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17 男の矜持と男の嫉妬
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クラウスは窮屈な首元を寛げると上着を執務室のソファに投げ捨てた。暗い部屋の中、窓から空を見上げる。上空に浮かぶ魔術師の山は、夜の間は黒い雲の塊のように見えている。選ばれた者だけが住む事を許される場所。クラウスはずっとその場所を神の住む山だと思っていた。
――魔力があったら。
そう何度も思いながら見上げ続けた場所。
――魔力があったなら、あの時そばに居られたのに。
額を硝子に押し付けると熱を持った額が冷やされていく。その感覚に冷静さを取り戻していくと、同時に心が冷えていく気がした。
やっとエーリカに会えると思った矢先、ヴィルヘルミナ帝国の使者達に時間を取られてしまい、急いで駆け付けてみればノアイユ騎士団長に呼び止められてミラのエスコートを頼まれてしまった。夜会の警護の為エスコートが出来ないと言われてしまえば、断る訳にもいかなかった。
ミラの着ていたドレスの色にはすぐに気が付いていた。公務に追われ、エーリカの気持ちを確かめるという二人の提案を聞き流していたが、ドレスを見た時にこれだったのかと思い知った。
案の定、会場に入った途端周りの視線が集まったが、すぐにエーリカを見つけて誤解を解くつもりでいた。目立つエーリカの姿はすぐに見つかった。しかしアルゴではない他の男性と踊っているエーリカの美しさに凍りついたように固まってしまった自分がいた。それでもエスコートした手前、ミラと一曲踊らなくてはならない。役目を果たしてすぐにエーリカの元へ行こうとした瞬間、突然ホールのどこにも姿が見えなくなってしまった。
次にエーリカを見つけた時には方角的にバルコニーへ向かう姿だった。ミラとのダンスが終わり、周りに集まり出す令嬢を避けながらピンクブロンドの髪に追いついた時には、自分でも信じられない程に心臓が高鳴っていた。振り返ったエーリカはいつものマントの装いとは違い、体の線が出た美しい姿だった。誰にも近くで見せるつもりはなかった。隣りに立つのは自分だと思っていたから選んだドレスだった。
夜会までの日数を考えると、今回は既製品を贈る方が良い事は分かっていた。それでも初めてのドレスの贈り物はちゃんとした物にしたくて仕立屋に無理を言った。初めて王族の権力を使ったと言ってもいい。短期間で形にさせ、そこから更に希望を詰めてあのドレスを作り上げた。
色はエーリカの髪色と柔らかな雰囲気が似合う若葉色。本当は青色のドレスを選びたかったが、結界魔術師として自立しているエーリカにそれを贈るのは気が引けてしまい、結局青を取り入れたのは小ぶりの耳飾りと首飾りだけになってしまった。でもそれが良かったとも思う。ドレスの色は髪色と相まって春の女神のようだったし、耳と胸元で揺れる自分色の宝石を見ているのは気分が良かった。でもそれも一瞬の事だった。
エーリカはあのドレスを着たミラを見ても変わった様子はなかった。いや、少しは怒っていたかもしれない。むしろ怒らない令嬢がいるだろうか。正式に発表されていないが、婚約者が別の女性と夜会に来て、婚約者の髪色のドレスを着ていたのだ。むしろよく罵倒しなかったと思う。エーリカの対応は上位貴族の令嬢そのものだった。少し距離が縮んだと思っていたが、今夜の事で本格的に呆れられたかもしれない。そう思うと立ち直れないくらいに気持ちが沈んでしまっていた。
言い訳をしに行く勇気はない。気にしてなどいなかったと言われたらきっと立ち直れないだろう。才能と地位と美貌を持ち合わせた婚約者に、縋り付く無能な王子にはなりたくなかった。
「返さなくてはな」
会うには口実が必要で、その切り札は持っている。隣りの部屋に行くと引き出しから夜着を取り出した。綺麗に洗ってはいたが後ろめたさからずっと返せなかったもの。クラウスは包みを持つと重い足取りで執務室を出て行った。
久しぶりに帰ってきた自分の部屋はなせが鍵が開いていた。不審に思いそっと扉を開くと、床にオルフェンとモフが倒れていた。
「師匠!? 何があったんですか!」
オルフェンは薄目を開けると小さく呟いた。
「腹、減った……」
『俺も』
それきり動かなくなってしまう。一人では脱げないドレスの為、仕方なくそのまま厨房にいくと、料理人を捕まえてとにかくすぐに出来るだけの料理を出してもらった。ちらちらと感じる視線には気付かない振りをする。出来上がった物をカートで部屋に運ぶと、オルフェンは鼻だけを動かし、机に料理が並ぶやいなや飛び起きて食べ出した。モフはぺったりと体にくっついてきたまま動かない。しかし片手でオルフェンに引き離され、床に転がされた。
『俺だって腹が減ってるんだ!』
「エーリカは止めておけ」
『もう半分以上戻っているんだからいいじゃないか!』
「駄目だ。外で食ってこい」
モフは文句をいいながら部屋を出ていく。オルフェンは夢中で食べ物を放り込んでいた。オムレツやパンケーキ、具沢山のスープやステーキなど、色々持ってきたはずの食べ物がどんどん消えていく。呆然としたまま見つめていると、ようやく満足したのか手を止めて顔を上げた。
「もしかして私がいない間ずっと食べてなかったって事はないですよね?」
まだモグモグと口を動かしながらじっと見てくるオルフェンは、おもむろにフォークを置くと頬杖をついた。
「なんだその格好は。窮屈じゃないのか?」
「夜会だったんです」
「ふぅん。クラウスからの贈り物か?」
本当は満面の笑みで答えたい所だったが、ミラの姿が脳裏に蘇り、気が付くと涙が溢れていた。驚いたオルフェンが飛ぶ様にそばに来ると袖で乱暴に頬を拭いてきた。
「クラウスに泣かされたのか? 夜会で何かあったのか?」
ただ首を振りながら涙がどんどん溢れてきてしまう。こんなに我慢していたのだと、オルフェンの顔を見て実感した。
「さっさと後ろを向け。窮屈だから涙が出るんだ」
「これはクラウス様から頂いた大事なドレスです」
「分かったからいつもの格好に着替えろ」
言われるままに後ろを向く。オルフェンは子供の頃から共に過ごしているだけあって意外と面倒見がいい。今でこそ我儘を言って何もやらないが、こういう時はかいがいしく世話を焼いてくれるのだった。
「フフッ」
「なんだよ気持ち悪い」
「師匠ってなんだかお母様よりも母みたいですよね」
「俺は男だ」
「だって私の事も女として見ていないでしょう?」
ドレスの背中のホックを外した手が、今度はコルセットの紐に指をかけ始める。かなりきついのかオルフェンは小さく舌打ちをした。
「全く、女ってのはどうしてこうも締め上げるのかね」
「私にも分かりません。お陰で何にも食べられませんでしたよ」
「お前はこんな事しなくても十分に腰が細いんだから、次から断われ。折れるぞ」
「いつもは太ったと言うくせに。なんだか今度はお父様みたいです」
笑って言うと、つられたオルフェンが後ろで笑う。
「父に母に師匠か。俺は忙しいな」
そう言う声色はここへ来たばかりの頃、家に帰りたいと泣く夜に寝付くまで話をしてくれた優しいオルフェンの声だった。
扉を叩きかけて、うっすら開いていた部屋の中を覗いたクラウスはその場で立ち尽くしていた。
オルフェンがエーリカのドレスを脱がせている。時間を掛けてエーリカの事を思い作ったドレスを、他の男が脱がせている。手に持っていた包みを呆然と見つめた。もし仮に、エーリカが純潔でなくとも良いと思っていた。それは自分と婚約をする前の話で、魔術師は魔術を使うと体が高揚し肉欲が増すと聞いた事がある。それは魔力を伴わない兵士達にもある現象だったから理解できた。戦いの後は気持ちが昂ぶり、兵士達はよく娼館に行く。自分も付き合いで行った事はあった。でもただ欲を吐き出すだけの行為は虚しくて好きではないと気が付き、それ以降は付き合いで行く事もあっても行為はしないで過ごしていた。
吐き気がして口を押さえると、怒りに震える体を抑え込んで部屋を離れた。婚約者の不貞の場に踏み込む気にはなれなかった。
夜会は終盤に差し掛かり、まだ酒を飲みながら談笑する者達もいれば、休憩室に消えていく者達もいる。クラウスは部屋の引き出しの奥から持ってきた魔石を握り締めた。しばらく使っていなかった変装の為の魔石だ。これを身に着けていれば他の者からは別の姿に見える。一時期国内を知りたくてお忍びで出歩いていた時に使っていた物で、魔石自体が高価な物なのでほとんど街には出回らない。だから魔石による見え方の違和感に気が付く者はほとんどいない。万が一気が付いても、魔石を保有する程の高貴な身分なのだと理解し、自ら厄介事に首を突っ込む者はいなかった。
廊下から視線を動かすと、酔いの回っている一人の夫人に目が止まった。壁に並べてある椅子に座り、今にも持っているグラスを落としそうになっている。周りを見て誰も自分に気が付いていない事を確認すると、そっと夫人に近付きグラスを取り上げた。
「大丈夫ですか? それ以上はお止めください」
「煩いわね。私を誰だと思っているの? あの、あそこの、子爵の妻よ、夫はね……」
手入れの行き届いた指で、どこにいるかも分からない夫を指差している。
「私のような者に名乗る必要はございません。それよりも旦那様はお近くですか?」
「さあね、どこかしら。どこぞの侍女にでもちょっかいをかけているのよ、きっと」
そう胡乱な瞳で見つめてきた女の顔が変わっていく。
「あら、あなた素敵ね。介抱してくれるの?」
クラウスはすぐさま名前も知らない女の手を取ると、廊下の厚いカーテンの中に入った。女は首に腕を回し口づけをせがんでくる。その瞬間、濃い酒の匂いと香水の香りが鼻に飛び込んできた。気が付くと、クラウスは女を押し退けていた。驚いた表情の女は一瞬呆然とした後、我に返り思い切り引っ叩いてきた。盛大な音が鳴り、足をふらつかせながらカーテンから出ていく。クラウスは頭を抑えながらその場にしゃがみ込んだ。
「最低だな、俺は」
あの子爵夫人はきっと日常的に不貞を働いているのだろう。夜会の終盤は特にそんな者達が多い。目当ての相手がいる場合には早めに消える者達もいるが、相手は誰でもいいから取り敢えず欲を満たしたい者達もいる。しがらみの多い貴族社会ではこういった会は羽目を外す事の出来る数少ない絶好の出会いの場で、女性にとっては特にそうだった。男達は紳士会なるものを作って夜な夜な享楽にふける者達もいる。でも女性はそうはいかない。旦那との行為がなければ熱を持て余す者達も多くいるのも事実で、それが政略結婚の代償だった。
暗い部屋に戻り、胸ポケットから魔石を取り出すと床に叩きつけた。魔石は二つに割れ、一瞬光ったがすぐに力を失ったようだった。
――自分も裏切る事で心を保とうとするなんて最低だな。
「あの場に踏み込む事も出来なかったくせに」
髪を掻き毟り、窓に映った自分を睨みつける。そして窓目掛けて拳を振り上げた。
――魔力があったら。
そう何度も思いながら見上げ続けた場所。
――魔力があったなら、あの時そばに居られたのに。
額を硝子に押し付けると熱を持った額が冷やされていく。その感覚に冷静さを取り戻していくと、同時に心が冷えていく気がした。
やっとエーリカに会えると思った矢先、ヴィルヘルミナ帝国の使者達に時間を取られてしまい、急いで駆け付けてみればノアイユ騎士団長に呼び止められてミラのエスコートを頼まれてしまった。夜会の警護の為エスコートが出来ないと言われてしまえば、断る訳にもいかなかった。
ミラの着ていたドレスの色にはすぐに気が付いていた。公務に追われ、エーリカの気持ちを確かめるという二人の提案を聞き流していたが、ドレスを見た時にこれだったのかと思い知った。
案の定、会場に入った途端周りの視線が集まったが、すぐにエーリカを見つけて誤解を解くつもりでいた。目立つエーリカの姿はすぐに見つかった。しかしアルゴではない他の男性と踊っているエーリカの美しさに凍りついたように固まってしまった自分がいた。それでもエスコートした手前、ミラと一曲踊らなくてはならない。役目を果たしてすぐにエーリカの元へ行こうとした瞬間、突然ホールのどこにも姿が見えなくなってしまった。
次にエーリカを見つけた時には方角的にバルコニーへ向かう姿だった。ミラとのダンスが終わり、周りに集まり出す令嬢を避けながらピンクブロンドの髪に追いついた時には、自分でも信じられない程に心臓が高鳴っていた。振り返ったエーリカはいつものマントの装いとは違い、体の線が出た美しい姿だった。誰にも近くで見せるつもりはなかった。隣りに立つのは自分だと思っていたから選んだドレスだった。
夜会までの日数を考えると、今回は既製品を贈る方が良い事は分かっていた。それでも初めてのドレスの贈り物はちゃんとした物にしたくて仕立屋に無理を言った。初めて王族の権力を使ったと言ってもいい。短期間で形にさせ、そこから更に希望を詰めてあのドレスを作り上げた。
色はエーリカの髪色と柔らかな雰囲気が似合う若葉色。本当は青色のドレスを選びたかったが、結界魔術師として自立しているエーリカにそれを贈るのは気が引けてしまい、結局青を取り入れたのは小ぶりの耳飾りと首飾りだけになってしまった。でもそれが良かったとも思う。ドレスの色は髪色と相まって春の女神のようだったし、耳と胸元で揺れる自分色の宝石を見ているのは気分が良かった。でもそれも一瞬の事だった。
エーリカはあのドレスを着たミラを見ても変わった様子はなかった。いや、少しは怒っていたかもしれない。むしろ怒らない令嬢がいるだろうか。正式に発表されていないが、婚約者が別の女性と夜会に来て、婚約者の髪色のドレスを着ていたのだ。むしろよく罵倒しなかったと思う。エーリカの対応は上位貴族の令嬢そのものだった。少し距離が縮んだと思っていたが、今夜の事で本格的に呆れられたかもしれない。そう思うと立ち直れないくらいに気持ちが沈んでしまっていた。
言い訳をしに行く勇気はない。気にしてなどいなかったと言われたらきっと立ち直れないだろう。才能と地位と美貌を持ち合わせた婚約者に、縋り付く無能な王子にはなりたくなかった。
「返さなくてはな」
会うには口実が必要で、その切り札は持っている。隣りの部屋に行くと引き出しから夜着を取り出した。綺麗に洗ってはいたが後ろめたさからずっと返せなかったもの。クラウスは包みを持つと重い足取りで執務室を出て行った。
久しぶりに帰ってきた自分の部屋はなせが鍵が開いていた。不審に思いそっと扉を開くと、床にオルフェンとモフが倒れていた。
「師匠!? 何があったんですか!」
オルフェンは薄目を開けると小さく呟いた。
「腹、減った……」
『俺も』
それきり動かなくなってしまう。一人では脱げないドレスの為、仕方なくそのまま厨房にいくと、料理人を捕まえてとにかくすぐに出来るだけの料理を出してもらった。ちらちらと感じる視線には気付かない振りをする。出来上がった物をカートで部屋に運ぶと、オルフェンは鼻だけを動かし、机に料理が並ぶやいなや飛び起きて食べ出した。モフはぺったりと体にくっついてきたまま動かない。しかし片手でオルフェンに引き離され、床に転がされた。
『俺だって腹が減ってるんだ!』
「エーリカは止めておけ」
『もう半分以上戻っているんだからいいじゃないか!』
「駄目だ。外で食ってこい」
モフは文句をいいながら部屋を出ていく。オルフェンは夢中で食べ物を放り込んでいた。オムレツやパンケーキ、具沢山のスープやステーキなど、色々持ってきたはずの食べ物がどんどん消えていく。呆然としたまま見つめていると、ようやく満足したのか手を止めて顔を上げた。
「もしかして私がいない間ずっと食べてなかったって事はないですよね?」
まだモグモグと口を動かしながらじっと見てくるオルフェンは、おもむろにフォークを置くと頬杖をついた。
「なんだその格好は。窮屈じゃないのか?」
「夜会だったんです」
「ふぅん。クラウスからの贈り物か?」
本当は満面の笑みで答えたい所だったが、ミラの姿が脳裏に蘇り、気が付くと涙が溢れていた。驚いたオルフェンが飛ぶ様にそばに来ると袖で乱暴に頬を拭いてきた。
「クラウスに泣かされたのか? 夜会で何かあったのか?」
ただ首を振りながら涙がどんどん溢れてきてしまう。こんなに我慢していたのだと、オルフェンの顔を見て実感した。
「さっさと後ろを向け。窮屈だから涙が出るんだ」
「これはクラウス様から頂いた大事なドレスです」
「分かったからいつもの格好に着替えろ」
言われるままに後ろを向く。オルフェンは子供の頃から共に過ごしているだけあって意外と面倒見がいい。今でこそ我儘を言って何もやらないが、こういう時はかいがいしく世話を焼いてくれるのだった。
「フフッ」
「なんだよ気持ち悪い」
「師匠ってなんだかお母様よりも母みたいですよね」
「俺は男だ」
「だって私の事も女として見ていないでしょう?」
ドレスの背中のホックを外した手が、今度はコルセットの紐に指をかけ始める。かなりきついのかオルフェンは小さく舌打ちをした。
「全く、女ってのはどうしてこうも締め上げるのかね」
「私にも分かりません。お陰で何にも食べられませんでしたよ」
「お前はこんな事しなくても十分に腰が細いんだから、次から断われ。折れるぞ」
「いつもは太ったと言うくせに。なんだか今度はお父様みたいです」
笑って言うと、つられたオルフェンが後ろで笑う。
「父に母に師匠か。俺は忙しいな」
そう言う声色はここへ来たばかりの頃、家に帰りたいと泣く夜に寝付くまで話をしてくれた優しいオルフェンの声だった。
扉を叩きかけて、うっすら開いていた部屋の中を覗いたクラウスはその場で立ち尽くしていた。
オルフェンがエーリカのドレスを脱がせている。時間を掛けてエーリカの事を思い作ったドレスを、他の男が脱がせている。手に持っていた包みを呆然と見つめた。もし仮に、エーリカが純潔でなくとも良いと思っていた。それは自分と婚約をする前の話で、魔術師は魔術を使うと体が高揚し肉欲が増すと聞いた事がある。それは魔力を伴わない兵士達にもある現象だったから理解できた。戦いの後は気持ちが昂ぶり、兵士達はよく娼館に行く。自分も付き合いで行った事はあった。でもただ欲を吐き出すだけの行為は虚しくて好きではないと気が付き、それ以降は付き合いで行く事もあっても行為はしないで過ごしていた。
吐き気がして口を押さえると、怒りに震える体を抑え込んで部屋を離れた。婚約者の不貞の場に踏み込む気にはなれなかった。
夜会は終盤に差し掛かり、まだ酒を飲みながら談笑する者達もいれば、休憩室に消えていく者達もいる。クラウスは部屋の引き出しの奥から持ってきた魔石を握り締めた。しばらく使っていなかった変装の為の魔石だ。これを身に着けていれば他の者からは別の姿に見える。一時期国内を知りたくてお忍びで出歩いていた時に使っていた物で、魔石自体が高価な物なのでほとんど街には出回らない。だから魔石による見え方の違和感に気が付く者はほとんどいない。万が一気が付いても、魔石を保有する程の高貴な身分なのだと理解し、自ら厄介事に首を突っ込む者はいなかった。
廊下から視線を動かすと、酔いの回っている一人の夫人に目が止まった。壁に並べてある椅子に座り、今にも持っているグラスを落としそうになっている。周りを見て誰も自分に気が付いていない事を確認すると、そっと夫人に近付きグラスを取り上げた。
「大丈夫ですか? それ以上はお止めください」
「煩いわね。私を誰だと思っているの? あの、あそこの、子爵の妻よ、夫はね……」
手入れの行き届いた指で、どこにいるかも分からない夫を指差している。
「私のような者に名乗る必要はございません。それよりも旦那様はお近くですか?」
「さあね、どこかしら。どこぞの侍女にでもちょっかいをかけているのよ、きっと」
そう胡乱な瞳で見つめてきた女の顔が変わっていく。
「あら、あなた素敵ね。介抱してくれるの?」
クラウスはすぐさま名前も知らない女の手を取ると、廊下の厚いカーテンの中に入った。女は首に腕を回し口づけをせがんでくる。その瞬間、濃い酒の匂いと香水の香りが鼻に飛び込んできた。気が付くと、クラウスは女を押し退けていた。驚いた表情の女は一瞬呆然とした後、我に返り思い切り引っ叩いてきた。盛大な音が鳴り、足をふらつかせながらカーテンから出ていく。クラウスは頭を抑えながらその場にしゃがみ込んだ。
「最低だな、俺は」
あの子爵夫人はきっと日常的に不貞を働いているのだろう。夜会の終盤は特にそんな者達が多い。目当ての相手がいる場合には早めに消える者達もいるが、相手は誰でもいいから取り敢えず欲を満たしたい者達もいる。しがらみの多い貴族社会ではこういった会は羽目を外す事の出来る数少ない絶好の出会いの場で、女性にとっては特にそうだった。男達は紳士会なるものを作って夜な夜な享楽にふける者達もいる。でも女性はそうはいかない。旦那との行為がなければ熱を持て余す者達も多くいるのも事実で、それが政略結婚の代償だった。
暗い部屋に戻り、胸ポケットから魔石を取り出すと床に叩きつけた。魔石は二つに割れ、一瞬光ったがすぐに力を失ったようだった。
――自分も裏切る事で心を保とうとするなんて最低だな。
「あの場に踏み込む事も出来なかったくせに」
髪を掻き毟り、窓に映った自分を睨みつける。そして窓目掛けて拳を振り上げた。
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