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5 王子様の視線の先に、私はいないようです

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 混沌、とはこの事を言うのだろうと、エーリカはもう半ば思考を手放していた。
 心臓がまろびでるのではと思う程の緊張の中で通された部屋で待っていたのは、クラウスではなく第二王子のアレクだった。部屋に入った瞬間に満面の笑み笑顔を向けられ、なぜか抱きついてくるアレクを無下にも出来ずに立ち尽くすと、十四歳のアレクの身長はエーリカの肩程。見上げられると潤んだ少し青みがかった瞳と目がかち合った。栗色のフワフワとした髪がなんとも愛らしい。クラウスとは対照的に守ってあげたくなるような可愛らしさに悶絶する者もいるだろうが、エーリカは内心、私は断然クラウス様派なのよね、と呟いていた。

「あのアレク様、そろそろ離れて下さいませ」

 部屋にはアレク以外はいない。まだ両陛下もクラウスも到着していないようだった。両親は第二王子に声を掛けるも王子を無理やり引き離す訳にもいかずに頭を抱えている。ここにフランツィスがいてくれればと思っていた時、アレクは盛大に頬を膨らませた。

「エーリカ! 今何を考えていたの?」
「いえ特には」
「嘘だ。じゃあ僕が言った事の返事を頂戴よ!」
「返事ですか?」
「やっぱりうわの空だった! もしかして僕が嫌い?」
「まさか!」
「じゃあ好き?」
「え、えぇ。好きですよ」

 嘘ではない。結界魔術師というだけで遠巻きにされる事も多かったが、アレクは王子で子供だからか、時に気にする様子もなく話し掛けてきてくれ、懐いてくれていた。そんな子を嫌いになる訳がない。しかし言葉をはき違えたアレクの顔は花が咲いた様に輝いていた。 

――これ以上まだ輝くなんて、若い子は恐ろしいわね。

「じゃあ僕でもいいでしょう?」

 何を言われているのか分からず曖昧に微笑むと、両手でぐいっと頬を掴まれた。

「婚約相手だよ! 王子と結婚なら僕でもいいでしょう?」

 声にならない驚きにとっさに父親を見ると諦めたように首を振っていた。
 アレクは両陛下待望の実子で、それはもう溺愛されて育っていた。誰がどう思っているかなど空気を読む訳がない。叶わない事などないと本気で思っている子供を傷つけないように、エーリカは頬を掴む手をそっと外した。

「これは王命です。ですから私にはどうする事も出来ません。殿下もどうか諦めてください」
「それなら僕から父上に話すよ! 僕達は愛し合っているって」
「あ、あい?」

 恥ずかしくて一気に顔が熱くなる。アレクは嬉しそうに顔を近付けてきた。とっさに目を瞑るも唇が当たる事はなく、その代わりに硬い何かが口を覆ってきた。
 清涼感のあるいい匂いが鼻腔一杯に広がる。目を開けると、嫌そうな顔をしているアレクと安堵している両親の顔が同時に目に入った。

「勝手な事をしてアインホルン侯爵家の方々を困らせるな」

 声が頭の上から落ちてくる。それで口を覆っている手の主が分かってしまった。ぐいっと後ろに引かれた瞬間、名残惜しそうにアレクも付いて来る。しかしそれはフランツィスが首根っこを掴んで止めた。

「これ以上はいけませんよ、殿下」

 なぜかアレクはぎこちなくフランツィスを見上げると、小さくヒッと声を上げた。その後は小さくなるだけだった。

「本当にその冷たい兄上と結婚するの?」

 恐る恐る振り返ると薄い青色の瞳と目が合った。無表情のその顔は何を考えているのか分からない。何よりこんなに近付いた事などなく、頭は混乱して考えるのを止めていた。

「大丈夫ですか? エーリカ嬢?」
「それでは妹は話せませんよ」

 そう言われてクラウスはエーリカの口を抑えていた手を唐突に話した。

「申し訳ない」

 首を激しく振りながら頭を下げた。

「いつも助けて頂いてばかりで私の方こそ申し訳ありません!」

 頭を下げると盛大にクラウスの胸にぶつかった。

「すみません! 痛っ!」

 とっさに上げた髪がクラウスの服の釦に絡まっている。

――巻いたせいね、もう! 慣れない事をするからだわ。

 すらりと長く、でもごつごつとした指が優しく絡まりを解いてくれるのに見惚れていると、その手は最後に毛先をひと撫でして離れていく。直接触れられた訳ではないのに、頬が熱くなってしまう。しかしクラウスは気にも止めず両親に声を掛けた。

「弟が申し訳ありませんでした。部屋は別にご準備してあり陛下もすでにお越しです」

 クラウスは急がなくてもいいと言ってくれたが、全員が走り出しそうな勢いで両陛下の待つ部屋に向かった。
 優雅に談笑をしながらお茶を飲んでいた国王と王妃は息を切らしているアインホルン侯爵一家を驚いた様子で見ていた。

「どうしたヨシアス」
「いえ、遅くなり申し訳ございません」
「よいよい。どうせアレクの妨害にでもあっていたのだろう。思ったより早く来たな」

 分かっていたなら止めてくれ!と誰もが口にしたい言葉を飲み込み、全員がそれぞれ席に着いた。
 

 机を挟んで間近で見るクラウスはとても格好良い。いつもと違う服だからかもしれない。それに今日は髪を上に上げている。そこから少し垂れた前髪がもともとある色気に拍車をかけ、エーリカは気絶しそうな程に心臓が高鳴っていた。

「……うるさいぞ」

 自分の心臓の音が外に漏れていたのかと勢いよくフランツィスを見たが、意地悪な視線が帰ってきただけだった。

「それでは調印式を始めます。双方に異議がなければ、こちらに署名をお願い致します」

 魔術の籠もった用紙を宰相の補佐官が差し出す。クラウスがサインをし、回ってきた用紙をまじまじと見た。

――クラウス・ベルムート・アメジスト

 名前を見るだけで胸が一杯になる。綺麗な字を見つめながら、その瞬間、自分の字を思い出しペンが止まった。

――この次に書くの? この美しい完璧なサインの後に?

「エーリカ嬢? どうかされたか?」

「い、いえ。なんでもありません」

 エーリカは意を決して、ペンを走らせた。
 名前は二つある。一つはもう使う事はないと思っていたエーリカ・アインホルン。そして、エーリカ・ルートアメジストと書いた。宰相補佐官が用紙を回収すると、その場にいた者達に見えるように広げた。

「これにて婚約の調印式は無事に執り行われました。この婚約が解消されるのは不可抗力により婚約が継続出来ない場合、すなわちどちらかの死亡。もしくは正式な手順を踏み、破棄書類にサインをされた場合のみとなります」

――どちらかの死。

 嫌な言葉に視線を落とす。クラウスは騎士団の副団長をしている。もちろん危険な目にも遭っているだろう。ちらりとクラウスを見るとクラウスもこちらを見つめてきていた。

「二人で話すのは久しぶりだろう? 中庭を散歩してきたらどうだ?」
「申し訳ありませんが、まだ片付けなければならない仕事が残っておりますので本日はこれで失礼致します」
「あの! 近々お時間を空けて下さいますか? いつでも構いませんので」

 とっさに掛けた言葉にクラウスは目を見開いていた。

「それならすぐに夜会を開くぞ。婚約発表の夜会だ! こんなにめでたい事は久し振りだからな!」

 クラウスは眉根を寄せて国王を見たが、諦めたように息を吐いた。

「それでは夜会の時に時間を取りましょう」

 立ち上がる姿を見つめながらどうしようもなく胸が締め付けられる。掛ける言葉が見つからずにいると、フランツィスが囁くように言ってきた。

「あいつが今忙しいのは本当だよ、エーリカ」
「分かっているわ。多忙のクラウス様のお体が心配なのよ。それでは私も仕事に戻ります」
「あらあら、エーリカはもう少しいいでしょう?」

 王妃は愛らしく笑ったが、クラウスがあっという間にいなくなってしまった寂しさにこの場にいたくはなかった。

「申し訳ございません。師匠に顔を出すように言われておりますので失礼致します」
「オルフェンめ、今日くらい休ませてやればいいものを」
「師匠はあれでも無理強いはしないので問題ありません。お気遣いありがとうございます」

 ドレスの端を摘んで退出の礼を取ると、部屋を出た。オルフェンに呼ばれているのは本当だ。というか、オルフェンは常に呼んでいる。今もきっとお茶を飲みたいなぁなどと思いながらも、自分では淹れずに待つ事だろう。もちろん二人で飲みたいと言う理由ではなく、ただお茶を入れるのが面倒だという理由でだが。
 無駄に重いドレスを着たまま広い廊下を歩いていると、中庭から笑い声が聞こえてきた。声で誰がいるのかはすぐに分かった。それに長身のクラウスはすぐに見つけられる。位置のせいかクラウスしか見えなかったが、回り込むと誰かと話しているのかが見えた。

「あれは確か、騎士団の団長よね。確かグレヴ・ノアイユ伯爵だわ」

 確かにクラウスは仕事のようだった。ほっとしたのも束の間、男達の間に隠れて見えなかった姿が目に入った時、思わず立ち止まってしまった。肩までつく位の濃紺の髪の、小柄な女性がクラウスとグレヴに挟まれて楽しそうに笑っている。服は王城に出入りしている令嬢にしては質素で、化粧もほとんどしていないからか、あどけなさが残る可愛らしい女性だった。時折クラウスの腕に触れるか触れないかの距離で手を伸ばしては叩くような仕草をしている。クラウスの見た事がない笑顔が見えた瞬間、視界は遮られた。

「見ちまったか」

 その瞬間、涙がつうっと流れていた。

「あれくらいで泣くな。ただの噂だ。生きてれば誰かと話すだろ」
「雑な慰め方ですね」
「うるさい」
「噂って? 話してくださいよ」

 オルフェンは目を覆う手を腕に変えた。さっきよりも闇が濃くなる。

「あの馬鹿王子がどこぞの男爵令嬢に懸想しているって噂だ。聞いた事なかったか」

 着替えの時、侍女のアンが言っていたのはこの事なのだと今分かった。てっきりオルフェンと自分の噂だと思っていたから、まさかクラウスにもそんな噂があるなどとは思いもしなかった。城に来た時、オルフェンの様子がおかしかったのも今なら分かる。

「知っていたなら教えてくださいよ」
「いちいちくだらない噂話に付き合えるか」
「でも心配してくれていたんでしょう?」
「お前がなんでそんなに馬鹿王子を好きか分からないが、弟子の心を守るのも師匠の努めだからな」
「……過保護ですね」
「うるさい」

 オルフェンに手を引かれるまま歩き出す。その間も目は瞑ったまま。目を開けば涙が溢れてしまうから開ける事が出来なかった。

「関心しないな。仮にも婚約者がいるのに他の男と手を繋ぐなど」

 廊下の先の転送装置がある部屋に消えたエーリカの姿を見つけたグレヴは、目を細めて言った。

「仮にではなく正式にだ」
「お前がいいなら何も言わないが、あれはエーリカ嬢の品位を落とす行為だぞ」
「子供の頃からオルフェン殿と過ごしているから、ただ単に距離が近いだけだ。他意はないさ」
「でも私なら好きな人が他の人と手を繋いでいたら嫌かな」

 二人の視線が一斉にミラに向く。

「別に俺達は好き合って結婚する訳じゃない」
「そうなの? クラウス様はてっきりエーリカ様をお慕いしているのかと思っていたわ」

 クラウスは訝しげにミラを見た。

「だって女気のないクラウス様の口から出るのは、私の名前かエーリカ様くらいだもの」
「クラウスの好きな相手が自分だとは思わないのか?」

 ルドルフはにやにやと笑いながらミラの肩を小突いた。小さな体は容易く前に動き、クラウスの胸にぶつかる。

「もう! グレヴ従兄様! 痛ッ」

 髪が釦に絡まっている。それを見たクラウスはふっと苦笑いした。

「今日は二度目だな。この服はどうやら女性の髪が好きらしい。さっきもエーリカ嬢の髪が絡まったんだ。美しい髪だから、傷つけないように外すのが大変だった」

 そう言いながら髪を解くクラウスの姿を遠目に見た侍女達は、驚くものでも見たように足を止めると、引き返して行った。
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