37 / 63
37 空白の期間
しおりを挟む
グレタがいなければ応接間には血の雨が降っていた。
フランツィスは王城努めの文官だが、アインホルン家独自の組織である諜報組織の狩り担当“猫”として訓練を受けている。普段は見せないが、暗殺にかけては組織の中でも上位の力を持っていた。フランツィスはヘルムートの正体を知るなり、机の裏に隠されていた剣を素早く抜くとヘルムートの目前に振り下ろした。切っ先は白銀の前髪を数本切って止まっている。僅かに届かなかった剣の柄には、グレタが投げ掛けた黒いリボンが絡まっていた。ぎりぎりと音を立てて切れずにいるリボンを見ればただの紐ではないと分かる。エーリカは何が起こったのか分からないまま、呆然と机の上の光景を見ていた。
「ただの情緒不安定な男ではないと言う訳か」
剣は更に進もうとする。しかしヘルムートはソファの上を掴むと体を持ち上げて剣を横から蹴った。乾いた音を立てて刃は真っ二つになり絨毯に突き刺さる。それと同時にいつの間にかグレタが持つ短剣が、フランツィスの目前を通り過ぎた足を掠めて机に突き刺さっていた。
「なぜ魔力を使わなかった? 噂通りの魔力があるならば俺達を一瞬で殺せたはずだ」
力を緩めたフランツィスにヘルムートもソファに座り直す。二人が警戒を解いたのを見て、最後にグレタが机に突き刺さった短剣を抜いた。
「何しているのあなた達! グレタまで!」
「エーリカ、質問はこちらがする。お前は少し黙っていろ」
フランツィスは乱れた前髪をかき上げた。
「魔力を失ったようだな?」
「もうすっからかんだ」
隠すかと思ったがあっけらかんと話すヘルムートに驚いていると、黙っていろと言わんばかりに目で制される。その態度にも苛立たったのかフランツィスが盛大な舌打ちをした。
「本当なら今すぐに捕らえなくてはいけないが、まずはこの四ヶ月もの間お前はどこで何をしていた? 俺達がどれだけ心配していたか分かっているのか」
「ごめんなさい。ちゃんと説明するから、お父様達は今どこに? それと出来ればオルフェンも呼んで同席してもらいたいの」
「父上は体調を崩され、俺に当主の座を譲られると母上と共に領地に戻られた。今は俺が宰相の任も拝命したんだ。それとオルフェン殿はすぐには来られない。……今も大公領におられる」
「大公領にいるなら仕方ないわね。後で物凄く怒られそうだけど。それでお父様は大丈夫なのよね?」
「しばらく王都から離れて療養すれば元気になるだろ」
するとフランツィスの視線が痛々しいものに変わった。
「陛下がどれだけお前を心配して心を砕かれていたか考えた事があるか?」
「探されているとは思っていたわ」
「四ヶ月もの間、男と……しかもこの国を襲った張本人と過ごしておいて、陛下と父上達に何て説明する気なんだ。お前まで捕らえられてしまうぞ!」
言葉が出てこない。代わりに流したくない涙が溢れてくる。泣きたくなどない。止めたいのに今まで堪えていたものが堰を切ったように溢れて止める事が出来なかった。
「だから戻るのはやめろと言っただろ? もう魔力はないんだ、これ以上国の為に犠牲になるなんて馬鹿げている」
「待て、魔力がないだと? 本当なのかエーリカ!」
「本当よ。あの時に使い果たしてしまったの」
あの日、腹に受けた傷と共に残り僅かだった魔力が体外へ流れ出ていくのを感じていた。目の前にヘルムートの姿を見た時は殺されると思ったと同時に、これで解放されるとも思ってしまった。だからこれは罰なのだろう。国を、人々を守る力を持ちながらそれを手放そうとした罰。
意識を取り戻したのはあの魔術師の山が落下した日から二ヶ月も経っていた。
「本当はあの時死んでいたはずなの。でも水の魔力が強く人柱のある泉と繋がって、それから二ヶ月間ずっと泉の中にいたみたい。私は眠って起きただけの感覚だったけれど、力の入らない体に初めて二ヶ月も眠っていたんだと思い知らされたわ。だからその後の二ヶ月は泉から一番近い町で暮らしていたの」
「泉の中だなんてそんな事、本当に可能なのか?」
「その泉に満ちる魔力が傷を癒してくれたみたい。私が補強の為にほとんどの魔力を注いだ人柱がある泉だったから強く繋がって体も馴染んだんだと思うわ。あの日は激しく雨が降っていたし。でも傷が癒えて泉から浮き上がってきた私を助けてくれたのはこの人よ」
ヘルムートは確かにこの国を脅かした張本人で、他の人々から見れば恐ろしい敵国の皇太子。それでもこの二ヶ月、片時も離れず常に守ってくれたのもまた事実だった。
「見捨てる事も出来たはずなのに、生きているのかも分からない私を待ち続けてくれたわ」
「それなら陛下も待っていたぞ、俺達も。安否が分からないまま待ち続ける気持ちが分かるか? お前は戻るつもりだったかもしれないが、俺達は後にも先にも進めずにいたんだ」
珍しく眼鏡の奥で目を赤くしているフランツィスを見ていると胸が締め付けられた。
「お前達が暮らしていたその町には何度も“猫”を送っていたのに、どうやって隠れていたんだ?」
「見つからないように町の離れに住んでいたわ」
すると盛大な溜息が返ってきた。
「たかが住まいを見つかりにくい所にしたくらいで“猫”から逃れられる訳ないだろう!」
「そう言えばそうよね。あなた何か分かる?」
ヘルムートは面倒そうに足元を見た。一緒に覗いてみたがそこには何もいない。それでも足に大きな何かがするりと触れながら通り過ぎていく感覚があった。
「もしかしてモフとシロちゃんが?」
「フンッ」
ヘルムートは不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。
「何か分かったのか? おいエーリカッ」
「えっと、協力者がいたのよ」
「どこのどいつだ。ただじゃおかん!」
「そんな風に言うのなら教えないわ」
じっと見つめられたフランツィスは一瞬たじろぐと、立ち上がった。
「まだ話はあるがとりあえず少し休め、酷い顔だぞ。それと当分の間は屋敷から出るなよ。今後については俺が決める」
「待ってお兄様、婚約解消の書類を用意して下さい!」
動き出そうとしたフランツィスは、言われた事を理解できていないように立ち尽くした。
「私、クラウス様との婚約を解消しに戻ってきたの」
力が抜けたようにソファに戻ったフランツィスは、目頭を揉みながら顔を押さえた。
「国王陛下との婚約をこちらから解消出来る訳がないだろ」
「お兄様にはお伝えしていなかったけれど、元はと言えばこの結婚は前国王陛下が結界魔術師の私の為に結んで下さった縁談だったの。でも私はもう魔力を失ってしまった。だからもうクラウス様とは結婚出来ないわ」
「エーリカ……」
「それにクラウス様は側室を娶られるご予定だとか。娶りたいお方がいるのならなおさら私との婚約は弊害だと思うの。だからお願いします。お兄様なら書類をお手配出来ますよね?」
深い溜め息と共に返ってきたのはがっかりする返答だった。
「今の国王はクラウス様だから、クラウス様の許可が下りない限り婚約解消は不可能だ」
「それならクラウス様にお願いしてきて下さい」
「……お許しになる訳がないだろ。お前は本当に疎いのだな。最も陛下も人の事は言えないが。とにかく内密に陛下と謁見させてやるから、二人でちゃんと話し合え」
「なぜ? お兄様がクラウス様にお話をしてくだされば宜しいのでは?」
すると視線はヘルムートへに向いた。
「陛下がお前に会わないまま承諾する訳ないだろう。それにまだ陛下に全てをお話する訳にはいかない。下手をすれば我が家だけでなく、アインホルン家に連なる者全てが捕らえられるかもしれない事態なんだぞ。だが、よい切り札を得られたとも言えるな」
口の端を上げて不敵に笑った。
「今ヴィルヘルミナ帝国は傍観を貫いている。よって国境は常に緊張が絶えないが、お前達が現れた事で理解出来たよ」
ヘルムートは意図を理解しているのか、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「ヴィルヘルミナ帝国は第三皇太子の生死を今だ知り得ていないのだろう? だから我が国に捕虜として捕らえられている可能性を捨てきれずに侵攻に踏み切れないでいる。違うか?」
ヘルムートは黙ったままだったが、エーリカが知りたそうに顔を覗くと観念した様に話し始めた。
「私の魔力の暴走を恐れているのだろうな。皇帝は昔から私の魔力を極端に恐れていた」
「……意外だな。まさかここまで素直だとは」
「悪い人ではないのよ。魔力のないヘルムートをヴィルヘルミナ帝国に返せば殺されてしまうわ」
「だから我が国で匿えと? 出来る訳がないだろ!」
「別に帰れない訳じゃない。お前も付いてくるなら国に帰るつもりだと言っているだろう」
「私は行かないと言っているでしょ」
「お前達確認だが、妙な関係ではないよな?」
ヘルムートは腕を回すとエーリカの肩を抱き寄せた。
「私はいつでも妙な関係になってもいいと思っている。だから早く私のものになれ」
白銀の前髪の間から目を細めて頬を救うように指で撫でられた。その時、こつんと足元に何かがぶつかる。机の下を見るとそこにはシロが座っていた。すぐに抱き上げて膝の上に乗せる。モフはいないのかと見渡したが、姿を消しているのか見つける事は出来なかった。白く柔らかい毛を撫でると、恐ろしい形相だったフランツィスの目はシロに釘付けになっていた。
「その生き物はなんだ。そのフワフワの生き物は……」
「シロよ、この子も魔獣なの。今は姿を見せる気でいてくれるから魔力のない私でもお兄様でも見えるのよ。この子が協力者よ。あとモフには以前会った事があるわよね。でも今は姿を現す気はないみたい。お兄様がただじゃ置かないなんて言うからよ」
意地悪のつもりで言ったが、フランツィスは申し訳無さそうにシロを見ると、無意識に手を伸ばしていた。
「こんなに愛ら……普通の動物のような姿でも魔獣とは驚きだな」
「お兄様の膝に行く?」
するとシロは拒否するように飛ぶと絨毯の上に下りた。あからさまにがっかりする姿に笑いを堪えながら、自己紹介をするように姿を見せてくれたシロに礼を言った。
深い寝息を立てている妹の寝顔を見ながら、フランツィスは熱くなる目元を擦った。頬はやつれ、肌もカサついている。四ヶ月もの間、心休まる日はなかったのだろう。色の変わった髪を労るように撫でていると、ふとエーリカの足元の毛布が沈み白い狐が現れた。
「シロだったか。離れいた時の様子を教えてくれないか。エーリカを守ってくれて感謝する」
しかし長い尾を器用に丸めると顔を隠してしまう。それにもちろん魔獣とは話せない。それでも自分の知らない間のエーリカの事が知りたかった。それと同時にフワフワと空気に揺れている毛に思わずごくりと喉を鳴らすと、ゆっくり手を伸ばしてみる。あと少しという所でシロは気配に気づき、優雅に移動するとエーリカの顔の横で再び同じ姿勢を取った。エーリカのそばでうるさくしては起こしかねない。しかたなく触れる事は断念した。
扉を締めると部屋の外でグレタが待っていた。
「あれはどうしている?」
「ヘルムート皇太子の事でしたら、“猫”達五人で見張りをしております。ですが怪しい動きを見せるどころか大人しくしております。注文も多いようですが」
「要望は何も聞かなくていい。今は大人しくしていてもいつ逃亡するか分らないからな。見張りを怠るなよ」
「かしこまりました。エーリカ様の御髪の件ですが、侍女長に確認をしましたがやはり元に戻す方法はないようです」
「姿をごまかす為とはいえあそこまでやるとは。だが容姿を少し変えただけで“猫”に見つからないというのはおかしい。エーリカのいた町には何度も“猫”を派遣していたんだぞ」
「“猫”の目を掻い潜り、二ヶ月もの間普通に暮らしていたのであればそうとうな手腕ですね。さすがエーリカ様です」
呆れたようにグレタの額を小突いた。
「魔力を失っているんだぞ。何か妙な感じがする。俺は少し留守にするから二人から目を離すなよ。万が一あれが妙な動きをすれば殺して構わん」
「後で人のせいにしません?」
フランツィスは呆れたように答えた。
「魔石が鍵の部屋に閉じ込めているんだ。そこを出ようとするなら十分緊急事態だろ。むしろ殺してやりたいくらいだよ」
「戦争になっても知りませんよ」
「奴はここにはいない。だから戦争にもならない。いいな?」
グレタは頭を下げると手に巻き付けていた黒いリボンを首元に戻した。
フランツィスは王城努めの文官だが、アインホルン家独自の組織である諜報組織の狩り担当“猫”として訓練を受けている。普段は見せないが、暗殺にかけては組織の中でも上位の力を持っていた。フランツィスはヘルムートの正体を知るなり、机の裏に隠されていた剣を素早く抜くとヘルムートの目前に振り下ろした。切っ先は白銀の前髪を数本切って止まっている。僅かに届かなかった剣の柄には、グレタが投げ掛けた黒いリボンが絡まっていた。ぎりぎりと音を立てて切れずにいるリボンを見ればただの紐ではないと分かる。エーリカは何が起こったのか分からないまま、呆然と机の上の光景を見ていた。
「ただの情緒不安定な男ではないと言う訳か」
剣は更に進もうとする。しかしヘルムートはソファの上を掴むと体を持ち上げて剣を横から蹴った。乾いた音を立てて刃は真っ二つになり絨毯に突き刺さる。それと同時にいつの間にかグレタが持つ短剣が、フランツィスの目前を通り過ぎた足を掠めて机に突き刺さっていた。
「なぜ魔力を使わなかった? 噂通りの魔力があるならば俺達を一瞬で殺せたはずだ」
力を緩めたフランツィスにヘルムートもソファに座り直す。二人が警戒を解いたのを見て、最後にグレタが机に突き刺さった短剣を抜いた。
「何しているのあなた達! グレタまで!」
「エーリカ、質問はこちらがする。お前は少し黙っていろ」
フランツィスは乱れた前髪をかき上げた。
「魔力を失ったようだな?」
「もうすっからかんだ」
隠すかと思ったがあっけらかんと話すヘルムートに驚いていると、黙っていろと言わんばかりに目で制される。その態度にも苛立たったのかフランツィスが盛大な舌打ちをした。
「本当なら今すぐに捕らえなくてはいけないが、まずはこの四ヶ月もの間お前はどこで何をしていた? 俺達がどれだけ心配していたか分かっているのか」
「ごめんなさい。ちゃんと説明するから、お父様達は今どこに? それと出来ればオルフェンも呼んで同席してもらいたいの」
「父上は体調を崩され、俺に当主の座を譲られると母上と共に領地に戻られた。今は俺が宰相の任も拝命したんだ。それとオルフェン殿はすぐには来られない。……今も大公領におられる」
「大公領にいるなら仕方ないわね。後で物凄く怒られそうだけど。それでお父様は大丈夫なのよね?」
「しばらく王都から離れて療養すれば元気になるだろ」
するとフランツィスの視線が痛々しいものに変わった。
「陛下がどれだけお前を心配して心を砕かれていたか考えた事があるか?」
「探されているとは思っていたわ」
「四ヶ月もの間、男と……しかもこの国を襲った張本人と過ごしておいて、陛下と父上達に何て説明する気なんだ。お前まで捕らえられてしまうぞ!」
言葉が出てこない。代わりに流したくない涙が溢れてくる。泣きたくなどない。止めたいのに今まで堪えていたものが堰を切ったように溢れて止める事が出来なかった。
「だから戻るのはやめろと言っただろ? もう魔力はないんだ、これ以上国の為に犠牲になるなんて馬鹿げている」
「待て、魔力がないだと? 本当なのかエーリカ!」
「本当よ。あの時に使い果たしてしまったの」
あの日、腹に受けた傷と共に残り僅かだった魔力が体外へ流れ出ていくのを感じていた。目の前にヘルムートの姿を見た時は殺されると思ったと同時に、これで解放されるとも思ってしまった。だからこれは罰なのだろう。国を、人々を守る力を持ちながらそれを手放そうとした罰。
意識を取り戻したのはあの魔術師の山が落下した日から二ヶ月も経っていた。
「本当はあの時死んでいたはずなの。でも水の魔力が強く人柱のある泉と繋がって、それから二ヶ月間ずっと泉の中にいたみたい。私は眠って起きただけの感覚だったけれど、力の入らない体に初めて二ヶ月も眠っていたんだと思い知らされたわ。だからその後の二ヶ月は泉から一番近い町で暮らしていたの」
「泉の中だなんてそんな事、本当に可能なのか?」
「その泉に満ちる魔力が傷を癒してくれたみたい。私が補強の為にほとんどの魔力を注いだ人柱がある泉だったから強く繋がって体も馴染んだんだと思うわ。あの日は激しく雨が降っていたし。でも傷が癒えて泉から浮き上がってきた私を助けてくれたのはこの人よ」
ヘルムートは確かにこの国を脅かした張本人で、他の人々から見れば恐ろしい敵国の皇太子。それでもこの二ヶ月、片時も離れず常に守ってくれたのもまた事実だった。
「見捨てる事も出来たはずなのに、生きているのかも分からない私を待ち続けてくれたわ」
「それなら陛下も待っていたぞ、俺達も。安否が分からないまま待ち続ける気持ちが分かるか? お前は戻るつもりだったかもしれないが、俺達は後にも先にも進めずにいたんだ」
珍しく眼鏡の奥で目を赤くしているフランツィスを見ていると胸が締め付けられた。
「お前達が暮らしていたその町には何度も“猫”を送っていたのに、どうやって隠れていたんだ?」
「見つからないように町の離れに住んでいたわ」
すると盛大な溜息が返ってきた。
「たかが住まいを見つかりにくい所にしたくらいで“猫”から逃れられる訳ないだろう!」
「そう言えばそうよね。あなた何か分かる?」
ヘルムートは面倒そうに足元を見た。一緒に覗いてみたがそこには何もいない。それでも足に大きな何かがするりと触れながら通り過ぎていく感覚があった。
「もしかしてモフとシロちゃんが?」
「フンッ」
ヘルムートは不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。
「何か分かったのか? おいエーリカッ」
「えっと、協力者がいたのよ」
「どこのどいつだ。ただじゃおかん!」
「そんな風に言うのなら教えないわ」
じっと見つめられたフランツィスは一瞬たじろぐと、立ち上がった。
「まだ話はあるがとりあえず少し休め、酷い顔だぞ。それと当分の間は屋敷から出るなよ。今後については俺が決める」
「待ってお兄様、婚約解消の書類を用意して下さい!」
動き出そうとしたフランツィスは、言われた事を理解できていないように立ち尽くした。
「私、クラウス様との婚約を解消しに戻ってきたの」
力が抜けたようにソファに戻ったフランツィスは、目頭を揉みながら顔を押さえた。
「国王陛下との婚約をこちらから解消出来る訳がないだろ」
「お兄様にはお伝えしていなかったけれど、元はと言えばこの結婚は前国王陛下が結界魔術師の私の為に結んで下さった縁談だったの。でも私はもう魔力を失ってしまった。だからもうクラウス様とは結婚出来ないわ」
「エーリカ……」
「それにクラウス様は側室を娶られるご予定だとか。娶りたいお方がいるのならなおさら私との婚約は弊害だと思うの。だからお願いします。お兄様なら書類をお手配出来ますよね?」
深い溜め息と共に返ってきたのはがっかりする返答だった。
「今の国王はクラウス様だから、クラウス様の許可が下りない限り婚約解消は不可能だ」
「それならクラウス様にお願いしてきて下さい」
「……お許しになる訳がないだろ。お前は本当に疎いのだな。最も陛下も人の事は言えないが。とにかく内密に陛下と謁見させてやるから、二人でちゃんと話し合え」
「なぜ? お兄様がクラウス様にお話をしてくだされば宜しいのでは?」
すると視線はヘルムートへに向いた。
「陛下がお前に会わないまま承諾する訳ないだろう。それにまだ陛下に全てをお話する訳にはいかない。下手をすれば我が家だけでなく、アインホルン家に連なる者全てが捕らえられるかもしれない事態なんだぞ。だが、よい切り札を得られたとも言えるな」
口の端を上げて不敵に笑った。
「今ヴィルヘルミナ帝国は傍観を貫いている。よって国境は常に緊張が絶えないが、お前達が現れた事で理解出来たよ」
ヘルムートは意図を理解しているのか、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「ヴィルヘルミナ帝国は第三皇太子の生死を今だ知り得ていないのだろう? だから我が国に捕虜として捕らえられている可能性を捨てきれずに侵攻に踏み切れないでいる。違うか?」
ヘルムートは黙ったままだったが、エーリカが知りたそうに顔を覗くと観念した様に話し始めた。
「私の魔力の暴走を恐れているのだろうな。皇帝は昔から私の魔力を極端に恐れていた」
「……意外だな。まさかここまで素直だとは」
「悪い人ではないのよ。魔力のないヘルムートをヴィルヘルミナ帝国に返せば殺されてしまうわ」
「だから我が国で匿えと? 出来る訳がないだろ!」
「別に帰れない訳じゃない。お前も付いてくるなら国に帰るつもりだと言っているだろう」
「私は行かないと言っているでしょ」
「お前達確認だが、妙な関係ではないよな?」
ヘルムートは腕を回すとエーリカの肩を抱き寄せた。
「私はいつでも妙な関係になってもいいと思っている。だから早く私のものになれ」
白銀の前髪の間から目を細めて頬を救うように指で撫でられた。その時、こつんと足元に何かがぶつかる。机の下を見るとそこにはシロが座っていた。すぐに抱き上げて膝の上に乗せる。モフはいないのかと見渡したが、姿を消しているのか見つける事は出来なかった。白く柔らかい毛を撫でると、恐ろしい形相だったフランツィスの目はシロに釘付けになっていた。
「その生き物はなんだ。そのフワフワの生き物は……」
「シロよ、この子も魔獣なの。今は姿を見せる気でいてくれるから魔力のない私でもお兄様でも見えるのよ。この子が協力者よ。あとモフには以前会った事があるわよね。でも今は姿を現す気はないみたい。お兄様がただじゃ置かないなんて言うからよ」
意地悪のつもりで言ったが、フランツィスは申し訳無さそうにシロを見ると、無意識に手を伸ばしていた。
「こんなに愛ら……普通の動物のような姿でも魔獣とは驚きだな」
「お兄様の膝に行く?」
するとシロは拒否するように飛ぶと絨毯の上に下りた。あからさまにがっかりする姿に笑いを堪えながら、自己紹介をするように姿を見せてくれたシロに礼を言った。
深い寝息を立てている妹の寝顔を見ながら、フランツィスは熱くなる目元を擦った。頬はやつれ、肌もカサついている。四ヶ月もの間、心休まる日はなかったのだろう。色の変わった髪を労るように撫でていると、ふとエーリカの足元の毛布が沈み白い狐が現れた。
「シロだったか。離れいた時の様子を教えてくれないか。エーリカを守ってくれて感謝する」
しかし長い尾を器用に丸めると顔を隠してしまう。それにもちろん魔獣とは話せない。それでも自分の知らない間のエーリカの事が知りたかった。それと同時にフワフワと空気に揺れている毛に思わずごくりと喉を鳴らすと、ゆっくり手を伸ばしてみる。あと少しという所でシロは気配に気づき、優雅に移動するとエーリカの顔の横で再び同じ姿勢を取った。エーリカのそばでうるさくしては起こしかねない。しかたなく触れる事は断念した。
扉を締めると部屋の外でグレタが待っていた。
「あれはどうしている?」
「ヘルムート皇太子の事でしたら、“猫”達五人で見張りをしております。ですが怪しい動きを見せるどころか大人しくしております。注文も多いようですが」
「要望は何も聞かなくていい。今は大人しくしていてもいつ逃亡するか分らないからな。見張りを怠るなよ」
「かしこまりました。エーリカ様の御髪の件ですが、侍女長に確認をしましたがやはり元に戻す方法はないようです」
「姿をごまかす為とはいえあそこまでやるとは。だが容姿を少し変えただけで“猫”に見つからないというのはおかしい。エーリカのいた町には何度も“猫”を派遣していたんだぞ」
「“猫”の目を掻い潜り、二ヶ月もの間普通に暮らしていたのであればそうとうな手腕ですね。さすがエーリカ様です」
呆れたようにグレタの額を小突いた。
「魔力を失っているんだぞ。何か妙な感じがする。俺は少し留守にするから二人から目を離すなよ。万が一あれが妙な動きをすれば殺して構わん」
「後で人のせいにしません?」
フランツィスは呆れたように答えた。
「魔石が鍵の部屋に閉じ込めているんだ。そこを出ようとするなら十分緊急事態だろ。むしろ殺してやりたいくらいだよ」
「戦争になっても知りませんよ」
「奴はここにはいない。だから戦争にもならない。いいな?」
グレタは頭を下げると手に巻き付けていた黒いリボンを首元に戻した。
42
お気に入りに追加
292
あなたにおすすめの小説


【完結】お前とは結婚しない!そう言ったあなた。私はいいのですよ。むしろ感謝いたしますわ。
まりぃべる
恋愛
「お前とは結婚しない!オレにはお前みたいな奴は相応しくないからな!」
そう私の婚約者であった、この国の第一王子が言った。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
いつか彼女を手に入れる日まで
月山 歩
恋愛
伯爵令嬢の私は、婚約者の邸に馬車で向かっている途中で、馬車が転倒する事故に遭い、治療院に運ばれる。医師に良くなったとしても、足を引きずるようになると言われてしまい、傷物になったからと、格下の私は一方的に婚約破棄される。私はこの先誰かと結婚できるのだろうか?

魔法のせいだから許して?
ましろ
恋愛
リーゼロッテの婚約者であるジークハルト王子の突然の心変わり。嫌悪を顕にした眼差し、口を開けば暴言、身に覚えの無い出来事までリーゼのせいにされる。リーゼは学園で孤立し、ジークハルトは美しい女性の手を取り愛おしそうに見つめながら愛を囁く。
どうしてこんなことに?それでもきっと今だけ……そう、自分に言い聞かせて耐えた。でも、そろそろ一年。もう終わらせたい、そう思っていたある日、リーゼは殿下に罵倒され頬を張られ怪我をした。
──もう無理。王妃様に頼み、なんとか婚約解消することができた。
しかしその後、彼の心変わりは魅了魔法のせいだと分かり……
魔法のせいなら許せる?
基本ご都合主義。ゆるゆる設定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる