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58 愛する人の腕の中

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「エーリカ! 陛下を連れて行くようにとは言っていないぞ!」

 城に到着し王の執務室に入った途端、予想していた通りに怒りを湛えたフランツィスが待ち構えていた。

「俺が無理に付いて行っただけだからエーリカを責めるな。それに少しくらい休暇を取ってもいいだろう?」
「突然いなくなるのをお止め下さいと申しているのです。それで? 魔力は戻ったのか?」

 クラウス越しに覗いてくるフランツィスに頷くと、深い溜め息が帰ってきた。

「それなら良かった。本当に良かった」

 感慨深く言う声に思わず目が熱くなってしまう。

「それでは今日までは休暇という事にしますので、ついでに今後の事をちゃんと話し合って下さいね」
「今後とは?」

――チッ。

 舌打ちが聞こえた気がしてクラウスを見ると、特に気にしていないようだった。

――クラウス様、兄の不敬をもっと怒ってください! 

「結婚の事ですよ! こちらとしても準備がございますので、どちらでもいいのでさっさと決めて下さい。あとは当人達次第ですから」

 フランツィスが去った後の室内は気まずさで満ちていた。どうしたものか迷っているとクラウスが引き出しを開けた。

「ずっとこれを渡そうと思っていた」

 そう言って開かれた掌には首飾りが握られていた。それは生活の為にヘルムートが町の質屋に売ってしまった、クラウスからの贈り物だった。

「どこでこれを!」
「ヘルムートに言われたんだ。首飾りを売ったと」
「……申し訳ありませんでした」

 声が震えてしまう。しかしクラウスの表情は柔らかかった。

「気にしないでくれ。それよりも俺の贈った物がエーリカの助けになった事が嬉しかったんだ」

 その後、顔色を変えたクラウスが奥の部屋から布のような物を手にして戻ってきた。最初はただの布だと思ったが、次第に記憶が鮮明になっていく。とっさに掴もうとしたがクラウスが届かないよう腕を上げてしまった。

「駄目だ! 触れない方がいい! その、汚れているから」

 伸ばしかけた手を止める。

「確かに、そうですよね。でも他の人の夜着をクラウス様が持っている事の方が私は嫌です」
「……他の人の夜着?」
「オルフェンの、その、お相手の……」

 言いづらくて黙ってしまうと、頭上から深い息が吐かれた。

「これはエーリカの物じゃないのか?」
「私の? 違います! オルフェンの部屋にあった誰かの物を破ってしまったので、アンに、うちの侍女に直してもらったんです」

 返事はない。高らかに夜着を掲げたまま固まっているようだった。

「あの、クラウス様? 出来ればそれはもう捨てようと思います。さすがに何ヶ月も前の物を返されてもお相手の方も嫌でしょうし。正直、どなただったか記憶も朧げで返しようがないんです」
「そうだな、捨ててしまおう。俺が処分しておくから心配するな」
「駄目です! 預かって頂いていたのにそんな事までさせられません」
「エーリカが捨てた後、お前の物だと思われて拾われでもしたらそれこそ大変だ。後で暖炉で燃やすから心配するな」
「誰も拾わないと思いますけど」

 ようやく夜着を机の上に置いたクラウスの手が伸びてくる。そのまま身体をすっぽりと抱きすくめられた。

「泉の中に沈んで行ってしまった時、また失ったらどうしようかと恐ろしかった」
「ごめんなさい」
「エーリカ、これから先もずっとそばにいると誓って欲しい。どちらかの命尽きるまで決して離れないと」

 声が震えている。エーリカは背の高いクラウスの頭を掻き抱くように腕を伸ばした。

「沢山不安にさせてしまいましたね。私で良ければずっとそばにおります。ずっとクラウス様から離れません」

 覗き込んできた青い瞳が綺麗で目が離せない。その瞳がゆっくりと閉じるのにつられて瞳を閉じていく。柔らかい唇が重なる。ただ触れるだけの口付け。もっと激しい口付けをした事もある。それなのに、今が一番胸が高鳴っていた。ゆっくりと唇が離され、鼻が触れる距離でクラウスが微笑んだ。

「ここから先はエーリカが許してくれるならにしよう」
「今更ですか?」
「大事にしたいんだ。初めては、その、傷付けてしまったから」
「傷付いたなんて思っていませんよ」

 すると拗ねたような顔で眉を顰めた。踵を上げて頭を引き寄せ、その眉間に口付けをする。

「それなら今度は新しい思い出をください」
「そうだな。これから幾らでも作っていこう。二人で」

 一気に横抱きにされると、クラウスは執務室の奥の扉の前に立った。目が開けてと言っている。はしたないかと躊躇ったが、扉を開けるとクラウスは嬉しそうに中へと入って行った。

「ここの方が俺の部屋みたいなものなんだ」
「ちゃんとご自分のお部屋で眠って下さい」
「そうだな。確かにここに二人は狭いし、何より人の来訪も多い。エーリカが一緒なら広い部屋に移ろうか」

 ゆっくり寝台に寝かされ、クラウスが覆い被さってくる重みで寝台が僅かに沈む。信じられない程の緊張で固まっていると、おもむろに手を掴まれてクラウスの心臓に当てられる。激しく鼓動が動いている。驚いて見ると、クラウスは困ったように笑った。

「エーリカが目の前にいると思うとこんな風になってしまう。笑わないでくれよ」

 エーリカはクラウスの手を同じように自分の心臓の上に持っていった。

「私も同じですから……」

 そう言おうとして今自分がどんなに大胆な事をしてしまったのかを後悔した。とっさに離そうとした手に力が入る。そして、優しくするりと撫でられた。

「クラウス様、あの、私そういうつもりじゃ」
「分かっている。でも今も違う? そういう気分じゃない?」

 意地悪く肩先に口付けをしながら上目遣いで見つめてくる。まだ明るい部屋の中では、クラウスの一挙一動が全て見えてしまう。恥ずかしさに震えていると、クラウスの瞳に熱が籠もったのが分かった。

「……余裕ぶるのも限界だ」

 呟きを最後に唇に深い口付けが落ちてくる。何度も何度も角度を変えて侵入してくる舌に応えるのに必死で追いかけていると、服の下から大きな手が滑り込んできた。コルセットの紐に手が掛かる。脱がしやすいようにと腰を浮かせ、自分で外そうとクラウスの首に回していた手を下げようとして、またその位置に戻された。言葉の代わりに口付けが降ってくる。首筋に、鎖骨に、胸の谷間に落とされた所でお腹が楽になり、コルセットとブラウスを外されると、露わになった胸を隠すように後ろを向いてしまった。すると、背中にも口付けが落ちてくる。熱い舌で舐めながら腰を擦り、首の後ろを吸い上げられた。

「つッ、ん」

 ピリッとする痛みと共に今度は舐められて甘い感覚が広がっていく。ゆっくり前を向くと、再び唇がどちらとともなく重なっていく。クラウスの口付けはどこまでも優しかった。

「我慢しないで聞かせてくれ」

 クラウスの熱い舌が更に下がっていく。腹の近くに顔がきた瞬間、思わず肩を掴んで止めてしまった。魔力によって癒やされたが、刺された傷跡は消えていない。クラウスはその手をやんわり避けると、引き攣った傷痕に口づけを落としてきた。

「今も痛むか?」
「大丈夫です。もう何も感じません」

 言葉に出来ない想いをどうしたらいいのか分からない。幸せとか嬉しいでは到底表せない満ち足りた気持ちに、クラウスの腕の中に飛び込んでいた。

「クラウス様、愛しています」

 それは自然に出た言葉だった。その瞬間、まだ身体がきつく抱き締め返される。

「……今のはエーリカが悪い」

 そういうと、再び大きな身体が覆い被さってきた。

「俺も愛している。もう二度も離れない」

 その後は、二つの身体が溶けたのではと思う程に何度も抱き合った。


 深く眠ってしまっていたのか、気が付くと暗くなった部屋の中にクラウスの姿はどこにもなかった。身体は拭き清められており、さっぱりしている。急いでシーツを身体に巻いて寝室を出ようとしたところでクラウスが入ってきた。手にはトレイを持ち、湯気と共によい香りがした。

「簡単な食事を持ってきたぞ。それと、声を枯らしていると思って蜂蜜入りのハーブティーを淹れてきた。味は保証出来ないがな」
「クラウス様がご準備してくださったのですか?」
「深夜だからな。それに、俺がエーリカの為に何かしたかったんだ。と言っても起きていた者に手伝ってはもらったがな」

 トレイを持っているがっしりとした腕に擦り寄ると、上擦った声が聞こえてきた。

「また襲いたくなるから止めてくれ」

 一気に恥ずかしい全ての行為を思い出したが、離れたくなくて更に腕を抱き締めた。それに焦るクラウスを見るのも今は楽しくて仕方ない。すると不満そうな声と共に歩く頭頂部に口付けが降ってきた。

「俺の手が塞がっているのをいい事に楽しんでいるな?」
「ばれましたか?」

 ぺろりと舌を出すと、顔が近付いてくる。啄む口づけのあと、クラウスは唇を離して寝台に座った。離れたくなくてすぐ隣りに座ると、ハーブティーを渡された。

「気をつけて」

 少し濃いハーブの味と、蜂蜜の優しい甘みが口一杯に広がっていく。一息ついたところでクラウスに向き直った。

「クラウス様、私との婚約を破棄して下さいませんか?」

 突然の言葉に固まってしまったクラウスに、言葉が足りなかったと慌てて付け足す。

「そうではなくて今の婚約を破棄して、婚約をし直して頂きたいのです。エーリカ・ルートアメジストとしてではなく、エーリカ・アインホルンとして」
「すぐにでもそうしよう」
「それともう一つ。子供が産めない私でも本当に良いのでしょうか?」

 答えが怖くて俯きかけると、頬を押さえられた。

「俺は最初からただのエーリカが欲しかったんだ。改めて俺と結婚してほしい」
「……はい。喜んで」

 頬が押されて唇が尖る。その先端を押し潰すように口付けられた。

「クラウス様、実はこれ気に入っていますね?」
「可愛いからな」

 あっけらかんというクラウスは、満面の笑みを浮かべて抱き締めてきた。

「子供の事が気掛かりだというなら、アレクに頑張ってもらおう」
「アレク様はどうしていますか? しばらくお見かけしていないので気掛かりでした」
「アレクは今、母の実家が治める領地へ共に行っている。母子水入らずでしばらく過ごすそうだ」

 背中を撫でながらクラウスが首に顔を埋めてきた。

「最初に言っておくが、俺は絶対に子供が欲しいとは思っていなかった。エーリカがいてくれればそれで幸せなんだ。だからこの先この事で一人で悩むのだけは止めてほしい。もしもどうしても子供の事で悩むなら養子を迎えればいい。そう言う俺も養子だからな」
「はい、クラウス様」

 声は震えたが、クラウスは気付かない振りをしてくれた。




 婚約の誓約書は正しく破棄され、そしてすぐに婚約ではなく婚姻の誓約書が結ばれた。

――クラウス・ベルムート・アメジスト、エーリカ・アインホルン
両名を、夫婦として祝福する。

 バルコニーから国中の喝采を浴びている両陛下の背中を見つめながら、フランツィスはヘルムートから渡された紙を見つめていた。隣からグレタが覗き込んでくる。そして小さく唸った。

「皆様にはお話されるんですか?」

 フランツィスは紙を胸元へとしまい込んだ。

「今更全てを話した所でもう過ぎた事だろ」
「でも言われてみれば単純明快ですね。元々お嬢様には自ら生み出す魔力がなかった。だから症状も出なかっただけなんて」
「オルフェンもオルフェンだ。もし生きていたなら文句の一つも言ってやりたいよ。エーリカの人生を滅茶苦茶にして。俺達家族の人生もだ」

 グレタはそう言いながらも微笑む主の横顔を盗み見た。

「時に遠回りは必要なのかもしれませんよ。だって見てください、なんて幸せそうなお嬢様」
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