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31 あなたのいない世界
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「エマちゃん、こっちこっち!」
小柄な身体で大手を振るのは、知り合ってすぐ仲良くなったシルビアだった。エーリカは大きな籠を押さえながら走り出した。
この町に来てニヶ月、名前は全く違うものにしてしまうとふと忘れてしまうかと思い、最初の文字はそのまま使いエマと名乗る事にした。
町には八百屋や肉屋、雑貨屋に質屋、服屋など基本的な物は何でも揃っていた。それでも足りない物を賄う為に、十日に一度の頻度で王都から行商がやってくる。店に品物を納品する為にやって来るのだが、その後は広場で露店が開かれ、一般民も購入する事が出来た。中には直接行商に必要な物を頼んでいる者達もいる。その行商の露店先で、若い夫婦はすでに臨戦態勢万全で立っていた。
新婚の二人は結婚を期に八ヶ月前に王都から越してきたらしい。念の為、町に来る前に腰まであった髪を肩ほどまで切り、髪が染まると聞いた木の葉を潰して髪に揉み込んでいた。そのおかげで艷やかで美しかったピンクブロンドの髪は、艶のない濃い栗色に変わっていた。
「今日は賑わってるね」
「この人混みの中から買い物出来るかしら」
シルビアは大層な料理自慢らしく、いずれはこの町で食堂を開くのが夢だと言っていた。兵士のようにがっちりとした体の夫はマッテオは、無口だがいつもすれ違う時にはぎこちなく微笑んでくれた。
「任せて! 乗り込んでくるから!」
するとシルビアは細い手を勢いよく振り、長い赤茶の髪がさらさらと揺れた。
「シルビア俺が行くから」
「そう? それならふた家族お願いね! はい、これが買う物よ」
無口なマッテオはメモを受け取ると意を決して、群がる人々の中に入っていった。
国境辺りから中心部に避難する人々が増え、ここも日に日に人が増えていっている印象がある。この町はわりと中心部にあるので兵団はいないが自警団がある。だから住む決め手にもなった。
「エマちゃんの家は町から離れているでしょ? そろそろ借り直せないの?」
「あの人釣りが好きだから川から離れたくないみたい。そのおかげで夕飯はいつも魚なんだけどね」
「そうそう! 前に貰った魚は美味しかったなぁ!」
「また沢山取れたら持っていくわ」
マッテオが買ってきてくれた物を受け取りりシルビア達と別れ、人気の少ない道に出た。見通しの良い林を抜けると川が流れている。家はその近くにあった。
この家を見つけて持ち主を探した所、亡くなった祖父が一人で住んでいた家を持て余していたと、その孫から格安で借りれたものだった。小さな家に戻ると中に声を掛けた。
「両手が塞がっているの! 開けてくれない?」
しかし返事はない。仕方なく肘で叩こうとした瞬間、勢いよく扉が開いた。中から出てきたのはいつの間にか腰の高さほどまでに大きくなったモフだった。
「あれ? モフいたの」
するとモフは小さく鳴くと家の中に顔を向けた。部屋は二間で、居間には絨毯が敷いてあり、年季の入った二人がけのソファもある。その上にはこの家で一番フカフカなクッションが置いてあった。その上に神々しくも鎮座していたのは、真っ白い毛並みの狐。毛の境い目は空気に溶けているのではと思う程に細く柔らかそうにフワフワと空気を含んでいる。木の実のように丸い瞳がこちらに向くが、興味なさそうにソファの肘掛けに顎を乗せた。
「シロちゃんも来ていたのね。こんにちは」
ある時からモフの周りをちょろちょろとし始めた白いキツネは三日に一回の割合で現れていた。返事のしない狐の代わりにモフが体を押し付けてくる。
「モフったら大きくなり過ぎよ」
くぐもった声で鳴くが、もう以前のように言葉を理解する事は出来ない。
「そんな所に突っ立ってるな」
後ろから背中を押され、じゃがいもが床に散らばる。銀髪の隙間から意地悪く笑いながら、シロのいるソファへどかりと座った。
「ヘルムート! シロちゃんがびっくりするでしょ」
シロは振動を感じる前に飛び退いていたが、目を細めてヘルムートを見つめていた。
「狐ごときが私に歯向かうのか?」
エーリカはヘルムートのおでこを弾くとシロを抱き上げた。
「お前! 王族に向かってなんて事をするんだ! 極刑にするぞ!」
「どうぞどうぞ。あなたが国に戻れるならね」
ふてくされた顔で睨みつけてくるが、その顔を見ると怒りもどこかへいってしまう。
「その様子だと釣れなかったみたいね。パンとチーズと野菜を買ったからシチューを作ろうと思うの」
「あの庶民の食べ物か。まぁいいだろう」
「あなたも手伝うのよ」
驚く事にヘルムートはナイフの扱いを少し教えただけでエーリカの腕前を超えてしまっていた。もともと剣に慣れているからだろうか。じゃがいもの皮を剥いている手元を覗いていると、手際よく皮を剥き根を取っている。
「おい、肉は?」
「チーズを入れればコクが出るわよ。私達もう働いていないんだから仕方ないでしょ」
すると誇らしげなヘルムートはポケットから小さな巾着を出した。ずっしりとしたその中には沢山の硬貨が入っていた。
「どうしたのこれ」
「換金してきたんだ」
「あれほど駄目って言ったじゃない!」
ここにきてすぐにヘルムートは手持ちの宝石を換金しようとしたが、それは止めていた。ヘルムートの持っていた宝石は異国の細工の物や、庶民では手に入れる事の出来ない大きな宝石が付いた首飾りや指輪だった。小さな町で換金出来る代物ではない。それに高価すぎる品の場合、盗品かと疑われたり他国の密偵が金に困って換金した物かなど調査が入る場合がある。今は小さな事でも疑われる訳にはいかない。すぐに荷物をまとめようと離れた腕を掴まれた。
「この町を出ましょう。見つかったらどうするの? 私もあなたももう魔力がないのよ!」
「目立つ物は売ってないから安心しろ」
その瞬間、嫌な予感がして奥の部屋に飛び込んだ。簡素な机と寝台があるだけの部屋。引き出しを開けてその場に座り込んだ。そこにはクラウスから貰った首飾りが消えてた。耳飾りは普段付ける訳にはいかず、守護山の部屋に置いて来たのであの崩壊でもう見つからないだろう。しかし首飾りならばといつもこっそり服の下につけていた。でもここに来てからは身に付けてはいなかった。ヘルムートはどうやらそれを売ってしまったらしい。確かにラピスラズリの宝石は換金しても目立たないだろう。それでもエーリカにとってはもう二度手に入らない宝物だった。後ろで扉が軋む音がし、拳を握り締めて声を絞り出した。
「入ってこないで」
「金は少し使った。調味料と釣り具と、あと家の補修材にもな」
返事は出来ない。声を出したら涙が溢れてしまいそうだった。
ヘルムートの購入した物は全て生活に必要な物。最初の頃、着ていた服をそのまま売れば目立つので布にして換金し、質素な服や生活に必要な物を揃えた。食材もたまに好意で貰ったりもしたが、ほとんどは購入するのでお金も底を尽きかけていた。金目の物はもうないし、ヘルムートの私物を売るには危険が大きい。仕方ないのは分かっていた。
クラウスとの思い出が時間と共に消えていく。たった一人を想い続ける事はとても辛い事なのだと思い知った。叶わない恋だと認めるには時間がかかって、今も認める事が出来ないでいた。
守護山が崩壊したあの時、真っ直ぐにミラを助けに行ったクラウスの姿が瞼に焼き付いて消えない。辛い思いを隠し、平気な振りをして生きていても少しのきっかけでこんなにも溢れてきてしまう。自分の時間はこうして止まったままなのに、クラウスは今この時も沢山の人に出会っているのだろう。その中にはきっと、クラウスを想う人も出てくる。クラウスが想う人も。
二人で過ごした短いけれど濃密な出来事を忘れたくなくて逃げてしまいたかった。本当は他の誰かと幸せを望むなら祝福してあげたい。そして進む道の先にクラウスがいなくても強くありたい。そう思うのに、今も何も変わっていない弱い自分が腹ただしくて情けなかった。
――少しでも私を思い出す時はありますか? 声が聞きたいです、クラウス様。
共にいた時、想い合っていると感じた時もあった。その時、私だけを見てと言えたなら何か変わっていただろうか。考えても答えは出ないまま、時だけが流れていた。
扉の隙間からしてくる匂いに誘われて居間に戻ると、ヘルムートが鍋の中に勢いよく牛乳を入れているところだった。
「入れ過ぎよ、貸して」
ヘルムートは何も言わないまま横にずれるとヘラをよこしてくる。鍋の中を見て、まだ修正がききそうだと少し安堵した。
「王族と侯爵令嬢がボロ屋でこんな食事を作っているとはな」
まだ怒りは収まっていないので返事はせずに鍋底が焦げないようヘラを動かした。
「買い戻せないからな」
「分かっているわ」
「もうあんな奴忘れちまえよ。どうせ今頃別の女がいるさ」
「やめて! 聞きたくない」
その瞬間、鍋の中のシチューが跳ねた。引っ込めた手を無理やり引かれると、桶の水に突っ込まれた。
「大丈夫よこれくらい」
しかし返事はない。後ろから抱き締められるようにして立つヘルムートの息が耳にかかった。クラウスなら見上げる程の身長でも、ヘルムートの視線は近い。すぐ後ろに顔があると思うと動く事は出来なかった。
「離して? もう大丈夫だから」
腕ごと押さえるようにして抱き締められる。腕まくりをして見える筋肉のついた腕と、身動きしてもびくとのしない力に、鍛えていた人なのだと今更思い出してしまう。巨大な魔力を持ち、戦場を駆けていたヴィルヘルミナ帝国の皇太子。
「私を殺そうとしたくせに」
「あの時は敵同士だった。それに助けただろ」
「それはそうだけど」
腕の力が強くなる。
「ちょっと、くる、し」
「お前が欲しい」
耳を疑う言葉に思わず固まってしまった。少し掠れた声は聞き間違えかと思った。
「お前を愛しく思っている」
「う、そ」
「嘘じゃない」
振り返った瞬間、魔力の消えた黒一色の瞳と目がかち合う。唇を奪われたのは一瞬の事だった。弾力のある物が何度も押し当てられる。そのまま首に落ちてくる唇から逃れようとすると、片手で両手首を掴まれた。自由になったもう片方の手が体の線を撫でるように動き出す。
「お前は魔力を使った後どうしていた? あの王子に慰めてもらっていたのか? それともオルフェン?」
「どういう意味?」
「お前程の魔力を使って平気な訳がないだろ」
「沢山使った時はよく熱を出していたけど」
「オルフェンは手を出さなかったのか。馬鹿な奴だな」
クラウスとは違うすらりとした手が下肢を撫でてくる。抗議しようした瞬間、薄く開いていた唇を割り、舌が入ってきた。クラウスとは違う乱暴な舌が口の中を蹂躪していく。最後に舌先が吸われるように離れていくと、ヘルムートは額をつけて笑った。
「お前、口小さいな。私のが入るか?」
「な、な、な、なに!」
「まぁ、ここに入らなくてもこっちは大丈夫か。この私が二ヶ月も我慢していたんだ。もうそろそろいいだろ?」
「よくないわよ! 離して!」
「すぐ欲しがるようになるさ。他の女達も最初は嫌がっていても最後は自分から跨ってきたんだ。お前もそうなるに決まっている」
手が下腹から上がってきた所で、足を思い切り踏み付けた。
「ッ!!」
悶ながら片足を上げて離れた瞬間、奥の部屋に飛び込んで今度は鍵をかけた。
「おい、エーリカ! おーい……これ、もう食えるか?」
「最低最低!」
枕に顔を押し当て叫んだ。生々しく残る感覚に体がぞわりとする。今までヘルムートが抱きついてきたり頭を撫でてきたりはあった。でも今日みたいに露骨に触ってくる事は一度もなかった。それに……。
――お前を愛しく思っている。
誰よりもクラウスから聞きたかった言葉をヘルムートから聞くとは思いもしなかった。せめてクラウスに好きだと言っておけば良かった。そうしたら今感じたみたいに、少し位はクラウスの心を揺さぶる事が出来たかもしれない。今思えば、クラウスを好きだと思いながら常に別れの準備をしていたように思う。クラウスも今頃誰かに、ミラにあの言葉を告げているのだろうか。
――私はどう願っても聞く事のない言葉ね。
肩書ばかりが大きい婚約者がいなくなり清々しているかもしれない。嫌な事ばかりが頭の中を占め、涙を枕に擦り付けた。
――ずっと泉から出られなければよかった。そうしたら何も考えずにいられたのに。
二か月もの間、エーリカは人柱のある泉の中にいた。
小柄な身体で大手を振るのは、知り合ってすぐ仲良くなったシルビアだった。エーリカは大きな籠を押さえながら走り出した。
この町に来てニヶ月、名前は全く違うものにしてしまうとふと忘れてしまうかと思い、最初の文字はそのまま使いエマと名乗る事にした。
町には八百屋や肉屋、雑貨屋に質屋、服屋など基本的な物は何でも揃っていた。それでも足りない物を賄う為に、十日に一度の頻度で王都から行商がやってくる。店に品物を納品する為にやって来るのだが、その後は広場で露店が開かれ、一般民も購入する事が出来た。中には直接行商に必要な物を頼んでいる者達もいる。その行商の露店先で、若い夫婦はすでに臨戦態勢万全で立っていた。
新婚の二人は結婚を期に八ヶ月前に王都から越してきたらしい。念の為、町に来る前に腰まであった髪を肩ほどまで切り、髪が染まると聞いた木の葉を潰して髪に揉み込んでいた。そのおかげで艷やかで美しかったピンクブロンドの髪は、艶のない濃い栗色に変わっていた。
「今日は賑わってるね」
「この人混みの中から買い物出来るかしら」
シルビアは大層な料理自慢らしく、いずれはこの町で食堂を開くのが夢だと言っていた。兵士のようにがっちりとした体の夫はマッテオは、無口だがいつもすれ違う時にはぎこちなく微笑んでくれた。
「任せて! 乗り込んでくるから!」
するとシルビアは細い手を勢いよく振り、長い赤茶の髪がさらさらと揺れた。
「シルビア俺が行くから」
「そう? それならふた家族お願いね! はい、これが買う物よ」
無口なマッテオはメモを受け取ると意を決して、群がる人々の中に入っていった。
国境辺りから中心部に避難する人々が増え、ここも日に日に人が増えていっている印象がある。この町はわりと中心部にあるので兵団はいないが自警団がある。だから住む決め手にもなった。
「エマちゃんの家は町から離れているでしょ? そろそろ借り直せないの?」
「あの人釣りが好きだから川から離れたくないみたい。そのおかげで夕飯はいつも魚なんだけどね」
「そうそう! 前に貰った魚は美味しかったなぁ!」
「また沢山取れたら持っていくわ」
マッテオが買ってきてくれた物を受け取りりシルビア達と別れ、人気の少ない道に出た。見通しの良い林を抜けると川が流れている。家はその近くにあった。
この家を見つけて持ち主を探した所、亡くなった祖父が一人で住んでいた家を持て余していたと、その孫から格安で借りれたものだった。小さな家に戻ると中に声を掛けた。
「両手が塞がっているの! 開けてくれない?」
しかし返事はない。仕方なく肘で叩こうとした瞬間、勢いよく扉が開いた。中から出てきたのはいつの間にか腰の高さほどまでに大きくなったモフだった。
「あれ? モフいたの」
するとモフは小さく鳴くと家の中に顔を向けた。部屋は二間で、居間には絨毯が敷いてあり、年季の入った二人がけのソファもある。その上にはこの家で一番フカフカなクッションが置いてあった。その上に神々しくも鎮座していたのは、真っ白い毛並みの狐。毛の境い目は空気に溶けているのではと思う程に細く柔らかそうにフワフワと空気を含んでいる。木の実のように丸い瞳がこちらに向くが、興味なさそうにソファの肘掛けに顎を乗せた。
「シロちゃんも来ていたのね。こんにちは」
ある時からモフの周りをちょろちょろとし始めた白いキツネは三日に一回の割合で現れていた。返事のしない狐の代わりにモフが体を押し付けてくる。
「モフったら大きくなり過ぎよ」
くぐもった声で鳴くが、もう以前のように言葉を理解する事は出来ない。
「そんな所に突っ立ってるな」
後ろから背中を押され、じゃがいもが床に散らばる。銀髪の隙間から意地悪く笑いながら、シロのいるソファへどかりと座った。
「ヘルムート! シロちゃんがびっくりするでしょ」
シロは振動を感じる前に飛び退いていたが、目を細めてヘルムートを見つめていた。
「狐ごときが私に歯向かうのか?」
エーリカはヘルムートのおでこを弾くとシロを抱き上げた。
「お前! 王族に向かってなんて事をするんだ! 極刑にするぞ!」
「どうぞどうぞ。あなたが国に戻れるならね」
ふてくされた顔で睨みつけてくるが、その顔を見ると怒りもどこかへいってしまう。
「その様子だと釣れなかったみたいね。パンとチーズと野菜を買ったからシチューを作ろうと思うの」
「あの庶民の食べ物か。まぁいいだろう」
「あなたも手伝うのよ」
驚く事にヘルムートはナイフの扱いを少し教えただけでエーリカの腕前を超えてしまっていた。もともと剣に慣れているからだろうか。じゃがいもの皮を剥いている手元を覗いていると、手際よく皮を剥き根を取っている。
「おい、肉は?」
「チーズを入れればコクが出るわよ。私達もう働いていないんだから仕方ないでしょ」
すると誇らしげなヘルムートはポケットから小さな巾着を出した。ずっしりとしたその中には沢山の硬貨が入っていた。
「どうしたのこれ」
「換金してきたんだ」
「あれほど駄目って言ったじゃない!」
ここにきてすぐにヘルムートは手持ちの宝石を換金しようとしたが、それは止めていた。ヘルムートの持っていた宝石は異国の細工の物や、庶民では手に入れる事の出来ない大きな宝石が付いた首飾りや指輪だった。小さな町で換金出来る代物ではない。それに高価すぎる品の場合、盗品かと疑われたり他国の密偵が金に困って換金した物かなど調査が入る場合がある。今は小さな事でも疑われる訳にはいかない。すぐに荷物をまとめようと離れた腕を掴まれた。
「この町を出ましょう。見つかったらどうするの? 私もあなたももう魔力がないのよ!」
「目立つ物は売ってないから安心しろ」
その瞬間、嫌な予感がして奥の部屋に飛び込んだ。簡素な机と寝台があるだけの部屋。引き出しを開けてその場に座り込んだ。そこにはクラウスから貰った首飾りが消えてた。耳飾りは普段付ける訳にはいかず、守護山の部屋に置いて来たのであの崩壊でもう見つからないだろう。しかし首飾りならばといつもこっそり服の下につけていた。でもここに来てからは身に付けてはいなかった。ヘルムートはどうやらそれを売ってしまったらしい。確かにラピスラズリの宝石は換金しても目立たないだろう。それでもエーリカにとってはもう二度手に入らない宝物だった。後ろで扉が軋む音がし、拳を握り締めて声を絞り出した。
「入ってこないで」
「金は少し使った。調味料と釣り具と、あと家の補修材にもな」
返事は出来ない。声を出したら涙が溢れてしまいそうだった。
ヘルムートの購入した物は全て生活に必要な物。最初の頃、着ていた服をそのまま売れば目立つので布にして換金し、質素な服や生活に必要な物を揃えた。食材もたまに好意で貰ったりもしたが、ほとんどは購入するのでお金も底を尽きかけていた。金目の物はもうないし、ヘルムートの私物を売るには危険が大きい。仕方ないのは分かっていた。
クラウスとの思い出が時間と共に消えていく。たった一人を想い続ける事はとても辛い事なのだと思い知った。叶わない恋だと認めるには時間がかかって、今も認める事が出来ないでいた。
守護山が崩壊したあの時、真っ直ぐにミラを助けに行ったクラウスの姿が瞼に焼き付いて消えない。辛い思いを隠し、平気な振りをして生きていても少しのきっかけでこんなにも溢れてきてしまう。自分の時間はこうして止まったままなのに、クラウスは今この時も沢山の人に出会っているのだろう。その中にはきっと、クラウスを想う人も出てくる。クラウスが想う人も。
二人で過ごした短いけれど濃密な出来事を忘れたくなくて逃げてしまいたかった。本当は他の誰かと幸せを望むなら祝福してあげたい。そして進む道の先にクラウスがいなくても強くありたい。そう思うのに、今も何も変わっていない弱い自分が腹ただしくて情けなかった。
――少しでも私を思い出す時はありますか? 声が聞きたいです、クラウス様。
共にいた時、想い合っていると感じた時もあった。その時、私だけを見てと言えたなら何か変わっていただろうか。考えても答えは出ないまま、時だけが流れていた。
扉の隙間からしてくる匂いに誘われて居間に戻ると、ヘルムートが鍋の中に勢いよく牛乳を入れているところだった。
「入れ過ぎよ、貸して」
ヘルムートは何も言わないまま横にずれるとヘラをよこしてくる。鍋の中を見て、まだ修正がききそうだと少し安堵した。
「王族と侯爵令嬢がボロ屋でこんな食事を作っているとはな」
まだ怒りは収まっていないので返事はせずに鍋底が焦げないようヘラを動かした。
「買い戻せないからな」
「分かっているわ」
「もうあんな奴忘れちまえよ。どうせ今頃別の女がいるさ」
「やめて! 聞きたくない」
その瞬間、鍋の中のシチューが跳ねた。引っ込めた手を無理やり引かれると、桶の水に突っ込まれた。
「大丈夫よこれくらい」
しかし返事はない。後ろから抱き締められるようにして立つヘルムートの息が耳にかかった。クラウスなら見上げる程の身長でも、ヘルムートの視線は近い。すぐ後ろに顔があると思うと動く事は出来なかった。
「離して? もう大丈夫だから」
腕ごと押さえるようにして抱き締められる。腕まくりをして見える筋肉のついた腕と、身動きしてもびくとのしない力に、鍛えていた人なのだと今更思い出してしまう。巨大な魔力を持ち、戦場を駆けていたヴィルヘルミナ帝国の皇太子。
「私を殺そうとしたくせに」
「あの時は敵同士だった。それに助けただろ」
「それはそうだけど」
腕の力が強くなる。
「ちょっと、くる、し」
「お前が欲しい」
耳を疑う言葉に思わず固まってしまった。少し掠れた声は聞き間違えかと思った。
「お前を愛しく思っている」
「う、そ」
「嘘じゃない」
振り返った瞬間、魔力の消えた黒一色の瞳と目がかち合う。唇を奪われたのは一瞬の事だった。弾力のある物が何度も押し当てられる。そのまま首に落ちてくる唇から逃れようとすると、片手で両手首を掴まれた。自由になったもう片方の手が体の線を撫でるように動き出す。
「お前は魔力を使った後どうしていた? あの王子に慰めてもらっていたのか? それともオルフェン?」
「どういう意味?」
「お前程の魔力を使って平気な訳がないだろ」
「沢山使った時はよく熱を出していたけど」
「オルフェンは手を出さなかったのか。馬鹿な奴だな」
クラウスとは違うすらりとした手が下肢を撫でてくる。抗議しようした瞬間、薄く開いていた唇を割り、舌が入ってきた。クラウスとは違う乱暴な舌が口の中を蹂躪していく。最後に舌先が吸われるように離れていくと、ヘルムートは額をつけて笑った。
「お前、口小さいな。私のが入るか?」
「な、な、な、なに!」
「まぁ、ここに入らなくてもこっちは大丈夫か。この私が二ヶ月も我慢していたんだ。もうそろそろいいだろ?」
「よくないわよ! 離して!」
「すぐ欲しがるようになるさ。他の女達も最初は嫌がっていても最後は自分から跨ってきたんだ。お前もそうなるに決まっている」
手が下腹から上がってきた所で、足を思い切り踏み付けた。
「ッ!!」
悶ながら片足を上げて離れた瞬間、奥の部屋に飛び込んで今度は鍵をかけた。
「おい、エーリカ! おーい……これ、もう食えるか?」
「最低最低!」
枕に顔を押し当て叫んだ。生々しく残る感覚に体がぞわりとする。今までヘルムートが抱きついてきたり頭を撫でてきたりはあった。でも今日みたいに露骨に触ってくる事は一度もなかった。それに……。
――お前を愛しく思っている。
誰よりもクラウスから聞きたかった言葉をヘルムートから聞くとは思いもしなかった。せめてクラウスに好きだと言っておけば良かった。そうしたら今感じたみたいに、少し位はクラウスの心を揺さぶる事が出来たかもしれない。今思えば、クラウスを好きだと思いながら常に別れの準備をしていたように思う。クラウスも今頃誰かに、ミラにあの言葉を告げているのだろうか。
――私はどう願っても聞く事のない言葉ね。
肩書ばかりが大きい婚約者がいなくなり清々しているかもしれない。嫌な事ばかりが頭の中を占め、涙を枕に擦り付けた。
――ずっと泉から出られなければよかった。そうしたら何も考えずにいられたのに。
二か月もの間、エーリカは人柱のある泉の中にいた。
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