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44 フェーニクス領へ〈後編〉
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「お兄様ったら酷い顔ね」
「眠れなくてな。昨晩は本当に酷い目に遭った」
フランツィスは何故が使用人達を睨み付けている。その二人がそそくさと馬に乗ると、今度はその視線をグレタに向けた。
「やっぱり上質なベッドでしか眠った事のないお兄様には、町のベッドは無理だったようね」
「お前はぐっすりで何よりだよ」
「あまり神経質だとモテないわよ」
「俺はモテるから問題ない!」
急に声を荒げたフランツィスに若干引き気味になりながら、エーリカも馬車へと乗り込んだ。
「寝不足で苛々しているわね」
向かい側に座ったフランツィスはまだグレタを見つめていた。
「お兄様、そんなに見つめたらグレタに穴が開いてしまうわ」
「見つめてない!」
「そんな風に否定しなくてもいいじゃない」
横に座るグレタは小さくなっており、フランツィスは不貞腐れたように窓の外を見つめた。
「俺は眠るから静かにしろよ」
「……全く、こいつは本当にどこでも眠れるんだな」
フランツィスよりも早く眠りについたエーリカは、グレタの肩を枕にして寝ながら微笑んでいた。
「昨晩は申し訳ございませんでした。足を踏み付けただけでなく、主を廊下に放置するなど使用人としてあるまじき行為です。これでフランツィス様が体調を崩されでもしたら私は死んでも死にきれません」
「俺はそんなに貧弱じゃないからな。それより、お前こそ昨晩はどうしたんだ?」
「どうしたとは?」
「普段のお前ならヴォルフ侯爵家の尾行に気づいただろうし、魔石の効果で見せる違和感にも気がついていたはずだ」
「申し訳ございません」
「理由を聞いているんだ。お前こそどこか体調が悪いんじゃないか?」
「どこも悪くありません。ただ、私は“鼠”として信用されていないのだと痛感していただけです」
「見張りを外した事をまだ根に持っているのか?」
「まあ、そんな所ですよ」
「あいつに籠絡されたくなかった」
「えぇ……え!?」
「お前あの時あいつに見惚れていただろう? 捕らえている者に心を奪われたら逃がす手助けをしてしまうかもしれない。不安な芽は小さい内に摘まなくてはな」
「私があの者の逃走を手伝うかもしれないと、そう思われたのですか?」
「興奮するな。エーリカが起きるだろ」
「分かりました。私も少しは“鼠”として十分に役立つという事を証明してみせます」
「お前には“鼠”の仕事よりもエーリカのそばにいて欲しいんだよ。他の仕事はやらなくていい」
「いいえフランツィス様。もちろんエーリカ様の事をお守りするのは最重要任務です。でも私も“鼠”の端くれ。必ず役に立って見せます!」
フランツィスはグレタの勢いに負け、ごくりと喉を鳴らすと頷いた。
王都を出てから五日目、宿もかなりの大きさで街全体が潤っているように見えたが、確信したのは食事での時だった。
「こんなにいいのかしら」
一階が食堂になっている宿を取ったので、食事は運ばれるのではなく皆で机を囲んでのものだった。そして出てきた食事に思わずごくりと喉が鳴ってしまう。出てきたのは鳥の丸焼きに、根菜炒め、スープからは湯気が立ち昇っており、もちろん具沢山だ。パンは硬い物と柔らかい物があり、おかずに合わせて選ぶ事ができる。トロトロのチーズを掛けてお肉を頬張った時、自然に声が漏れていた。
「おいしいぃ!」
フランツィスは鼻で笑いながら料理に手を付けていく。庶民の食堂で出される食事をどう感じるのか横目で観察していると、まんざらでもない表情にエーリカは一安心した。別の机では使用人達も食事を始めている。しかしグレタは黙々とフランツィスに取り分けているだけ。エーリカは一人だけ食事を取っていないグレタの手を掴んだ。
「グレタも食べて。冷めるわよ」
「それではあちらで……」
グレタが離れようした時、フランツィスはグレタの前に皿を置いた。
「ここで食べろ。あっちはすでに残っていないようだしな」
使用人達の机にはまだ沢山の料理が並んでいる。しかしフランツィスは勝手に料理を皿に乗せた。
「ほら食べろ。好き嫌いはないだろ」
「でも……」
「温かい料理なんて滅多に食べられないんだからちゃんと食べろ」
グレタは観念したのか、気まずそうに料理を一口運んだ。エーリカは二人のやり取りを見つめながら、ぽつりと零した。
「お兄様って過保護よね。それとも長男という性質上、誰でもそうなのかしら」
「一般的な長男には当てはまらないと思います。大分拗らせていますし」
「性格が拗れているという事? それなら納得ね」
「エーリカ! それにグレタも食事中に無駄話をするな」
エーリカはとっさにパンを掴むと、話を逸らすように口に放り込んだ。
「それにしてもこの町は気前がいいわね。なんだか雰囲気も柔らかくて良い街みたい。まだ結界がなくなった事への影響が出ていないみたいで安心したわ」
「確かにうちはまだましな方ですね」
そう言って話に入ってきたのは宿の女将だった。貸し切りにした手前代金をはずんだせいで良家の一行だとでも思われているのだろう。明らかに機嫌が良いのは表情で分かった。
「結界がなくとも気持ちにゆとりがあればこうして暮らせるんですよ」
「結界がなくなってしまったのに不安はないの?」
皿には果物の盛り合わせが乗っている。その中には王都でも見た事のない物があった。
「そりゃフェーニクス家の皆様のおかげですよ。結界が消える前からここら一帯に色々な支援をしてくれていますから。これもその一つで試食というやつだそうです。ささッ、遠慮しないで食べてくださいね」
女将が豪快に皿を置いて机を離れていくなり、フランツィスは何故か盛大な溜息をつくと皿をエーリカとグレタの方に寄せた。
「……ご厚意だから頂きなさい」
「お兄様、フェーニクス領はどのような支援を……」
「エーリカ、食事中は話をしないようにとさっきも言ったはずだ」
腑に落ちないまま、くし型に切られた黄色い果物をフォークで刺して口に入れた。その瞬間、ねっとりとした甘みと瑞々しさに、すっかり話題を変えられてしまった事にも気が付かなかった。
馬車はようやく舗装された道に入ったようで、次第に振動が少なくなっていく。
見えてきたのは大きな街の入口だった。城壁がない代わりに、見張り塔と宿舎のような建物がずらりと並んでいる。フェーニクス領はホフマン領に負けず劣らずの軍隊を持っている。しかし兵士の姿は見張りくらいしか見当たらない。その代わり、馬車を見つけるなり大きく手を振っていた男性が目に入った。手を振っていた男性は嬉しそう止まった馬車に駆け寄ってくる。フランツィスは窓を開けると身を乗り出した。
「久しいなフーゴ。元気でやっていたか?」
「フランツ様お久しぶりです! 元気も元気、この通りです!」
「戻してやれなくてすまないな。もう少しの辛抱だ。陛下も気に掛けていたぞ」
「俺は楽しくやっているんで、気長に待ちますよ! それにほら、俺ってば身体を動かすのが好きでしょう? だからある意味有意義っていうか」
「それならもう騎士は辞めるのか」
「辞めません! 誤解ですったらフランツ様!」
フーゴはちゃっかり御者台に乗り込むと、何故か歓声を上げてくる人々に手を振っていた。
「すごい歓迎ですね」
グレタは思わず言葉を溢した。フェーニクス辺境伯の領地は、王都に次ぐ大きな街になっていた。街の中には木々や花々が多く、家も一つ一つが大きく豊かに見える。大通りを進んでいくと、やがて城が見えてきた。
「あれがフェーニクス家のお城なのね。なんて大きいの」
「正直、他の領主の城や屋敷と比べても大きいかもしれないな」
「国境付近だからもっと殺伐とした所を想像していたの。だってホフマン辺境伯の領地はあまり色味がなかったから」
「あそこはヴィルヘルミナ帝国と常に小競り合いをしているからな。ここはヴィルヘルミナ帝国の脅威がない分、独自に進化を遂げてきたんだ」
「グレタから聞いたんだけどたまにここへ来ていたんですって?」
フランツィスはとっさにグレタを見たが、グレタは気が付かない素振りで窓の外を見つめていた。
「隠さなくてもいいじゃない。こんなに素敵な場所ならもっと早く知りたかったわ」
馬車は大きく回りながら屋敷の前に止まる。家令と思われる背筋の伸びた老人が出てくると、嬉しそうに目を細めて頭を下げた。
「これはこれはフランツ坊ちゃん、お久しぶりでございます。おや、そちらのお方はもしや奥方様ですかな?」
「違う! 妹のエーリカだ、忘れたのか?」
「エーリカお嬢様でしたか。この老いぼれ、フランツ坊ちゃんの結婚を夢見るあまり幻覚を見てしまったようです」
フランツィスの慌てふためく様子が珍しくてしばらく見ていると、奥からフランツィス位の年の男性が向かってきた。アインホルン家に多く生まれるピンクブロンドの髪を短く切り、軍服の出で立ちの男性が家令の横に立った。そのままフランツィスと手を引き合うように親しげな挨拶をする。フランツィスも背は高い方だが、身長に加え肩幅と胸板の厚い身体はフランツィスが普通に見える程だった。
「エーリカだな? 見違える程に美しくなったな」
「私達、初めましてではないのですか?」
すると驚いたように切れ長の目が見開かれた。
「小さい頃に会ったきりだったからな。ここへ来た時に俺にばかり懐くものだから、なぜかそれ以降は連れて来なくなったよな? 俺はマリウス・フェーニクスだ。フランツとは同じ年だから兄が二人いると思ってくれて構わないぞ」
「相変わらず馴れ馴れしい奴め」
まさかフランツィスに兄弟のような関係の親戚がいたとは驚きだった。
「それでは遠慮なくそう思わせて頂きますね。ところで、着いて早々申し訳ないのですが両親はどちらにおりますか?」
「ああ、叔父上達なら父と共に裏手の畑にいるよ。丁度芋を掘っている頃だと思うぞ」
――畑? 芋??
何の事か分からずに固まっていると、隣で吹き出したフランツィスを睨みつけた。
「お兄様、ご説明して下さる?」
笑いを誤魔化そうとして咳払いをするその姿が苛立たしくなってくる。堪らずにエーリカはマリウスに近づいた。
「その畑にお連れ下さいますか?」
状況を察知したマリウスはわざとらしく腕を前に出すと、エスコートされるままに屋敷の中に入っていった。
広い玄関を突き抜けるようにして向こう側にも扉がある。その扉は閉められていたがマリウスが近づくと、待機していた兵士がゆっくりと開いていった。
扉が開いた先の視界には、息をする事を忘れる程に雄大な光景が広がっていた。見渡す限りの畑には沢山の人々が、おそらく野菜の収穫をしている。その奥にはどこまでも続く地平が見える。
「ここがフェーニクス家の農場兼、作物の試験場だ。街がすっぽりと入る位の大きさだからここから全てを見通す事は出来ないがな。我が領土の収入源の一つだ」
「作物の試験場、ですか?」
「どの野菜や果物が育てやすいか、どの時期に良く出来るのかなども調べているんだ。今後は栽培方法と共に種や苗を各地に配っていく手配が出来ているから、今後は徐々にアメジスト王国の食料も安定していくだろう。今食料が不足している地域には食材が採れるようになるまで優先的に補給庫から支援する手はずがすでに整っている」
「こんなに壮大で素晴らしい事をされているなんて……」
するとマリウスは小さく笑って悪戯げにフランツィスを見た。
「もちろんこれは国家戦略だよ。王家も昔から協力してくれている。王家というか、今の陛下が王子の時代からね」
「クラウス様が? そんな話初めて聞きました」
「まあ一応極秘事業だしな。ほらエーリカ、叔父上達はあの辺りに……」
優しく微笑みながら左奥の畑に向かって手を振る。最初はただ手を振り返しているようだったが、立っているのが誰なのかが分かった瞬間、走り出してきた。
「……リカ、エーリカッ!」
土に塗れ、頬にも茶色い土を付けたその姿は元侯爵家当主だったとは思えない程に酷い格好だった。父親は畑のぬかるみに足を取られながらも近付いてくると、泥まみれの手で思い切り抱き締めてきた。土の匂いと青臭い葉の匂いがする。エーリカは驚いたまま固まっていた。
「本当にエーリカなのか? よく顔を見せてくれ。ああ、髪を染めて短くしたのか。その髪型もよく似合っているよ。なあお前」
ヨシアスは髭の生えた口元を綻ばせると、玄関の中を覗いた。
「お母様!」
その瞬間、今度は後ろから抱きしめられた。
「眠れなくてな。昨晩は本当に酷い目に遭った」
フランツィスは何故が使用人達を睨み付けている。その二人がそそくさと馬に乗ると、今度はその視線をグレタに向けた。
「やっぱり上質なベッドでしか眠った事のないお兄様には、町のベッドは無理だったようね」
「お前はぐっすりで何よりだよ」
「あまり神経質だとモテないわよ」
「俺はモテるから問題ない!」
急に声を荒げたフランツィスに若干引き気味になりながら、エーリカも馬車へと乗り込んだ。
「寝不足で苛々しているわね」
向かい側に座ったフランツィスはまだグレタを見つめていた。
「お兄様、そんなに見つめたらグレタに穴が開いてしまうわ」
「見つめてない!」
「そんな風に否定しなくてもいいじゃない」
横に座るグレタは小さくなっており、フランツィスは不貞腐れたように窓の外を見つめた。
「俺は眠るから静かにしろよ」
「……全く、こいつは本当にどこでも眠れるんだな」
フランツィスよりも早く眠りについたエーリカは、グレタの肩を枕にして寝ながら微笑んでいた。
「昨晩は申し訳ございませんでした。足を踏み付けただけでなく、主を廊下に放置するなど使用人としてあるまじき行為です。これでフランツィス様が体調を崩されでもしたら私は死んでも死にきれません」
「俺はそんなに貧弱じゃないからな。それより、お前こそ昨晩はどうしたんだ?」
「どうしたとは?」
「普段のお前ならヴォルフ侯爵家の尾行に気づいただろうし、魔石の効果で見せる違和感にも気がついていたはずだ」
「申し訳ございません」
「理由を聞いているんだ。お前こそどこか体調が悪いんじゃないか?」
「どこも悪くありません。ただ、私は“鼠”として信用されていないのだと痛感していただけです」
「見張りを外した事をまだ根に持っているのか?」
「まあ、そんな所ですよ」
「あいつに籠絡されたくなかった」
「えぇ……え!?」
「お前あの時あいつに見惚れていただろう? 捕らえている者に心を奪われたら逃がす手助けをしてしまうかもしれない。不安な芽は小さい内に摘まなくてはな」
「私があの者の逃走を手伝うかもしれないと、そう思われたのですか?」
「興奮するな。エーリカが起きるだろ」
「分かりました。私も少しは“鼠”として十分に役立つという事を証明してみせます」
「お前には“鼠”の仕事よりもエーリカのそばにいて欲しいんだよ。他の仕事はやらなくていい」
「いいえフランツィス様。もちろんエーリカ様の事をお守りするのは最重要任務です。でも私も“鼠”の端くれ。必ず役に立って見せます!」
フランツィスはグレタの勢いに負け、ごくりと喉を鳴らすと頷いた。
王都を出てから五日目、宿もかなりの大きさで街全体が潤っているように見えたが、確信したのは食事での時だった。
「こんなにいいのかしら」
一階が食堂になっている宿を取ったので、食事は運ばれるのではなく皆で机を囲んでのものだった。そして出てきた食事に思わずごくりと喉が鳴ってしまう。出てきたのは鳥の丸焼きに、根菜炒め、スープからは湯気が立ち昇っており、もちろん具沢山だ。パンは硬い物と柔らかい物があり、おかずに合わせて選ぶ事ができる。トロトロのチーズを掛けてお肉を頬張った時、自然に声が漏れていた。
「おいしいぃ!」
フランツィスは鼻で笑いながら料理に手を付けていく。庶民の食堂で出される食事をどう感じるのか横目で観察していると、まんざらでもない表情にエーリカは一安心した。別の机では使用人達も食事を始めている。しかしグレタは黙々とフランツィスに取り分けているだけ。エーリカは一人だけ食事を取っていないグレタの手を掴んだ。
「グレタも食べて。冷めるわよ」
「それではあちらで……」
グレタが離れようした時、フランツィスはグレタの前に皿を置いた。
「ここで食べろ。あっちはすでに残っていないようだしな」
使用人達の机にはまだ沢山の料理が並んでいる。しかしフランツィスは勝手に料理を皿に乗せた。
「ほら食べろ。好き嫌いはないだろ」
「でも……」
「温かい料理なんて滅多に食べられないんだからちゃんと食べろ」
グレタは観念したのか、気まずそうに料理を一口運んだ。エーリカは二人のやり取りを見つめながら、ぽつりと零した。
「お兄様って過保護よね。それとも長男という性質上、誰でもそうなのかしら」
「一般的な長男には当てはまらないと思います。大分拗らせていますし」
「性格が拗れているという事? それなら納得ね」
「エーリカ! それにグレタも食事中に無駄話をするな」
エーリカはとっさにパンを掴むと、話を逸らすように口に放り込んだ。
「それにしてもこの町は気前がいいわね。なんだか雰囲気も柔らかくて良い街みたい。まだ結界がなくなった事への影響が出ていないみたいで安心したわ」
「確かにうちはまだましな方ですね」
そう言って話に入ってきたのは宿の女将だった。貸し切りにした手前代金をはずんだせいで良家の一行だとでも思われているのだろう。明らかに機嫌が良いのは表情で分かった。
「結界がなくとも気持ちにゆとりがあればこうして暮らせるんですよ」
「結界がなくなってしまったのに不安はないの?」
皿には果物の盛り合わせが乗っている。その中には王都でも見た事のない物があった。
「そりゃフェーニクス家の皆様のおかげですよ。結界が消える前からここら一帯に色々な支援をしてくれていますから。これもその一つで試食というやつだそうです。ささッ、遠慮しないで食べてくださいね」
女将が豪快に皿を置いて机を離れていくなり、フランツィスは何故か盛大な溜息をつくと皿をエーリカとグレタの方に寄せた。
「……ご厚意だから頂きなさい」
「お兄様、フェーニクス領はどのような支援を……」
「エーリカ、食事中は話をしないようにとさっきも言ったはずだ」
腑に落ちないまま、くし型に切られた黄色い果物をフォークで刺して口に入れた。その瞬間、ねっとりとした甘みと瑞々しさに、すっかり話題を変えられてしまった事にも気が付かなかった。
馬車はようやく舗装された道に入ったようで、次第に振動が少なくなっていく。
見えてきたのは大きな街の入口だった。城壁がない代わりに、見張り塔と宿舎のような建物がずらりと並んでいる。フェーニクス領はホフマン領に負けず劣らずの軍隊を持っている。しかし兵士の姿は見張りくらいしか見当たらない。その代わり、馬車を見つけるなり大きく手を振っていた男性が目に入った。手を振っていた男性は嬉しそう止まった馬車に駆け寄ってくる。フランツィスは窓を開けると身を乗り出した。
「久しいなフーゴ。元気でやっていたか?」
「フランツ様お久しぶりです! 元気も元気、この通りです!」
「戻してやれなくてすまないな。もう少しの辛抱だ。陛下も気に掛けていたぞ」
「俺は楽しくやっているんで、気長に待ちますよ! それにほら、俺ってば身体を動かすのが好きでしょう? だからある意味有意義っていうか」
「それならもう騎士は辞めるのか」
「辞めません! 誤解ですったらフランツ様!」
フーゴはちゃっかり御者台に乗り込むと、何故か歓声を上げてくる人々に手を振っていた。
「すごい歓迎ですね」
グレタは思わず言葉を溢した。フェーニクス辺境伯の領地は、王都に次ぐ大きな街になっていた。街の中には木々や花々が多く、家も一つ一つが大きく豊かに見える。大通りを進んでいくと、やがて城が見えてきた。
「あれがフェーニクス家のお城なのね。なんて大きいの」
「正直、他の領主の城や屋敷と比べても大きいかもしれないな」
「国境付近だからもっと殺伐とした所を想像していたの。だってホフマン辺境伯の領地はあまり色味がなかったから」
「あそこはヴィルヘルミナ帝国と常に小競り合いをしているからな。ここはヴィルヘルミナ帝国の脅威がない分、独自に進化を遂げてきたんだ」
「グレタから聞いたんだけどたまにここへ来ていたんですって?」
フランツィスはとっさにグレタを見たが、グレタは気が付かない素振りで窓の外を見つめていた。
「隠さなくてもいいじゃない。こんなに素敵な場所ならもっと早く知りたかったわ」
馬車は大きく回りながら屋敷の前に止まる。家令と思われる背筋の伸びた老人が出てくると、嬉しそうに目を細めて頭を下げた。
「これはこれはフランツ坊ちゃん、お久しぶりでございます。おや、そちらのお方はもしや奥方様ですかな?」
「違う! 妹のエーリカだ、忘れたのか?」
「エーリカお嬢様でしたか。この老いぼれ、フランツ坊ちゃんの結婚を夢見るあまり幻覚を見てしまったようです」
フランツィスの慌てふためく様子が珍しくてしばらく見ていると、奥からフランツィス位の年の男性が向かってきた。アインホルン家に多く生まれるピンクブロンドの髪を短く切り、軍服の出で立ちの男性が家令の横に立った。そのままフランツィスと手を引き合うように親しげな挨拶をする。フランツィスも背は高い方だが、身長に加え肩幅と胸板の厚い身体はフランツィスが普通に見える程だった。
「エーリカだな? 見違える程に美しくなったな」
「私達、初めましてではないのですか?」
すると驚いたように切れ長の目が見開かれた。
「小さい頃に会ったきりだったからな。ここへ来た時に俺にばかり懐くものだから、なぜかそれ以降は連れて来なくなったよな? 俺はマリウス・フェーニクスだ。フランツとは同じ年だから兄が二人いると思ってくれて構わないぞ」
「相変わらず馴れ馴れしい奴め」
まさかフランツィスに兄弟のような関係の親戚がいたとは驚きだった。
「それでは遠慮なくそう思わせて頂きますね。ところで、着いて早々申し訳ないのですが両親はどちらにおりますか?」
「ああ、叔父上達なら父と共に裏手の畑にいるよ。丁度芋を掘っている頃だと思うぞ」
――畑? 芋??
何の事か分からずに固まっていると、隣で吹き出したフランツィスを睨みつけた。
「お兄様、ご説明して下さる?」
笑いを誤魔化そうとして咳払いをするその姿が苛立たしくなってくる。堪らずにエーリカはマリウスに近づいた。
「その畑にお連れ下さいますか?」
状況を察知したマリウスはわざとらしく腕を前に出すと、エスコートされるままに屋敷の中に入っていった。
広い玄関を突き抜けるようにして向こう側にも扉がある。その扉は閉められていたがマリウスが近づくと、待機していた兵士がゆっくりと開いていった。
扉が開いた先の視界には、息をする事を忘れる程に雄大な光景が広がっていた。見渡す限りの畑には沢山の人々が、おそらく野菜の収穫をしている。その奥にはどこまでも続く地平が見える。
「ここがフェーニクス家の農場兼、作物の試験場だ。街がすっぽりと入る位の大きさだからここから全てを見通す事は出来ないがな。我が領土の収入源の一つだ」
「作物の試験場、ですか?」
「どの野菜や果物が育てやすいか、どの時期に良く出来るのかなども調べているんだ。今後は栽培方法と共に種や苗を各地に配っていく手配が出来ているから、今後は徐々にアメジスト王国の食料も安定していくだろう。今食料が不足している地域には食材が採れるようになるまで優先的に補給庫から支援する手はずがすでに整っている」
「こんなに壮大で素晴らしい事をされているなんて……」
するとマリウスは小さく笑って悪戯げにフランツィスを見た。
「もちろんこれは国家戦略だよ。王家も昔から協力してくれている。王家というか、今の陛下が王子の時代からね」
「クラウス様が? そんな話初めて聞きました」
「まあ一応極秘事業だしな。ほらエーリカ、叔父上達はあの辺りに……」
優しく微笑みながら左奥の畑に向かって手を振る。最初はただ手を振り返しているようだったが、立っているのが誰なのかが分かった瞬間、走り出してきた。
「……リカ、エーリカッ!」
土に塗れ、頬にも茶色い土を付けたその姿は元侯爵家当主だったとは思えない程に酷い格好だった。父親は畑のぬかるみに足を取られながらも近付いてくると、泥まみれの手で思い切り抱き締めてきた。土の匂いと青臭い葉の匂いがする。エーリカは驚いたまま固まっていた。
「本当にエーリカなのか? よく顔を見せてくれ。ああ、髪を染めて短くしたのか。その髪型もよく似合っているよ。なあお前」
ヨシアスは髭の生えた口元を綻ばせると、玄関の中を覗いた。
「お母様!」
その瞬間、今度は後ろから抱きしめられた。
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