聖女だった私

山田ランチ

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21 祈りの儀式

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 呼吸さえも反響してしまいそうな静寂の中、ハイスは泉の前で一度深呼吸をすると居住まいを直して膝を突いた。
 しかし心を鎮めて祈りに集中したいと思えば思う程、パトラトの言葉が脳裏を巡り意識を散らしていく。その度に心を無にしようとするが、再び思考は勝手にあちこちへ飛散していくのだった。
 パトラトの娘レベッカはまだ少女のような年だった。おそらくレベッカの純潔を奪ったのもリアムなのだろう。初めて身体を捧げた男があれだけの見目をし、更に王太子であれば熱を上げるなという方が無理なのは分かりきっている。自らの欲を若い娘に向け弄んだだけでなく、子が出来たら産んではいけないというのはあまりに酷ではないか。そして続くレベッカの失踪。しかしリアムならばレベッカを連れ去らなくとも、王族に不敬を働いたと堂々と捕らえる事も出来る。どちらにしても誰にも表立って王族を糾弾出来る訳がなく、今回レベッカの消息が分かった所で出来る事はないようにも思えた。

――祈る事は生きる事。

 思えば祈り始めたのは物心ついた頃からだった。貴族では珍しい事ではない。信仰熱心な母親に連れられ、幼い頃から神殿へは足を運んでいた。それでも母親は聖女に選ばれる事も神官になる事も、もちろん聖騎士としての力を授かる事もなかった。ただ毎日一心に祈っている姿が印象深く、いつの間にか母親の気持ちを知りたくて見様見真似で祈り始めたのだった。
 いつしか幼い頃の記憶が意識を追い越していく。進むがままにしていると、やがて見覚えのある小さな家と沼地に行き着いた。沼地は誰が見てもどろりとして陰湿だったが、そこにいた少女だけは違っていた。その日少女は仕事に行っている祖母を待っているのだと言い、ずっと沼地のそばでしゃがみ込んでいた。なぜ沼地のそばにいるのか聞くと、少女は不思議そうな顔をした後おかしそうに笑った。

――見てこの泉、人が住んでいるよ!

 慌てて覗き込んだ沼はやはり沼でしかなかった。

――どうしてそんな嘘を吐くの?
 こんなに綺麗な泉なのに。

 ハイスが慌てて手を伸ばそうとした瞬間、ぐらりとよろけた身体を支える為に目を開けてしまった。足早に近づいてきたグレブの差し出された腕を掴んで身体を支えた。

「どのくらい経った?」
「まださして経っておりません。ですがご様子が少し妙でしたので近くに待機しておりました。ご気分が優れませんか? やはり視察続きでお疲れなのですよ」
「そうだな。少し休んでからの方が良さそうだ」
「いいえ、まずは十分に休息して頂きます! これ以上は許容出来ません!」

 きっぱりと言い切られ、ハイスは苦笑いしながら立ち上がった。

「パトラト殿には悪いが休んでからにしよう。お前の言う通りこのまま続けてもきっと望むものは視えないだろうからな」
「そもそも人探しが出来ていれば、ハイス様はとっくにあの御方を探し出していますよね。っと、すみませんでした」

 気まずそうに俯くグレブの頭をぽんと叩くと微笑んで見せた。

「本当に、俺にその力があれば良かったんだがな」




 それから目が覚めたのは半日以上経ってからだった。
 ぼやけた頭の中で、一体今がいつなのか知ろうと意識が彷徨っている。そして不意に飛び起きると、外はとっぷりとした暗闇に沈んでいた。思わず身震いをする程の漆黒の闇に、うっすらと開いていた窓を閉めに立ち上がる。そして硝子に映る自分の姿にふと手を止めた。
 八年の歳月は思っている以上に人の姿を変える。青年だった聖騎士団長はもういない。今はそれなりに年を取った臆病な自分がいるだけ。あの頃は怖いものなどなかった。ブリジットと旅をしている時も、盗賊や野盗と出くわした時も恐ろしさはなかった。それはリアム達王族と対峙した時もそうだった。今思えば捕らえられても仕方ない事をした自覚はある。そして公爵家当主だった父親にも、当時の神官長にも迷惑をかけた。それらが分からなかった訳ではないが、勢いと熱意さえあれば相手にも通じると思っていたし、それなりに頭は回る方だと思っていたから王族相手でもなんとかなると思っていた。
 でも実際はどうだろうか。リアムの知略に負けてブリジットを失ってしまった。あの時、リアムがブリジットを囲っている振りだと少しでも疑う事が出来たなら結末は何か違っていただろうか。それでももし神官長になっていなかった時になりふり構わずに塔へ踏み込んでいたなら、きっとこの身は今ここにはなかっただろう。八年の間に変化したのは見た目だけでなく、心もなのかもしれない。神官長と公爵家当主になって、剣を振るうよりも議論をしている方が長くなり、頭はすっかり固くなってしまった。行動する前にあれこれと考えが先立ち、結局は頭の中で打ち消してしまった考えが幾つもある。そして慎重なのは立場上必要だから仕方がないといつも自分に言い聞かせた。

 今日の祈りでもそうだった。パトラトに頼まれたから、自分は神官長なのだからきっと精霊が答えをくれるだろうと。そして毎晩願うのは、ブリジットはきっとどこか知らない土地で幸せに暮らしているんだろうという事だけだった。
 八年前、どれだけ探してもブリジットの遺体を見つけられなかったハイスは、ブリジットはどこかの土地で幸せに暮らしているという結論に行き着く事にした。到底死んでいるとは思えなかったからだ。ブリジットの遺体だけがずっと下流に流されたのかと川を下っていったが、結局国境を越えて流れている川の捜索はそこで打ち切らざる負えなかった。それでも水門付近にも遺体はなく、放心したまま帰城した自分の心を奮い立たせるにはそう思い込むしか方法がなかった。そして傷付いた心にそっと蓋をした。

「ハイス様? お目覚めですか?」

 控えめに扉が叩かれた音に返事をすると、遠慮がちに入ってきたグレブが入ってきた。

「どうかなさいましたか?」
「今晩は新月なのだと思ってな。通りで暗いはずだ」
「そうですね、こんな晩は大人しくしているのに限ります。お食事をお持ちしましたがいかがされますか? と言っても真夜中なので消化に良いものですが」
「お前が作ってくれたのか? 料理は苦手だっただろうに」
「あ、いや、そうですね。実は使用人が一人起きていまして、その者に作ってもらいました。初めて見る使用人でしたが、ずっと作る所を見ていましたからご安心下さい」
「せっかくだからもらうよ。実は腹が減っていたんだ」
「物思いに耽るなんておかしいですから止めて下さい」

 安堵したように廊下からカートを押してきたマルクは手早く机の上に軽食を並べ始めた。

「これはまた随分と、軽食だな」

 ハイスの目の前に並べられたのは、皮をうさぎの耳に飾り切りされた林檎に、さっと表面を焼いただけの薄いパン、それとやけにとろけた野菜のスープ、そして藻らしき物と生野菜のサラダだった。

「もしや神殿の食料庫は空に近いのか?」

 マルクは首を振ると、少し困ったように自ら並べた料理を見下ろしていた。

「料理をしてくれた使用人ですが、どうも火が苦手みたいであまり焼いたり煮たりは出来ないようなのです。辛うじてスープは具材を切って入れ火にかけるだけなので出来ましたが、今度は様子を見る事をしないので、結局具材がほとんどぐずぐずに溶けてしまったんですよね」
「まあこれはこれで野菜が溶けていて美味そうだが、そうか。まだここに来て間もない者だろうか。誰にでも得意不得意はあるからな」
「若い娘でしたが、あそこまで火が苦手なのも問題のような気もしますけれどね。まあ使用人の管轄は私ではないですが、あとで料理長の方にでも話しておきます」
「何か恐ろしい目に遭って苦手になっているかもしれないし、これからは慎重に配属について決めていこう」
「そこまで考えられたらあなたはあと少しで過労死しますよ! 使用人の事は使用人頭に任せてください。私からも話しておきますから!」

 ハイスはぐいぐいと背中を押されながら席に付くと、可愛く切られたりんごを申し訳ない気持ちで一口で頬張った。

 食事を済ませ、再度挑戦した祈りの儀式はまたもや失敗に終わってしまった。
 呆然としたまま目を開けて凪いでいる水面を見つめる。たった今視えたのは、前回の続きで昔の記憶にあるあの小さな家だった。そして今度は事もあろうに自分の視たい妄想が反映されていた。小さな家の中にはブリジットがいた。そしてそのそばには同時期に失踪したネリ―の姿も。二人共年は取っていなく若々しいまま。机には先程自分が食したのと同じような料理が並んでいる。一つ違うのはそこにはブリジットに似合いの可愛らしいお菓子が皿一杯に置かれていた事だった。しばらく二人の自由な姿を視ていると、その妄想はいつの間にかかき消されるように立ち消えてしまった。がくりとしたまま両手を地面に突く。祈り出してからさほど経っていないのだろう。まだマルクも側に控えていないようだった。本来はかなり長い間無心で祈り続ける。それこそ身体の不調も気が付かないほどに。だからこそ祈り終えて覚醒すると、固まった関節や突いていた膝が悲鳴をあげるのだ。座って祈ってもよいが、膝立ちの方が無心になり祈りに入り込みやすい。だからこそ、その後の痛みは仕方のないものだった。

「私はまだブリジット様を求めているんだな。しかしこのままでは神官長としても公爵家当主としても役立たずのままだ」

 半ば自嘲気味に笑うと、一人祈りの間を後にした。
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