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20 過去の記憶

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十三年前

「お父様? どこにいるの! お父様!」

 アナスタシアは、庭で遊んでいたつもりが初めて目にした野生の子鹿を追いかけている途中でいつの間にか森へ入ってしまっていた。
 父親のコーレ男爵とヴァレリー辺境伯は兄弟で、こうして領地を行き来する仲だった。どうしても父親と離れたくなかったアナスタシアは、無理を言ってヴァレリー辺境伯の領地まで付いてきていた。ヴァレリー辺境伯には息子がいたが、久し振りの再会に気恥ずかしさもあって庭で出た時に起きた事だった。
 砦から森へは明確な仕切りはない。一応柵はぐるりと張り巡らされているが、子供の身体ではするりと抜け出れてしまう程度のものだった。辺りは葉の少ない木々だけになり、どこからともなく聞いた事もない獣の声や葉の擦れる音が聞こえている。ドレスの裾は土で汚れ心細さで涙が出てくる。背の高い木々のせいで昼間だというのに光があまり届かない地面はぬかるんでいて歩きにくく、涙を拭きながら歩いていたせいでつま先が泥にとられ、盛大に転んでしまった。その痛みで緊張の糸がぷつりと途切れ、アナスタシアは大声で泣き出してしまった。だからその時、誰かの近づく足音など全く耳に入って来なかった。

「きみ? だいじょうぶ?」

 肩を掴まれた身体をびくりと跳ねる。思わず振り払って見上げた先にいたのは年上の少年だった。驚いたまま固まっていると、金色の髪が木漏れ日を受けながらさらりと動く。なぜか少年の所だけ光が当たっているように見えた。

「どこか怪我をしているの? 立てる?」

 振り払ったはずの手が再び伸びてくる。しかし寸前の所で止まった。先程振り払ってしまったからだろうか、少年は触れるのを躊躇っているようだった。アナスタシアは自分から手を伸ばしていた。すると少年は嬉しそうに少しはにかんで伸ばした手を掴み引き上げてくれた。泥がつくのもお構いなしに膝を着くと、ハンカチを出して掌や頬を拭いてくれる。そしてドレスを軽く叩くと、困ったように笑ってみせた。

「これはもうだめそうだね。とても似合っていたんだけれど」

 少年はそう言って立ち上がると、頬を真っ赤にして俯いた。

「どこから来たの?」
「おじさまのおうち」
「名前は分かる?」
「ヴァレリーおじさま」

 すると少年は少し目を見開いた。

「きみはヴァレリー家のご令嬢? ご令嬢なんていたかな……」

 アナスタシアは首を振った。自分の名はコーレであってヴァレリーではない。でもむやみやたらに素性を明かすべきではないと常日頃から父親から言われていた。

「アナスタシア。わたしアナスタシア」

 少年はふっと笑うと自らも名乗ってくれた。

「俺はフレデリックだよ。聞くばかりで名乗るのが遅くなってごめんね。俺がヴァレリー家に連れて行ってあげる」

 そう微笑んだフレデリックは陽が落ち始めた頃、どんよりと肩を落としながら歩いていた。手を繋いで歩いていたが瞼が重たくなってきているらしいアナスタシアを背負うと、すぐに寝入ってしまった。きっと恐怖と疲労で限界だったのだろう。しかたなく不慣れな山道をただひたすらに歩いていた。

「迷った。完全に迷ったな」

 弱音を言えるのも今アナスタシアから聞こえるのは安らかな寝息だけだからだ。ヴァレリー家に連れて行くと言ったはいいものの、正直フレデリックも初めて来た場所だった。そんな時、大きな泣き声を聞いて走ってしまったものだから余計に道が分からなくなっている。むやみやたらに動かずにその場にいればいつかギレム家の者が探しにきてくれたかと思うと悔やんでも悔やみきれない。足も痛いし、眠ったアナスタシアは正直かなり重たい。年下だろうがあまり体格のいいとは言えないフレデリックは、正直体力の限界に来ていた。このまま日が暮れれば一晩明かす場所を探さなくてはならない。とにかく開けた場所、出来れば川のある場所に行きたくて彷徨っていると、突如甘い香りに誘われて、足は自然にそちらの方に向いていっていた。暗くなっていた目の前が一気に開ける。そこには一面、赤い花が咲き誇る花畑が広がっていた。薄闇に広がる赤い花が風にそよいで揺れている。フレデリックはしばらくその場に立ち尽くしていると、不意に背中でアナスタシアが起きた気配がした。

「……うわ、すごい」

 声がしてゆっくり下ろすと、アナスタシアはその途端に走り出していた。

「あ、待って! 気をつけて!」

 しかしアナスタシアはお構いなしに走り出すと真っ赤な絨毯の様な花畑を前に嬉しそうな笑い声を上げていた。

「こっちに来て! 早く来て!」

 無邪気に笑う背中を追って辿り着いた先で、二人は微笑み合いながら胸一杯に甘い空気を吸い込んだ。その瞬間、二人が次に起きたのは別々の寝台の上だった。


「ここは……」

 覗き込んでいたのは心配そうに顔を歪めていた兄のディミトリだった。

「心配掛けてこの馬鹿弟め! ……すまなかった、僕が目を離したばかりに」

 しょんぼりとする兄を尻目に飛び起きると辺りを見渡した。

「アナスタシアはどこに?」
「アナスタシア? 誰の事だ?」
「一緒にいた女の子だよ!」

 すると兄は怪訝そうに眉を潜めた。

「そんな事大声で言うもんじゃない。それで、誰といたって?」
「アナスタシアだってば! 無事なのか?」
「お前を発見して連れてきてくれたのはヴァレリー辺境伯だよ。でも他に誰かいたとは聞かなかったな。倒れているお前を発見して連れてきてくれたんだよ。全く、訪問の許可を頂いたにも関わらず勝手に行方不明になったかと思えば倒れている所を助けてもらって、近い内にお前を連れてお詫びにいくとお父様が仰っていたからな。聞いているのか?」

 小言を吐きながらも兄はがっちりと手を握ってきていた。

「本当に無事で良かったよ」
「……あの時、本当に女の子がいたんだよ。アナスタシアっていう子だったんだ!」
「それを他の人に言ってはいけないよ。お前はもう婚約者がいる身なんだからな」
「婚約って、もしかしてミレーユの事? それって決定したの?」

 すると困ったように兄が微笑んだ。

「お前が眠っている間にだよ。向こうから返事が来たんだ。お前達は年も近いし仲も良いんだから知らない相手よりもいいだろう? どうせ僕達は恋愛結婚などよほどの縁がない限り出来ないんだ。僕はお前の相手がミレーユで良かったと思っているよ」

 フレデリックは返事をしないまま毛布に顔を埋めた。
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