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32 歪んだ愛

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一年前、ヴィルヘルミナ帝国

 ヘルムートは浴室で爪の間で固まった血を洗い流していた。
 結界のあるアメジスト王国とは違い魔術師は決して多くはない。一つの戦いに一人か二人いればいい方で、王族や高位貴族でも魔力が強ければ戦地へと駆り出された。そして今回戦場で姉から思わぬ贈り物を貰い、その礼を姉付きの護衛に渡してきた後だった。
 遠くの廊下で悲鳴が上がる。おそらく護衛が中身も見ずに侍女に渡したのだろう。その光景を思い浮かべると口元が緩んだ。今頃、刺客の首を見た姉が血の昇った顔で扇子を真っ二つにしているに違いない。

――ガチャッ。

 扉を開けた侍女と目が合う。手には掃除用具、大方部屋の主が戻らぬうちに済ませてしまうつもりだったのだろう。その手首を掴むと盛大な音を立てて掃除用具が床に落ちた。

 侍女は自分と鉢合わせたのが運の尽きだった。とは言ってもこの女が子を孕む事はない。魔力の昂りを発散する為の行為は孕まないというのが魔術師の中での常識。魔力で高まった体温で子種が死滅してしまうとも言われていた。しかしこの侍女はそういった事も知らなかったらしい。婚約者がいるからと泣きながら赦し乞い、意識をやっていた。
 魔力を使った後はいつもこうだった。体の昂りが消えるまで女を抱く。女はこの昂りを解消するまでの道具に過ぎない。それが当たり前でヘルムートの生きる日常だった。

「早く出て行け」

 しかし女は痙攣したまま動かない。仕方なく足を持つと浴室から引き摺り出した。

「誰か来い!」

 すぐに兵士が部屋に飛び込んでくると、足を引き摺られている侍女を受け取った。

「連れて行け」
「かしこまりました」

 兵士は女を抱えると足早に部屋を出ていく。机の上に置いていた温くなった強めの酒を一気に流し込んだ。

 最初に魔力を使ったのは五歳の時。その時は高熱が出て一週間生死を彷徨った。そのせいか背も他の男達のようには伸びず、筋肉も付きにくい身体は女と並んでも変わりない。しかし魔力と性欲だけは人一倍ある。いつしか影では痩せた狼と呼ばれるようになっていた。
 最初は女を抱き潰している事を笑う者もいたが、笑った者達は全て男も女も関係なく魔術で王宮の壁に磔にした。風で押し続け、白い滑らかな壁は捕まる所も足場もない。いつ落下するかもしれない恐怖に意識を失い、尿の雨を降らせた。


 とある夜、寝所に若い女が二人入ってきた。いつもならすぐに斬り殺す所だが、薄闇にふと見えたのはいつも姉の周りを取り囲んでいる女達だった。気まぐれで好きにさせていると、一人は明らかに顔が強張ったまま固まっている。もう一人は一生懸命にぎこちなくも体を使って奉仕しようとしていた。

――大方、懐に入り込めとでも姉に言われたのだろう。

 血を分けた者達ほど厄介なものはない。皇帝には正妃と側室が三人、妾が八人、兄弟は把握しているだけで十一人いた。姉は母親が同じ第二皇太子の弟を皇帝にする為次々と兄や弟達を手にかけていた。順当にいけばすでに第二皇子は他の王子を殺さなくても皇帝になる確率は高い。それでも姉が皇子達を殺し続けるのには訳があった。
 第二皇子は人前に出ると失神してしまう極度の緊張症だった。式典や夜会でも全く姿を見せない。よって姉の傀儡。この国の始まりはヴィルヘルミナ女王だが、それ以降女の統治者は禁忌とされていたせいで、姉はいくら望んでも国を治める事は出来ない。だから弟を皇帝にし影の実力者となる気なのだろう。

――次は私か。

 女好きという噂を信じて油断させるつもりなのか、情事の最中に殺させでもするのか。

「名は何という」

 二人に問い掛けた質問だったが答えても答えなくても、これからする事に変わりはない。先に答えた方の手を掴むと固まったままの女に見せつけるように抱いた。


 情事が終わり取り残された女は、放心したまま固まっていた。

「貴様は名も名乗れぬのか?」

 すると戦慄く唇を動かしながら上を向いてきた。

「……イメルダ・シュタインと申します」

ーーシュタイン家か。姉も今回ばかりはいい贈りものをしてくれたものだ。

 去り際、友人のそれでふやけた指でイメルダの頬を撫でていく。怯えたように顔を引き攣らせたが、同時に腰が跳ねたのも見逃さなかった。
 それからはイメルダを呼び出しては他の女とのまぐわいを見せつけるだけの日々を続けた。初日にイメルダと共にいた女の方はすでに堕ち、新しい名と仕事を与えるまでになっていた。今では他の男にも喜んで股を開き、間者として可愛がっている。しかしさすがにイメルダを間隔を空けずに呼び付けるには限度があり、シュタイン子爵家からあれこれ理由をつけて断られるようになっていった。

 事が起きたのは半年程過ぎた、いつもの退屈な夜だった。
 夜会が始まってすぐ、間者として潜っていた女が報告の為、愛人の振りをして腕にすり寄ってきた時だった。イメルダは顔を真っ赤にして大股で近付いてくると、友人であったはずの令嬢に向かって酒をかけた。薄ピンク色のドレスは胸から腿辺りにかけて紫色に染まっていく。姉も扇子を広げてはいるが、新しいおもちゃでも見つけたようにこちらを凝視していた。

「あぁパール、可哀相に。早く着替えて来い」

 間者として使っている女の方にだけ声を掛けると歩き出す。その時、腕を思い切り引かれて振り返った。コルセットで持ち上げた大きな胸を上下させ、垂れた目には今にも零れそうな涙を溜めている。艷やかな金色の髪を上げ、細い首と鎖骨が露わになっている姿で嫉妬に狂った姿は美しかった。

「手を離せ」
「なぜです、なぜ私は抱いて下さらないのです!」

 周りがざわめき出す。ひそひそと囁き出す声があちこちから聞こえてくる。

ーーあのお年で外に子供は何人いるのかしら。
ーー度くらいお相手をお願いしたいわ。
ーーやめなさいよ、壊されてしまうわよ。

 話し声にヘルムートが一瞥すると広間は一気に静まり返る。皆、視線をそらして遠くを見た。

「ミュラー、この女を牢に入れろ」
「殿下お願いします、お側に置いてください! 何でもしますからお願い致します!」
「懸想するのは勝手だが見苦しい真似はするな」
「いやぁ! お願いします殿下、お願いしますッ」

 集まる人々の中、真っ青な顔をしたイメルダの父親と目が合う。グラスを持つ手はガタガタと震え、驚いたままこちらに近付いて来た。

「殿下、申し訳ございません! 娘は気が触れてしまったようです。お許しくださいませ」

 ヘルムートは震える父親の肩に手を置くと囁いた。

「シュタイン子爵、こんな所で話をするのはイメルダの名誉に関わる。後で部屋に来るといい」
 

 ヘルムートは部屋に入って来るなり、頭を床に擦り付けたイメルダの父親を見下ろした。緩くガウンを羽織り気分良く酒を飲んでいた所だっただけに、酔いが冷める思いだった。

「そんな格好で何をしている」
「何卒お許し下さい! 娘は修道院に送ります。それが叶わぬのなら娼館でも構いません。殿下がお望みになる通りに致します! ですからどうか命と爵位剥奪だけはご容赦下さい!」
「生娘を娼館になどあまりにも不憫だろう」
「娘はまだその、生娘なのですか?」
「王族の言う事が信じられないのか?」

 すると父親は激しく首を振った。

「……殿下はイメルダをご所望されているとばかり。ですが私の勘違いだったようです」
「よいよい、私も悪かった。イメルダとの会話は心地よくてつい我儘を言ってしまった。友人だと思っていたが私の態度が誤解を招いてしまったようだな」
「もったいないお言葉にございます。この度の娘の乱心を改めまして心よりお詫び申し上げます」
「そう固くなるな。そんな事よりも頼みがある。そうすれば今回の事はなかった事にしてやろう」
「頼み、と申しますと?」

 髭の生えた口元がゴクリと動いた。

「確かお前の妻の実家は、アメジスト王国と取引をする公爵家だったな。私とは近からずも遠からず血縁関係にある家だ」
「私と妻はありがたい事に恋愛結婚でしたので、身分の低い子爵家に嫁いで貰うのには苦労致しました」

 ヘルムートは口端を上げた。

「実はその家の協力が欲しいんだ。なに、簡単な事だ。実はアメジスト王国に送る荷物の中に紛れ込ませて欲しい物があるのだ」
「ですが積荷は厳重に確認されてから入国致します。どんなに小さな物でも見つかってしまうでしょう」
「ならば随行者に飲ませよ」
「飲める、物なのですか?」
「魔石だ」

 ヘルムートが笑うと、子爵も引き攣った笑顔を浮かべた。

「しかしその後は? 取り出せるのですか?」
「取り出さなくてよい。その者達は魔石により導かれ、とある場所に向かう」
「とある場所とは?」
「知らなくていい。お前達は魔石を体内に入れた者達を運ぶ手助けをしろ。その後、その者達の事は誰も追うな。探させるな。放ったと同じ人数を雇うなり攫うなりして戻ってくればいい」
「……かしこまりました。妻はイメルダを大層可愛がっておりますので、理由を付けて我が家の息のかかった者を送り込むでしょう」
「これでシュタイン家もこれまで通りだな」

 ヘルムートは満足そうに酒を空いたグラスに注ぐと、子爵に向けて差し出した。受け取る手が震えている。しかし子爵は意を決したように一気に煽った。




 ヘルムートが牢へと続く階段を降りて行くと、地下には女の啜り泣く声が響き、その近くにはミュラーが立っていた。

「女は?」
「この声の通りですよ。父親の方はどうでした?」
「問題ない」
「いよいよですね。これでアメジスト王国の結界を破れればいいのですが」

 すると鋭いヘルムートの視線がミュラーを射た。

「破るのだ。必ず」
「もちろんです。部屋に行かれますか?」
「いやここでいい」

 ミュラーは薄く笑うと壁に着いていた背を離した。

「牢は意外と響きますよ」

 そう言うと階段を上がっていった。

「そんなに私が恋しいか?」
「殿下! 殿下!」

 イメルダは格子の間から目一杯腕を伸ばしてきた。涙でぐちゃぐちゃに流れたのか化粧は乱れ、美しく長い髪も掻き毟ったのか解れていた。伸びた手がシャツを掴んでくる。その衝撃で肌が露わになった。鼻をひくつかせ、イメルダは顔を顰めた。

「湯浴みをしたのですか?」
「汗をかいたのでな」
「……誰かを抱きましたか」
「お前の友を、と言ったら?」
「嫌嫌嫌! なんであんな女なの! 私の方が綺麗なのにどうして!」
「そう騒ぐな、今は抱いていない。お前も見ていただろう? 少し前まで散々抱いたからもうさすがに飽きた」
「……そんなに?」

 イメルダの腕から力が抜けていく。その手首を掴んで思い切り引き寄せた。激しい音と共に豊満な胸が格子にぶつかる。

「なぜこんな事をなさるのです。これ程までに愛しているのに、どうして私を受け入れて下さらないのです」
「お前が先に拒んだんだ。出会ったのはあの女と同じ日だったのに、私の味を知ったのはお前の友人が先だったな。悔しいか?」
「とても」

 ずるりと下がろうとする腕を更に強く掴んで上を向かせる。そして顎を掴んだ。

「ならばお前は私の為に何が出来る? あの女は私の為に他の男と寝る事を厭わない。お前は何を差し出す?」
「殿下以外は嫌です。それ以外ならなんでも差し上げます。この心も!」
「もし本当に私に全てを差し出せたならその時は特別な物をお前にやろう」

 イメルダの腹を撫でるとびくりと体が跳ねた。嬉しそうにドレスを上げてくる。そこはすでに腿まで滴る程に濡れていた。

「随分と熟れたものだ。これで生娘とは。私を想いながら散々弄ったのだろう?」

 否定とも肯定とも言えない切なげな声を上げたが、ヘルムートはそれを無視して格子を開けた。

「お前にはこれから大事な役目がある。褒美はその後だ」

 イメルダは恨めしそうにヘルムートを睨み付けた。

「不服か? 限界まで我慢した後の馳走を味わってみたくはないか? 誰も知らない特別なものだ」

 耳に唇を寄せられ囁かれただけで、イメルダはガクガクと身体を震わせてその場に崩れ落ちていく。

「お前は特別だぞ、イメルダ」

「仰せのままに致します。私の愛しい人」

 イメルダは恍惚とした表情を浮かべてヘルムートの腕にしがみついた。
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