。体が回復すればいずれ子も望めるようになるだろう」
「陛下はそれまでどうするおつもりですか。それまで私とはお会いになられないので? どうしたらその子種を下さいますか。私は竜の子を産まねばならないのです! グレンツェ家の為に!」

 その瞬間、ローゼは呪縛が解けたようにいつの間にか地面に手を付いていた。
 たった今目の前で起きていた喧騒はなく、ただ冷たい風が吹いているだけ。肩で息をしながら今見た物をどうにか整理しようとしていると、頭上から生暖かい息が掛かった。

『これがこの国が滅んだ原因だ。我は誰も愛さぬと言った。そして皆平等に愛するとも。それで良いと言ったのは人間達だった』
「……それでもあなたを愛してしまったのですね」
『愛? フハッ、それは違うな。あれのどこが愛だというのだ。お前にはあれが愛に視えたか? おかしな事を言うのだな』

 震えは一向に止まらない。それでもなんとか体を起こすと、竜を見上げた。

「あなたはこの国の王だったのですね。そして時折こうして遠い記憶の中を旅している。懐かしいのではないのですか?」
『まさかッ! 忌々しい記憶だ。人に関わったばかりにこうして嫌な記憶がべったりと張り付き、剥がれてくれんのだ』
「それならどうして私にこんな過去を見せたんです? グレンツェ家の血を引く私に」

 竜は小さく喉を鳴らすと、じろりとこちらを見下ろしてきた。今すぐにでもばくりと頭から食べられてしまうそうな程の距離。逃げる事も逸らす事も出来ない中、竜はふと人の姿に変わった。たった今視せられた姿よりも幾分年を取っているように見えた。

「グレンツェの女は特に妙だったな。あの女だけは我が他の妻を抱くと気が狂ったように騒ぎ立てた。他の妻は面白くなくても聞き分けが良かったというのに」
「でもその女性との間にお子を授かったという事ですよね?」

 青年は朽ちた城を見上げながら言った。

「ある日、グレンツェの女が行方不明になった。そして一年後に突然帰って来たのだ。腹を大きくして」
「腹って、お子を宿していたという事ですか!?」
「我の子ではない。しかし生まれたのは竜の子だった。母親の腹を食い破るようにして出てきた子はすぐに追放した。いくら竜の血を継いでいるとは言え、赤子が生き抜ける訳がないと思っていたのだがな」

 青年は少し寂しげにこちらを見ると小さく頷いた。

「お主を見ていると胸が痛む。長らく忘れていた感覚だ」
「……グレンツェの女性を愛していたのですね」

 すると酷く驚いたように跳ねた青年は、やがて理解したように首を振った。

「そう単純ではない。竜は人を番にはしない。人もまた竜の番にはなれない」
「でもあなたは現に苦しんで……」
『久しぶりに有意義な時間だったぞ。グレンツェの末裔よ。楽しませてくれた変わりに良い事を教えてやろう。我の名は赤竜。人の名をアウシュビッツ』

 いつの間にか竜の姿に変わってしまった青年を見上げた瞬間、耳元で大きな声が聞こえた。




「……ゼ、ローゼ! 目を開けてくれ!」

 霞む視界に映っていたのは無精髭を生やしたアレンだった。ぼんやりと見ていると、こちらに気が付いたのか、驚いた顔をしてその場を離れていく。でもぎっちりと握られた手に意識が向いた。アレンの叫び声が妙に心地よい。そして意識が覚醒してくるとふと誰もいない隣りと見た。

「アレ……」

 その瞬間、激しく咳き込んでしまった。

「ローゼ大丈夫か!? ゆっくり水を飲むんだ。一気にじゃないぞ、ゆっくりだ」

 アレンの手付きが妙に優しくて噎せながら笑うと、少しムッとしたようにアレンが眉を寄せた。

「お前が無事で本当に良かったよ。倒れたって聞いた時は寿命が縮んだぞ」
「グラティア様は? どうなったの?」
「まずは自分の体の事を考えろよ。あ、来た来た!」

 走ってくる足音で誰が来たのかが分かる。飛び込んできたのはブリッツだった。

「姉様! 良かった! ほんっとうに良かったよぉ!」

 飛びついてきたブリッツを抱き締め返す。そして違和感に気が付いた。体が大きい。というかしっかりしている。確かめるようにサワサワと撫でていると、我慢していたブリッツが大きく笑い声を上げた。よく聞けばその声もどこか低い気がする。ローゼは恐る恐る抱き締めていたブリッツを引き離して顔を見た。

「どちら様?」
「酷いです姉様! 姉様のブリッツですよ!」
「違うわ! 私のブリッツはもっとこう小さくて細くて、可愛らしくて……」

 少し後ろでアレンがうんうんと頷いている。そして目が合った。

「あぁ、驚くなよ? 冷静に聞くんだぞ!? お前はな、一年半も眠ったままだったんだ。不思議な事にそのまま変化なくな。でもついさっき、身悶えするように体が動いたから声を掛けたんだよ」
「僕が当番の時にそれが起こって欲しかったです! アレンの時だなんてずるいよ」

 少し大きくなったブリッツの頭を変わらずに撫でるアレンを見ていると、本当にここが現実なのだと思い知らされてしまう。そして再び疑問が湧いてきた。

「グラティア様はどちらに?」
「それについては私が話そうか。だがまずはゆっくり休養を取ってからにするとしよう」

 開け放たれた扉の前に立っていたのは、すっかり白髪が増えた義父だった。

「お父様、心配かけて申し訳ありません」
「まずは良かった。本当に良かったよローゼ。私のせいですまなかった。お前をしっかりと守ってやれたら」
「お父様のせいじゃありません! 私が勝手に行動したんです」
「こうして再び会えただけで私は何も望まないよ。だがまずは医師の診察を受けて、何か食事をしようじゃないか」
「ですがお父様! 体は本当になんともないんです。自分でも不思議ですけど辛くありませんからどうか話して下さいませんか?」
「旦那様、勿体つけずに話してやってくださいよ。きっとそうじゃないとこいつ風呂も飯も取らないだろうから」

 なぜだかお腹は空いていない。それにお風呂に入らなくていいくらいに臭いもなく、気にならなかった。まるで昨日の事のように何も変わっていない自分がいた。

「それじゃあ手短に話すよ。なぜこの一年半もの間お前が眠ったまま生きれたかというと、それだ」

 義父の視線の先には割れたあのルビーが置いてあった。

「夢じゃなかったのね」
「お前はそれにグラティア王女と共に触れたようで、二人とも昏睡状態になってしまったのだ。だが先に目を覚まされたのはグラティア王女だった。その石をグラティア王女と奪い合ったのを覚えているかい?」
「あまり……」
「その石は本当に竜の心臓のようなのだよ。初代リンドブルム王国の王は竜だとされていてね、その竜の心臓を祀る為に出来たのはこのエーデルシュタイン王国なのだ。その心臓を聖堂のとある場所に置くと、リンドブルム王国のどこかに眠るという竜が目を覚ますらしい」
「竜が目を覚ます……」
「まあこうして心臓がないのだからすでに死しているだろう。だがそれ程までにグラティア王女は追い込まれていたという訳だな。初代王の竜を呼び起こそうとする程には」
「この石の片割れはグラティア王女がお持ちなのですか?」
「そうだね。持ち帰ったと聞いているよ。マルモア大公もそれを承諾したと」
「帰った? ご結婚されたのにですか?」

 義父とブリッツ達は視線を合わせた後、痛ましいものでも見るように小さく笑った。

「あの結婚は元々本当にする物ではなかったらしいんだ。グラティア王女はそのマルモア大公が持っていたルビーを奪おうとし、近づく口実を探していた。マルモア大公はそれに乗ったという訳だな」
「安心した? 姉様。マルモア大公はまだ独身ですよ」
「べ、別に安心なんてしていないわ! 生意気になったわよブリッツ!」
「まさかお前、マルモア大公を想っているのか?」
「違います! お父様もブリッツの言う事を真に受けないで下さい!」

 コホンという咳払いと共にアレンが穏やかな表情のまま促すように義父の肩に触れた。

「旦那様、そろそろ陛下にご報告に行った方がいいのではありませんか?」
「そうだったな。両陛下も大変お前を心配していたんだぞ」
「あの、お父様、その……マルモア大公は今どこにいらっしゃるんでしょうか」

 何かを言いかけた義父にもう一度念押しをしてから言った。

「変な意味ではなくて、片割れでもマルモア大公にお返しした方がいいと思ったのです」
「それはすぐには難しいかもしれないね。マルモア大公は今王都にいないんだよ」
「まさか一緒にリンドブルム王国に行かれたのですか?」
「いいや、でも近いと言えば近いかもしれないね。マルモア大公は今グレンツェ領におられるのだ」




「大丈夫か?」

 グスッと鼻を啜ったブリッツは、何事もなかったように振り返った。

「本当に良かったよね。姉様ったらお寝坊さんなんだからさ」

 その瞬間、アレンはブリッツの腕を引いていた。

「俺の前では無理して笑うなよ。この一年半、お前がずっと我慢してきた事くらい分かっているつもりなんだ」
「我慢だなんて大げさだよ。皆必死に頑張ってきたのに、僕だけ大変だったみたいな言い方……」
「人一倍頑張ってきたじゃないか! 旦那様がローゼを目覚めさせる為に仕事そっちのけで文化省に詰めていた時も、伯爵家の仕事を引き継いで大変だったろう?」
「そ、それは姉様の仕事をたまに見ていたし、僕だって本当はもう覚えないといけない年だったから……」
「俺はそんな頼りないか? 誰にも弱みを見せずに頑張ってきたのは偉いと思うよ。でも、せめて俺の前でくらい。いや、それも俺の我儘だよな。頼って欲しいだなんてさ。ちょっと頭冷やしてくるわ」
「待ってアレン!」

 むんずと上着を両手で掴んでいたブリッツは慌てながらも更に力を込めた。

「本当に甘えてもいいの? 僕、いずれヒルシュ家を継がないといけないのに。弱音なんて吐いてもいいいの? 姉様が目が覚めなくてどうしようって。領地経営なんてさっぱりだって……」
「良いに決まっているだろ! 誰だって家族が大変な時は辛いし、始めたばかりの仕事なんて出来なくて当たり前なんだから!」

 振り返ったアレンは勢いよくブリッツの両腕を掴んだ。真っ直ぐな瞳にうっすら涙が浮かんでいる。その瞬間、ブリッツは声を上げて泣いた。

「姉様が目を覚まして良かったよぉ! 本当が怖かったんだ、ずっとずっと怖かったんだよぉ」
「俺も怖かったよ。ローゼが目覚めて良かったな」

 きつく抱き締め合った後、頭だけ自然と離れた二人は口づけを交わした。それは唇を触れ合わせるだけのもの。それでも心を一つにするには十分過ぎるものだった。

「あなた達、今何をしていたの!」
「……母、様ッ」
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