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54 変わりゆく世界〈後編〉

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 エーリカは王城の回廊を走っていた。
 紫の離宮へと続く門を抜け屋敷に入ると、二階の一室へと飛び込んだ。扉の前に立っていた護衛の兵士も使用人達も一斉に驚いていたが、今はそんな事どうでもいい。寝室に息を切らして入ると、呆れたようなフランツィスが眼鏡を押し上げて溜め息をついた。

「お前まさか走って来たんじゃ……」 

 小言を無視して寝台に近付くと、そこに見えた姿にエーリカは泣き崩れた。

「良かった、本当に良かった」

 ぎこちない手が頭を撫でてくる。顔を上げると困った顔のヘルムートが長くなった前髪の間から覗いてきていた。

「大丈夫? 私が分かる? もう平気よね?」

 しかし、元気そうだがヘルムートは頷くだけで話そうとはしない。不審に思いフランツィスを見ると、申し訳なさそうに息をついた。

「ヘルムート殿下はお声を発する事が出来ないようだ。先程の医師の診察では異常はないらしい。だからそれが精神からくるものなのか、魔力の影響なのか分からないそうだ」
「声が出せないなんて」

 とっさに不安で一杯の視線を向けてしまったエーリカだったが、ヘルムートはなんて事ないように意地悪な笑みを浮かべている。そしてフランツィスに向けて手を動かした。すぐに寝台横の机に置いてあった紙とペンを渡されると、ぎこちない手で何かを書き始めた。 

――私は完全に魔力切れだったのに、この一ヶ月どうやって生きてきた?

「毎日魔術師達が交代で魔力を与えてくれていたの」

――限界があるだろ。

「そうね。でも自分の寿命は納得しているつもりよ」
「エーリカ……」

 フランツィスの目が一気に潤む。手を重ねてエーリカは笑って見せた。

――オルフェンから伝言があるんだ。遅くなってしまったが間に合って良かった。

「オルフェンから伝言?」

 エーリカはフランツィスと目を合わせると、緊張した面持ちでヘルムートの走らせるペンに集中した。

――泉に行け。お前の中にはまだヴィルヘルミナの核がある。もちろん空っぽだが、泉にはまだ魔力があるから上手くいけばお前はまた魔力を持つ事が出来るかもしれない。

「また魔力が戻るの?」

――その代わり自らの意思で魔力を受け取るんだ。もしヴィルヘルミナの核が目覚めてしまえば、お前は俺の二の舞になるかもしれない。それに、その魔力も尽きれば今度こそ死ぬ。私にはヴィルヘルムの核が入っていたからその苦しみはよく分かっているつもりだ。

「あなたのように他人の過去に振り回されるかもしれないと言う事?」

 神妙な面持ちのヘルムートが頷く。しかしエーリカは笑って首を振った。

「それはないわ。私も魔力酔いでヴィルヘルミナ女王の過去の一部を体験したけれど、あれは私じゃなないもの。いくら過去を見たとしても夢と同じよ。確かに繰り返し見る悪夢は辛いかもしれない。でも、それでも夢なのよ。いつかは消えるわ」

 するとヘルムートは破顔して笑った。もちろん声にはならず、その後咳き込みながら蹲ってしまう。しかし背中をさすろうとする手を押し返された。

「……い、け」

 かすれた声が聞こえる。それも到底声とは言えない空気のようだった。

「ありがとうヘルムート。オルフェン達と一緒にこの国を救ってくれて。あなたは立派な皇帝になるわよ」

 驚くヘルムートにフランツィスが咳払いをした。

「ヴィルヘルミナ帝国から再三使者が来ており、あなたを返すように求めています。現在皇帝の座は空席のようですよ。前皇帝は魔力の暴走によりお亡くなりになられたようで、第一皇女も時を同じくしてお亡くなりなられたとか。詳しい事は他国ですので分かりかねますが、もし戻られるのならばあなたに危害が加わらないよう、アメジスト王国と友好を築いている幾つかの王国が連名で即位を支持すると陛下のお言葉でございます」
「ふふ、驚いているわね。あなたなら信用出来るとクラウス様がおっしゃっているのよ」

――なぜ? 俺はこの国に攻め入った張本人だぞ。

「確かに大きな犠牲があったわ。沢山の人達が命を落とし、住む場所を失い、大地は形を変えてしまった。でも、だからこそ新しくやり直さなくちゃいけないの。蹲ってばかりじゃいられないのよ。だって私達はまだ生きているんだもの」
「お前は早く泉に行って来い! ああそうだ、必ず陛下に声を掛けてから行くんだぞ。お前がいなくなると大騒ぎになるんだからな。あと護衛も連れていけよ!」
「分かっているわよ。ちゃんと寄ってから行くから大丈夫!」


 慌ただしくいなくなるエーリカの背を見つめながら、フランツィスは笑みを消してヘルムートを見返した。

「あなたの側近を捕らえていました。その者も共に解放しましょう」

――ミュラーの事か?

「そうです。あと、パールという女性も」

――パールが迷惑を掛けたな。

「いえいえ、ただの恩情ではありませんよ。あの女性はしっかりと役に立ってくれました。ですから解放はそれに見合った報酬と思って頂ければ結構です」

 怪訝そうに見るヘルムートをよそに、不敵な笑みを浮かべたフランツィスは立ち上がって礼をした。

「まあこれはこちらの事情ですでお話する訳には参りませんが、あなた方が戦っている間にも、我々文官なりの戦い方があったというだけです」

 そういって部屋を出ていくフランツィスは、扉の前で振り返った。

「そう言えば、なぜヴィルヘルミナ女王程の魔力の核を持ちながら、妹には身体への影響がなかったのでしょう? オルフェンがいなくなってしまい、聞く者がいなくなってしまったもので。殿下なら分かりますか? 予想でも構いませんが今後の為に」

 するとヘルムートは紙に書くと丸めて投げてきた。フランツィスはその紙を見て目を見開いた。

「……なるほど、納得です。それなら今後も大丈夫でしょうね」
 今度こそ満足そうに部屋を出ていった。




 慌ただしい声が執務室の中から聞こえてくる。エーリカは今だに連絡なしで執務室を訪れる事に慣れず、心の準備をしていると廊下の先から声を掛けられた。

「エーリカ様、どうなさいました?」

 歩いて来たのは騎士団長のグレヴとミラだった。思わずヒクつきそうになる頬を堪えると、笑ってみせた。

「お久しぶりですね、騎士団長様、ミラ様」

 相変わらず無邪気の笑顔でミラは笑い返してきた。

「エーリカ様もお元気そうで何よりです。クラウス様にご用ですよね? 私が呼んできましょうか? 昨日も来た時も寝ずに働いているようで酷い顔色だったんですよ」

 笑って言うミラに今度こそ頬が引き攣ってしまう。察したのか騎士団は申し訳なさそうに回れ右をすると、ミラの肩を押してもと廊下を行ってしまった。すっかりクラウスに会う気分ではなくなってしまったが、泉に行かなくてはいけない。気が重いまま扉の前にいる騎士に声を掛けた。

「陛下、エーリカ様がいらしております」

 部屋の中の騒音が一気に止まる。そして勢いよく開いた扉からは血の気の引いた文官達がぞろぞろと出てきた。

「ありがとうございますエーリカ様! 助かりました!」

 口々にそう言いながら、目を潤ませている者までいる。何事かと部屋を覗き込むと、慌ただしく部屋を出ていく者達の背中を睨みながら、クラウスは机に寄り掛かっていた。久しぶりに会うクラウスの頬はやつれている。しかしその厳しい表情も、目が合った瞬間すぐに消え去った。

「お忙しい時に申し訳ございません」
「俺の方こそ時間を作ってやれずにすまない。落ち着くにはもう少し時間が必要だな」
「十分に分かっておりますから気にしないでください。そういえばたった今ミラ様にお会いしました。昨日もかなり根を詰められていたと伺い、ご無理をしていないかと心配致しました」
「あの、ミラは別にいつも来ている訳ではなく昨日は……」
「分かっております。私は何とも思っていませんから。少しはクラウス様も息抜きをしなくては駄目ですよ」

 そう言ってクラウスの顔を見ると、真っ直ぐにこちらを見る目と目が合った。嫌味で言ったのではない。実際この一ヶ月はほとんどクラウスと会う事はなかった。もちろん、クラウスがミラと会っていたとも思っていない。壊れた道や家の補修や、結界が消え去った事による影響は大きな不安となって国民を襲っている。そしてヴィルヘルミナ帝国との戦闘の最前線となった大公領の早急な復興など、やる事が山積みでクラウスが倒れてしまわないかが心配だった。だからミラの無邪気な笑顔はさぞ癒やしになるだろう、そう思っての事だった。

「そうだな。確かにミラとは上手くいっている」

 思いがけない言葉に息が詰まる。戸惑って視線を彷徨わせると、クラウスの溜め息が聞こえてきた。

「……そう言ったら満足か? 俺には全くそうは見えないが」

 とっさに顔を上げるとクラウスが寄り掛かっていた腰を上げ、近付いてくる。長い足ですぐに距離を詰められた。

「話す機会がなくてずっと言えていなかったが、もう待てないから俺から話そう。このままエーリカに誤解されたまま、またどこかに消えてしまったら今度こそ俺は俺を許せない」
「あの、クラウス様?」
「昨日ミラはグレヴとの結婚の報告に来たんだ」

 返事が出来ずに固まっていると、大きな手で頬を掴まれた。

「安心したか? ミラはずっとグレヴを想っていたんだ。でもグレヴは騎士団長としての立場もあるし、ずっと面倒を見てきた妹のような存在で年の離れたミラへの気持ちを認めようとしなかったんだ。二人の事だから俺が口を挟むことでもないと思いずっと黙っていた。……エーリカ?」

 頬を動かされて我に返る。そして一気に顔が熱くなるのが分かった。

「クラウス様、手を離して下さい!」
「分かったのなら離す。ちゃんと分かったか? もう変な誤解はしない?」

 甘く見下げられ、離せない視線に困惑してしまう。頬を掴まれて変な表情になっているはずの顔を何度も縦に振った。

「分かりました。もう誤解しませんから離して下さい!」

 すると更に頬を寄せられて唇が尖っていくのが分かる。クラウスはいたずらっぽく口元を上げると、その尖った唇に薄い唇を押し当ててきた。声にならない悲鳴を上げる。息も出来ないまま目を見開いていると、ぱっと手が離された。

「クラウス様は意地悪です!」

 するとクラウスは嘘偽りのない少年のような顔で笑った。

「最初に意地悪をしたのはエーリカだ。俺とミラの事を何とも思っていないと言われた時、どんな気持ちだったか分かるか?」
「それは、ごめんなさい」
「慌ただしくしていたがこれ以上逃げる口実を与える気はない。君の気持ちを聞かせてくれ」

 もう逃げる事は出来ない。それはもう十分に分かっていた。クラウスが迫るように更に身体を近付けてくる。長い指が顎を掬ってきた。

「私は、私の気持ちは、クラウス様をお慕いしています」

 その時、力強い腕で腰を抱き寄せられ、驚いた口の隙間から熱い舌が滑り込んできた。呼吸さえも飲み込む様な激しい口付けが何度も何度も襲ってくる。ようやく離れた時、伸びた唾液を下唇ごと舐め取られた。

「最初からこうしていれば良かった。俺はなんて愚かな意地を張っていたんだ。無意味にオルフェンに嫉妬なんかして」
「師匠ですか? なぜ師匠に嫉妬を? 見た目が変わらないだけでおじいちゃんですよ?」
「そうは言ってもこの国一番の魔術師で、あの見た目だろ。そりゃ嫉妬もするさ」
「でもクラウス様は王子で、今は国王様で、それに見た目だって素敵だし、優しいし、そんな風に落ち込むところは可愛いし……」

 とっさに言葉を止めたがむっとしたクラウスが覗き込んでくる。

「最後の言葉は取り消させなくてはな」

 もう一度、色気に満ちた顔が近づいてくる。そしてクラウスは僅かに開いた扉からお茶の入ったカートを持ってきた侍女と目が合った。エーリカの腰に回していた後ろの手をシーッと口元に持っていく。侍女は慌てて扉を閉めた。

「クラウス様、今……」

 その瞬間、再び後ろに反るほどの深い口付けが落ちてきた。
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