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〈番外編 粉々の初恋〉3 やっぱり好きな人
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「昨晩はすまなったな。お茶を持ってきてくれたんだろう?」
「お茶? なんの事ですか?」
「お前じゃなかったのか? お前だろう? なぜ嘘をつくんだ」
「お前お前うるさいですね。呼び出しておいてなんなんですか」
怪訝そうに眉を顰めるフランツィスから視線を逸らした。
「おま……グレタはしばらく第三皇太子の見張りをしてくれ」
「かしこまりました」
「決して必要以上に話はするなよ。要望も飲むな。ただ監視していればいい。あとは様子を逐一報告しろ」
「逐一ですか? 屋敷にいらっしゃらないのに?」
「しばらくは行ったり来たりするからその時で構わない。お前から見てあの二人をどう思う?」
「ご質問の意味が分かりかねます」
舌打ちと共に睨まれる。わざと言った自覚はある。フランツィスは勘違いでも、大事な妹と敵国の皇太子が恋仲かなど口にもしたくないのだろう。嫌悪が表情から滲み出していて、少し胸がすっとした。
「あの二人だよ。二ヶ月も共に暮らしていて何もなかったと思うか?」
「フランツ様はお嬢様をそんな目で見ていらしたのですか? 好いてもいない相手とどうこうなると?」
「そんな訳ないだろう! 俺はエーリカを信じている」
「そうです。お嬢様はフランツ様とは違うんですから何もありませんよ。お嬢様は陛下お一筋なのですから」
「最初の方は引っ掛かる言い方だな。でもなぜ陛下なんだ。いや、今となっては分かるが。でも裏でウジウジしているだけでエーリカには伝わっていないはずなのに一体どこを好きになったんだ?」
「人を好きになるのに理由なんかありますか? 恋には落ちるものなんです」
言ってはっと口を噤んだ。フランツィスの目が見開いた途端、すっと凍りついたように冷たくなった。
「お前は落ちた事があるのか?」
「……ありますよ。昔からお慕いしていた方がいました。でもその方はもうすぐ結婚してしまいますけれど」
返事は誤魔化す事も出来た。それでも今はそれをしたくなった。これが最初で最後の、精一杯の告白なのだから。身分違いにはこれが限界なのだ。
「そうか。もういいから下がってくれ」
「フランツ様ッ」
「今日はもういいと言っているだろう!」
部屋を出て扉に背をつく。
「そんなに嫌だったの? そんなに……」
そのままの足で部屋に行くと、走り書きのような筆跡で手紙を書く。勢いがなくては書けない気がした。
母親は領地へ戻った前当主夫妻に付き従って共に領地へと行っている。いち使用人が前当主へ直に手紙を書く事は出来ないので、母親を通していつの間にか立ち消えていた婚約の話をなんとか通してもらいたいという内容をしたためた。たかが使用人の手紙の為に馬を出すことは出来ずに、王都でアインホルン家の領地へ行くという隊商を見つけ、手紙を託すことにした。返事が返ってくるにはしばらくかかるだろうと思っていた。
しかしその手紙は思わぬ所から返ってきた。目の前には恐ろしく冷えた表情のフランツィスが立っている。そしてその机の上にはなぜか隊商に託したはずの母に宛てた手紙が封を切られた状態で置かれていた。何が起きているのか分からなかったが、ただ手紙を勝手に開けられたという怒りの方が今は勝っている。他の者ならば萎縮するだろうフランツィスの態度も、子供の頃から知っているこちらからすれば怖くはない。睨み返すように見つめると、瞳の奥が微かに揺らいだ気がした。
「勝手に開けたんですか!」
「領地に行く荷物は確認する事にしている。その時にうちの使用人から手紙を預かったと聞いたんだ。中を改めるのは当主の責務だろ」
「そんなの責務じゃありません! 酷いですフランツ様!」
「両親は今領地にはいないんだ。あの者達に託した所で届かなかったぞ」
「いない? それじゃあどちらに?」
フランツィスは言いにくそうにしばらく思案した後、諦めたように息をついた。
「フェーニクス領におられる。理由はその内話す」
「フェーニクス領ですか、そうですか」
もしフランツィスが手紙を引き取って来なければ、母親にこの手紙が届いていないと知らないまま悶々とした日々を過ごす事になったかもしれない。そう思うと、感謝したいようなしたくないような、複雑な気分になってしまった。
「それで、この手紙に書かれている事の説明をしてくれないか」
「説明と申しますと?」
とぼけてみても見逃す気はないのだと、そう腕組をしている表情がそう言っていた。そうなれば観念するしかない。
「そのままですよ。結婚したかったので、立ち消えていた縁談を結んで欲しいと厚かましながらお願いしようと思っていたんです」
その時、驚いたようなフランツィスが腕組を解いて浅く座っていた机から腰を浮かせた。今は家の中なので、ただのシャツとスラックスだけの装いだった。それだけでも素敵なのね、などと考えながらいると、今までにない程の怖い顔をしたフランツィスが近付いてきた。
「立ち消えたとは以前からそんな話があったのか?」
「まだ聞いていらっしゃらなかったのですね。無理もありません、あのあと沢山の事がありましたから」
「ちゃんと話せ!」
「怒鳴らないで下さい! 旦那様がフェーニクス家の使用人との縁談を持ってきて下さったのです。フェーニクス家の家令のお孫さんだそうですよ」
「……あいつか。父上は一体何を考えているんだ」
「何って、適齢期の使用人の嫁ぎ先を考えて下さったのですよ。本当にお優しい旦那様です」
「お前はそれでいいのか? 会った事もない男と結婚出来るのか? 好きな奴がいると言っていただろう!」
「だから言ったでしょう? その人はもうすぐ結婚するって」
「それなら俺が破談にしてやる! 侯爵家の当主だぞ、相手が王族でない限り、いや、王族でも構わないからその結婚を壊してやる。だから側を離れる事は許さない!」
熱い手で掴まれた腕が痛い。
「……それは優しさからですか? 私の事も妹の様に思っているのでしょう? それとも扱いやすい使用人ですか? 私も一人の女としての幸せを考えたいんです。フランツ様にそれは無理でしょう?」
するりと離れていく手から逃れるように部屋を飛び出していた。
「グレタ! グレタ待て!」
屋敷中に響き渡る程の大声に思わず引き返してフランツィスの口を塞いだ。しかしその手を取られて握られてしまう。使用人達は何事かと集まり出していた。このままでは二人にとって良くない事態になってしまう。グレタは取り敢えずフランツィスの胸を押しながら近くの部屋に押し込んだ。
「ああそれなら私が分かりますよ、立ち話もなんですから中に入りましょう!」
あえて元気に大声で言いながら扉を半分閉める。使用人達が散っていくのをその隙間から見て安堵すると、後ろから腕を掴まれた。
「話は終わっていないぞ!」
「フランツ様はいつもそうです。こちらの立場の事は考えずに好き勝手に動いて。まあ私は使用人ですからそんな事はどうでもいいんですけれどね、あんな風にされたら誤解を解くのが本当に大変なんです。これから奥様を迎えられるのならそういった所もお気をつけ下さいね!」
しかし、返ってきたのは呆けた返事だった。
「誰が奥様を迎えるって?」
「フランツ様がですよ」
「いつ?」
「もうすぐ」
「どこでそんな話になったんだ」
「書類を見てしまいました。夜中にお茶を持って行った時に」
すると頭上から盛大な溜め息が頭と共に落ちてくる。そしてはっと上げた顔と顔が同じ高さになった。
「もしかして、お前のいう慕っている相手がもうすぐ結婚するというのは、俺の事か?」
返事が出来ずに小さく頷いた。するとフランツィスの顔がみるみるうちに赤くなっていく。そして口を押さえた。
「あれは断りを入れる時に漏れがないよう名前を一覧にしたものだ。少し考えさせてくれ」
「何を考えるんです?」
すると今度はむすっとした顔になる。本当に分からずにいると、諦めたようにフランツィスは指先を掴んでソファに座った。引かれるようにその隣りに座る。それでも捕まれた指先が離される事はなかった。
「お前がその気ならもう俺も遠慮はしない。ただ準備があるからな」
「準備とは? 遠慮ってなんです? そんなのした事ないでしょう?」
「してたさ!」
「嘘だ!」
とっさに出た言葉にフランツィスは小さく息をついて指先を撫でてきた。
「俺は昔からお前を大事に想ってきた。エーリカとは違う想いでだ。だからお前に色目を使う使用人を別の貴族の家に紹介状を付けて送り出したり、自由恋愛でも使用人への結婚の申し込みは全てまずは俺のところへ来るように手配したり、もちろんその中でお前宛てのものは全て断っていた。街ではグレタに手を出したいものはまず俺を通すように通達をしていた。それを破ればそれなりの処罰があるとも触れ込み済みだ」
どこか胸を張っているフランツィスに若干恐ろしさを感じながら身を引くと、腕を引かれて胸の中に収まっていた。シャツから香水と汗の混じった香りがしてクラクラしてしまう。
「お前は恋は落ちるものだといったが、それなら俺はお前が落ちるよりもずっと前に落ちているように思う。近くに居すぎていつからは分からないが、お前へのこの気持ちはエーリカへの想いとは全然違う。エーリカが誰かと結ばれるのはまあ嫌だが、仕方がないと思う。でもお前は駄目だ。お前が誰かの腕の中にいると思うだけで吐き気がする。俺に吐かせるな」
「なんですかそれ。そんなの勝手です。私は何度もあなたの腕の中に私以外の人がいるのを見てきた……聞いてきたんですから。吐きたいのはこっちですよ」
怒って言ったつもりだったが、フランツィスは心底嬉しそうに頬を緩めている。それが無性に腹が立って胸から離れようとすると背中に回っていた腕に力が籠もり、熱い胸板に押し付けられた。華奢に見えてその実鍛えているフランツィスの身体は男の人なのだ。恥ずかしさが込み上げてきても身動きが取れない。すると、優しく頭を撫でられる。
「お前は信じないかもしれないが、抱いてはいない」
「……え?」
我ながら間抜けな声が出てしまったと思う。押し付けられた胸から僅かに顔を上げて上を見上げると、ふっと目を細められた。
「だから抱いてはいないと言っているんだ。当たり前だろう? 楽しむ為ではなく目的を達成させる為だったんだ。誓って一線は越えていない。とは言ってもお前には嫌な思いをさせたな。すまなかった」
まさか謝罪の言葉を聞けるとは思っていなかったので、返す言葉がない。すると背中に回っていた腕が再びきつくなる。擦られる感覚に不意に声が漏れてしまった。
「っん」
恥ずかしさで顔を硬い胸に押し当てる。すると、フランツィスが小刻みに震えているのが伝わってきた。
「もしかして笑っています?」
「いいや?」
その声すらも笑っている。突き飛ばすように離れてフランツィスの顔を見ると、真っ赤になっていた。
「なんですか、その顔」
「だから笑っていないと言っただろ! 見るな!」
腕で顔を隠すフランツィスが新鮮で可愛くて愛しくて、頭をかき抱くようにほとんど無意識で抱き締めていた。
「なんとなく不本意なんだが?」
「我慢してください」
すると下に抱えるように体制を変えて膝に寝かせられる。覆い被さるように近付いてくると、前髪の房が落ちて頬を撫でていく。払う手付きで頬を撫でられると、反射的に身を捩った。
「陛下とお嬢様が前線に出ているというのに不謹慎です」
「俺だって……俺達だって頑張っているんだ。これくらいのご褒美は貰わないと」
「こんな事がご褒美になりますか?」
女よりも色っぽい微笑みが返ってくる。
「なるよ、俺には物凄いご褒美だ」
薄い唇がそっと触れるだけの口付けが落ちてきた。
「お茶? なんの事ですか?」
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「お前お前うるさいですね。呼び出しておいてなんなんですか」
怪訝そうに眉を顰めるフランツィスから視線を逸らした。
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「かしこまりました」
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「逐一ですか? 屋敷にいらっしゃらないのに?」
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「そんな訳ないだろう! 俺はエーリカを信じている」
「そうです。お嬢様はフランツ様とは違うんですから何もありませんよ。お嬢様は陛下お一筋なのですから」
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言ってはっと口を噤んだ。フランツィスの目が見開いた途端、すっと凍りついたように冷たくなった。
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返事は誤魔化す事も出来た。それでも今はそれをしたくなった。これが最初で最後の、精一杯の告白なのだから。身分違いにはこれが限界なのだ。
「そうか。もういいから下がってくれ」
「フランツ様ッ」
「今日はもういいと言っているだろう!」
部屋を出て扉に背をつく。
「そんなに嫌だったの? そんなに……」
そのままの足で部屋に行くと、走り書きのような筆跡で手紙を書く。勢いがなくては書けない気がした。
母親は領地へ戻った前当主夫妻に付き従って共に領地へと行っている。いち使用人が前当主へ直に手紙を書く事は出来ないので、母親を通していつの間にか立ち消えていた婚約の話をなんとか通してもらいたいという内容をしたためた。たかが使用人の手紙の為に馬を出すことは出来ずに、王都でアインホルン家の領地へ行くという隊商を見つけ、手紙を託すことにした。返事が返ってくるにはしばらくかかるだろうと思っていた。
しかしその手紙は思わぬ所から返ってきた。目の前には恐ろしく冷えた表情のフランツィスが立っている。そしてその机の上にはなぜか隊商に託したはずの母に宛てた手紙が封を切られた状態で置かれていた。何が起きているのか分からなかったが、ただ手紙を勝手に開けられたという怒りの方が今は勝っている。他の者ならば萎縮するだろうフランツィスの態度も、子供の頃から知っているこちらからすれば怖くはない。睨み返すように見つめると、瞳の奥が微かに揺らいだ気がした。
「勝手に開けたんですか!」
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「そんなの責務じゃありません! 酷いですフランツ様!」
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「いない? それじゃあどちらに?」
フランツィスは言いにくそうにしばらく思案した後、諦めたように息をついた。
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「それで、この手紙に書かれている事の説明をしてくれないか」
「説明と申しますと?」
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「そのままですよ。結婚したかったので、立ち消えていた縁談を結んで欲しいと厚かましながらお願いしようと思っていたんです」
その時、驚いたようなフランツィスが腕組を解いて浅く座っていた机から腰を浮かせた。今は家の中なので、ただのシャツとスラックスだけの装いだった。それだけでも素敵なのね、などと考えながらいると、今までにない程の怖い顔をしたフランツィスが近付いてきた。
「立ち消えたとは以前からそんな話があったのか?」
「まだ聞いていらっしゃらなかったのですね。無理もありません、あのあと沢山の事がありましたから」
「ちゃんと話せ!」
「怒鳴らないで下さい! 旦那様がフェーニクス家の使用人との縁談を持ってきて下さったのです。フェーニクス家の家令のお孫さんだそうですよ」
「……あいつか。父上は一体何を考えているんだ」
「何って、適齢期の使用人の嫁ぎ先を考えて下さったのですよ。本当にお優しい旦那様です」
「お前はそれでいいのか? 会った事もない男と結婚出来るのか? 好きな奴がいると言っていただろう!」
「だから言ったでしょう? その人はもうすぐ結婚するって」
「それなら俺が破談にしてやる! 侯爵家の当主だぞ、相手が王族でない限り、いや、王族でも構わないからその結婚を壊してやる。だから側を離れる事は許さない!」
熱い手で掴まれた腕が痛い。
「……それは優しさからですか? 私の事も妹の様に思っているのでしょう? それとも扱いやすい使用人ですか? 私も一人の女としての幸せを考えたいんです。フランツ様にそれは無理でしょう?」
するりと離れていく手から逃れるように部屋を飛び出していた。
「グレタ! グレタ待て!」
屋敷中に響き渡る程の大声に思わず引き返してフランツィスの口を塞いだ。しかしその手を取られて握られてしまう。使用人達は何事かと集まり出していた。このままでは二人にとって良くない事態になってしまう。グレタは取り敢えずフランツィスの胸を押しながら近くの部屋に押し込んだ。
「ああそれなら私が分かりますよ、立ち話もなんですから中に入りましょう!」
あえて元気に大声で言いながら扉を半分閉める。使用人達が散っていくのをその隙間から見て安堵すると、後ろから腕を掴まれた。
「話は終わっていないぞ!」
「フランツ様はいつもそうです。こちらの立場の事は考えずに好き勝手に動いて。まあ私は使用人ですからそんな事はどうでもいいんですけれどね、あんな風にされたら誤解を解くのが本当に大変なんです。これから奥様を迎えられるのならそういった所もお気をつけ下さいね!」
しかし、返ってきたのは呆けた返事だった。
「誰が奥様を迎えるって?」
「フランツ様がですよ」
「いつ?」
「もうすぐ」
「どこでそんな話になったんだ」
「書類を見てしまいました。夜中にお茶を持って行った時に」
すると頭上から盛大な溜め息が頭と共に落ちてくる。そしてはっと上げた顔と顔が同じ高さになった。
「もしかして、お前のいう慕っている相手がもうすぐ結婚するというのは、俺の事か?」
返事が出来ずに小さく頷いた。するとフランツィスの顔がみるみるうちに赤くなっていく。そして口を押さえた。
「あれは断りを入れる時に漏れがないよう名前を一覧にしたものだ。少し考えさせてくれ」
「何を考えるんです?」
すると今度はむすっとした顔になる。本当に分からずにいると、諦めたようにフランツィスは指先を掴んでソファに座った。引かれるようにその隣りに座る。それでも捕まれた指先が離される事はなかった。
「お前がその気ならもう俺も遠慮はしない。ただ準備があるからな」
「準備とは? 遠慮ってなんです? そんなのした事ないでしょう?」
「してたさ!」
「嘘だ!」
とっさに出た言葉にフランツィスは小さく息をついて指先を撫でてきた。
「俺は昔からお前を大事に想ってきた。エーリカとは違う想いでだ。だからお前に色目を使う使用人を別の貴族の家に紹介状を付けて送り出したり、自由恋愛でも使用人への結婚の申し込みは全てまずは俺のところへ来るように手配したり、もちろんその中でお前宛てのものは全て断っていた。街ではグレタに手を出したいものはまず俺を通すように通達をしていた。それを破ればそれなりの処罰があるとも触れ込み済みだ」
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「なんですかそれ。そんなの勝手です。私は何度もあなたの腕の中に私以外の人がいるのを見てきた……聞いてきたんですから。吐きたいのはこっちですよ」
怒って言ったつもりだったが、フランツィスは心底嬉しそうに頬を緩めている。それが無性に腹が立って胸から離れようとすると背中に回っていた腕に力が籠もり、熱い胸板に押し付けられた。華奢に見えてその実鍛えているフランツィスの身体は男の人なのだ。恥ずかしさが込み上げてきても身動きが取れない。すると、優しく頭を撫でられる。
「お前は信じないかもしれないが、抱いてはいない」
「……え?」
我ながら間抜けな声が出てしまったと思う。押し付けられた胸から僅かに顔を上げて上を見上げると、ふっと目を細められた。
「だから抱いてはいないと言っているんだ。当たり前だろう? 楽しむ為ではなく目的を達成させる為だったんだ。誓って一線は越えていない。とは言ってもお前には嫌な思いをさせたな。すまなかった」
まさか謝罪の言葉を聞けるとは思っていなかったので、返す言葉がない。すると背中に回っていた腕が再びきつくなる。擦られる感覚に不意に声が漏れてしまった。
「っん」
恥ずかしさで顔を硬い胸に押し当てる。すると、フランツィスが小刻みに震えているのが伝わってきた。
「もしかして笑っています?」
「いいや?」
その声すらも笑っている。突き飛ばすように離れてフランツィスの顔を見ると、真っ赤になっていた。
「なんですか、その顔」
「だから笑っていないと言っただろ! 見るな!」
腕で顔を隠すフランツィスが新鮮で可愛くて愛しくて、頭をかき抱くようにほとんど無意識で抱き締めていた。
「なんとなく不本意なんだが?」
「我慢してください」
すると下に抱えるように体制を変えて膝に寝かせられる。覆い被さるように近付いてくると、前髪の房が落ちて頬を撫でていく。払う手付きで頬を撫でられると、反射的に身を捩った。
「陛下とお嬢様が前線に出ているというのに不謹慎です」
「俺だって……俺達だって頑張っているんだ。これくらいのご褒美は貰わないと」
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