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1 恋の終わりと共に、力も枯れました

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 激しい雨が体を打ち付けている。

 すぐ横で打ち合う金属音と、激しく踏みならされる足音。

 全身を濡らす冷たい雨の他に生暖かい感覚に視線を落とせば、お腹の辺りから赤い物が流れていた。
 震える手でそれに触れるとぬるりとする。無意識に膝が折れ、服が泥に浸かった。その間にも地面には赤い血溜まりがみるみるうちに広がっていく。血と共に大切な何かが下へと引っ張られ抜けていく感覚に、血が出ている事よりも強い恐怖を感じていた。
 止める事が出来ないまま今まさに最後のそれが抜け切ろうとした時、声が聞こえた気がした。

「エーリカ! エーリカ・ルートアメジストッ!」

 自分の名を呼ぶ悲痛な声がどこからか聞こえてくる。

――全て忘れてしまいたい。この姿も、この名も、この記憶も。

 そうすればあの方を、あの方と笑い合うあの人の事を、諦めてあげられるのに。

「エーリカ! どこだ!」
「……クラウス、さま?」

 ここにはいるはずもない声の主を思い、こんな状況にも関わらず笑みが漏れていた。

――都合の良い幻聴ね。あなたが私の為にそんな声を出すはずがないもの。

 恋焦がれ続けたこの国の第一王子。ふと視線を落とすと、濡れて濃くなった自分のピンクブロンドの髪が視界の端に映る。意識はそのままそこで途絶えた。




 アメジスト王国の上空には、城ほどの大きさの大地が浮いている。その大地は魔術師の山と呼ばれ、山を起点に国を覆うようにして薄い光の膜が放射状に放たれていた。
 その光の膜は太陽の光を浴びて七色に輝き、幻想的な光景を映し出し、その光こそが守護の証。国民はその光を目の当たりにする事で、あらゆる脅威から守られていると安心しながら日々暮らす事が出来ていた。

 白いフードを被った背丈の似た二人が競い合うようにして城の広い廊下を進んでいく。磨き上げられた艶のある床に、壁や柱はどこも美しい細工が施されている。普通の者なら慎重に歩みを進める麗美な廊下を我先にと進む姿に、城内の者達は頭を下げて道を開けていった。

「お前のせいで俺まで遅刻だ!」 

 この国の魔術の礎を築いた生きる伝説のオルフェンは、唯一の弟子であるエーリカに文句を言いながら先を急いでいた。ピンクブロンドのカールがかった長い髪が踊るように跳ねながらすぐ後ろを付いて行く。

「言わせてもらいますけど、昨晩は師匠が眠くないってだだをこねたせいですよ。付き合わされた私の身にもなって下さいよ!」

 たまたま話が聞こえてしまった警備の騎士達は、ぎょっとしながらも顔には出さず二人の到着を待って扉を押し開いた。
 扉の先には小さな空間がありそこで行き止まり。天井は開き、この国を包む優しい光が波打ちながら輝いて見えていた。

「やはり弱まっていますね」

 じろりと視線を向けてくるオルフェンの黒い瞳に威嚇され、エーリカはとっさに押し黙った。長く白いマントから覗く細い手が前で重ねられるとそれに習いエーリカも前で手を重ねる。オルフェンが転送陣を動かす為の呪文を詠唱し、指で床に向かって文字とマークを描いていくと二人の足元にあった円が反応して光の輪が出来始めた。輪は一瞬にして強い光を放ち二人を包み、次の瞬間には別の空間に立っていた。そこに扉はない。開放された出入り口の先の広場には、両陛下を始めとした儀式に立ち会う貴族達が最後の結界魔術師達の到着を首を長くして待っていた。

 一年に一度、国を包む守護魔法は張り直される。広間の中央には台座があり、その上には大人の身長を優に超え、一人ではとても抱えきれない程に太いルートアメジストが鎮座していた。
 薄紫色の表面に、深部は濃い紫をした美しい国の守護石の周りを囲むのは、ルートアメジストに選ばれた四人の結界魔術師達。その石の名をそのまま名前として名乗る事が許された魔術師者達だけだった。
 オルフェンは十段ほどある階段を上がると先に待っていた結界魔術師達に頷き、左手で薄紫に輝くルートアメジストに触れた。それに倣って他の結界魔術師達も触れていく。オルフェンの詠唱と共にそれぞれ保護を意味する文字とマークを描くと、やがてルートアメジストの中に、金色の筋が入り始める。そのあと、赤、青、緑と更に線が入っていき、意志があるように動き回ったあと、上下に飛び出していった。勢いで被っていたオルフェンのフードが外れる。肩まである黒髪の房が零れ、そこから覗く筋の通った鼻梁と、覗く漆黒の双眸が苛立たしげに揺れたが、それに気付く者はいなかった。

 この国には純粋な黒髪も黒い瞳もいない。限りなく黒に近い色でも決して黒ではない。濃紺や灰色がかった黒色でさえ珍しがられるというのに、その珍しい容姿を詰め込んだオルフェンは、一体どこの国の生まれなのか昔に聞いた事があったがその度にいつもはぐらかされてきた。
 エーリカは僅かに乱れたオルフェンの魔力を感じながらも、階段を降りながら気付かれないように視線を巡らせた。
 すぐに目に入ってきたのは、宰相の任に就いている父親とその補佐をしている三つ上の兄。父親は一瞬嬉しそうな顔をしたが、それには目もくれず更に視線を動かした。

――ごめんなさいお父様。でも探しているのはお父様達ではないの。

 そう思いながら今日は来ていないのかと諦めかけた時、人々から少し離れた出入り口の近くでその姿を見つけた。詰め襟の黒い騎士団の制服を身に纏ったその姿を見間違える訳がない。他の者達より頭一つ分高い背に、ラピスラズリの青を閉じ込めたような少し硬そうな青い髪。周りを警戒するように動かしていた視線がこちらに向く。髪の色よりも少し薄い青い瞳と瞳がかち合った気がした。
 アメジスト王国の王太子であるクラウスとの距離は歩いている間にどんどん縮まり、心臓の音が激しさを増していく。エーリカは瞳を逸して以降、顔を上げる事が出来なくなったまま歩き続けた。急に前の背中が止まり盛大にぶつかる。オルフェンは小さく舌打ちしたが、そのまま国王陛下の前で止まると軽く頭を下げた。本来は膝を折って最敬礼をするべき相手だがオルフェンだけはそれをする必要はない。

「オルフェン、我が友よ。万事上手くいったようだな」

 齢六十を過ぎても今だ現役で戦地に赴けるほどに鍛えた体を前に、オルフェンは子供のようだった。しかし年齢不詳の容姿を持つオルフェンは意地悪く笑ってみせた。

「失敗なんてありえませんよ。俺達がかけているんですから」

 オルフェンの後ろに膝をついていたエーリカ達は気恥ずかしさを感じながらも、顔には出さずに深く頭を下げた。周囲の貴族達が小さくざわついたのは気に止めない事にした。

「うむ、実に頼もしいな」
「ただ今より強固な結界にしたいので、後程ご相談に伺っても?」
「オルフェン殿、勝手を申されるな。直に謁見の申し出など……」
「よいよいヨシアス。オルフェンと私との仲だ。後で執務室へ来い」

 オルフェンは外面用の笑みを浮かべるとフードを戻して歩き出した。エーリカは国王の後ろに立って渋い顔をしている父親のヨシアスに笑顔を送ると、オルフェンの後に続いた。
 出口にはクラウスが立っていた。実際に地上への転送魔術を発動させるのは魔術団の仕事だが、その周囲を警備する姿は惚れ惚れするくらい素敵なはずだった。しかし見られているかもしれないと思うと顔が上げられない。その時、自分のマントの裾を踏んでしまい大きく体制を崩してしまった。

「大丈夫ですか? 魔術師殿?」

 低い声に全身が甘く痺れる。顔が上げられないまま、一気に体が発汗してお腹に廻る逞しい腕に支えられたまま固まってしまっていた。

「どこかお怪我でもされましたか?」
「い、え」

 意を決して顔を上げようとした時、思いきりクラウスの腕の中から引き離された。

「うちのがご迷惑をお掛けしてすみませんね」

 首根っこを掴まれたまま転送魔術陣の上に連れて行かれる間、エーリカはクラウスの顔を見る事もお礼を言う事も出来ないまま、放たれた光に飲まれて地上に戻ってしまっていた。


「何するんですか師匠!」

 エーリカは声をかけても止まらないオルフェンの背中目がけて手を伸ばした。マントを摑んで引き止めると、再びフードが外れる。中から現れたのは盛大に不機嫌な顔だった。美しい顔が歪むとそれはそれで恐ろしい。すぐ後から来た結界魔術師である火の魔術師のロシュと水の魔術師のハンナは、呆れながらそれぞれの持ち場へと戻って行ってしまった。
 結界魔術師は、普段は魔術団の中で細分化された部署で働いていた。二人は火と水の力を主とする魔術を扱う部署の長でもある。そしてオルフェンは土の魔術の部署の長でありながら、全魔術師の総長でもあった。その為、当然弟子のエーリカも土の魔術を扱う部署に属していた。

「いい加減に離せ。この馬鹿弟子」
「せっかくクラウス様とお話出来そうだったのに師匠のせいです!」
「固まっていたくせに! 俺は助けてやったんだからむしろ礼を言え!」

 押し黙るとオルフェンはふっと笑い、頭を抱え込んできた。

「あぁ! 飯抜きで結界張ったから腹が減ったな。何か食うぞ」

 エーリカも確かに感じる空腹に負けてオルフェンに従った。




 クラウスは下に到着した途端、目に入った二つの白いマントを目で追っていた。

「オルフェン様もあんな顔をされるのですね」
「あんな顔?」

 後ろに付き従っていた騎士団副団長補佐のフーゴは、そばかす一杯の人懐っこい笑みを向けて見上げてきた。

「だって結界魔術師のオルフェンといえば、素顔を滅多に見せないじゃないですか。それにたまにマントを取ればあの容姿ですよ! 笑わない、表情を崩さない、おまけに年齢不詳。真偽の分からない噂が幾つもありますしね」

 確かにオルフェンは謎が多過ぎる。物心ついた時にはすでにあの地位にいたし、国王にも特別扱いをされる程の魔力を持っている稀有な者。そのオルフェンが初めて弟子を取ったのが、エーリカ・ルートアメジストだった。

「エーリカ嬢はオルフェン殿のお気に入りのようだな」
「あの二人はもう夫婦のようなもんじゃないですか?」

 クラウスは怪訝そうにフーゴを見た。

「それも噂か? それならエーリカ嬢を侮辱する噂ぞ」
「そうですか? エーリカ様は侯爵家のご令嬢とはいえ、一般の貴族令嬢の枠には当てはまりませんよ。だから貞操を守らなくても……」
「やめておけ。誰が聞いているか分からない」
「でも有名な話じゃないですか、魔術を使うと体が昂るって」
「フーゴ、いい加減にしろ」

 フーゴは納得していない声で返事をした。確かに魔術団に入れば貴族のしがらみから開放される。厳密には貴族より特別な存在となるのだ。入団時に誓約魔法をかけ、魔術師としてのしがらみを受け入れる代わりに、魔術師という独立した権力を持つ事になる。エーリカは魔力が強い故に幼い頃に家族から切り離され、魔術団に入れられた。それ以降は魔術の才を伸ばす為の教育に追われ、普通の貴族令嬢が習う指導はほとんど行われなかったはずだった。

――本来受けるはずだった王妃教育さえも。

 エーリカはクラウスの婚約者だった。政略結婚だったが、幼いながらにクラウスも受け入れていた。いつかあの子が妻になると信じて疑わなかった。

――あの日、エーリカの魔力が暴走するまでは。

「どうかしましたか?」
「何でもない」

 王族には少なからず魔力がある。しかし自分にはそれがない。魔力の欠片も感じる事が出来ない事に苛立ちと焦燥を感じていた時期もあった。しかし今となっては魔力がなかったからこそ、剣術を身に付けられたと思っている。剣があれば魔力がなくとも十分に戦える。人には向き不向きがあり、全ては個性なのだと教えてくれたのは国王である養父と、騎士団隊長のグレヴだった。

 国王は本当の父親ではない。王妃との間に子を授からなかったが、先王の行いを理由に側室を娶る事を拒否した為、兄夫婦から養子として差し出されたのがクラウスだった。そして念願の実子が生まれても両陛下は我が子のように接してくれた。だから魔力がなくとも腐らずにやってこれたのだ。
 先を走り、無邪気に振り向いたフーゴに目を細めた。

「副団長ーー! たまには城の食堂に行きましょうよ」
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