義弟の恋路と私の初恋

ランチ

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9 嫉妬と意地の終わりには

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「陛下はまだ執務中との事で本日はお戻りになるのが難しいようでございます」

 エディットは夫の寝室に入ろうとした所で見慣れた侍女に声を掛けられた。すでに寝支度を済ませており、薄い夜着の上にガウンを羽織っただけの格好だった為、一人でもこのまま夫の寝室で寝てしまおうかと逡巡していると、侍女は思いついたように声を上げた。

「たまには王女様とお休みになられてはいかがでしょうか? この所お寂しそうにされていたのが気になっておりました」
「あの子が? そうだったのね。それじゃあそうしようかしら」
「きっとお喜びになられますよ」

 侍女は廊下を曲がるエディットの背中を見送ってから、王の寝室の扉を静かに開けた。

「今エディットが来なかったか?」

 クレメンスは寝室の扉を開けたまま、手際よく香を炊こうとする侍女の奥に顔を向けた。甘い香りの中にも微かに香辛料のような刺激のある香りが部屋に広がっていく。エディットの好きな香りだった。

「王妃様は王女様のお所へ立ち寄られてから来られるそうなので、少し遅くなるようでございます。陛下がお寂しくないようにこちらの香を焚いておきますね」
「ハハッ、それは助かるよ。側にいなくてもエディットを感じられるからな」

 クレメンスは温かい酒を口に含み優しく笑いながら、もう一つの空のグラスを見た。

「添い寝しながら今日は向こうで寝てしまうかもしれないな。これはもう片付けておいてくれ」
「そうですね。きっと王女様もすぐにはお休みにはなられないと思いますし」

 侍女はクスクスと笑いながら窓辺にあるランプに手を伸ばした。

「エディットが戻って来るかもしれないから扉の灯りはそのままにしておいてくれ」
「かしこまりました。おやすみなさいませ陛下」
「あぁ、おやすみ」

 窓辺のランプの灯りが消えるといつもなら程よい眠気が襲ってくるが、今日は少し違っていた。

「参ったな。すぐに眠れると思ったんだが」

 寝台の中で動けばひんやりとしたシーツの感覚に余計に目が冴えてしまう。その時、カタンと扉が開く小さな音がした。クレメンスは驚かせてやろうと目を瞑り、背中を向けて眠っている振りをする事にした。小さな足音は主を起こさないように気遣い摺り足の音がする。それが刺客では無い事も分かっていた。もし本当に刺客ならばむしろこんな風な足音すらしないだろう。そっと反対側の毛布が開けられると、中に滑り込んできた気配にクレメンスは勢いよく振り返った。抱き締めた感覚と顔に掛かる髪の感触、そして違和感。とっさに体を離すとそこに驚いた顔で横たわっていたのは、愛する妻ではなく、異国の王女だった。

「グラティア王女……なんでここに」
「クレメンス? 戻っているの? あなた今日は遅いって……」

 クレメンスがとっさに抱き締めていた体を引き離した腕に、グラティアの手が添えられる。エディットはそんな二人を見ながら呆然と立ち尽くしていた。

「エディット、これは違うんだ」

 離れようとした体にグラティアが抱きつく。夫婦の寝台の上で、エディットよりも豊満な胸がクレメンスの腕に押し付けられ、エディットはスッと息を吸うと一瞬目を瞑った。

「グラティア王女がどうしてここにいらっしゃるのですか? ここは夫の寝室ですよ」

 すると新緑色の瞳が上目遣いでエディットを捉えた。エディットよりもずっと年下のグラティアは、若いというだけでなく、誰から見ても色気のある魅力的な女性だった。

「あら、私は陛下に嫁ぐ為に遥々この地へ来たんです。何もおかしい事ではありませんよね? 祖国では陛下と私の子の誕生を心待ちにしているのですよ」
「そなたはユストゥスに嫁ぐ事に決まったではないか! 許可もなく王の寝室に入るとは重罪に当たるぞ!」
「ですがマルモア大公は私の事を嫌っているようなのです。それでしたら私がこの国へ来たお役目も果たす事が出来ませんし、やはり陛下へ嫁ぐべきだと思ったのです。陛下だって先程強く抱き締めてくれたではありませんか」
「それは間違えたんだ! エディット!」

 エディットは名を呼ばれた瞬間、夫とその腕にしがみついているグラティアの間に身を滑り込ませた。

「マリ! すぐに来て頂戴!」

 夫を自分の手の中に取り戻すと、侍女長の名を叫んだ。




 王城からの急ぎの使者が来たのは、慰労会も終盤に入り始めた真夜中だった。珍しく慌てた様子のドナーが客間に入ってくると義父に耳打ちをする。その瞬間、さっきまで酒で色白の顔を真赤にしていた顔が凍り付き、手に持っていたグラスを落としかけた。辛うじて落とす事はなかったが、中身が溢れて膝に掛かる。ローゼが拭く物を探そうとした所で、義父は勢いよく立ち上がった。

「本日の慰労会はこれまでとさせて頂きます。皆様ご参加下さり誠にありがとうございました」
「何かあったのか?」

 ユストゥスはグラスに入っていた酒を置くと、気遣うように義父の肩に触れた。

「マルモア公爵はすぐに王城へ戻るようにとのご命令でございます。私も同行致しますのですぐに向かいましょう」
「まず事情を話してくれ。それくらいの猶予もないのか?」

 ユストゥスの視線を感じたグレンツェ家の者達は、意外にも空気を読んだようで客間から散り散りになっていく。それに続いてローゼ達も部屋を出ようとした時だった。

「グラティア王女が陛下の寝室に忍び込まれたようなのです。下手をすれば外交問題になりまねません。至急陛下の元に来るようにとの事です」
「なんと馬鹿な事をッ! あれは一体何を考えているんだ」
「一刻も早く向かいましょう。ローゼも来てくれるかい?」

 聞こえてきた話を振り切るように扉に手を掛けた所で、聞こえてきた言葉に固まってしまった。

「ローゼ? 聞いているのか?」
「聞こえております、お父様。ですが何故私もなのでしょうか?」
「内容が内容なだけに同性のお前が必要になるやもしれん」
「確かに話しにくい部分は信用出来る女性が居た方がいいかもしれないな。俺からもお願いしよう」

 そんな風に連れ出された真夜中、連れて行かれたのは本来一生足を踏み入れる事はなかったであろう王の寝室だった。
 夜の城内は昼間の綺羅びやかな景色とは違い、静まり返っていて少し怖い感じがしてしまう。見回りの騎士達は立っているが、暗い廊下に案内役の従者の足音と三人の足音だけが浮き立っていた。従者が足を止めたのは入った事のない城の奥の大きな扉の前。扉からは光がうっすら漏れて、これから起こる事を思ってローゼは足が竦んでしまった。

「必ずしもあなたに間に入って欲しいと言っている訳ではないから、どうかそんなに不安がらないでほしい。ただ当事者と我々だけよりも空気が和らげばいいと思ったんだ」

 ユストゥスからちらりと視線が向けられ、ポンと頭を叩かれると扉は開かれた。

「両陛下が中でお待ちでございます」

 修羅場は覚悟していた。部屋の中にはソファに並ぶようにして両陛下。そしてその向かいにはグラティア王女とその後ろには侍女長が立っている。誰も言葉は発さず、どちらかと言うと両陛下の方が疲弊しているように見えた。

「随分遅かったな」

 声には棘がある。これでも最速で来たつもりだったが、待っている方はそうではなかったらしい。苛立ちを顕にしながらこちらに……というよりもユストゥスに鋭い視線を向けているようだった。

「ヒルシュ伯爵家で開催の慰労会に出席していたのです」

 鋭い視線が義父と、そして今度こそこちらに向く。その瞬間小さな溜息が溢れた。

「今更結婚が嫌になったのか? わざわざ女性を連れて来るなど」
「誤解です陛下。ローゼは私の娘で……」
「私はユストゥスに聞いているのだ!」

 遠目からしか見た事はなかったが、温厚そうに見える陛下がこんな風に感情をぶつける姿にヒュッと息を呑むと、ユストゥスは庇うように少し前に出た。

「私が同行を願い出たのです。それに結婚が嫌になったかと聞かれましたが、何故そんな風にお思いになれたのか理由をお伺いしても宜しいですか?」

 疲れたように背もたれに倒れた陛下は顎でグラティアを指した。

「事前に知らせた通りだ。グラティア王女がこの寝室に忍び込んだ。私の命を狙っての事か、それとも本当に妻になれると思ったのかは知らんが、お前がちゃんとグラティア王女との関係を築いていれば起きなかった事態ではないか?」
「陛下の仰る通りです。全ては私の不徳の致す所です。グラティア王女におかれましても、追い詰められての行動だったとお察し致します。申し訳ございませんでした」
「私は不安だっただけなのです。決して陛下を害そうとした訳ではございません! ですからどうか婚約と言わずすぐに式を挙げて頂けませんか?」

 結婚、という言葉に思考が固まってしまう。誰と誰が結婚するのか。それにあのユストゥスがこんな風に謝るなど考えられない。それだけここにいるのは国の最高権力者達なのだと改めて思い知った。

「幸いにもエディットが寛容な心でグラティア王女を許すと言っているのだ。だが、この部屋に手引きをした侍女は許容出来ん。すでに捕らえているからお前が尋問しろ」

 その時、食い下がるように侍女長が口を開いた。

「私にもどうか罰をお与え下さいませ。此度の失態は全て私の管理不足でございます」
「マリだけの責任ではありません。思い返せば侍女だけではなく、その時は護衛の騎士も扉の前にはいませんでした。丁度交代の時を狙ったのか、それともその騎士達ですら協力者だったのか。調べれば自ずと答えはでるはずです」
「だから私を呼んだのですか?」
「先程言った事も事実だぞ。お前がグラティア王女との関係を疎かにした結果がこれだ。それとは別に騎士の中に裏切り者がいるかもしれん。それを早急に調べろ!」




 そしてその日の午後。
 何故かローゼは今、ドライヴァルト侯爵家の門の前に立っていた。結局の所、圧倒的な緊張が支配する王の寝室ではローゼの出番は訪れなかった。そしてその日の昼にユストゥスから言われた事を思い返していた。

ーー騎士は騒ぎがあると侍女に呼ばれ持ち場を離れてしまったらしい。もちろんお咎めなしという訳にはいかないから、その者達にも処分を下さなくてはならないがな。それよりもその侍女だが、ホルツ子爵家の息の掛かった者だという事が分かった。知っているか?
ーーホルツ子爵家ですか? 特に印象はありませんが。
ーーこれと言って目立つ家ではなかったからな。だからこそホルツ子爵家だけで動くにはあまりにも無理がありように見える。
ーー誰かに指示されたという事でしょうか? 確かホルツ子爵は保守派でしたよね? それは関係しているんでしょうか。
ーー訳あってホルツ子爵家は、保守派の筆頭であるドライヴァルト侯爵家に忠誠を捧げている。だがグラティア王女との結婚を勧めてきたのもくドライヴァルト侯爵だったんだ。

「お待たせ致しました。旦那様が中でお待ちでございます」
「急な申し出でしたのにこのように出迎えて下さり、心から感謝致します」

 すると義父の年齢に近い執事は口元だけ上げて笑った。

「旦那様はご承諾下さいましたが、本来でしたらもっと前にご申請下さらないとお会い出来ないお方なのです。今回だけは特例とお思い下さいませ」

 笑顔とは裏腹に棘のある言葉を吐かれ、ローゼは黙る込むしか出来なかった。
 案内されたのは当主の執務室だった。てっきり客間か談話室に通されると思っていた為、驚きを隠せないでいると書類の山に埋もれたドライヴァルト侯爵を見つけた。

「ヒルシュ伯爵家長女のローゼと申します」
「ああすまないね。もう少しだけ待っていてくれるかい?」

 ドライヴァルト侯爵は手元の書類を読み込みながら、一枚ずつ判を押していっている。それは自身で判を押さねばならない重要な案件がここにはあるのだと言っているようなもので、ローゼは出来るだけ書類が目に入らないようにソファの端に座ると、視線を動かす事なく机を見つめた。

「待たせて申し訳なかったね。サヴァス、例の物を」

 “例の物”という言葉に身構えてしまう。程なくしてサヴァスと呼ばれた執事が運んできたのは、良い香りのする紅茶とジャムと砂糖が掛かったケーキ、そして美しく絞られた焼き菓子、それにたっぷりのクリームが添えられたスコーンに、花の形をした色とりどりの砂糖菓子が次々に運ばれてきた。

「あの、これは?」
「紅茶とお菓子だな」
「……それは分かりますが、これが“例の物”なのでしょうか」
「いつも余計に買い込んでしまうんだが、どうしても余してしまってね。消費するのを手伝ってくれると嬉しいんだが」
「はぁ、それではお言葉に甘えて頂きます」

 ローゼはしばらく黙々と菓子を口に運ぶと紅茶を飲む。するとサヴァスがすかさず紅茶のおかわりを淹れてくれる。そんなやり取りを三度程繰り返した所でローゼはカップを軽く手で塞いだ。

「そろそろお話を宜しいでしょうか」
「そうだな。それでは残りは包んで土産にしよう。ホールのケーキもまだあっただろう?」
 
 サヴァスに指示を出している姿を盗み見ながら、まだ菓子があったのかと若干の胸焼けを感じながら口元をハンカチで押さえた。

「甘い物がお好きなのですか?」

 別に男性が甘い物が好きだったとしても全く偏見はない。現にブリッツも甘い物が大好きだし、義父も沢山ではないが甘い物はよく口にしている。しかし量が異常なような気がしてしまうのは気のせいだろうか。

「好きだよ。だがさすがに食べきれないからね、いつもは使用人の皆に手伝ってもらうんだが、この屋敷は使用人が少なくてね。正直今回は凄く助かったよ。いつも行く店の新作があったから買い過ぎてしまったようだ」
「侯爵家のお屋敷なのに使用人が少ないのですか?」
「ここは別邸なのだ。本邸は少し城から離れているから、私は別邸で仕事をする事の方が多いのだ」
「そもそも食べる分だけを買われれば宜しいのではありませんか?」

 紅茶に酒を垂らしながら香りを楽しんでいたドライヴァルト侯爵は、とても優しそうに微笑んだ。

「……私はどの菓子が好きなのか知らないからね」
「? 何かおっしゃいましたか?」
「何でもないよ。そろそろ本題に入ろうか。ヒルシュ伯爵は何を知りたがっていたんだい?」

 ようやく背筋が伸びる空気になり、ローゼは準備していた書類を差し出した。ドライヴァルト侯爵はサヴァスに視線を向けると小さく頷く。サヴァスは書類にくまなく触れてからドライヴァルト侯爵に差し出した。不思議に思って見ていると、少し申し訳なさそうに凛々しい眉が下がった。

「気分を害さないでおくれ。立場上敵も多いのだ」

 なんでもない事のようにそう言いながら書類に目を通したドライヴァルト侯爵は、訳が分かっていないローゼの事などお構いなしに小さく唸った。

「陛下の寝室へ手引した者がホルツ子爵だというのはもう確定という訳だね?」
「捕らえられた侍女がそれについては認めております。もちろんホルツ子爵は否定しております為、現在マルモア大公と父が取調べを行っている最中です」
「証拠が証言だけという訳か」
「仰る通りでございます」
「それでなぜ私の所に? ここへ来たという事は私とホルツ子爵の仲を知っての事だろうに」
「……夫人のご実家の事ですから、お耳に入れておくようにとのマルモア公爵からのご配慮でございます」

 ドライヴァルト侯爵の顔色は変わらないように見えた。それでも何かを隠しているかもしれない。それを見逃さないように、それでいて凝視しないようにするには神経を使った。

「私が命令したとは思わないのか?」
「今の所ドライヴァルト侯爵への疑念はございませんが、今後のご対応によってはまた違って来るかもしれません」
「ほう、私を脅すのかい?」

 スカートの上で拳をギュッと握り締める。ドライヴァルト侯爵は基本的には物腰柔らかく話すが、代々由緒ある家門を守ってきただけの事はある貫禄が備わっていた。

「ホルツ子爵家はもう持ち直す事は難しいとマルモア大公が仰っておりました」
「もしこの話が本当ならば、確かに今度こそホルツ子爵家は家門返上となるだろう。陛下の寝室に敵国の王女を手引きするとはやり過ぎだったようだな。だが私にもホルツ子爵が関与しているという証拠を出す事は出来ん。すまんが力にはなれないようだ」
「いえ今のお話で十分です。急な訪問にもご対応下さりありがとうございました」
「馬車までお送りしよう」

 帰り際、来た時は緊張でよく見る事が出来なかった屋敷内に視線を巡らせた。
 屋敷の広さは国への影響力に比例する。ドライヴァルト侯爵の別邸は、別邸だと言われなければ分からない程に広い。それはエーデルシュタイン王国の建国時から上位貴族としてあったその地位が、未だに健在だと知らしめていた。
 保守派などと呼ばれてはいるがそれは二十年程度の話であって、本来はむしろドライヴァルト侯爵家が牽引して他国との交易を盛んにし、戦争には発展しないまでも大なり小なりの衝突を繰り返してでもエーデルシュタイン王国に有利に事が運ぶよう私軍を動かす事さえあった。しかしそれも過去の事。ドライヴァルト侯爵家が保守派と呼ばれるようになったのは、前王の時代に頻発していた他国との小競り合いも条約を交わして落ち着き、これから内政を整えようとしていた頃からだった。
 前国王が急死し、第一王子だったクレメンスが王位を継ぎ、内政を整えようとしていた貴族達は保守派と呼ばれ始め、王の傍系で王位継承権のあるユストゥスを王位にと担ぎ上げようとした者達は外政を重視し、のちに革新派と呼ばれるようになっていった。当時度重なる紛争で、すっかり疲弊していた国内を整える準備をしていたドライヴァルト侯爵は、怖気づいたという批判が絶えなかったという。
 広い屋敷の中をゆっくり玄関まで歩いて行くと、馬車の音が近づいて来るのが聞こえてくる。そして馬車は玄関の前にゆっくりと止まった。ヒルシュ伯爵家の物ではない馬車から出てきたのは、ドライヴァルト夫人のリーリエだった。階段下で玄関を見上げたリーリエは一瞬二人の姿を見て固まったものの、特に何も言う訳ではなく視線を伏してこちらへと近づいて来た。確か年はユストゥスと同じくらいだったと思う。それでも子を産んでいないからか、とても三十を超えているようには見えない透明感があり、伏した睫毛は長く、近くに来ると見た目とは似つかない清涼感のある香水の香りがした。

「こちらに寄るとは珍しいな」
「たまに来ています。これだけ広いんですもの。私が居たのかもご存知なかったのでしょうね」
「ローゼ・ヒルシュと申します」

 同じ段に来たリーリエに頭を下げたが、リーリエはそのまま玄関へと入ろうとする。その瞬間、ドライヴァルト侯爵がリーリエの手首を掴んでいた。

「客人に無礼だろう」

 その瞬間、細い手首は勢いよく振り払われた。

「客人ですって? 愛人を快く迎え入れる妻がどこにいるというのです? 手を挙げないだけ良しと思って下さい」
「私に愛人がいると思っているのか?」
「ッ、私には関係ありませんのでどうぞお好きになさって下さい。ですが私に愛人へ挨拶を強要するなら話は別です」
「誤解です! 私は父の代理でドライヴァルト侯爵に……」
「ローゼ嬢、何を言っても無駄だ。不快な思いをさせてすまなかったな」

 リーリエはカッと目を見開くと屋敷の中に入って行ってしまった。

「恥ずかしい所を見せてしまったがどうか内密に頼む。あれは私の事を憎んでいるのだ。でもそうなる理由も私にあるのだがね」
「今日の事は決して口外致しません。それでは失礼致します」

 ローゼは侯爵邸を後にして馬車の中、リーリエの表情を思い出していた。確かに驚きはしたが、ドライヴァルト侯爵が言うような表情には見えなかったように思う。どちらかと言うと……。

「悲しんでいるように見えたわ」

 ぽつりと呟いた後、急いで首を振った。

「関係のない事ね。考えたって分からないんだから」




「あの人はどこに行ったの?」

 リーリエはショールを巻き、庭にいたサヴァスに声を掛けた。丁度屋敷に飾る為の花を摘み終わった所のようだった。屋敷は広くても使用人は少ない。元々この屋敷は結婚当初、子爵家出のリーリエが、客人や使用人が多い本邸では気が休まらないだろうと、ドライヴァルト侯爵の配慮から整えられたものだった。だからこの屋敷にはリーリエが気を許した使用人しかおらず、どこで何をしているかはなんとなく分かるのだった。

「旦那様は外出されましたが夕方には戻られるようですよ。一緒に夕食をと仰っておりました」

 するとリーリエは苦い顔をして首を振った。

「今更顔を合わせて食事をする事もないわ。断っておいて頂戴」

 振り返った瞬間、サヴァスは急いで花束を抱えたままリーリエの背中に声を掛けた。

「奥様! ローゼ様はご用事がおありでお見えになられたのでございます」
 
 背中を向けた細い肩は僅かに震えたように見えた。

「……それでもこの屋敷に招いたのは許せないの」
「ヒルシュ伯爵のご代理でいらっしゃいましたがマルモア大公のお名前も上がりました為、急遽面会を承諾した為仕方がなかったのです」
「あなたまであの娘の味方をするの? 私は嫌だったのよ!」
「申し訳ございません、奥様」
「いつもの焼き菓子を持ってきて頂戴」
「目新しい物もございますよ」
「いつものでいいのよ。……馬鹿げているわ。今更共に夕食を取ったとして何になるのよ。関係が悪化するだけじゃない」

 サヴァスはとっさに横を向くと花束を抱えたまま、頭を下げた。

「それは少なくとも関係を悪化させたくないと思っていると解釈していいのかい?」

 リーリエは青い顔をして振り向くと、そこには外出したと聞いたはずの夫の姿があった。庭は広い為幾つも椅子が置いてある。丁度サヴァスが居た場所は生け垣があり向こう側が見えなくなっている場所だった。サヴァスを睨むように見たが、何故かサヴァスは笑みを浮かべたまま離れて行ってしまう。リーリエは気まずさのあまり唇を噛んで俯いた。

「この屋敷をそれ程までに大事にしてくれているとは思わなかったな」
「そういう意味ではありません。ただ静かなので過ごしやすいだけです」
「ヒルシュ家の令嬢が来た理由だが、ホルツ家に関わる件で来たのだ」
「実家で何かあったのですか!?」
「私も最近ではホルツ家とは距離を置いていたが、どうやら陛下を裏切る行為をしたらしいのだ」
「父が、ですか?」
「詳細はまだ話せないが、おそらくホルツ子爵家は家門を剥奪されるだろう」

 リーリエは口元を押さえると首を振った。

「それじゃあ、結局こうなるのであれば私は……あなたはなんの為に結婚を」

 続きが言葉にならないのか、その場でヨロヨロと崩れていく。とっさに足を踏み出したドライヴァルト侯爵を、リーリエは強い口調で止めた。

「来ないで下さい! ホルツ家が没落するのであれば私はもうここにはいられません。すぐに、今すぐに出て行きます」
「ここを出てどこに行くんだ。当てはあるのか? ……もしやマルモア大公の所へ行くのかい? 確かに私よりも大公の方が君を守る事は出来るだろう」
「何故あの人が出てくるのですか! 今更ユストゥスを頼る気はありません! あるならとっくにあの時そうしていました」

 ドライヴァルト侯爵が一歩、また一歩と近づいていく。リーリエは怯えるように後ずさった。

「なぜあの時私の手を取ったのだ。マルモア大公はお優しくお強い人だ。きっと戦場からでも君が望むなら結婚を承諾しただろう」

 フルフルと首を振り、リーリエは顔を背けた。

「戦場にいるユストゥスにそんな負担を強いるつもりはありませんでした。我が家の借金を知られたくもありませんでしたから」
「やはりそれ程までにマルモア大公を想っていたのか」
「私とユストゥスは友人です。変な勘ぐりはお止め下さい」
「友人だとしても婚約していたじゃないか。それは事実だろう」
「母がユストゥスの母君の侍女をしていた時からのお付き合いなのです。それ以上の感情など一切ございません」
「だから私の求婚をあっさりと受けたという訳か。こんなに年の離れた男に嫁がせて悪かったと、本当はずっと申し訳なく思っていたのだ」

 とっさに顔を挙げたリーリエは、いつの間にか年を重ねて影を落とした夫の姿に胸が詰まる思いがした。

「……しは、私は望んで妻になりました」

 そう言った後、ポロリと涙が一筋流れていた。

「あの時は一家で死のうとさえ考えておりました。あなたが救って下さらなかったら、私は今ここにおりません。でもずっと買われたという気持ちと、優しいあなたに申し訳ない思いで一杯だったのです。……私はあなたの子を産む事が叶いませんでしたから」
「子はいいと何度も言っていたではないか! お前が気に病む事ではないんだ。私はただお前が側にいてくれればそれで良かったのだ」

 リーリエは止まらない嗚咽を繰り返しながらヨロヨロと足を進めていく。しかしそれよりも早くドライヴァルト侯爵はその体を引き寄せて抱き締めた。

「我々はずっと互いを思いやりすれ違っていたようだな」
「でもこのままでは本当にあなたに迷惑を掛けてしまいます。どうか私と離縁してください」

 泣きながら言うリーリエは息が止まる程に抱き締められた。

「馬鹿を言うな! やっと手に入れたのに手放してやるものかッ!」
「本当に? 私を手に入れたかったのですか?」
「これを見ても疑うか?」

 僅かに腕を緩めて見せてきた指先は小刻みに震えている。リーリエは華奢な手でその指先を包み込んだ。

「……意地を張ってごめんなさい、あなた」
「それは私もだ。これからはこの屋敷で出来る限り共に食事を取ろう。そして好きな菓子の好みを教えて欲しい。このままではドライヴァルト侯爵家総出で肥満になってしまう」
「フフ、それは困りますね。でもあなたはもう少し肉付きが良くてもいいと思いますよ。まだ相当鍛えていらっしゃるようですから」

 リーリエは腕を回して噛みしめるように上着をそっと握り締めた。
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