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19 ヴィルヘルミナ帝国の使者
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ヴィルヘルミナ帝国の使者達が滞在していたのは、王城の離れにある紫の離宮だった。
前王には側室が多数おり、その中でも特に寵愛していたといわれる側室の為に作られた離宮は、城に負けない綺羅びやかな彫刻と調度品に囲まれた建物だった。前王亡き後は国賓をもてなす為に使われるのが常となっていた。
「これが一人の側室にあてがわれたとは驚きです」
「その後の利用価値から考えれば、父に感謝しなくてはいけないな」
「生意気な事を申しましたッ」
「よいよい、誰もが最初は呆れるものだ」
門兵が美術品のような彫刻が施された門を押し開けると、ふと花の香りがする。こんな素敵な庭をクラウスと散歩出来たならと考えて広い背中を見つめていると、突然クラウスが振り返った。
「本当に会うつもりか?」
「もちろんです」
「好んでヴィルヘルミナ帝国の者になど会いたがらないはずだ」
屋敷の中は広く静まり返っていた。左右対称の美しい屋敷は二階建て。でも一階ごとの天井が高いのか、普通の二階建てよりも高く見える。玄関を入るとヴィルヘルミナ帝国の侍女が迎えてくれた。俯いている為顔はよく見えない。声は可愛らしいのにどことなく背筋が寒くなったのは敵国だという先入観からだろうか。
「お待ちしておりました。こちらでございます」
右手にある応接間のソファに座っていた使者達が二人立ち上がると、慣例に則った挨拶をして国王が座るのを待ち、浅く座り直した。ソファは大きい三人掛けのはずなのに、一人の大男のせいでもう一人が寄っている形になっていた。
「宮はお気に召して頂けたかな?」
「ゆっくりと過ごさせて頂きました。しかし外界の音が全く耳に入って来ないので、忘れ去られてしまったのかと思っていたところです」
「貴国は何かと多忙であろうから配慮したまでよ」
「お気遣い痛み入ります」
ピリリとする空気の中、話題を変えるように大男の顔がエーリカに向いた。
「エーリカ・アインホルン様、殿下の護衛騎士をしておりますミュラーと申します。殿下は色々とお噂のあるお方ですが、それらは全て政治的要素の強い噂に過ぎません。どうかお人柄を見てからお決め頂きたく存じます」
「貴国に招待すると言う事か?」
「殿下は強引な婚姻を望んでおられません」
「ならば我が国の答えを申そう。せっかくの申し出だがお断り申し上げる。正式な発表はまだだが、エーリカ嬢はここにいるクラウスとすでに婚約しているのだ」
その瞬間、ミュラーは落胆するのではなく小さく笑った気がした。
「それはとても残念です」
「あの、一つ宜しいでしょうか?」
ミュラーは目元を細めて頷いた。
「疑問なのですが、ヘルムート皇太子殿下はなぜ私をお選びになられたのでしょうか」
「お断りになられるのに理由が知りたいですか?」
「不思議だったんです」
「そのご容姿をお噂づてに聞き、お選びになったとは思われませんか?」
「容姿ですか?」
言葉に詰まると、突然ミュラーは笑った。
「これでは殿下もお気が休まりませんな」
振られたクラウスは真顔のまま返事はしなかった。
「それで、真意を教えて頂けますか?」
「この状況で物怖じしないとはさすがですね」
褒められているのか貶されているのか分からず、口元を引き締めた。
「我が国は広大な領土を誇る帝国です。しかし広大な土地ゆえ場所により貧富の差は激しい。内乱の火種は常にあります。国内からの正妃選びは内戦になりかねない大きな決め事なのです」
「国外から娶ればそれこそ反発は強まりませんか?」
「国内から正妃を選ぶよりもずっと安心とのお考えです。そしてもう一つ、お耳にお入れしたい重要な事がございます」
「なんでしょうか」
「殿下は、正妃に純潔を求めないとの事でございます」
がたりとクラウスが立ち上がった。
「酷い侮辱だ!」
クラウスは国王に止められてもミュラーを睨み付けていた。
「クラウス様、私は大丈夫です。ミュラー様どうぞお話をお続け下さい」
拳に巻かれた包帯にじんわりと血が滲み出していく。傷が開いてしまったかとそっと拳に触れた途端、拳はもう片方の掌で隠されてしまった。
「殿下は魔術を使うと体が昂るのは仕方がないとお考えです。実際殿下も少々魔術に心得があり、故に理解し合えると仰っておりました」
恥ずかしくて顔を上げられない。今までずっと周りの人達からそう見られていたのだと思うと、居た堪れなかった。クラウスにもそう思われていたのだろうか。だからオルフェンとの妙な噂があったのだと、今初めてその真意を理解した。
「あの私、席を外しても宜しいですか?」
「でしたらうちの者がお付き添い致します。今後魔術師様のお側に置こうと思い連れて来た侍女です。叶わなくなってしまいましたが、最後にお供させて下さい」
扉の近くにいた侍女は頭を下げてきた。
「少し風に当たって参ります」
侍女を連れ中庭に出ると、心地よい風が吹き抜けていく。花を愛でられるようにと置かれた椅子に促され座ると、エーリカは少し離れて立つ侍女に声を掛けた。
「あなたも座って頂戴」
「私は結構です」
「あまり仕えられる事に慣れていないの。だから落ち着かないのよ」
「失礼ですが侯爵令嬢であらせられますよね?」
「ずっと魔術団で生活をしていたからだと思うわ」
侍女はそういう事ならと少し後ろに椅子に引いて座ってくれた。ずっと俯き加減だった顔が上がると、不思議な色の目と視線が絡んだ。青色と黄色と赤、それに金が僅かに混じっているようにも見える。しかし瞬きをした瞬間全ての色は消え失せていた。
「もしかしてあなたも魔力があるの?」
「この程度をあるというなら、ほとんどの国民は魔力を保有しております」
「それは初耳よ」
「しかし魔術を実際に使える程の保有者はほんの一握りです。何故かお分かりですか?」
「分からないわ」
「それは貴国が一人占めしているからですよ」
思わず立ち上がる。最初に感じた感覚が今はっきりと勘違いではないと告げてきた。
「侍女ではないのね」
「騒がれない方が賢明かと。戦争はお嫌でしょう?」
「エーリカ! 会談は終わったぞ」
「クラウス様!」
見えた姿に思わず走り出していた。腕を掴んで身を寄せると、クラウスはぎこちなく体を強張らせた。
「何かあったのか?」
クラウスの疑う視線が侍女に向く。エーリカは首を振るとクラウスの腕を更に引き寄せた。
「もう済んだのなら行きましょう。陛下はどちらに?」
クラウスの視線に後ろを向くと、国王の少し後ろを歩くミュラーが見えた。
「本当に仲が宜しいのですね」
「そうであろう。貴国とは別の方法で友好を築いていきたいと皇帝にお伝え頂きたい」
「承知致しました」
紫の離宮を出るまでクラウスは組む腕を離す事はなかったが、城に戻り国王の背中を見送るとすぐに腕は解かれた。
「私が純潔を失っていると、クラウス様もそう思っていらっしゃいますか?」
「思っていないから心配するな」
そう言うとクラウスが離れていく背中が滲んでいく。目を擦れば泣いていると思われてしまう。
「エーリカ様!」
声がしてすぐに立ち去らなかった事を後悔した。
「ミラ様、夜会振りですね」
「向こうの廊下からお姿を拝見したので追って参りました。クラウス様もいらっしゃいましたよね?」
「ご用でしたか?」
「用と言う程ではないですけど、お城に来た時には顔を出す事にしているんです」
「お約束は?」
「していませんがこれから執務室に行ってみます」
エーリカは思わず顔を顰めた。クラウスはそれでなくとも公務と騎士団の仕事にと激務なのだ。約束もないのに押し掛けるのを黙ってはいられなかった。
「お止めになった方がいいのではありませんか?」
するとミラはクスリと笑った。それはもう可愛らしく。
「仕事の邪魔はしないように本を読んだり刺繍をしたりしているんです。昔は一緒に勉強をしていましたがもうとても追いつけませから。それに根を詰めた頃合いを見計らってお茶に誘うんですよ」
エーリカの中で沸々と黒い物が渦巻き始めた。腹の奥が熱くて重くて仕方ない。耐え切れない苛立ちで指先が震え出す。
「……ミラ様はご存知ないかもしれませんが、クラウス様と私は婚約しております」
ぽかんとしたミラは、丸い瞳で見上げてきた。
「存じ上げておりますよ。でも私は友人としてクラウス様の憂いを取り除いで差し上げたいんです」
「憂い?」
「エーリカ様は私がクラウス様のお側にいるのはお嫌ですか?」
「嫌に決まっているじゃない!」
信じられない事にミラは微笑んでいた。はっとして周りを見渡すと、数人の侍女が驚いたようにこちらを見ている。これではまるで格上の貴族が格下の令嬢をいじめているように見えているかもしれない。それでなくともミラは貴族令嬢にしては質素な格好をし、自分よりも背が低い。どんな理由であれ怒鳴りつけてしまったこの状況は言い逃れ出来ない。恥ずかしさと後悔で立ち去ってしまいたかった。
「二人共何をしているんだ?」
誰かがクラウスを呼んだようで、足音から逃れるよう歩き出した。
「エーリカ!」
声を無視して進むとお腹に渦巻いていた物がどんどんせり上がってくる。何故かそれを押し込めなくてはいけない気がして口を抑え込んだ。
「エーリカ? 具合でも悪いのか?」
「あなたといるとおかしくなりそう」
「それはどういう……」
「エーリカ!」
廊下を走ってきたオルフェンはクラウスの腕からエーリカを奪い取った。
「何をしたんだ!」
「師匠、マントは」
オルフェンはマントも羽織らずに魔術師の山から走って来たようだった。黒い髪を乱し、首には汗が浮かんでいた。
――姿を見られるのを何より嫌うのに。
「お前はもう喋るな」
口を押えてコクコクと頷くと、体に似合わない力でエーリカを横抱きにし、オルフェンは走り出した。
「俺も行く!」
「駄目だ、お前がいるとエーリカの魔力が乱れる」
クラウスはぐっと足を止めると、移動陣のある部屋が光るのを見つめた。
「エーリカ様は大丈夫かしら」
「お前とエーリカが言い争いをしていると呼ばれたんだぞ」
珍しく怒りを湛えているその目を見ながら、ミラは嬉しそうに言った。
「良かったわね! エーリカ様は私がクラウス様のお側にいるのがお嫌だそうよ」
クラウスは頭を抱えて顔を押さえた。
「どうしてそういう話になったんだ?」
「いつもの過ごし方をお伝えしたの。執務室でゆっくり過ごし、たまにお茶をするって」
「いつもじゃないし二人じゃないだろ。お前と休憩を取る時は必ず団長もいるじゃないか」
「二人だなんて言ってないわよ」
「二人だと思った可能性は?」
するとミラは口を押さえながら唸った。
「どうかしら」
「ミラ、頼むよ」
ヘヘッと笑われれば許すしかない。ミラは男所帯で大層可愛がられ、おおらかに自由に育てられてきた。そこが良い所であり共にいると楽しくもあったが、そのおおらかさが悪手に働く時もあった。
「後で誤解を解きに行ってくる」
「これからはお茶をする時はエーリカ様もお誘いしましょう」
「わざわざ来てもらうのか? 結界魔術師なんだぞ」
「遠慮していたら距離は縮まらないわよ」
「それが出来るなら苦労はしていない」
中庭に出ておもむろに空を見上げる。日中は見上げるのをずっと避けてきたその山は、子供の頃に見上げた時のまま、偉大な存在をそこに示していた。
侍女は首に下げていた魔石を外した。
「あのお嬢様はお眼鏡に叶いましたか?」
ミュラーは楽しそうに女装していた主人を見つめた。
「ここは平和呆けしているな。魔術師でさえ見抜けないとは」
魔石を外した姿は変わり、声は男のものに戻っていた。
「殿下が生み出した魔石なのですから当たり前です。それで、どうだったんです?」
「あの女自体に元々興味はない。ただやはり、あの女の持つ魔力には興味がある」
嬉々としてその場で着替え出すヘルムートの体にガウンが掛けられる。
「ご指示された場所へ軍の準備は出来ております」
「我が軍勢が迫っていると知れば、奴らは間違いなくほとんどの力を大公領に注ぐだろう」
「大公は魔術団に入る為に王位継承権を放棄したとか」
「国王は兄を最前線に立たせていると言う訳だ。その代わりに息子を受け入れたとも言えるな。魔力のない無能な王子など放っておけばいいものを。これだから小国は血の縁が強くて敵わん」
さらりとした前髪の隙間から、空に浮かぶ山を見上げた。
「待っていろよオルフェン。そこから引き摺り出してやるかな。神ごっこは終わりだ」
前王には側室が多数おり、その中でも特に寵愛していたといわれる側室の為に作られた離宮は、城に負けない綺羅びやかな彫刻と調度品に囲まれた建物だった。前王亡き後は国賓をもてなす為に使われるのが常となっていた。
「これが一人の側室にあてがわれたとは驚きです」
「その後の利用価値から考えれば、父に感謝しなくてはいけないな」
「生意気な事を申しましたッ」
「よいよい、誰もが最初は呆れるものだ」
門兵が美術品のような彫刻が施された門を押し開けると、ふと花の香りがする。こんな素敵な庭をクラウスと散歩出来たならと考えて広い背中を見つめていると、突然クラウスが振り返った。
「本当に会うつもりか?」
「もちろんです」
「好んでヴィルヘルミナ帝国の者になど会いたがらないはずだ」
屋敷の中は広く静まり返っていた。左右対称の美しい屋敷は二階建て。でも一階ごとの天井が高いのか、普通の二階建てよりも高く見える。玄関を入るとヴィルヘルミナ帝国の侍女が迎えてくれた。俯いている為顔はよく見えない。声は可愛らしいのにどことなく背筋が寒くなったのは敵国だという先入観からだろうか。
「お待ちしておりました。こちらでございます」
右手にある応接間のソファに座っていた使者達が二人立ち上がると、慣例に則った挨拶をして国王が座るのを待ち、浅く座り直した。ソファは大きい三人掛けのはずなのに、一人の大男のせいでもう一人が寄っている形になっていた。
「宮はお気に召して頂けたかな?」
「ゆっくりと過ごさせて頂きました。しかし外界の音が全く耳に入って来ないので、忘れ去られてしまったのかと思っていたところです」
「貴国は何かと多忙であろうから配慮したまでよ」
「お気遣い痛み入ります」
ピリリとする空気の中、話題を変えるように大男の顔がエーリカに向いた。
「エーリカ・アインホルン様、殿下の護衛騎士をしておりますミュラーと申します。殿下は色々とお噂のあるお方ですが、それらは全て政治的要素の強い噂に過ぎません。どうかお人柄を見てからお決め頂きたく存じます」
「貴国に招待すると言う事か?」
「殿下は強引な婚姻を望んでおられません」
「ならば我が国の答えを申そう。せっかくの申し出だがお断り申し上げる。正式な発表はまだだが、エーリカ嬢はここにいるクラウスとすでに婚約しているのだ」
その瞬間、ミュラーは落胆するのではなく小さく笑った気がした。
「それはとても残念です」
「あの、一つ宜しいでしょうか?」
ミュラーは目元を細めて頷いた。
「疑問なのですが、ヘルムート皇太子殿下はなぜ私をお選びになられたのでしょうか」
「お断りになられるのに理由が知りたいですか?」
「不思議だったんです」
「そのご容姿をお噂づてに聞き、お選びになったとは思われませんか?」
「容姿ですか?」
言葉に詰まると、突然ミュラーは笑った。
「これでは殿下もお気が休まりませんな」
振られたクラウスは真顔のまま返事はしなかった。
「それで、真意を教えて頂けますか?」
「この状況で物怖じしないとはさすがですね」
褒められているのか貶されているのか分からず、口元を引き締めた。
「我が国は広大な領土を誇る帝国です。しかし広大な土地ゆえ場所により貧富の差は激しい。内乱の火種は常にあります。国内からの正妃選びは内戦になりかねない大きな決め事なのです」
「国外から娶ればそれこそ反発は強まりませんか?」
「国内から正妃を選ぶよりもずっと安心とのお考えです。そしてもう一つ、お耳にお入れしたい重要な事がございます」
「なんでしょうか」
「殿下は、正妃に純潔を求めないとの事でございます」
がたりとクラウスが立ち上がった。
「酷い侮辱だ!」
クラウスは国王に止められてもミュラーを睨み付けていた。
「クラウス様、私は大丈夫です。ミュラー様どうぞお話をお続け下さい」
拳に巻かれた包帯にじんわりと血が滲み出していく。傷が開いてしまったかとそっと拳に触れた途端、拳はもう片方の掌で隠されてしまった。
「殿下は魔術を使うと体が昂るのは仕方がないとお考えです。実際殿下も少々魔術に心得があり、故に理解し合えると仰っておりました」
恥ずかしくて顔を上げられない。今までずっと周りの人達からそう見られていたのだと思うと、居た堪れなかった。クラウスにもそう思われていたのだろうか。だからオルフェンとの妙な噂があったのだと、今初めてその真意を理解した。
「あの私、席を外しても宜しいですか?」
「でしたらうちの者がお付き添い致します。今後魔術師様のお側に置こうと思い連れて来た侍女です。叶わなくなってしまいましたが、最後にお供させて下さい」
扉の近くにいた侍女は頭を下げてきた。
「少し風に当たって参ります」
侍女を連れ中庭に出ると、心地よい風が吹き抜けていく。花を愛でられるようにと置かれた椅子に促され座ると、エーリカは少し離れて立つ侍女に声を掛けた。
「あなたも座って頂戴」
「私は結構です」
「あまり仕えられる事に慣れていないの。だから落ち着かないのよ」
「失礼ですが侯爵令嬢であらせられますよね?」
「ずっと魔術団で生活をしていたからだと思うわ」
侍女はそういう事ならと少し後ろに椅子に引いて座ってくれた。ずっと俯き加減だった顔が上がると、不思議な色の目と視線が絡んだ。青色と黄色と赤、それに金が僅かに混じっているようにも見える。しかし瞬きをした瞬間全ての色は消え失せていた。
「もしかしてあなたも魔力があるの?」
「この程度をあるというなら、ほとんどの国民は魔力を保有しております」
「それは初耳よ」
「しかし魔術を実際に使える程の保有者はほんの一握りです。何故かお分かりですか?」
「分からないわ」
「それは貴国が一人占めしているからですよ」
思わず立ち上がる。最初に感じた感覚が今はっきりと勘違いではないと告げてきた。
「侍女ではないのね」
「騒がれない方が賢明かと。戦争はお嫌でしょう?」
「エーリカ! 会談は終わったぞ」
「クラウス様!」
見えた姿に思わず走り出していた。腕を掴んで身を寄せると、クラウスはぎこちなく体を強張らせた。
「何かあったのか?」
クラウスの疑う視線が侍女に向く。エーリカは首を振るとクラウスの腕を更に引き寄せた。
「もう済んだのなら行きましょう。陛下はどちらに?」
クラウスの視線に後ろを向くと、国王の少し後ろを歩くミュラーが見えた。
「本当に仲が宜しいのですね」
「そうであろう。貴国とは別の方法で友好を築いていきたいと皇帝にお伝え頂きたい」
「承知致しました」
紫の離宮を出るまでクラウスは組む腕を離す事はなかったが、城に戻り国王の背中を見送るとすぐに腕は解かれた。
「私が純潔を失っていると、クラウス様もそう思っていらっしゃいますか?」
「思っていないから心配するな」
そう言うとクラウスが離れていく背中が滲んでいく。目を擦れば泣いていると思われてしまう。
「エーリカ様!」
声がしてすぐに立ち去らなかった事を後悔した。
「ミラ様、夜会振りですね」
「向こうの廊下からお姿を拝見したので追って参りました。クラウス様もいらっしゃいましたよね?」
「ご用でしたか?」
「用と言う程ではないですけど、お城に来た時には顔を出す事にしているんです」
「お約束は?」
「していませんがこれから執務室に行ってみます」
エーリカは思わず顔を顰めた。クラウスはそれでなくとも公務と騎士団の仕事にと激務なのだ。約束もないのに押し掛けるのを黙ってはいられなかった。
「お止めになった方がいいのではありませんか?」
するとミラはクスリと笑った。それはもう可愛らしく。
「仕事の邪魔はしないように本を読んだり刺繍をしたりしているんです。昔は一緒に勉強をしていましたがもうとても追いつけませから。それに根を詰めた頃合いを見計らってお茶に誘うんですよ」
エーリカの中で沸々と黒い物が渦巻き始めた。腹の奥が熱くて重くて仕方ない。耐え切れない苛立ちで指先が震え出す。
「……ミラ様はご存知ないかもしれませんが、クラウス様と私は婚約しております」
ぽかんとしたミラは、丸い瞳で見上げてきた。
「存じ上げておりますよ。でも私は友人としてクラウス様の憂いを取り除いで差し上げたいんです」
「憂い?」
「エーリカ様は私がクラウス様のお側にいるのはお嫌ですか?」
「嫌に決まっているじゃない!」
信じられない事にミラは微笑んでいた。はっとして周りを見渡すと、数人の侍女が驚いたようにこちらを見ている。これではまるで格上の貴族が格下の令嬢をいじめているように見えているかもしれない。それでなくともミラは貴族令嬢にしては質素な格好をし、自分よりも背が低い。どんな理由であれ怒鳴りつけてしまったこの状況は言い逃れ出来ない。恥ずかしさと後悔で立ち去ってしまいたかった。
「二人共何をしているんだ?」
誰かがクラウスを呼んだようで、足音から逃れるよう歩き出した。
「エーリカ!」
声を無視して進むとお腹に渦巻いていた物がどんどんせり上がってくる。何故かそれを押し込めなくてはいけない気がして口を抑え込んだ。
「エーリカ? 具合でも悪いのか?」
「あなたといるとおかしくなりそう」
「それはどういう……」
「エーリカ!」
廊下を走ってきたオルフェンはクラウスの腕からエーリカを奪い取った。
「何をしたんだ!」
「師匠、マントは」
オルフェンはマントも羽織らずに魔術師の山から走って来たようだった。黒い髪を乱し、首には汗が浮かんでいた。
――姿を見られるのを何より嫌うのに。
「お前はもう喋るな」
口を押えてコクコクと頷くと、体に似合わない力でエーリカを横抱きにし、オルフェンは走り出した。
「俺も行く!」
「駄目だ、お前がいるとエーリカの魔力が乱れる」
クラウスはぐっと足を止めると、移動陣のある部屋が光るのを見つめた。
「エーリカ様は大丈夫かしら」
「お前とエーリカが言い争いをしていると呼ばれたんだぞ」
珍しく怒りを湛えているその目を見ながら、ミラは嬉しそうに言った。
「良かったわね! エーリカ様は私がクラウス様のお側にいるのがお嫌だそうよ」
クラウスは頭を抱えて顔を押さえた。
「どうしてそういう話になったんだ?」
「いつもの過ごし方をお伝えしたの。執務室でゆっくり過ごし、たまにお茶をするって」
「いつもじゃないし二人じゃないだろ。お前と休憩を取る時は必ず団長もいるじゃないか」
「二人だなんて言ってないわよ」
「二人だと思った可能性は?」
するとミラは口を押さえながら唸った。
「どうかしら」
「ミラ、頼むよ」
ヘヘッと笑われれば許すしかない。ミラは男所帯で大層可愛がられ、おおらかに自由に育てられてきた。そこが良い所であり共にいると楽しくもあったが、そのおおらかさが悪手に働く時もあった。
「後で誤解を解きに行ってくる」
「これからはお茶をする時はエーリカ様もお誘いしましょう」
「わざわざ来てもらうのか? 結界魔術師なんだぞ」
「遠慮していたら距離は縮まらないわよ」
「それが出来るなら苦労はしていない」
中庭に出ておもむろに空を見上げる。日中は見上げるのをずっと避けてきたその山は、子供の頃に見上げた時のまま、偉大な存在をそこに示していた。
侍女は首に下げていた魔石を外した。
「あのお嬢様はお眼鏡に叶いましたか?」
ミュラーは楽しそうに女装していた主人を見つめた。
「ここは平和呆けしているな。魔術師でさえ見抜けないとは」
魔石を外した姿は変わり、声は男のものに戻っていた。
「殿下が生み出した魔石なのですから当たり前です。それで、どうだったんです?」
「あの女自体に元々興味はない。ただやはり、あの女の持つ魔力には興味がある」
嬉々としてその場で着替え出すヘルムートの体にガウンが掛けられる。
「ご指示された場所へ軍の準備は出来ております」
「我が軍勢が迫っていると知れば、奴らは間違いなくほとんどの力を大公領に注ぐだろう」
「大公は魔術団に入る為に王位継承権を放棄したとか」
「国王は兄を最前線に立たせていると言う訳だ。その代わりに息子を受け入れたとも言えるな。魔力のない無能な王子など放っておけばいいものを。これだから小国は血の縁が強くて敵わん」
さらりとした前髪の隙間から、空に浮かぶ山を見上げた。
「待っていろよオルフェン。そこから引き摺り出してやるかな。神ごっこは終わりだ」
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