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35 心の置きどころ
しおりを挟むエーリカは診療所で怪我人の包帯を変えた所で、入ってきた血塗れのヘルムートを見て走り出した。周囲がギョッとする程の血に手を伸ばすと、腕は避けるように引かれた。
「ごめんなさい。結局あなたばかり戦わせてしまったわね」
「お前は魔力がなければただの女だな」
「そうね、本当にそうだわ。気持ちだけ前と同じでも今の私は役に立たない事を忘れていたみたい」
「別にそこまでは言ってないが……」
「私決めた! 剣術の勉強をするわ!」
突拍子のない言葉にヘルムートは呆れたように笑い出した。
「だからお前は飽きないのだ」
「それでシルビアさんは無事だったの?」
「まあ元気だった。むしろ元気過ぎたくらいか」
「良かった。今はどこにいるの?」
「家だろ? それよりも……」
診療所の中は所狭しと人がいる。ヘルムートはエーリカを外に連れ出すと、腕を掴んだ。
「今のうちにここを出れば王都の奴らに会わなくて済む。荷造りをしてすぐに出発するぞ」
しかし掴まれた腕をやんわりを押しやった。
「私、王都に帰ろうと思うの」
「は? 帰ってどうするんだ。あの男に嫁ぐ気か?」
「違うわ。婚約を破棄しに行くのよ」
言葉にしてみるといよいよもって実感してくる。意外と悲しくはなかった。
「私が生きているのに婚約を破棄しなかったら、ずっとクラウス様は正妃を娶る事が出来ないもの」
「別にそれでもいいだろ。娶りたい女がいれば側室にすればいいだけだ」
「それじゃあ駄目なのよ。ちゃんと区切りを付けなくちゃ」
しばらくして大きな溜め息が漏れた。
「分かった。私も行こう」
「駄目に決まっているでしょ! あなたは国に攻め入った張本人なのよ!」
「それについては悪いとは思っていない。それにお前がなんて言おうと離れる気はないぞ。そろそろ頃合いだろうしな」
「どういう意味?」
するとおでこを弾かれた。
「お前は敵国の王の婚約者だから教えん」
「婚約破棄するから婚約者じゃないわ」
「それでも今は教えられん」
「捕まって投獄されるのよ!」
「助けてくれるんだろ? 侯爵令嬢様」
呆れながら溜め息をつくと、日が昇っていくのが見えた。
空が橙に染まり始めた頃、王都から来たのは兵団から派遣された調査隊だった。
「まさか兵団長自らお越しいただけるとは思いもしませんでした。知っておりましたらおもてなし致しましたものを……」
町長は震える手で汗を拭きながら、馬から降りてくる兵団長のユリウスに擦り寄るように近付いた。
「この度はとんだ災難だったな。まずはさっそく現場を見せてくれ。報告は歩きながら聞こう」
町長は惨劇の場所となった、自分の家へユリウスを通すと目を逸らした。
「遺体はそのままです」
「全て野盗で間違いないか?」
「はい。他の者達にも確認してもらいましたが、誰一人として知った顔はいないようでした。では次に二階へご案内致します」
2階の突き当りの部屋には遺体が一つ横たわっていた。
「この部屋で、まだ十五になったばかりの宿屋の娘が犯されました。本当に酷い事です」
「その子は今どこに?」
「怪我もしていましたので今は診療所におります。次はこちらに」
町長は廊下を戻ってもう一つの部屋へと案内した。
「ここも酷いものです」
遺体は窓近くに一つ、後ろから斬られていた。そしてふと近くにあった肉片に目が留まった。
「こちらも何一つ触れてはいませんが、一人だけ助かった者がおりますので、その者だけ治療の為に移しております」
「話せる状態か?」
町長は言いにくそうに床に落ちている肉片を見た。
「すぐには無理でしょう。あれは男の陰茎部です。妻を襲われた夫が切り落としたようなのです」
ユリウスは思わず盛大に顔を顰めた。思わず自分の下肢を抑えたくなる衝動を堪えた。
「この全ての殺しはその男がやったのか?」
「その者と友人の二人だそうです。一人はマッテオという名の……」
「マッテオだと?」
「ご存知ですか?」
「その者の家を教えてくれ」
ユリウスはマッテオの家の場所を聞くと、足早に町長の家を出た。
マッテオは小さな机を挟んで座っている兄を睨み付けていた。男爵家の嫡男でマッテオの兄は長めの髪を後ろに縛っており、マッテオとは対照的な線の細い体躯だった。
「なぜあなたがいらしたんです?」
兄は家の中を逡巡しながら奥の部屋に目を向けた。
「書記官だからね、仕事だよ。でもまさか弟が慎ましく暮らしていた町が襲われるとは思いもしなかったよ。それで、手当てはしたのかい?」
マッテオの肩辺りの服は血で濡れている。しかし返事は返ってこなかった。
「もう家に戻ってこい。幸い子供もいないんだ、十分に新婚ごっこは楽しんだだろう?」
「……シルビアを一人には出来ません」
すると嫌悪感を含んだ視線を再び奥の部屋に向けた。
「他の男に傷物にされた女をお前はまだ愛せるのか?」
その言葉にマッテオはぴくりと反応した。
「ああそう言えば賊の中で一人だけ妙な所を怪我していたな」
眉を顰めて声を小さくした。
「ここだけの話、あの男は王都では有名な男娼だったみたいでな。もう引退してるみたいだが、俺の商売道具がと朦朧としながら一物の心配をしていたらしい。まあ、むさ苦しく汚れた男に襲われるよりも身奇麗なあの男に当たった者は幸運だったさ。ほら、娼婦としか出来ない事もあるように……」
マッテオは机を叩くと勢いよく立ち上がった。
「そんな話は聞きたくありません!」
「もしお前が離縁するというのなら、十分な手切れ金を用意してやる」
マッテオは血管の浮き出た腕で兄の胸倉を掴んだ。
「どう足掻いても生まれは変えられないんだ。実はな、ミラが陛下の側室候補になったんだ。候補と言ってもあの二人は昔から仲がいいからミラに決定だろう」
マッテオは乾いた笑いを漏らした。
「ミラが側室になるかもしれないから、元娼婦を妻にし、平民に身分を落とした身内がいるという醜聞が気になり出したと訳ですか」
「陛下がエーリカ様が生きておられる限り正妃は娶れない。だから事実上側室が正妃扱いという訳だ」
「なんと言われても家には戻りません」
「自分の事ばかりでなく妹の幸せも考えてやれ。一応あの女にも話を聞きたいんだが……」
「絶対に駄目だ!」
マッテオは机を殴りつけると兄を追い出し、自らも裏口から家を飛び出した。
ユリウスがマッテオの家に辿り着いた時、中から出てきたのは書記官のシリルだった。
「シリル! 町長から話を聞いたが、お前は知っていたのか? マッテオの妻が被害者だと」
「ユリウス兵団長、先程知り急ぎここに来た次第です」
「マッテオは中にいるのか?」
するとシリルは諦めたように首を振った。
「今は混乱しています。しかし落ち着けば必ず私達のもとに帰ってくるはずです」
「それは離縁すると言うことか? マッテオが傷ついた妻を見捨てたりするだろうか」
「ただ襲われただけならば、あるいはそばで支えたかもしれません」
ユリウスは怪訝そうに眉を顰めた。
「どういう意味だ?」
「運ばれた男が意識のあるうちに調書を取ったのですが、マッテオの妻は……」
シリルはユリウスに少し近づいて声を潜めた。
「犯されたとは言い難く、むしろ喜んで男に抱かれていたそうです」
「信じられん」
「後日妻の方にも人を遣わします」
「そうだな。負担にならないように配慮してくれ」
「承知いたしました」
ユリウスはシリルと共に集会所へと向かった。
エーリカはユリウス達がマッテオの家から離れたのを確認してから、玄関を叩いた。
「シルビアさん? エマです。マッテオさん?」
しかし返事はない。仕方なく扉を少し開けると、中には誰もいなかった。
今まで結界魔術師のエーリカに距離を取り、友達と呼べる人はいなかった。だから気さくに話しかけてくれるシルビアの存在がどれだけ新鮮で嬉しかった。その時、奥の部屋で何かが物音がした。
「シルビアさん? そこにいるの?」
恐る恐る部屋の扉を開けると、そこには硝子の破片を持ったシルビアがいた。髪は乱れ、目は泣き腫らしたのか赤くなっていた。
「何しているの!」
驚いたシルビアが硝子の破片を手首に当てる。その手を離させようと手を伸ばした。
「ッ!」
腕を引いた時にぶつかった硝子が指に当たる。甲からつぅと血が流れた。
「邪魔するからよ! 私はもう生きていられないの! マッテオに捨てられるんだから」
シルビアはまだ硝子を握っている。興奮して手が動く度に血が毛布を濡らした。
「何があったの?」
「あなた何も聞いていないの?」
「無事だったとだけ聞いたわ」
すると失笑するように項垂れた。
「……前から思っていたけど、エマさんて、どこかいい所のお嬢様?」
「どうして?」
「なんだか綺麗事ばかり言うから。他の男に穢された女を愛する男がいると思う? 違うわね、マッテオの前で他の男と寝たのよ」
「寝たって、無理やりなら……」
「無理やりじゃないわ」
シルビアは泣きながら顔を擦ると髪をかき上げた。
「あぁ、もう終わり! 幸せになりたかったのにな」
「なれるわよ!」
「だからお嬢様だと言ったのよ!
私ね、孤児院にいたの。けどそこじゃまともな食事は与えられていなくてね。皆で作っていた野菜を売りにいった市場で、娼婦の仕事を持ちかけられたのよ」
エーリカは返事が出来ずにただ見つめ返した。
「体を売っていたの。同情はしないでよ。毎日風呂に入れて、孤児院よりもまともなご飯が食べられたんだから感謝してるくらい。それに、今まで汚いものでも見るような目を向けてきていた男達が、突然物欲しそうな目で見つめてくるんだもの。最高に気分が良かったわ。でもマッテオに出会って辞めたのよ。驚いた? マッテオは客だったの。マッテオに出会ってからは体の触れ合いがなくても生きている実感がした。でもそんな仕事だったからマッテオは身分を捨てて家を出てくれたの」
「それならなおさら捨てたりなんかしないんじゃ……」
「捨てるわ!」
シルビアは泣いているのか笑っているのか分からないまま、毛布に顔を押し付けた。
「野盗の中に一人知っている顔がいたのよ。人気の男娼でね、私達商売女の中でも有名だった。ずっと年上で、姉さん達の中で一人だけ、若い頃に相手をした事があるっていう人がいて、それは凄かったって。その男娼はとても私達の手に届く額じゃなかったから、向こうが客として来ない限り無理だったわ」
「その人の事、気になっていたの?」
すると大きな声で笑い出した。涙を拭いてひとしきり笑うと、息をついた。
「エマさんて本当に綺麗なままなのね」
笑っているとは思えない程、背筋が寒くなるような視線を向けられ、エーリカは思わず身を引いた。
「体が擦り込まれた快感を覚えているの。これはもうどうしようもないのよ。マッテオに不満があるんじゃない。でもあの男を見た時に、今まで知らなかったその先があるかもしれないと思ってしまったの。どうしようもない好奇心を抑えられなかった。体は減るものじゃないしね」
「……私は、愛する人がいるのに他の人と体を重ねてしまったら、その分だけ大事なものが失くなってしまうような気がするわ」
「大事なものって?」
「心とか」
シルビアは今までにないくらい大きな溜め息を落とした。
「もう話しているのが馬鹿らしくなってきた」
「ごめんなさい。実は町を離れる事になったの。だからその、元気で」
返事はない。エーリカは部屋を出ようとして一度だけ振り返った。しかしシルビアはすでに毛布を深く被ってしまっていた。
ヘルムートは家に戻り荷造りをしていた顔を上げた。そして布を巻いていた手を目ざとく見つけると掴んできた。
「どうしたんだこれ」
「うっかり切ってしまって。でももう血も止まったし大丈夫よ」
ヘルムートは怪訝そうに布を外すと、血が止まった事を確認してきた。
「そんなに良いものかしら」
「何が?」
「別に何でもないわ」
「……あの女から何か聞いたんだな。男も女もそんなものだろ」
「知っていたの?」
「この目で見たんだ。恥じる事じゃない。生き物の性、子孫を残す本能だ」
「あなたも? 他の人と、その、そういう事が出来るの?」
「出来るさ」
目が合ったヘルムートは真剣なな表情でこちらを見ていた。
「でもしない。だから早く私のものになれ。正直我慢の限界だ」
ヘルムートがこちらに近づいてくる。とっさにギュッと目を瞑ると、鼻を掴まれた。
「さっさと準備しろ」
「からかわないでよ!」
真っ赤になった顔を隠すように、エーリカは奥の部屋へと飛び込んだ。
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