聖女だった私

山田ランチ

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9 追放された聖女

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 ハイスは外に出ると思わず冷えた空気に空を見上げた。晩餐会の後、父親との話し合いが延び、城を出た時にはすでに外は真っ暗になっていた。

「父上の方はこれで大丈夫だな」

 晩餐会と、父親との話し合いのせいで疲れていてもおかしくないはずなのにこうして星空を見上げる余裕がある。ブリジットの事を思い出して無意識に頬が緩んでいた。

「もう休まれただろうか」

 邪気についてはどの国でも長年研究が進められていた。とは言っても分かっている事は昔からさほど変わってはいない。遥か昔からこの世に存在し、邪気と呼べば容易いがその正体はまるで謎。発生する場所は多かれ少なかれ人のいる場所。だから邪気の発生する場所には必ず人がいる。そして邪気は人を襲い、命を奪ってしまうのだった。邪気に包まれた人はその黒い霧の中でしばらく苦しむ。そしてそのまま息絶えるか、命が助かっても廃人のようになりやがて自ら命を断つ。だから霧の中で何が起きたのかは誰にも分からない。そして更に限られた者達しか知らない事実があった。

 邪気は人の考えを読む。

 読むといえば語弊があるが、邪気は人の感情を嗅ぎ取り、より邪な考えを持つ者の方へと近づいていく習性があった。だからこそ邪気と対峙する時には己の内面が晒されたように感じられ、逃げ出してしまいたくなるのだ。その事実は聖騎士団でも知っているのは自分だけ。あとは神官長と国王の三人のみだった。その事実を公表すれば、邪気に襲われるのは邪な考えを持つからだという間違った解釈が広がってしまうかもしれない。邪気が正当化される事があっては絶対にならない。わざわざ恐怖を増殖させたくないという、判明した当時の神官長の判断で代々受け継がれてきたものだった。
 ハイスはコートの襟元を上げ直すと、待たせている馬車に向かって駆け足で階段を降りた。その時視界の端にもう一台神殿の馬車が目に留まった。中を覗くと誰もいない。嫌な予感がして今出てきたばかりの城に踵を返した時だった。

「ハイス様!」

 神殿の御者は大手を振りながら寒いと言って腕を抱き込みながらこちらに走ってきた。

「私は一体いつまで待てばいいのでしょうか? 多分今日はお城に泊まられますよね? 朝一番にお迎えに上がるという事でも宜しいでしょうか?」
「待て待て、お前は誰の事を言っているんだ?」

 御者は目を丸くして答えた。

「誰って、聖女様です。ハイス様が外出の許可を出されたんじゃないんですか?」
「まさかブリジット様は今ここにいらっしゃるのか?」
「はい、てっきりハイス様もご存知とばかり……」
「ブリジット様には神殿から出ないようにお話していたんだぞ!」

 御者の顔がみるみるうちに強張っていく。ハイスはすぐに城へと駆け足で戻って行った。




 カビ臭い部屋の中。連れて行かれたのは籠もった空気が満ちている塔の一室だった。付き添っているのは終始無言の若い侍女。黒髪に黒い瞳の可愛らしい顔立ちだが、無表情のその顔が人形のように思える。そしてその後ろには女の兵士。リアムは徹底的に男を排除したらしい。拘束されないのは到底逃げられる訳がないと思われているからだろう。促されるままに部屋に入ると、そこまで狭くはないものの閉鎖的な空間だった。明かりは侍女が持っていた蝋燭のみ。机の上に置かれた燭台に火を移すと、足音が遠ざかった。

「待って! リアム様と話をさせて! お願いだから!」

 それでも侍女と女兵士は一言も発さずに部屋から出て行ってしまった。
 六角形の部屋の中には絨毯が敷き詰められ、その上には机と椅子。そして届かない位置に小窓が一つ。そして寝台も備わっていた。まるで誰かが住んでいたような形跡に恐ろしさを感じてしまう。リアムが自分を閉じ込める為に作ったにしてはあまりに古い気がした。

「ハイス様、ネリ―、勝手をしてごめんなさい」

 きっと今頃心配しているに決まっている。ハイスが何故部屋を出ないようにと言ったのかは分からないが、聡い人だからきっと自分には見えないものが見えていたのだろう。ハイスがいち早く察知してくれたというのに自分から赴き、いとも簡単に捕まってしまった馬鹿さ加減に苛立ちを覚えていた。でもきっとリアムの頭が冷えればこんな事は間違っていたと気がついてくれるはず。とにかくリアムが訪れた時に話し合いをするしかなかった。

 しかしリアムはそれから数日過ぎても塔に訪れる事はなかった。


 食事はきちんと運ばれてくるし、桶でだが湯浴みをさせてもらう事も出来る。運ばれてくる食事は一日に三回。その他にお茶の時間もあり、以前リアムとの茶会で食べていたケ―キも出されたが手は付けなかった。塔の壁が厚いのかそれとも静かなのか、外の音は何も聞こえてこなかった。まるで世界には自分しかいないように思えてきてしまう。この塔にきて四日が過ぎていた。
 侍女は相変わらず一言も話さずこちらを見ようともしない。五日目、一人の食事は味気ないとぽつりと呟いたのをきっかけに、侍女は今まで外で待っていたのを扉の内側で待つようになった。

「ごちそうさま」

 侍女は近づいてくると皿の上を見て手を止めた。その理由なら分かる。皿にはほとんどの食事を残していた。侍女は初めて心配そうに顔を覗き込んでくる。しかし言葉をかけてくる事はない。ブリジットは何も言わずに席を立つと寝台へ横になった。ちらりと侍女を見ると、侍女は扉の外で膝を突き手を胸に当てている。その姿はまるで祈りを捧げているように見えた。

「あなた……」     

 反射的に上げられた顔と視線が合う。その瞬間、扉は勢いよく閉められてしまった。
 翌日には更に食事を摂る事が億劫になり、三食分を合わせても一食に満たない程度しか食べる事が出来なかった。食事を残しているというのに盛られる量は変わらない。食べきれないから減らしてほしいと頼んだか、それが聞き入れられる事はなかった。塔に閉じ込められて七日が過ぎた時、前触れもなく扉が開いた。
 立っていたのはリアム本人だった。

「なぜ食事を取らないんだ。このまま死ぬ気か!」

 だるい身体を起こしてリアムをじっと見つめる。ようやく現れたのはこの牢獄に陥れた張本人。でもその本人の方が辛そうに見えるのは気のせいだろうか。

「お痩せになったのではありませんか?」
「ッ、答えろ! なぜ食事を取らない!」
「分かりませんか? 塔に閉じ込められているです。ここには光があまり入らず天気の悪い日はずっと薄暗いままです。動く事もないのにあれだけの量を食べられる訳がありません」
「……そうか。ならば広い部屋に移ろう。部屋の改装がまもなく終わるんだ。それまで私の私室で共に暮らそう」

 何を言われているのか分からなかった。ふらりと目眩がして起き上がった身体がぐらつく。すぐにリアムが走って手を差し出してきたがとっさにその手を跳ね除けていた。

「あの部屋に私を住まわすと、今そう仰ったのですか?」
「寝台はまるごと入れ替える。嫌なら別の部屋にしよう」
「お断り致します。リリアンヌ様はどうされるおつもりですか? ……リアム様のお子を身籠られているかもしれないというのに」
「あれは王太子妃になれるんだ。もう十分報いただろう。それよりも、私は今でもブリジットお前を愛している!」

 リアムの手が頬に伸びてくる。その手から逃れるように首を振った。

「それならどうして待っていて下さらなかったんですか!」

 城へ返ってきた時、ずっとその言葉を待っていた。ずっとこの手を待っていた。そう言いながら頬を撫で、優しく引き寄せてその胸に抱いてくれると。でも今はこんなにも嫌悪感が心を支配している。例え髪の毛の先でもリアムには触れてほしくない。振り払われた手は行き場を失ってはたりと落ちた。

「私をもう愛していないのか?」
「……お世継ぎが必要な王族や貴族の方々にとっては、複数の妻がいる事は当たり前なのかもしれませんが私には無理です」

 まっすぐ捉えたリアムの瞳が揺れているのが分かった。数秒見つめ合った瞳はリアムの方から外され、静かに立ち上がった。

「お前の気持ちはよく分かった。でも私も手放す気はない。お前は国民の平和の象徴だ。だから嫌でも城に留まってもらおう」

 そう言って静かに離れていく背中に思わず声を掛けていた。

「聖女の力を失っています!」

 リアムがゆっくりと振り返る。もう一度、その顔を見ながら告げた。

「私には聖女の力がもうありません」
「……誰かに身体を許したのか?」
「違います! そうではなくて最後の浄化で力を使い果たしてしまいました」
「嘘だ。聖女の力が失われるのは清い身でなくなったからだ! だからお前は聖女の力を失ったんだろう!?」

 言葉に詰まる。聖女の力に清い身は関係ない。でもそれを言ってしまえば晩餐会での国王やハイスの言葉を否定してしまう事になる。するとリアムは乱暴に伸し掛かってきた。一瞬にして視界が変わる。目の前にあるのは怒りを湛えたリアムの顔。その顔が近づくとぶつかるような口づけが降ってきた。乱暴に開かれた口に入ってくる熱いものが怖くて舌で押し返そうとする。しかし、更にその舌を吸われて絡ませて、気がつくと涙が溢れていた。やっと口を離された時には苦しくて思わず浅い呼吸を何度も繰り返していた。リアムの口元は艶かしく光っている。それがリアムと自分の唾液だと思うと激しい嫌悪感で吐きそうになった。その舌が首筋を舐め、耳朶を何度も這い、乱暴な手付きがブラウスの釦にかかる。ブリジットは思わずその手を掴むと、リアムはその手を掴み上に縫い止めてきた。腹に乗られて身動きが取れない。男性の拘束からは逃れられる訳もなくブラウスの釦が飛び散る。無造作に外気に晒された胸が震えた。リアムは迷う事なく乳房に吸い付いてきた。

「ブリジット、ずっとこうしたかった。私だけの……」

 拒絶の言葉も抵抗も、何もかも届かない。手がスカートの中に滑り込んでくる。そして誰にも触れられた事のない場所に手が触れた。

「いたッ」

 痛みで思わず身体が跳ね、強張る。驚いたように指の動きも止まり、そして躊躇ったのち抜かれた。恐ろしさと一瞬の痛みが消えずに身体は無意識に震えている。それでも、もう全てどうでもいいようにも思えた。

「……やっと私のものになる気になったか?」

 顔を上げたリアムから顔を逸らす。そして目を固く瞑った。

「どうぞ抱いて下さい。そうすれば私が清い身であるとお分かり頂けるはずです」
「そう言えば止まるとでも? 私はずっとこう出来るのを待っていたんだ!」
「それなのに他の方を愛したのですね。このまま抱かれたとしても、私があなたを想う事はもう二度とありません」

 倒れてきた髪が肌にかかる。

「……聖女の力を失ったお前はもう用済みだ。私が内密に馬車を用意するから、今後一切、王都に足を踏み入れないと約束をしろ」
「せめて神殿の人達には挨拶を……」
「もし会えばハイスを殺す。お前の侍女、ネリ―だったか? そいつも殺そう」

 ゆっくりと上げられたリアムの目は本気だった。

「……分かりました」
「出発は夜明け前だ」

 リアムの重さがなくなったところで、ゆっくりと目を閉じた。泣きたくなくて痛みにすり替えるように、シ―ツで何度も唇や首、冷えた胸元を拭いた。ふと動かしていた手に冷たい手が触れてくる。びくりとして構えたがそこに立っていたのは侍女だった。手には絞られた布を持っている。ブリジットはその布を受け取ると、リアムの触れた全てを拭いた。




 リアムの使いの者は告げた通りに現れた。

「最低限のお荷物は馬車の中に準備してありますのでそのままお越し下さい」

 そう言って従者は自らも被っているのと同じ黒いマントを寄越してきた。

「殿下より言付けです。今後一切神殿との関わりを禁止するとの事です。神殿の大きさに関わらずもし立ち寄れば、先程伝えた事を躊躇わずに実行するとの事でした」
「ハイス様もネリ―もウンディ―ネ様の信仰厚い神殿の者達です。危害を加えれば何が起きるか分かりませんよ。とはいえ私も約束は守りましょう」

 聖女の警告に使いの者は息を飲んだ後、頷いた。
 質素な馬車は夜明け前の暗い中をゆっくりと進み出す。車輪の音に馬の足音、時折聞こえる御者の声。冷えた空気に支配された馬車の中で、置かれていた毛布で身体を包むと、カ―テンの隙間から外を眺めた。寝静まった王都は妙に寂しげに見えた。家々の密集している場所から離れた所にある神殿の方へ視線をやると、不意に涙が溜まっていく。もう二度とあの場所には戻れない。もう大好きで大切な人達には会えない。真っ暗な中、たった独りぼっちで投げ出されてしまったのだ。
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