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55 フランツィスの戦い〈前編〉

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「フランツ様――! フランツィス様――!」

 後ろから聞こえてくる声には気づかない振りをして、足早に歩いて行くフランツィスの横で、気の毒そうにグレタが振り返った。ぎこちない笑みを浮かべてフランツィスの袖口を引く。さずがにグレタに止められたのに歩き続ける訳にも行かず立ち止まると、追いついたフーゴは満面の笑みを浮かべてフランツィスの目前に迫った。

「耳が遠くなったんですか? ずっと呼んでいたんですよ?」

 フェーニクス辺境伯の領地から戻ってきたフーゴはすっかり良い色に日焼けをして、遊び人という職業があるのならぴったりの風貌になっていた。

「よく戻ったな。呼び戻すのが遅くなってすまなかった」

 すると茶色い瞳を潤ませてフランツィスに抱きついてきた。無駄に鍛えている身体は固く力も強い。フランツィスはしばらく我慢していたが今度こそ振り払おうとしたところで、間にグレタが入ってきた。

「フーゴ様、往来の激しい城内でそのように抱き合ってはいらぬ噂が立ちます。戻れたばかりなのでしょう?」
「それには及びません。何を隠そう俺は既婚者ですからね!」

 得意げに言うフーゴは後ろからゆっくり歩いてくる妻に視線を送った。ぎょっとしたのはフランツィスもグレタも同時だった。これみよがしにまだ少ししか出ていない腹を擦りながら歩いてくるのは、フーゴがフェーニクス領へ行く原因となったエミリアだった。クラウスの側室候補だったエミリアは強かな貴族令嬢の笑みを浮かべると、フーゴの隣りにつき、思い切り足を踏み付けた。

「身重の妻を置いて先に行くなんて、一体どういう夫なのかしら」
「仕方ないだろ! フランツィス様が行ってしまいそうだったんだから」
「お前達、そんな関係だったのか? というか今身重と言ったか? まさかあの時の? いやいやそんなたった一回で……」
「フランツィス様! 下品ですよ」

 グレタの声に搔き消された言葉を飲み込むと、フーゴはにんまりと笑った。

「さすがにそれは違いますよ。エミリアはあの後俺を追って、フェーニクス領まで単身乗り込んで来たんです!」
「「乗り込んできた?!」」

 二人の声が重なる。エミリアは得意そうに頷いた。

「父が修道院を勧めてきたので、あの時はこの際仕方ないと思っただけです。私絶対に修道院と、年の離れた男の後妻は嫌でしたの」
「修道院か。ご実家の事は残念だったな」
「心にもない事をおっしゃいますのね。悪事を働いていたのですから当然の報いですわ。まさか密輸入した魔石を売り飛ばしていたなんて。父にとっては、私も権力を得る為の駒に過ぎなかったのでしょう。母もこれ幸いにと若い男の所に行ってしまいましたわ」
「でももう俺がいるんで大丈夫ですよ」

 ヘラヘラと笑うフーゴの足が再び踏み付けられる。

「よく言うわよ! 今度娼館に行ったら許さないから!」
「だから誤解だよ、あの時は落とし物を届けただけなんだって」
「でも知り合いのようだったわ」
「昔の知り合いだと話しただろ」
「まあ、なんだ。昔の素行の悪さのせいだな」

 フーゴは不服そうに唸っていた。

「それで、例の件はどうなっている?」

 すると緩んでいた顔を引き締めた。その時だけは農民の様な格好をしていても騎士に見えるから不思議なものだ。フェーニクス領に行く前も女に人気はあったが、特定の恋人は作らずに遊び呆けていたフーゴが既婚者になったと知ったら、密かに悲しむ女達がどれだけいるのだろうと思うと少し不憫な気もした。人当たりのいいフーゴの事だ、これから故意にではないとしてもエミリアを怒らせる事もあるだろう。そう思いながら見ていると、フーゴは真剣な顔で報告を始めた。

「フェーニクス様のご指示で早急に支援が必要な土地にはすでに物資が届いています。そこに指導の為に残る人員も物資と共に向かったので、これから報告が上がってくると思いますよ」
「国民はまだまだ結界のあった豊かな生活から抜け出せないでいるだろうからな。今まで当たり前に育ててきた作物が上手く育たなかったり、家畜が死んだり、あちこちで災害が起きたら、受け入れる事は困難だろう」
「その為に準備をされてきたんでしょう? 陛下の名の下に支援をしていますので、国民も安心すると思います」
「そうだな、ご苦労だった。今回の功績を持って復職の許可が出るよう根回し済みだ。今日の会議で承認が下りる。まあ、今反対する者はいないがな」
「それなんですけど……」

 珍しく口ごもるフーゴは、エミリアをちらりと見ると意を決した様に真っ直ぐに立った。

「俺達、フェーニクス領に戻ろうかと思っています」
「騎士団に戻りたくないのか?」
「それも魅力的なんですけど、結構フェーニクス領での仕事にやりがいを感じてしまいまして。広くおおらかな土地が自分には合っているんですよ」
「お前は王都が気に入っていると思っていた」
「そりゃ少し前までは遊ぶ所がないと息がつまりそうだったんですけどね。今は結婚もしたし、クタクタになるまで体を動かして働いて、エミリアの待つ家に帰ってのんびり静かに暮らすのもいいなと」

 後半の方はぼそぼそとか細く消えてしまったが、隣りにいるエミリアの顔が真っ赤になっているところを見ると初めて聞いたのだろう。それならば止める権利はなかった。

「それなら私からも叔父上に一筆書こう。くれぐれも宜しく頼むと」
「ありがとうございます! 子供が生まれて落ち着いたら必ず会いに来ますから」
「楽しみにしているよ。それにしても、人は変わるものだな」

 するとにやにやしたフーゴがグレタと見比べてきた。

「フランツ様もお早くしないと誰かに掻っ攫われますよ。それかフランツ様が行き遅れます」
「誰が行き遅れるって? おい、フーゴ!」

 笑いを堪えながらエミリアと背中を向けて歩き出す二人を見送りながら、ちらりとグレタを見た。

「男も行き遅れになるものなのか?」
「女ほどではありませんが、多少欠陥があるとは思われるかもしれませんね」
「そうなのか……」




 フランツィスはグレタを連れて王城の地下牢へと下がってきていた。ミュラーを捕らえいる牢の前に立つと、牢番の兵士に合図をした。扉が開けられると薄闇の中からギラついた視線が向いた。

「ヘルムート殿下がお目覚めになった。体調が落ち着き次第、あなた方をヴィルヘルミナ帝国との国境までお送りしよう」

 その時初めてミュラーは人らしい表情を戻した。そして重い腰を上げると、躊躇いがちに立ち上がる。そして僅かに迷った後、屈みながら外へと出てきた。

「その者がヘルムート殿下のいらっしゃるお部屋まで案内する」
「いいのか?」

 見下げる程のグレタをじっと見ながら、意地悪そうに笑った。

「私の侍女を侮るな。そこらの騎士よりも強いぞ」

 二人の背中を見送ってから更に廊下を進んでいくと、高位の犯罪者を捕らえておく為の牢の前に立った。

「お前の顔など見たくないわ」
「私だって同じですよ、ヴォルフ侯爵」

 クラウスが大公領に出向いた時期と時を同じくして、この国を転覆させようとした罪で捕らえられたヴォルフは、格子ぎりぎりまで近付いてきた。

「これでアインホルン家の天下だな。陛下もお前に操られているただの傀儡だ!」
「その発言は更に罪が加わりますね」
「今更一つ増えた所で何も変わらん」
「あなたは結界を張っている人柱を壊す為の手助けをしました。それによって国内に出る影響の大きさは計り知れないものだったにも関わらず」
「私は人柱の事を知らなかったんだ! 全てヴィルヘルミナ帝国の者が仕組んだ事だろう! それだけでこのような仕打ちが許されると思っているのか!」

 その時、すっとフランツィスの瞳が細められた。

「アレク殿下を王位につけようと画策していた事は? 証言が取れていますよ。あなたの家で面倒を見ていたパールという女性から」
「知らん。取り引き相手の商家から預かっただけだ」
「パールの身元はヴィルヘルミナ帝国の貴族のご令嬢だそうです。ヘルムート殿下のご証言もあり、身分は保証されております。この国へ来たのは独断だったようですがね」
「全て捏造だ! お前達が罪を軽くするからと迫ったのだろう!」

 フランツィスは呆れて胸元から紙を取り出した。

「この紋章に見覚えは?」

 そこには三本の羽根が描かれていた。

「知らん、見たこともない」
「これはヴィルヘルミナ帝国の公爵家の紋章です。あなたの屋敷の隠し部屋からこれと同じ紋章が刻まれた箱に魔石がぎっしりと詰まっている物が幾つも見つかりました。もともと貴重な魔石を輸入する際は陛下の許可が必要です。それをしなかった事こそ王家を軽んじていた何よりの証拠です」
「知らん! 誰かが我が家に罪を被せる為に運び込んだのだ」

 するとフランツィスは朗らかに笑った。

「まさか! 奥様に了承を得てお屋敷を調べさせて頂きました。その部屋は鍵がなければ入る事は叶いませんでしたからね。パールという女性と、それ以外とも随分派手に遊んでらしたのですね」

 ヴォルフは押し黙ってしまった。

「結界がなくなっても国を守れるよう王家と我がアインホルン家、分家のフェーニクス家は前々から準備を進めていたので後の事はご心配なく。使用人達も雇って差し上げますよ。畑を耕す人手は幾らあっても足りないですから」

 勢いよく伸びてくる手をさっと躱すと、今度はもう一度も振り返らない。響く地下牢で低い雄叫びが聞こえてきていた。
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