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4 侯爵令嬢としての役目
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エーリカは居心地の悪さを感じて、鏡台の前で引き攣った笑顔を作っていた。
第一王子のクラウスとの顔合わせの為に、昨晩は家を出て魔術団に入って以来の帰省だった。懐かしさも感じるが記憶が朧気な事もあり緊張の方が勝っている。本来侯爵家の娘ならば侍女に囲まれて、髪を漉き、入浴時に体を磨かれ、食事やお茶の世話まで全てをやってもらうのが当たり前の環境下で育つものなのだろうが、エーリカには誰かにやってもらうという概念がない。それは幼い頃からオルフェンにこき使われてきたからに間違いなかった。
無意識に溜め息をつくと、髪を編んでいた侍女の一人がびくりと手を止めた。
「お気に召しませんでしたか? この状態からですと、ハーフアップにも変更可能ですが……」
心配そうに鏡越しに覗いてくる侍女はまだ若い。編み込み途中の髪を持ちながら固まっていた。侍女のアンは入室時の紹介で男爵家の次女だと名乗った。しかし男爵とは名ばかりで、家の為に幼い頃から働きに出ていると言うだけあって、花嫁修業や婿探しの為に侍女となり、王城や侯爵家に奉仕に出ている者達よりも手に職があり、仕事が出来るのはすぐに分かった。
――私だって、ただオルフェンにこき使われている訳じゃないのよ。
内心そう思いながら、怯えさせないように微笑んでみせる。
「普段髪なんてこうして編んでもらわないから少し疲れただけよ。任せるわ」
するとアンは安心したようにホッとした様子で再び髪を編み始めた。
「エーリカお嬢様様の御髪は本当にお綺麗ですね」
「フフッ、お世辞でも嬉しいわ」
「本当です! お色味の美しさもございますが、触り心地も柔らかくて極上です!」
「普段言われ馴れていないからなんだが恥ずかしいわ」
「王子様も見惚れるに違いありませんね」
「そうだといいけれど」
「あんなお噂をからお気になされてはなりません!」
ドレスの用意をしていた年重の侍女が鋭い視線でアンを睨み付ける。アンは器用に化粧も髪を結うのも上手だが、そこはまだ年頃の女の子なのだろう。エーリカはなんとなく噂話の見当がついてそれ以上聞く事はしなかった。
着飾って家族の待つ居間に降りて行くと、落ち着かない素振りで部屋の中を歩き回っていた父親が目を見開いたかと思うと今度は涙を流し始めた。母親が子供をあやすようにハンカチで涙を拭いてやっている姿を見ながら、じっとこちらを凝視している兄フランツィスをちらりと見た。兄もピンクブロンドの髪をしており、背中まで長い髪を後ろに束ねている。すらりとした身長に映える上品な白のジャケットとスラックスを履き、中に着ているシャツは瞳と同じ色の淡い緑色で、柔らかい雰囲気をか持ち出していた。出世する男を絵に描いたら兄なるだろうと遠巻きに眺めたりした事もあった。エーリカと目が合い、兄フランツィスは眼鏡を押して口の端を持ち上げた。
「お前でも着飾ればなんとかなるものだな」
「ほらフランツもお前を可愛いと褒めているぞ」
どこがです?と言いたい気持ちを押し込めて笑ってみせた。父親に抱きしめられたまま肩越しにフランツィスが目の前に来る。そして盛大な溜め息が落とされた。
「魔術ごっこばかりしていたお前に未来の王妃が努まると思っているのか?」
ゴクリと息を呑む。そんな事はこっちが聞きたい。
「王命なのだから仕方ないじゃない」
フランツィスには、この婚約が自ら申し出た事だと言う事はなんとしても伏せなければならない。どんな嫌味を言われるのか想像出来てしまうからだ。愛だと恋だのという感情で結婚する事を嫌がるのは分かりきっていた。
フランツィスは他の家族と違い、魔術団に入ってからも何かと目の前に姿を現していた。城にいる時は魔術団の本部がある守護山にも来る始末でまさに神出鬼没。きっと父親に頼まれているのだろうが、心配で来るというよりはからかいに来ていると言ったほうが正しいかもしれない。それでも皆が怖がるオルフェンにでさえ、怯えずに会話をする姿だけは認めてもいいと思っていた。
「お前はそれでいいのか?」
「フランツやめないか! エーリカの気持ちが変わったらどうする気なんだ!」
するとフランツィスは胡乱な目を父親に向けた。
「父上はエーリカを側に置いておきたいだけですよね? 魔術団よりも王室に入れた方が側にいられるし危険も少ないですもんね」
「……父上が娘を側に置きたくて何が悪い」
「開き直ったわね」
ずっと黙って親子のやり取りを見守っていた母親が呆れたように呟いた。こうしていると、離れていても愛されていたのだと実感してくる。目に涙がじんわりと溜まるのが恥ずかしくて唇をぐっと噛んだ。
「駄目よ、令嬢はそんな事しないわ。どんな時でも胸を張って堂々としていなさい」
そう言うと母はそっと髪を撫でてくれた。
「エーリカ、もしお前が望むなら花嫁修業としてここへ帰れるように魔術団と陛下に掛け合うがどうだ?」
思ってもみない言葉に揺らいだがすぐに首を振った。
「今はまだ婚約するだけで結婚はまだ先だもの。魔術団から城に通うわ。それに師匠は一人じゃ何も出来ないから」
すると家族三人が微妙な表情で顔を見合わせた。口を開いたのは父だった。
「その事なんだがな、少しオルフェン殿とは距離を置いてはどうだ? お前も婚約するんだし、いつまでも一人身の男性と常に行動を共にすると言うのは周りの目もあるだろう」
その瞬間、エーリカは令嬢らしからぬ笑い声を上げた。
「師匠ですよ? あの師匠と私が?」
呆れて笑ったつもりが、それでも顔を固くする三人に声も小さくなっていく。
「お前達がそのつもりはなくともオルフェン殿もあの容姿だろう? それにオルフェン殿にとってお前だけが特別なのは周知の事実だ」
「皆おかしいわよ。オルフェンは師匠で父親で兄みたいなものよ。心配するような事は何もないったら」
そしてすぐにしまったと思った。実の父親と兄の前でオルフェンをそのように思っていると言ってしまった。珍しくフランツィスも引き攣った顔をしているし、父親に至っては石化していた。
「もう止めなさい。ほら、うちの男達は放っておいて行きましょう。陛下達がお待ちよ」
馬車の中は気まずさが満ちたまま誰も一言も話さなかった。城に着いてすぐ、フランツィスは仕事があると言ってどこかへ行ってしまい、三人で廊下を歩いていると見慣れた姿に思わず足が早まった。壁にもたれるようにしてオルフェンが腕を組みながらこちらを見ていた。
「師匠! どうしてここに?」
「少し用があっただけ」
「オルフェン殿が下に来るとは珍しいですね」
「アインホルン閣下、アインホルン夫人もどうも」
用件を言う気はないという姿勢を崩さない様子にヨシアスもさすがに眉を顰めたが、オルフェンは気にしていない様子でエーリカの顔を覗き込んだ。その近さに誰もがぎょっとした。しばらくその瞳を覗き込んだ後、何事もなく頭をぽんぽんと叩くといなくなった。
「あれは一体なんなんだ?」
エーリカにも分からずに肩を竦めた。
「師匠はたまに訳の分からない事をするから、いちいち気にしていても仕方ないわ」
フランツィスがクラウスの執務室の前に来ると、騎士はその姿を認めて扉に声を掛けた。
「フランツィス様がいらっしゃいました」
フランツィスは中からの返事を待たずに扉を押し開けると、書類から顔を上げたクラウスが目を見張った。
「もうそんな時間か」
「お前にとってはこなさなければならない一日の中の業務の一つでも、妹にとっては夜も眠れないくらいには大事な日だよ」
「意地悪を言うな。悪かった」
「寝る間も惜しい位に仕事が溜まっているなら騎士団はそろそろ引退したらどうだ? 第一、騎士に固執する必要はないだろう?」
クラウスは最後の書類に目を落としてから判を付いた。
「深刻なのか?」
頷いて拳を握り締めた。
「国境付近から魔獣の被害が続発している。ここの所、急激に増えたな」
それぞれの町に配備している兵団や自警団で対処出来ない場合には城の騎士や兵士を派遣する事もある。それに加えてこの数日で、魔術団に応援を要請する回数も増えてきていた。魔術団に応援を要請すると言う事は、人間の兵士の力だけでは抑えられないという事。どれだけ鍛錬しても魔術には叶わない場合がある。言葉にならない悔しさが寝る間を惜しんでもこの体を動かす原動力になっていた。
「もし今以上に強力な魔獣が出たら、結界魔術師への応援要請をする事になる」
クラウスは友人の瞳が揺らいだのを見逃さなかった。いつもは飄々として動揺を見せないフランツィスでも、妹の事となると話は違うらしい。エーリカとそっくりな髪色をじっと見つめた。結界魔術師は何も結界を張るだけではない。結界魔術師に選ばれる位に魔力を蓄えているという事になる。上位の魔術師が派遣されるとなればその場は凌げるかもしれないが、国民に与える不安の方が大きいようにも思えた。
「とにかくすぐに着替えてくれ。皆待っているから」
着替えは隣りの仮眠室に用意するように伝えていたからすぐに準備は出来た。年が四つ上のフランツィスは、幼い頃にクラウスの話し相手の一人として選ばれた。同い年からの話し相手が選ばれなかったのは、クラウスが他の者達よりも大人びていたからだろう。簡単に言うと、同じ年の頃の子供達とは話が合わなかったのだ。それもそのはず、次期国王になる為に王の養子になったのは六つの時。大人にならなければ生きていけなかった。
扉一枚を隔てながらフランツィスに声を掛けるた。面と向かってではなんとなく聞きづらかった。
「エーリカ嬢はどんな様子だった?」
「妹は相変わらずに可愛いよ」
「そうじゃなくて婚約についてだ」
意地悪く笑った声に苛立ちながら襟元の最後の釦を留めた。
「王命だからちゃんと受け入れているさ」
「……そうか」
国王の打診を断る事が出来る者などしない。それは相談や問い掛けではなく、決定事項として受け取るのが普通だからだ。他の貴族令嬢よりも自由にしているとはいえ、エーリカは侯爵令嬢。己の結婚に夢や希望を見てはいないだろう。苦い想いを押し込めるように上着を羽織った。黒地に映えるように輝く濃い青の刺繍が縁に施されている。シャツの胸元に付いたフリルは気に食わない。本当は着慣れた制服で行きたい所だったが今日ばかりはそうもいかないのは分かっている。髪を簡単に撫で付けると、フランツィスの待つ部屋に戻って行った。
「これはまた、美丈夫な王子様の出来上がりだな」
「馬鹿言ってないで行くぞ」
部屋から出てきた二人の姿に騎士達は息を呑んだ。廊下から歩いてくる侍女達がそのまま固まっている。普段は騎士団の制服ばかり着ているクラウスも素敵だが、今の華やかな王子仕様のクラウスは色気が抑えられる事なく溢れ出ていた。その後に続くフランツィスもまた美しかった。どこか近寄り難い影を宿すクラウスと、目が合っただけで腰が砕けそうな微笑みを称えた相対する二人の姿に、侍女達だけでなく、騎士達さえも黄色い悲鳴を上げそうな表情で見送っていた。
第一王子のクラウスとの顔合わせの為に、昨晩は家を出て魔術団に入って以来の帰省だった。懐かしさも感じるが記憶が朧気な事もあり緊張の方が勝っている。本来侯爵家の娘ならば侍女に囲まれて、髪を漉き、入浴時に体を磨かれ、食事やお茶の世話まで全てをやってもらうのが当たり前の環境下で育つものなのだろうが、エーリカには誰かにやってもらうという概念がない。それは幼い頃からオルフェンにこき使われてきたからに間違いなかった。
無意識に溜め息をつくと、髪を編んでいた侍女の一人がびくりと手を止めた。
「お気に召しませんでしたか? この状態からですと、ハーフアップにも変更可能ですが……」
心配そうに鏡越しに覗いてくる侍女はまだ若い。編み込み途中の髪を持ちながら固まっていた。侍女のアンは入室時の紹介で男爵家の次女だと名乗った。しかし男爵とは名ばかりで、家の為に幼い頃から働きに出ていると言うだけあって、花嫁修業や婿探しの為に侍女となり、王城や侯爵家に奉仕に出ている者達よりも手に職があり、仕事が出来るのはすぐに分かった。
――私だって、ただオルフェンにこき使われている訳じゃないのよ。
内心そう思いながら、怯えさせないように微笑んでみせる。
「普段髪なんてこうして編んでもらわないから少し疲れただけよ。任せるわ」
するとアンは安心したようにホッとした様子で再び髪を編み始めた。
「エーリカお嬢様様の御髪は本当にお綺麗ですね」
「フフッ、お世辞でも嬉しいわ」
「本当です! お色味の美しさもございますが、触り心地も柔らかくて極上です!」
「普段言われ馴れていないからなんだが恥ずかしいわ」
「王子様も見惚れるに違いありませんね」
「そうだといいけれど」
「あんなお噂をからお気になされてはなりません!」
ドレスの用意をしていた年重の侍女が鋭い視線でアンを睨み付ける。アンは器用に化粧も髪を結うのも上手だが、そこはまだ年頃の女の子なのだろう。エーリカはなんとなく噂話の見当がついてそれ以上聞く事はしなかった。
着飾って家族の待つ居間に降りて行くと、落ち着かない素振りで部屋の中を歩き回っていた父親が目を見開いたかと思うと今度は涙を流し始めた。母親が子供をあやすようにハンカチで涙を拭いてやっている姿を見ながら、じっとこちらを凝視している兄フランツィスをちらりと見た。兄もピンクブロンドの髪をしており、背中まで長い髪を後ろに束ねている。すらりとした身長に映える上品な白のジャケットとスラックスを履き、中に着ているシャツは瞳と同じ色の淡い緑色で、柔らかい雰囲気をか持ち出していた。出世する男を絵に描いたら兄なるだろうと遠巻きに眺めたりした事もあった。エーリカと目が合い、兄フランツィスは眼鏡を押して口の端を持ち上げた。
「お前でも着飾ればなんとかなるものだな」
「ほらフランツもお前を可愛いと褒めているぞ」
どこがです?と言いたい気持ちを押し込めて笑ってみせた。父親に抱きしめられたまま肩越しにフランツィスが目の前に来る。そして盛大な溜め息が落とされた。
「魔術ごっこばかりしていたお前に未来の王妃が努まると思っているのか?」
ゴクリと息を呑む。そんな事はこっちが聞きたい。
「王命なのだから仕方ないじゃない」
フランツィスには、この婚約が自ら申し出た事だと言う事はなんとしても伏せなければならない。どんな嫌味を言われるのか想像出来てしまうからだ。愛だと恋だのという感情で結婚する事を嫌がるのは分かりきっていた。
フランツィスは他の家族と違い、魔術団に入ってからも何かと目の前に姿を現していた。城にいる時は魔術団の本部がある守護山にも来る始末でまさに神出鬼没。きっと父親に頼まれているのだろうが、心配で来るというよりはからかいに来ていると言ったほうが正しいかもしれない。それでも皆が怖がるオルフェンにでさえ、怯えずに会話をする姿だけは認めてもいいと思っていた。
「お前はそれでいいのか?」
「フランツやめないか! エーリカの気持ちが変わったらどうする気なんだ!」
するとフランツィスは胡乱な目を父親に向けた。
「父上はエーリカを側に置いておきたいだけですよね? 魔術団よりも王室に入れた方が側にいられるし危険も少ないですもんね」
「……父上が娘を側に置きたくて何が悪い」
「開き直ったわね」
ずっと黙って親子のやり取りを見守っていた母親が呆れたように呟いた。こうしていると、離れていても愛されていたのだと実感してくる。目に涙がじんわりと溜まるのが恥ずかしくて唇をぐっと噛んだ。
「駄目よ、令嬢はそんな事しないわ。どんな時でも胸を張って堂々としていなさい」
そう言うと母はそっと髪を撫でてくれた。
「エーリカ、もしお前が望むなら花嫁修業としてここへ帰れるように魔術団と陛下に掛け合うがどうだ?」
思ってもみない言葉に揺らいだがすぐに首を振った。
「今はまだ婚約するだけで結婚はまだ先だもの。魔術団から城に通うわ。それに師匠は一人じゃ何も出来ないから」
すると家族三人が微妙な表情で顔を見合わせた。口を開いたのは父だった。
「その事なんだがな、少しオルフェン殿とは距離を置いてはどうだ? お前も婚約するんだし、いつまでも一人身の男性と常に行動を共にすると言うのは周りの目もあるだろう」
その瞬間、エーリカは令嬢らしからぬ笑い声を上げた。
「師匠ですよ? あの師匠と私が?」
呆れて笑ったつもりが、それでも顔を固くする三人に声も小さくなっていく。
「お前達がそのつもりはなくともオルフェン殿もあの容姿だろう? それにオルフェン殿にとってお前だけが特別なのは周知の事実だ」
「皆おかしいわよ。オルフェンは師匠で父親で兄みたいなものよ。心配するような事は何もないったら」
そしてすぐにしまったと思った。実の父親と兄の前でオルフェンをそのように思っていると言ってしまった。珍しくフランツィスも引き攣った顔をしているし、父親に至っては石化していた。
「もう止めなさい。ほら、うちの男達は放っておいて行きましょう。陛下達がお待ちよ」
馬車の中は気まずさが満ちたまま誰も一言も話さなかった。城に着いてすぐ、フランツィスは仕事があると言ってどこかへ行ってしまい、三人で廊下を歩いていると見慣れた姿に思わず足が早まった。壁にもたれるようにしてオルフェンが腕を組みながらこちらを見ていた。
「師匠! どうしてここに?」
「少し用があっただけ」
「オルフェン殿が下に来るとは珍しいですね」
「アインホルン閣下、アインホルン夫人もどうも」
用件を言う気はないという姿勢を崩さない様子にヨシアスもさすがに眉を顰めたが、オルフェンは気にしていない様子でエーリカの顔を覗き込んだ。その近さに誰もがぎょっとした。しばらくその瞳を覗き込んだ後、何事もなく頭をぽんぽんと叩くといなくなった。
「あれは一体なんなんだ?」
エーリカにも分からずに肩を竦めた。
「師匠はたまに訳の分からない事をするから、いちいち気にしていても仕方ないわ」
フランツィスがクラウスの執務室の前に来ると、騎士はその姿を認めて扉に声を掛けた。
「フランツィス様がいらっしゃいました」
フランツィスは中からの返事を待たずに扉を押し開けると、書類から顔を上げたクラウスが目を見張った。
「もうそんな時間か」
「お前にとってはこなさなければならない一日の中の業務の一つでも、妹にとっては夜も眠れないくらいには大事な日だよ」
「意地悪を言うな。悪かった」
「寝る間も惜しい位に仕事が溜まっているなら騎士団はそろそろ引退したらどうだ? 第一、騎士に固執する必要はないだろう?」
クラウスは最後の書類に目を落としてから判を付いた。
「深刻なのか?」
頷いて拳を握り締めた。
「国境付近から魔獣の被害が続発している。ここの所、急激に増えたな」
それぞれの町に配備している兵団や自警団で対処出来ない場合には城の騎士や兵士を派遣する事もある。それに加えてこの数日で、魔術団に応援を要請する回数も増えてきていた。魔術団に応援を要請すると言う事は、人間の兵士の力だけでは抑えられないという事。どれだけ鍛錬しても魔術には叶わない場合がある。言葉にならない悔しさが寝る間を惜しんでもこの体を動かす原動力になっていた。
「もし今以上に強力な魔獣が出たら、結界魔術師への応援要請をする事になる」
クラウスは友人の瞳が揺らいだのを見逃さなかった。いつもは飄々として動揺を見せないフランツィスでも、妹の事となると話は違うらしい。エーリカとそっくりな髪色をじっと見つめた。結界魔術師は何も結界を張るだけではない。結界魔術師に選ばれる位に魔力を蓄えているという事になる。上位の魔術師が派遣されるとなればその場は凌げるかもしれないが、国民に与える不安の方が大きいようにも思えた。
「とにかくすぐに着替えてくれ。皆待っているから」
着替えは隣りの仮眠室に用意するように伝えていたからすぐに準備は出来た。年が四つ上のフランツィスは、幼い頃にクラウスの話し相手の一人として選ばれた。同い年からの話し相手が選ばれなかったのは、クラウスが他の者達よりも大人びていたからだろう。簡単に言うと、同じ年の頃の子供達とは話が合わなかったのだ。それもそのはず、次期国王になる為に王の養子になったのは六つの時。大人にならなければ生きていけなかった。
扉一枚を隔てながらフランツィスに声を掛けるた。面と向かってではなんとなく聞きづらかった。
「エーリカ嬢はどんな様子だった?」
「妹は相変わらずに可愛いよ」
「そうじゃなくて婚約についてだ」
意地悪く笑った声に苛立ちながら襟元の最後の釦を留めた。
「王命だからちゃんと受け入れているさ」
「……そうか」
国王の打診を断る事が出来る者などしない。それは相談や問い掛けではなく、決定事項として受け取るのが普通だからだ。他の貴族令嬢よりも自由にしているとはいえ、エーリカは侯爵令嬢。己の結婚に夢や希望を見てはいないだろう。苦い想いを押し込めるように上着を羽織った。黒地に映えるように輝く濃い青の刺繍が縁に施されている。シャツの胸元に付いたフリルは気に食わない。本当は着慣れた制服で行きたい所だったが今日ばかりはそうもいかないのは分かっている。髪を簡単に撫で付けると、フランツィスの待つ部屋に戻って行った。
「これはまた、美丈夫な王子様の出来上がりだな」
「馬鹿言ってないで行くぞ」
部屋から出てきた二人の姿に騎士達は息を呑んだ。廊下から歩いてくる侍女達がそのまま固まっている。普段は騎士団の制服ばかり着ているクラウスも素敵だが、今の華やかな王子仕様のクラウスは色気が抑えられる事なく溢れ出ていた。その後に続くフランツィスもまた美しかった。どこか近寄り難い影を宿すクラウスと、目が合っただけで腰が砕けそうな微笑みを称えた相対する二人の姿に、侍女達だけでなく、騎士達さえも黄色い悲鳴を上げそうな表情で見送っていた。
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