聖女だった私

山田ランチ

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17 聖女が去った世界では……

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「いや――! あの女がいる! 今あの女が立っていたの! 殿下を呼んで頂戴! お願いだから殿下を連れて来て!」

 たった今までぐっすりと眠っていたリリアンヌは、半狂乱になったように扉を激しく叩いていた。

「リリアンヌ様、いかがなさいました!」

 部屋に飛び込んだ衛兵を恐ろしい形相で睨みつけると乱れた夜着も気にする事なく、その胸倉に掴みかかった。

「お前はまたなの! 何故あの女の侵入を許すのよ! 仕事をしないなら殺してしまうからね!」

 リリアンヌが指差しているのは寝室の方。さすがに男一人で王太子妃の寝室に足を踏み入れる訳にもいかずに戸惑っていると、声を聞きつけた侍女が走ってくる。抱えるように衛兵の胸倉を掴んでいるリリアンヌの手を取るとその背を擦った。 

「マリ―! 奥にあの女がいるの! 早く捕まえて頂戴!」
「大丈夫ですよ。今確認してもらいますからなんの心配もございませんよ」

 マリ―と呼ばれた侍女は衛兵に頷くと奥の寝室に入るよう促した。
 案の定寝室には誰もいなかった。衛兵が部屋を出てもリリアンヌの叫び声は明け方近くまで止まる事はなかった。

「夜また王太子妃様が騒いだって? 八年も経っているのによほど聖女様が忘れられないんだな」

 見張りの交代に来た衛兵がげっそりとした同僚と持ち場を交代した後、部屋から出てきたマリ―に声を掛けた。マリ―は大量の洗濯物を持ち直しながら深い溜息を付いた。

「大量のお酒を飲んで思い切り嘔吐されたわ。殿下をここにお呼びするようにと、気を失うまで叫んでいらしたの。そもそも真夜中にいくら呼んだってここに殿下は来ないわよ。だって王都から離れた離宮だもの。ここに王太子妃様を移して以来一度だってお見えにならないじゃない。このままではリリアンヌ様の御身がご心配だとお城に連絡を入れてみようかしら」
「それはお前の首が飛ぶな、うん。間違いない」

 マリ―はぎょっとした顔で首を振った。

「確かにそうね。寝不足で頭がおかしくなっていたみたい」

 衛兵がうんうんと頷きながら途中までマリ―の後を追っていく。

「確か今の愛人は宝石商の娘だって? 貴族は見返りが面倒そうだもんな。その点は庶民の方がいいか」

 するとはマリーは衛兵の腕を小突くように辺りを見渡した。

「それはさすがにまずいわよ。誰かに聞かれでもしたら……」
「誰に聞かれるって言うんだよ。ここには限られた使用人しかいないんだ。お前も大変なお役目を押し付けられたよな。実家から連れて来た侍女しか受け入れないとか、どれだけ我儘なんだか」
「私もあの日ここに追放されたようなものね。聖女様が王太子妃になっていたら何か変わっていたのかしら」
「でもリリアンヌ様にはご子息のダニエル様がいらっしゃるじゃないか。せめて一緒に暮らせたらあの症状も落ち着くと思うんだけどな」
「静かに! その名前は出しては駄目よ!」

 マリーは再び落ちようとするシ―ツを抱え直すと声を潜めた。

「王太子妃様はダニエル様の事を覚えていらっしゃらないの。あなたが来る前にリリアンヌ様の前でその名を口にした侍女が一人消えたんだから」
「消えたって、ころ……」 

 マリ―はシ―ツを衛兵の口元に押し付けた。

「分かったって! 気が滅入る話はこのくらいにしてさ」

 シ―ツを払いながらそう言った衛兵の顔つきは先程とは打って変わり、大きな身体でマリーを壁に押しやっていく。二人の間を隔てる物は抱え込まれたシーツだけ。その幅が更に圧されていく。

「今は仕事中だから止めてよ」
「誰も見てないさ。それに本当に止めてもいいのか?」

 諦めたように目を閉じかけた瞬間、廊下の先から足音がして二人はそれぞれ逆方向へと足早に離れていった。


 

 部屋の中では、声が枯れかけた女の艶めかしい喘ぎ声が響いていた。頂上にあった太陽はいつの間にか傾き、窓からは橙の光が強く差し込んでいた。
 リアムはぐったりとしたまま動かない柔らかく少し肉付きのいい腰を持ち上げると、再び滾って熱くなった自身の物を女の蜜口へと乱暴に押し進めた。

「あぁん! 殿下!」

 恥じらう事なく廊下まで聞こえる声で喘ぐ女に使用人達は辟易としていた。殿下と敢えて呼び続けるのは、今自分を抱いているのは王太子なのだと周知したいのだろう。愛人との逢引、ましてや権力者ともなれば本来なら隠して行われる事こそが暗黙の了解であるにも関わらず、あの娘は姿こそ現していないが全てを逐一言葉にしていた。使用人達が声を聞きながら、もうそろそろだろうと準備を始めていると、ほどなくして扉が開いた。
 今の今まで愛人との情事に耽っていたとは思えない程にきっちりと服を着こなした王太子は、まもなく三十とは思えない程に老け込んでいた。金色の髪には白髪が混じり、瞼は落ちている。しかし容姿端麗なのはそのままに、どこか疲れを滲ませたその姿は哀愁が漂っていた。たまたま顔を上げてしまった使用人の女は不覚にも、先程まで聞いていたこの家の娘の声と王太子の姿が重なり、頬を赤らめて俯いた。ふっと笑い声が頭上を通過していく。王太子の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

「泊まっていってくだされば宜しいのに」

 甘ったるい声を出しながら薄いガウンだけで出てきたこの家の娘であるレベッカは、あどけなさを残しながらも発育の良い胸を無造作にリアムの腕に押し付けながら、とろんとした表情でしながれかかった。庶民とはいえ宝石商の家の娘であるレベッカは、そこらの男爵や子爵家の貴族令嬢よりも身なりには気を配り美しくしている。残念なのはやはり貴族ではないからか教養に欠けていた。
 だからこうして自分から王族に触れるのが無礼に当たるとは思いもしなかったのだろう。しなだれかかるその身体を払い除けたリアムは、たった今情愛を交わしていた相手に向けるものとは思えない冷淡な表情でレベッカを見下ろした。

「お前とはこれで最後だ。お前の父親にもそう話をつけてある」
「……どういう事ですか。私を愛しているのでしょう?」

 すると、リアムは鼻で笑った。

「愛している? そうだな、その身体は愛していたよ。でもお前は若過ぎたようだ。私を引き止めたいのなら趣向を凝らさなくてはならなかったな。若さにかまけて努力を惜しんだようだ」
「どのような趣向です? これから一層励みます! 殿下お願い捨てないで!」

 腕にしがみついたその手を今度は払う事なくじっと見つめ、小さく呟いた。

「本当にお前は自分の立場を分かっていないようだ」
「でも私は殿下の恋人では……」

 その瞬間、激しい足音を立てて階段を駆け上がってきたこの家の主は、王太子に掴みかかっている娘の姿を見るなり、顔を青くして娘に体当たりするように二人を引き離した。

「申し訳ございません殿下! どうかお許し下さい! 私の教育が足りなかったのです。どうかお許し下さい!」
「お父様!私嫌よ、殿下が好きなの、別れたくないわ!」
「お前は黙っていろ! 殿下は我が商会の後ろ盾になって下さったのだ。それにお前の嫁ぎ先もご用意して下さったんだぞ。お礼を申し上げろ!」

 レベッカは言葉を失い、庶民にしては珍しい艷やかな金色の髪を乱れさせたまま立ち尽くした。

「そうだな。お前はこれから嫁ぐ訳だし、最後に一つ私から贈り物をしてやろう」

 するとレベッカは期待み満ちた表情で縋りつこうと手を出した。しかしその手も父親に押さえつけられてしまう。

「お前はもう少し声を抑えた方がいい。うるさくてかなわない」

「ブッ」

 その時、使用人の中の誰かが吹き出した。目に涙を溜め、顔を真っ赤にしたレベッカの視線が周囲を睨みつける。そして父親に押さえつけられていた腕はだらりと下に垂れた。

「それでは後日契約書を届けさせよう。問題がなければその場で署名をしてくれ」
「かしこまりました。ありがとうございます! これで我が商会も今度他国とも交易が出来る大商会となりましょう。必ずや殿下のご厚意に報いてみせます!」

 リアムは頷くだけの返事をすると屋敷を後にした。リアムが帰った廊下で、レベッカはその場に座り込んだまま動く事はなかった。

 その数日後、レベッカは忽然と姿を消した。窓は閉まったまま、部屋の扉は開いていたが多くの人々が慌ただしく行き来する商会兼住居の屋敷では、レベッカに意識を向けている者は少なく、出て行ったのか、誘拐されたのか誰一人として分からなかった。
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