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〈番外編 粉々の初恋〉1 身分違いの恋

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 私には好きな人がいる。

 それは物心ついた時から当たり前に側にあったぬくもりで、そのぬくもりを失う事は絶対にないと思っていた。
 幼い頃、アインホルン侯爵家の侍女長をしていた母に言われるまでは。

――侯爵家に忠誠は捧げてても、心を捧げてはいけないのよ。

 しばらくは母の言う言葉の意味が本当に分からなかった。そしてその言葉の意味を知ったのは、アインホルン家のご令嬢であるエーリカ様が登城した時に魔力に目覚め、数年が経ってからだった。
 それまで明るく活発だったフランツィスは幼さを押し隠して、常に当主と共に行動して領地経営当の仕事を学び始めた。いつの間にか子供らしさは消え、あっという間に大人びていってしまった。

 “鼠”の仕事の為に向かったというとある貴族の屋敷へ初めて迎えに行った日。部屋の中からは男女の声が聞こえてきていた。ただの会話ではない。女の甘い声に攻め立てる男の声。無意識に拳をきつく握り締めていた。心臓から血が吹き出しているのではと思う程に強い衝撃の後、心に小さく、それでもしっかりと芽吹いていた感情を握り潰す様に鍵をかけた。




「お呼びでしょうか?」

 珍しく当主の部屋に呼び出されたグレタは、緊張した面持ちで部屋の扉を叩いた。第一王子とエーリカの婚約が決まって少し経った頃。フランツィスは朝早くから登城しており、今日は珍しく別行動の日の呼び出しに、なんとなく嫌な予感がしていた。

「入りなさい」

 部屋の中には当主と奥様、そして自分の母もなぜか共に座っていた。いつもは緊張する顔ぶれではない。それでも部屋の中に流れる空気に無意識に背筋が伸びていた。

「忙しいのに呼び出してすまなかったな。どうだ、愚息に扱き使われて疲れてはいないか?」
「滅相もございません。お気遣い頂きありがとうございます」
「フランツは最近どうだ? こちらが止めるような事は何もしていないだろうか? 親としては出来る限り自由にさせてやりたいが、あいつも一応この家を継ぐものだからな」

――ああ、それが聞きたいのね。息子に変な虫が付いていないかどうかを。

「その様なご心配は無用に思います。ただ……」
「ただ? なんだ?」

 フランツィスの両親は前のめりになりながらグレタの顔をじっと覗き込んできた。

「たまに魔術師の山に行っているようです。お嬢様の御身を案じてのようですが、それは危険なように思います。あそこは魔力のない者にしてみれば戦場に突っ込んでいくようなものです」

 思わず飛び出た言葉使いにとっさに母親を見ると、口元がひくついているのが分かった。

――これは後で呼び出し案件ね。

 こほんと咳払いをしてから佇まいを直した。

「一応守護の魔石は持たせているが、やはり危険だろうか」

 二人で顔を見合わせているところを見てグレタははっとした。

「まさか、お二人のご指示ですか?」
「グレタ!」

 思わず声を出した母だったが、当主に宥められては押し黙るしかないようだった。

「まあまあ、落ち着け。確かにエーリカの様子を見に行くように言ったのは私だ。私が行くよりもフランツの方が目立たなくていいだろう?」
「……目立ちまくりですよ」

 ぼそりと吐いた言葉は、近くに座っていた母には聞こえている。もうどうせ怒られるなら構うもんかという気持ちになってくる。グレタは意を決したように顔を上げた。

「重ねて申し上げますがあの場所へ一人で行かれせるのは大変危険です。それにフランツィス様の容姿はそこら辺の貴族達の中では群を抜いて美しいんです! 魔術を使って部屋にでも引き込まれたらどうされるおつもりですか!」

 肩で息をしている。視界の端に映る今にも倒れそうな母の姿は見ないようにした。こちらの勢いに圧倒されていた当主は朗らかに笑った。

「そこまで愚息を褒めてくれて嬉しいぞ。グレタはやはりフランツ至上主義のようだ」
「フランツィス様至上主義、ですか?」
「いやいやいいのだ。絶対に信用出来る者がいるというのは良い事だろう? だからフランツも少々無茶な事もしてしまうのだろう」
「私がいるから無理をなさると?」
「無茶をしてもグレタが側にいるという安心感からだ。しかしそれは果たしてお前にとっては良い事なのだろうかと思ってな」

 まさか自分の話になるとは思わずに、勢いを失ってしまう。当主は今度こそ落ち着いた声で話しだした。

「そろそろお前も結婚を考えないかい?」 
「私、ですか?」
「確かにグレタはとても優秀だと思っている。それでも結婚には適齢期というものがある。いくら美しいからと言っても生き遅れてしまえば引く手は激変するぞ」

 何を言われているのか分からいずにいると、呆れたように隣りから手が重なってきた。

「旦那様はあなたの将来をご心配してくださっているのよ」
「あの、望んだ所で嫁ぎ先など見つかるのでしょうか? 今まで一人もそんな相手はいなかったものですから、あまり実感がありません」

 呆気に取られているのは当主達の方だった。

「これは思ったよりも徹底的に虫を叩いていたようだな。全く、お前が不憫でならないよ。一刻も早く嫁ぐべきだ。フランツに邪魔をされる前に」
「フランツィス様は邪魔などしませんよ。まあ、使い勝手のいい小間使いがいなくなる事に不満は出るとは思いますが」

 その時、自分以外の三人から盛大な溜め息が返ってきた。

「とにかく一度会ってみるといい。縁者の家令の孫で、私達もよく知っている男だ。執事をしていて、今年二十一になる好青年だよ。もし結婚したとしてもその家で働けるようになるから安心するといい」
「旦那様と同じ職場というのはちょっと。ここで働き続ける事は出来ませんか?」
「そうしてやりたいが、通うにはいささか遠い場所でな」
「どこです?」
「フェーニクス家だ」

 グレタは思わず息を止めた。フェーニクス家は東の辺境伯だ。西にホフマン、東にフェーニクス。ごくたまに王城に顔を出すホフマン家と違いフェーニクス家の者達が領地から出てくる事はまずない。政治はアインホルン家が取り仕切っているし、フェーニクス家は国境を守る事に専念し、それ故有る事無い事噂が流れていた。

「たまにフランツィス様も行かれておりますよね。私は一度も連れて行って頂いた事はございません」
「あれは私の使いで行っているからね。それはそうと、この件について考えてくれるか?」
「断る理由などございません」

 すると喜ぶはずの当主の顔は微妙なものだった。

「随分と即答だな。思う事はないのか? すぐに返事をする事はないからもう少し考えてから答えを聞かせて欲しい」

 訳が分からずに首を捻ったが、やはり同じ答えをした。

「断る理由がございません。このまま自分で結婚相手を探すのは諦めておりましたから、このような良い機会をお与え頂き感謝しております」
「このままだとフランツと離れる事になるが、それでもいいのか?」
「長くお仕えしていたので寂しくないと言えば嘘になりますが、それも仕方のない事だと思います」
「そうか。それならこちらも準備を進めていこう」
「いつ頃になりますか?」
「乗り気のようだな。フェーニクス家に連絡をするから少し待っていてくれ」
「かしこまりました。それと、この事をフランツィス様はご存知なのでしょうか?」
「まだだ。フランツには私達から話すからお前からは言わないように。いいね?」

 なぜか苦い顔を浮かべている母を不思議に思いながら部屋を出た。
 しかしこの時は、この結婚の話がこのまま流れる事になるとは思いもしなかった。
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