聖女だった私

山田ランチ

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30 掛け違えた釦を直す時

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――遠征には同行されなかったのですね。てっきりしばらくお会いできないと思っておりました。

――ブリジットに城で待つよう言われたんだ。あれは意外と意思が強くて敵わない。

――でも、大丈夫でしょうか。

――聖騎士団も一緒なのだから滅多な事は起きないだろう。お前も以外と心配性なんだな?

――そうではなく聖女様のお力が……っと、なんでもありません。

――言い掛けて止めるな。

――実は、もう聖女様には浄化の力はないのだと思っていました。

――そんな訳はないだろ。私はブリジットを大切に扱ってきたんだ。抱きしめる以上の事はなにもしていないぞ。く、口づけくらいはしたが……。

――いえ、ハイス様と聖女様が深夜に二人同じ部屋に入っていったと噂を耳にしたものですから。

――ブリジットとハイスが? 何かの間違いだろ。ブリジットが私を裏切るなどありえない。

――ですが庶民は結婚前でも身体を繋げる事もあるとか。貞操観念の違いなので一概には責められないでしょう?

――止めてくれ! ありえない。そんな事ありえない。

――すみません兄様。ですが僕は兄様が心配なんです。




「……ム殿下? リアム殿下!」

 飛び起きた寝台は汗でびっしょりと濡れていた。身体は何も身に付けてはいない。心臓の音がどくどくと激しくなっており、汗が耳の後ろから首を伝って流れてくる。胸にも背中にもかいていた汗は急激に冷え、暑かった身体は嘘のように冷え始めた。
 一糸纏わぬ姿で覗いてきていたのは妻の侍女だった。数日前に身体の関係を持って以来、二日と経たずに訪れてきた侍女を組み敷いたのは自然な流れだった。調べろとは言ったが、本当はマチアスとリリアンヌの関係などどうでもいい。どうせこの侍女が探った所で何も出てはこないだろう。それでも侍女は気まずそうに到底報告とは言えない報告を持って夜分に現れた。内容のない報告を聞いたあと当たり前のように身体に振れると、侍女は困った素振りをしならがも口元を緩ませていた。
 今までに出会った女は皆そうだった。身持ちが固い振りをしても、褒美を前にちらつかせればそれに飛びついてくる。王族という生まれ持った肩書きに加えこの容姿、そして資産を前にすれば手に入らない女はいない。現に何人もの女達が愛人関係になる代わりにそれなりの望みを叶えていった。今更妻の侍女に手を出した所で誰も気にはしないだろう。
 ブリジットと離れて以降、心も身体も枯渇し、どうやって息をしていたのか、どうやって笑っていたのか、どうやって手足を動かしていたのかが分からなくなってしまっていた。どれだけ他の女に愛を囁かれても、抱いてもこの焦燥感が消える事はなかった。

「何かお飲み物でもお持ち致しますか?」
「帰れ」
「ですが酷くうなされておりました。お着替えもしなくてはお風邪を召してしまいます」
「お前は有益な情報を持たぬままよくもここを訪れる事が出来たな。それとも、その貧素な身体を差し出せば許されると思ったのか?」
「……滅相もございません! ですが本当にリリアンヌ様とマチアス様はあれ以降接触はなく、本当に何も出てこないのです」
「ではあれが最初で最後だったと、それが最終報告だな?」

 最終という言葉にマリーは黙り込んだまま、そっとリアムの胸に触れた。その手が勢いよく振り払われる。弾かれた手を驚きながら見たマリーは怯えたように後ろに下がった。

「そんなに子種が欲しいならくれてやる。そのままリリアンヌの元に戻るがいい。お前の主人はどう思うだろうな? 何年も恋い焦がれている自分の夫に侍女のお前が抱かれていると知ったら」
「お許しください! そんな事が知られればリリアンヌ様に殺されてしまいます」
「ならば私は殺さないとでも? お前のようにすり寄ってくる女は数え切れぬ程いるのだ。もっと容姿も身体も美しい者達だ。一度や二度抱いてやっただけで己だけは特別だと思ったか?」

 ガタガタと震え出すマリーの腕を掴むと、うつ伏せに組み敷いた。

「どうせ先程の余韻ですぐに私を受け入れるのだろう?」

 そうして自身の陰部を擦り付けると、小さく喉の奥で笑った。

「怯えた表情も作り物だという訳か。どうやらこの口は正直なようだ」

 マリーが首を振るのもお構いなしに、リアムは乱暴な腰つきで一気に突き入れた。

「いや――! 離して、お許し下さい!」

 マリーは唇を噛み締めながら息をするのも忘れてシーツを握り締めた。何度か激しく打ち付けられた後、ぶるりと震えたリアムはゆっくりと自身を抜き取り、マリーの秘部を掌で押さえた。

「一滴たりともこぼすでないぞ。お前の大事な金を産む子種なのだからな。これをリリアンヌに見せろ。泣いて欲しがるかもしれないぞ」

 そしてだらりとしているマリーの腕を掴むと服を押し付けて扉を開けた。

「ここへはもう二度と来るな。次にその顔を見せたら命はないと思え」

 閉められた扉の前で、マリーは放心したまま服に腕を通した。

「……お前が子を宿す事はない。絶対にな」

 リアムはそのままソファに倒れ込むようにして、目を瞑った。




「まさかこんな夜更けに兄様の私室から出てくる者がいるとは、正直驚きだよ」

 飛び退くようにして動いた瞬間、マリーの足の付根からとろりとした物が流れ出てくる。月の光に照らされた柱から背を起こしたのはマチアスだった。

「マチアス殿下ッ。失礼致します」

 足早に去ろうとしたその手首を掴まれ、マリーは動けなかった。そのまま手は強引にスカートの中に入り、太ももをさすっていく。そしてとろりとした体液を掌で掬うと、目の前で見せつけるように握ってきた。

「これは酷い裏切りだと思わない? リリアンヌ様が知ったらどう思うかな。君殺されちゃうよ? あ、君だけじゃなくて家族全員かな?」
「こ、これは、違います。リアム殿下の物ではございません」
「別に僕は誰の物とも言っていないけれどね。これだけじゃあ実際誰の物かは分からないし」

 マリーはもう立っている事が出来ずにその場に座り込んでしまった。

「別に誰を抱くのも構わないんだけれど、子を作られるのは困るんだよね。だから子種をもらってしまった君は仕方がないけれど消えてもらわなくちゃ」
「お、お待ち下さい! このような事は今回が初めてなのです! リアム殿下はいつも外に……」
「だそうだよ、リリアンヌ」

 柱の影から出来てきたのは、青白い顔をしたリリアンヌだった。

「この所そばに控えていない夜があるから心配していたのよ、マリー」
「ヒッ! リリアンヌ様、申し訳ございません!」
「まさかリアム様にちょっかいを出していたなんてね。あの屋敷にいた衛兵とは会えなくなってしまったから、寂しかったのかしら」
「私はリアム殿下に脅されていただけです!」
「それじゃあ君は無理やり兄様と関係を持ったというのかな?」
「そうです! そうでなければリリアンヌ様を裏切るなど決して致しません」
 リリアンヌは無表情のまま近づくと、マリーの強ばる頬にそっと触れた。

「リアム様の触れた頬、唇……」

 リリアンヌの乾いた唇がマリーの頬に、唇に、首筋に落とされていく。そして細い手がマリーの乳房を形が変わる程に掴み上げた。

「いたッ! リリアンヌ様、お止めください……」
「リアム様もこの胸に触れたのでしょう? ならば私も」

 勢いよくブラウスを引きちぎると、リリアンヌは溢れた乳房を両手で掴んだ。

「リアム様はどうやって触ったの? 言いなさい!」

 強い力で揉まれた手がやがて頂きをきつく摘み上げた。

「ん、いやぁ!」

 その瞬間、頬が大きく打たれる。マリーは横を向いたまま放心していた。

「そんな娼婦のような声でリアム様を誘惑したのね!」

 リリアンヌは胸元から小型の短剣と取り出すと、そっと鞘を抜いた。その短剣は掌に収まる程に小さい観賞用の美しい宝飾品が付いた品だった。

「これはね、護身用にもならない位に小さいけれど、こうして喉を搔き切るくらいは出来てよ」

 月の光を受けて輝いた刀身が目の前に迫る。マリーは震えながらその場で失禁した。

「そこまでだよ。剣を収めて」
「邪魔をしないで! こいつは生かしてはおけない。万が一にもリアム様のお子を宿すかもしれない者を放ってはおけないのよ!」
「ですから後は僕にお任せてよ。あなたが満足するようにしてあげるから。下賤の集まる町の娼館に売り飛ばすというのはどうだろうか。汚い娼館で兄様の事など思い出せない程に滅茶苦茶にされてしまうんだ」
「お止め下さい! どうかそれだけは! リリアンヌ様どうかお慈悲を!」

 目が合ったリリアンヌは、初めて表情を崩して笑った。

「それはとてもいい案ね。でも私は何も知らない。そうよね?」
「もちろんですとも。さああなたはもう部屋にお戻りください」

 通り過ぎていく長い夜着の裾を思い切り掴んだ。

「離しなさい! この……」
「リアム殿下はお二人の情事をその目でご覧になられております」
「よくもそのようなでたらめを!」

 蹴られた身体が廊下に倒れる。マリーはとっさに半身を起こしながら乱れた髪の隙間からリリアンヌを見上げた。

「嘘ではありません! お疑いなら直接ご確認ください。リアム殿下の悲しみを私がお慰めして差し上げたのです」

 リリアンヌの足がマリーに振り上げられる。それを止めたマチアスはリリアンヌをマリーから引き離した。

「戯言に耳を傾けるものではないですよ。さあもう部屋にお戻り下さい」

 まだ何か言いたい様子のリリアンヌを戻らせると、二人きりになったマチアスはマリーの頭に触れた。

「リリアンヌ様の手前、娼館に売り飛ばすなどと言ったがそんな事はしないよ」
「本当ですか?」
「本当だとも。だってそれでは子を身籠ったと言って、万が一にも君が戻ったら大変だからね」

 マリーの下にじわじわと黒いシミが広がっていく。叫び出す寸前、マチアスの手が口を塞いだ。荒げる息にこぼれていく涙で手が濡れていく。

「ああ勘違いしないでおくれ。僕は何もしていないよ。君自身が呼び寄せたんだからね。リリアンヌ様を傷つけてはいけなかったのに」

 マリーの恐怖に満ちた視線が下に向く。そして飲み込まれるように、音なくトプンッと沈んでいった。床に出来ていたシミは嘘のように散って消えていく。マチアスは廊下から見える塔に視線を移した。そして窓に映っていた人影と共に灯りも消えたのだった。




 昼過ぎの慌ただしい執務室に中、最後の書類に国王の代理として預かった印章を押し、次官に渡した所でマチアスが入ってきた。何食わぬ顔で近づいてくると人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「少し休憩に致しませんか?」
「見ての通りまだ仕事中だ。休憩なら一人でしろ」
「いやだなあ、兄様が休まないと意味がないじゃないですか。リリアンヌ様とダニエル様の事もご報告したいですし。妻子の様子を片手間に聞くおつもりですか?」

 笑みとは裏腹にたまに有無を言わせない所があるマチアスに根負けすると、周囲にいた文官達にも休憩を取るように言った。
 二人きりになった執務室で、マチアスは優雅に紅茶に口を付けると小さく笑った。

「それにしても兄様もお大変ですね。陛下がお倒れになってからというもの眠っていらっしゃいますか?」
「あまり大きな声で言うな。陛下はただ過労で休まれているだけだ。会いには行かないのか?」
「僕が行っても嬉しくないでしょう?」
「そんな事はない。陛下はお前を可愛がっていたじゃないか」
「生憎そういった記憶は持ち合わせておりませんが、よく母に似ていると仰る時だけは笑顔を向けてくれていたと思います」
「……それでも笑顔を向けられていたのならましだ」

 マチアスは共感できないと言わんばかりに首をひねった。

「自分に向けられていない笑顔ならいらないでしょう? それで、兄様はいつまで黙っておられるおつもりですか?」
「なんの事だ」
「あの晩、塔にいらしたのでしょう?」

 カップの取っ手を掴もうとした手が止まった。

「あの晩とは?」
「嫌だなぁ。僕とリリアンヌ様の事ですよ。見ていたのでしょう? 気が付かないとでも思いましたか?」

 リアムはかっとなって立ち上がったが、マチアスは机の上にある菓子を一つ頬張った。

「問題ないですよね? だって兄様とリリアンヌ様は八年も前に関係は終わっているのですから。それとも、八年間も指一本触れずに軟禁していた妻でもやはり大事ですか?」
「兄弟で女を取り合うなど周りに知られたらどうするつもりだ。お前ならリリアンヌではなくとも、相手はいくらでも見つかるだろう!」
「それは兄様も同じですよね。一体この八年間でどれだけの女性と関係を持ってきたのですか? ダニエル様のご兄弟が密かに生まれているかもしれませんよ」
「マチアス、口を慎め!」
「自分はよくて妻は駄目なんて、それはリリアンヌ様があまりに可哀想ですよ。現に子を産んで妻の役目を果たした者は、第二の恋愛をして楽しむという貴族も多いのですからね」
「あれは王太子妃だぞ。他の貴族とは訳が違う。それくらいお前でも分かるだろう!」

 もう一度こくりと紅茶を飲むと、残念そうに天井を仰いだ。

「だってリリアンヌ様があまりに可哀想で放っておけなかったんですよ。兄様ったら聖女が戻ったらすぐにリリアンヌ様をお捨てになるから」

 リアムはその場に立ち尽くしたままマチアスを見下ろした。

「……もしやお前達は、八年前からなのか?」
「さあどうだったでしょうか。でも僕が相手にならなければ、きっとリリアンヌ様はそこらの兵士か使用人と関係を持っていましたよ」
「それならダニエルは……」
「それは分かりません。でも良いではないですか。どちらにしても王族の血を引いているのは間違いないのですから。良かったですね!」

 にこりとそう言うマチアスに、リアムは口を押さえた。

「お前はどうして平然としていられるんだ? もしかしてリリアンヌを愛しているのか?」

 するとマチアスは大きな笑い声を上げた。

「兄様ったら意外と純情ですよね。さっきも言ったように、僕はただリリアンヌ様が可哀想だと思ったんです。だってリリアンヌ様ったら、陛下に捨てられた僕の母様みたいじゃないですか。そしてダニエル様は幼い頃の僕。僕そのものに見えません?」
「陛下はお前の母を捨てたのではない。守ろうと……」
「誰から? 誰から守ろうとしていたのでしょうか」

 ぐっと押し黙ったリアムはそのままソファに力なく座った。

「……私の母からだ。母は陛下の寵愛を一身に受けるお前の母に激しく嫉妬をしていた。だから身を守る為に、あの塔へ身を移させた」
「分かっていますよ。誰も悪くはありません。もちろん兄様も。誰もが皆愛されたいと願っただけなのです」
「ダニエルもお前のように考えているのか」
「ダニエル様とリリアンヌ様なら大丈夫ですよ。本当はずっとこのお話をしたかったのですが、お二人は最初こそ緊張されておられましたがすぐに打ち解け、良い関係を築いておられます。やはりご一緒に暮らせるようにして良かったですね。お許しくださった兄様のおかげです」
「……お前のおかげだ。あの二人の事はお前に任せる」
「やはりお会いにはなりませんか?」
「今更会って何になるんだ。ダニエルには母がいる。そしてお前も。それだけで十分だろう。私は聞くまでもなく父親失格だ」

 マチアスはそれ以上は何も言わずに、菓子を一つ口に放り込んでいた。
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