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19 過去からの連鎖
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ズキンと痛む頭を押さえながら、アナスタシアは半身を起こした。部屋の中は真っ暗だったがよく見ると、窓の隙間から光が漏れている。どうやら厚いカーテンがひかれているようだった。
「私……」
次第に意識が鮮明になっていき辺りを見渡す。確か食堂を出た所までは覚えている。しかしそこからの記憶がない。一緒にいたジルベールの身が心配だったが姿はどこにもなく、とっさにジルベールの名を叫んだ時だった。部屋の扉がガチャガチャと鳴る。とっさに身構えたがその扉から入ってきた者の姿に安堵した。
「ジルベール! 無事だったのね、良かった……」
すると薄暗い部屋の中でジルベールは堪えきれないと言わんばかりに笑い出した。そんな笑い方を今まで見た事がない。恐ろしくなり無意識に身を引いた。その瞬間ジルベールが近付いてくる。慌てて離れようとした身体が思わず寝台から落ちそうになる。その後頭部に手を回され、同時に腕も引かれた。
「ジルベール、どうしたの?」
「本当に心お優しい女性ですね」
その声音も今までに聞いた事がない程に甘い。それでもそれを冷たいと感じてしまうのは、その表情からだろうか。目の前にいるのは美味しい料理を作り、満面の笑みを向けてくれたあのジルベールなのだろうか。混乱する頭で暗がりの中、その表情を読み解こうと顔を覗き込んだ時だった。唇に柔らかい何かがぶつかってくる。咄嗟によけた歯がぶつかり、口の中にはどちらのものか分らない血の味がした。
「どうしてこんな事するの? 信じていたのに」
「……うん、かなり予想通りと言いますか、つまらない質問ですね。答える気も失せる程に」
「あなた本当にジルベールなの?」
「ジルベールじゃありません。本当の名はジル。育ての親のじいちゃんが付けてくれました。ジルベールはあなたのよく知る人に近付けて親近感を持たせる為でした」
すぐに窓の外に向かった。重厚なカーテンを一気に寄せると外に見えた景色に愕然とした。窓の下は崖。遠くにはどこまでも森。少し思考を巡らせればここがどこなのか分かる。
「ヴァレリー辺境伯の領地だわ……」
全ての景色を覚えている訳ではない。それでも白っぽい針葉樹の山々。崖の多い地形。美しい自然というよりはどこか物悲しくも見える景色に息を飲んだ。
「お兄様も関わっているのね? あなた達何をする気なの?」
するとジルベールは呆れたように椅子に座った。
「もう少し質問を捻って下さい? そうじゃないと答えがいがないじゃないですか。何をするも何も、俺もヴァレリー辺境伯もあの男に恨みがあるだけですよ」
「あの男ってフレデリック様の事なの? こんな事をしたらご両親もおじい様も悲しむわよ!」
「うるさい! その大事なじいちゃんを殺したのがフレデリックなんですよ! それに俺は天涯孤独です。王都でも路地を一本更に入れば孤児なんてウロウロしていますよ。あの男はそんな孤児の面倒をみてくれる優しいじいちゃんを殺したんだ!」
「……何かの間違いよ」
涙声で声が震えてしまう。すると不機嫌そうにジルベールは立ち上がって椅子を壁にぶつけた。びくりと身体を震わせると満足そうに微笑んだ。
「そうそう、十分に怯えて下さいね。あなたには人質になってもらいます。あの男が到着するまでは」
「フレデリック様に何をするつもりなの?」
「じいちゃんと同じ目に遭ってもらいます。あの男はじいちゃんに罪を擦り付けて戦地へと赴きました。それがあの男が無理をしてまで戦場へ行った理由です。これがずっとあなたが知りたがっていた真実ですよ」
「嘘よ!」
「じいちゃんが城の食堂の料理長をしていたのは話しましたよね? 食材はじいちゃん自らが厳選して仕入れていました。でもある日、倉庫から危険な植物が大量に見つかったんです」
「危険な植物?」
「依存性の高い植物で、ずっと摂取し続けるとそれなしではなくなるそうです。そんな物をじいちゃんが手に入れられる訳がない! でもそれはじいちゃんのせいにされて突然捕らえられ……人知れずに処刑されました」
「でもあなたのおじい様にはお会いした事があるわ」
乾いた笑い声が狭い部屋に響く。それでも目は全く笑っていない。捉えどこのない表情ままジルベールは虚空を見つめていた。
「簡単に信じてくれて助かりましたよ。あれはあなたを信用させる為に雇っていたんです。俺はじいちゃんが捕まった時はまだ何が起こったのか全く分からなかった。だから何も出来なかった。でも今こうして復讐が果たせます」
胃の奥が冷えていく。何を言っても届かないだろう。ジルベールはここにいるようでここにはいなかった。
「そこまで言うならフレデリック様がしたという証拠があるのよね?」
今出来る事はあくまで冷静でいる事、それしかなかった。
「もちろん。お貴族様を庶民の俺が追い込むんだから何もない訳がないでしょう? でも使い所を間違うと真実だったとしても握り潰されてしまうでしょうから準備万端という訳です。現に最後の切り札もありますしね」
手が伸びてくる。とっさに避けると無理矢理に顎を掴まれた。
「あなたがあの男にとって唯一のお人で良かった。そうでなければ取り入った意味がありませんでしたから」
今度はアナスタシアが笑う番だった。悲しくて笑えてくる。
「私では切り札にはなれないわ」
「そんな事ないとあなた自身が分かっているでしょう?」
「記憶を失くす前ならそうだったかもしれないわ。でも今は私じゃないのよ。きっとフレデリック様は今頃離縁を成立させているわ」
「助けには来ないと?」
「来ないわ。私達はもう他人のはずだもの」
言葉にして胸がチクリと痛む。しかしそれが真実だった。
「いいえ、必ず来ます。とっくに俺の正体に気がついているでしょうし」
「あなた一人では無理よ! 相手は侯爵なのよ? お願いだから考え直して!」
「ほんっとうに、どこまでもお人よしで世間知らずのご令嬢のままですね」
最後の方は呟くような、絞り出した声だったのは気のせいだろうか。ジルベールはそのまま部屋を出て行ってしまった。扉の外では鍵を掛ける音がする。アナスタシアは一度窓の外を見た。窓からは出られない。それが分かっているのだろう。恐る恐る手で押すと軋む音を立てて開いた。
再び部屋の扉が叩かれる。入って来たのは思った通りの人だった。
「お兄様、一体どうしてこんな事をしたんです」
そこにあったのは、いつもと変わらない柔らかい表情を湛えた微笑みだった。
「僕の所へ来るように誘ってあげたのに君ときたら全く。自ら来ていれば何も知らないまま楽しく暮らせたんだよ? なのに他国など選ぶから手荒な事をする羽目になったじゃないか」
そして何かに気がついたのか近付いてくると、不審そうに眉を潜めた。
「その唇は?」
伸びて来た指を避ける。しかし大きな片手で頬を押さえ、ポケットから取り出したハンカチで唇の少し下を拭われた。
「うん良かった。君の血ではないようだね。あの料理人だね? 全く身の程知らずな奴め」
「あなたはフレデリック様の友人でしょう!?」
「うん、あなたと呼ばれるのもいいね」
「言葉遊びをしているのではありません!」
「人の物を取ったじゃないか」
「……フレデリック様が何を取ったというのです」
「ミレーユだよ。私達は昔から互いに好意を持っていたはずだったんだ。でも知らされたのはフレデリックの婚約者になったと言う話だったよ」
「婚約の申込みをされていたのですか?」
「もちろんしていたよ。でもミレーユの父親からすれば、辺境伯の跡取りに娘を嫁がせる気はなかったんだろう」
「でも、でもミレーユ様はベルナンド侯爵家に嫁がれて……」
言葉が出てこない。膝が震え出す。それでも見下ろしてくるその表情は崩れる事なく笑みを湛えていた。
「フレデリックはベルナンド侯爵にミレーユをかっ攫わえれたのさ」
「でもお相手は現侯爵家当主でした。あの時のフレデリック様ではどうしようも……」
「違うよ! そうじゃない」
その時初めて崩れる事のなかった表情が痛むように揺れた。
「フレデリックは自ら手を離したんだ。あの時フレデリックなら十分にミレーユを守れた! お前を想っていたばかりにフレデリックはミレーユを奪わた侯爵家令息を演じ、まんまと君を手に入れたんだ!」
ぐいっと力強い力で回された腕が腰を引き寄せる。隙間なく密着した身体は離れる事はなく、呼吸すらも感じる程に近くにあった顔を睨みつけた。
「君でもそんな顔をするんだね。君を穢したらあいつはどうなるかな」
「どうもなりません。フレデリック様のお心は微塵も揺れないでしょう。少しくらい同情はして下さるかもしれませんがそれだけです」
それは嘘だった。誰よりもフレデリックを知っている。少なくとも六年前のフレデリックはそんな人ではない。自分がそんな目に遭えば間違いなく自分を責めて傷つくだろう。でも今はそんな言葉以外、フレデリックを守る術がなかった。
「僕を騙せるとでも? 君達の事はよく知っているよ、ずっと昔からね。フレデリックは君を溺愛している。でもずるいじゃないか、自分だけ愛する者を手に入れて幸せでいるなんて。だからあいつが記憶を失ったと知った時に確信したんだ。やっぱり僕のしようとしている事は間違いじゃないってね」
「あなたは辺境伯でしょう! 沢山の命を預かっているという意識はないのですか?」
「アンは本当に昔から綺麗事ばかりでうんざりするよ。フレデリックが記憶を失って少しは誰かを憎んだり妬んだりするかと楽しみにしていたのに、あっさりと身を引いてしまうんだから正直君にはがっかりしたよ。フレデリックへの想いはそんなものだったのかってね」
――がっかり? この気持ちがそんなものですって?
その瞬間、膝を思い切り上げていた。密着していたのが良かった。膝に柔らかい物が当たる。その瞬間ずっと余裕だった目の前の顔が歪み、腰を掴んでいた力が抜けていく。その瞬間走り出していた。おそらく逃亡されるなどとは思いもしなかったのだろう。扉は開きっぱなしだった。少し離れて立っていた兵士が驚いたように腕を伸ばしてくる。アナスタシアはわざを助けを求めるように近付いた。
「お願いお兄様を助けて! 急に苦しみ出してしまったの! 私は人を呼んで来るから早くして!」
兵士はこちらと奥の部屋を見比べながら主を選んだようだった。
捉えられていた場所は廊下を進むに連れ思い出してきていた。本邸とは離れた国境に近い所にある砦だ。子供の頃に一度父に連れられて来た事がある。それでも今の今まで忘れていた程に昔の話。それに砦と言ってもここはそれなりに広く、王都にある屋敷よりも大きいはずだった。しかし人払いしているのか誰にも会わない。アルベールはああ言っていたが、侯爵家の妻を誘拐したのだからそれなりに処罰は覚悟しているのだろう。出来るだけ使用人を巻き込まないようにとしている片鱗を垣間見た気がして胸が傷んだ。
「奥様、どこに行くんです! ここからは逃げられませんよ!」
後ろからジルベールの叫び声が聞こえる。逃げる足を速めた。何としても外に出て逃げなくてはいけない。フレデリックをここに来させてはいけない。そんな事をすればフレデリックが危険な目に遭ってしまう。これ以上足手まといだけにはなりたくない。もし本当に自分がフレデリックの弱みとなってしまったら、なんて幸せなことなのだろう。それだけでもう十分報われた気がした。
「奥様その先は……」
「アナスタシア!」
二つの声が重なる。ジルベールの他に聞き間違えるはずのない声。振り返ろうとした時だった。急に足元が宙をかく。ぐらりと揺れた視界に空が映った。
「アナスタシア――!」
目の前に飛び込んできたフレデリックの姿と衝撃だけが身体に伝わってくる。そのまま激しく打ち付けられた痛みに意識はぷつりと途切れた。
「私……」
次第に意識が鮮明になっていき辺りを見渡す。確か食堂を出た所までは覚えている。しかしそこからの記憶がない。一緒にいたジルベールの身が心配だったが姿はどこにもなく、とっさにジルベールの名を叫んだ時だった。部屋の扉がガチャガチャと鳴る。とっさに身構えたがその扉から入ってきた者の姿に安堵した。
「ジルベール! 無事だったのね、良かった……」
すると薄暗い部屋の中でジルベールは堪えきれないと言わんばかりに笑い出した。そんな笑い方を今まで見た事がない。恐ろしくなり無意識に身を引いた。その瞬間ジルベールが近付いてくる。慌てて離れようとした身体が思わず寝台から落ちそうになる。その後頭部に手を回され、同時に腕も引かれた。
「ジルベール、どうしたの?」
「本当に心お優しい女性ですね」
その声音も今までに聞いた事がない程に甘い。それでもそれを冷たいと感じてしまうのは、その表情からだろうか。目の前にいるのは美味しい料理を作り、満面の笑みを向けてくれたあのジルベールなのだろうか。混乱する頭で暗がりの中、その表情を読み解こうと顔を覗き込んだ時だった。唇に柔らかい何かがぶつかってくる。咄嗟によけた歯がぶつかり、口の中にはどちらのものか分らない血の味がした。
「どうしてこんな事するの? 信じていたのに」
「……うん、かなり予想通りと言いますか、つまらない質問ですね。答える気も失せる程に」
「あなた本当にジルベールなの?」
「ジルベールじゃありません。本当の名はジル。育ての親のじいちゃんが付けてくれました。ジルベールはあなたのよく知る人に近付けて親近感を持たせる為でした」
すぐに窓の外に向かった。重厚なカーテンを一気に寄せると外に見えた景色に愕然とした。窓の下は崖。遠くにはどこまでも森。少し思考を巡らせればここがどこなのか分かる。
「ヴァレリー辺境伯の領地だわ……」
全ての景色を覚えている訳ではない。それでも白っぽい針葉樹の山々。崖の多い地形。美しい自然というよりはどこか物悲しくも見える景色に息を飲んだ。
「お兄様も関わっているのね? あなた達何をする気なの?」
するとジルベールは呆れたように椅子に座った。
「もう少し質問を捻って下さい? そうじゃないと答えがいがないじゃないですか。何をするも何も、俺もヴァレリー辺境伯もあの男に恨みがあるだけですよ」
「あの男ってフレデリック様の事なの? こんな事をしたらご両親もおじい様も悲しむわよ!」
「うるさい! その大事なじいちゃんを殺したのがフレデリックなんですよ! それに俺は天涯孤独です。王都でも路地を一本更に入れば孤児なんてウロウロしていますよ。あの男はそんな孤児の面倒をみてくれる優しいじいちゃんを殺したんだ!」
「……何かの間違いよ」
涙声で声が震えてしまう。すると不機嫌そうにジルベールは立ち上がって椅子を壁にぶつけた。びくりと身体を震わせると満足そうに微笑んだ。
「そうそう、十分に怯えて下さいね。あなたには人質になってもらいます。あの男が到着するまでは」
「フレデリック様に何をするつもりなの?」
「じいちゃんと同じ目に遭ってもらいます。あの男はじいちゃんに罪を擦り付けて戦地へと赴きました。それがあの男が無理をしてまで戦場へ行った理由です。これがずっとあなたが知りたがっていた真実ですよ」
「嘘よ!」
「じいちゃんが城の食堂の料理長をしていたのは話しましたよね? 食材はじいちゃん自らが厳選して仕入れていました。でもある日、倉庫から危険な植物が大量に見つかったんです」
「危険な植物?」
「依存性の高い植物で、ずっと摂取し続けるとそれなしではなくなるそうです。そんな物をじいちゃんが手に入れられる訳がない! でもそれはじいちゃんのせいにされて突然捕らえられ……人知れずに処刑されました」
「でもあなたのおじい様にはお会いした事があるわ」
乾いた笑い声が狭い部屋に響く。それでも目は全く笑っていない。捉えどこのない表情ままジルベールは虚空を見つめていた。
「簡単に信じてくれて助かりましたよ。あれはあなたを信用させる為に雇っていたんです。俺はじいちゃんが捕まった時はまだ何が起こったのか全く分からなかった。だから何も出来なかった。でも今こうして復讐が果たせます」
胃の奥が冷えていく。何を言っても届かないだろう。ジルベールはここにいるようでここにはいなかった。
「そこまで言うならフレデリック様がしたという証拠があるのよね?」
今出来る事はあくまで冷静でいる事、それしかなかった。
「もちろん。お貴族様を庶民の俺が追い込むんだから何もない訳がないでしょう? でも使い所を間違うと真実だったとしても握り潰されてしまうでしょうから準備万端という訳です。現に最後の切り札もありますしね」
手が伸びてくる。とっさに避けると無理矢理に顎を掴まれた。
「あなたがあの男にとって唯一のお人で良かった。そうでなければ取り入った意味がありませんでしたから」
今度はアナスタシアが笑う番だった。悲しくて笑えてくる。
「私では切り札にはなれないわ」
「そんな事ないとあなた自身が分かっているでしょう?」
「記憶を失くす前ならそうだったかもしれないわ。でも今は私じゃないのよ。きっとフレデリック様は今頃離縁を成立させているわ」
「助けには来ないと?」
「来ないわ。私達はもう他人のはずだもの」
言葉にして胸がチクリと痛む。しかしそれが真実だった。
「いいえ、必ず来ます。とっくに俺の正体に気がついているでしょうし」
「あなた一人では無理よ! 相手は侯爵なのよ? お願いだから考え直して!」
「ほんっとうに、どこまでもお人よしで世間知らずのご令嬢のままですね」
最後の方は呟くような、絞り出した声だったのは気のせいだろうか。ジルベールはそのまま部屋を出て行ってしまった。扉の外では鍵を掛ける音がする。アナスタシアは一度窓の外を見た。窓からは出られない。それが分かっているのだろう。恐る恐る手で押すと軋む音を立てて開いた。
再び部屋の扉が叩かれる。入って来たのは思った通りの人だった。
「お兄様、一体どうしてこんな事をしたんです」
そこにあったのは、いつもと変わらない柔らかい表情を湛えた微笑みだった。
「僕の所へ来るように誘ってあげたのに君ときたら全く。自ら来ていれば何も知らないまま楽しく暮らせたんだよ? なのに他国など選ぶから手荒な事をする羽目になったじゃないか」
そして何かに気がついたのか近付いてくると、不審そうに眉を潜めた。
「その唇は?」
伸びて来た指を避ける。しかし大きな片手で頬を押さえ、ポケットから取り出したハンカチで唇の少し下を拭われた。
「うん良かった。君の血ではないようだね。あの料理人だね? 全く身の程知らずな奴め」
「あなたはフレデリック様の友人でしょう!?」
「うん、あなたと呼ばれるのもいいね」
「言葉遊びをしているのではありません!」
「人の物を取ったじゃないか」
「……フレデリック様が何を取ったというのです」
「ミレーユだよ。私達は昔から互いに好意を持っていたはずだったんだ。でも知らされたのはフレデリックの婚約者になったと言う話だったよ」
「婚約の申込みをされていたのですか?」
「もちろんしていたよ。でもミレーユの父親からすれば、辺境伯の跡取りに娘を嫁がせる気はなかったんだろう」
「でも、でもミレーユ様はベルナンド侯爵家に嫁がれて……」
言葉が出てこない。膝が震え出す。それでも見下ろしてくるその表情は崩れる事なく笑みを湛えていた。
「フレデリックはベルナンド侯爵にミレーユをかっ攫わえれたのさ」
「でもお相手は現侯爵家当主でした。あの時のフレデリック様ではどうしようも……」
「違うよ! そうじゃない」
その時初めて崩れる事のなかった表情が痛むように揺れた。
「フレデリックは自ら手を離したんだ。あの時フレデリックなら十分にミレーユを守れた! お前を想っていたばかりにフレデリックはミレーユを奪わた侯爵家令息を演じ、まんまと君を手に入れたんだ!」
ぐいっと力強い力で回された腕が腰を引き寄せる。隙間なく密着した身体は離れる事はなく、呼吸すらも感じる程に近くにあった顔を睨みつけた。
「君でもそんな顔をするんだね。君を穢したらあいつはどうなるかな」
「どうもなりません。フレデリック様のお心は微塵も揺れないでしょう。少しくらい同情はして下さるかもしれませんがそれだけです」
それは嘘だった。誰よりもフレデリックを知っている。少なくとも六年前のフレデリックはそんな人ではない。自分がそんな目に遭えば間違いなく自分を責めて傷つくだろう。でも今はそんな言葉以外、フレデリックを守る術がなかった。
「僕を騙せるとでも? 君達の事はよく知っているよ、ずっと昔からね。フレデリックは君を溺愛している。でもずるいじゃないか、自分だけ愛する者を手に入れて幸せでいるなんて。だからあいつが記憶を失ったと知った時に確信したんだ。やっぱり僕のしようとしている事は間違いじゃないってね」
「あなたは辺境伯でしょう! 沢山の命を預かっているという意識はないのですか?」
「アンは本当に昔から綺麗事ばかりでうんざりするよ。フレデリックが記憶を失って少しは誰かを憎んだり妬んだりするかと楽しみにしていたのに、あっさりと身を引いてしまうんだから正直君にはがっかりしたよ。フレデリックへの想いはそんなものだったのかってね」
――がっかり? この気持ちがそんなものですって?
その瞬間、膝を思い切り上げていた。密着していたのが良かった。膝に柔らかい物が当たる。その瞬間ずっと余裕だった目の前の顔が歪み、腰を掴んでいた力が抜けていく。その瞬間走り出していた。おそらく逃亡されるなどとは思いもしなかったのだろう。扉は開きっぱなしだった。少し離れて立っていた兵士が驚いたように腕を伸ばしてくる。アナスタシアはわざを助けを求めるように近付いた。
「お願いお兄様を助けて! 急に苦しみ出してしまったの! 私は人を呼んで来るから早くして!」
兵士はこちらと奥の部屋を見比べながら主を選んだようだった。
捉えられていた場所は廊下を進むに連れ思い出してきていた。本邸とは離れた国境に近い所にある砦だ。子供の頃に一度父に連れられて来た事がある。それでも今の今まで忘れていた程に昔の話。それに砦と言ってもここはそれなりに広く、王都にある屋敷よりも大きいはずだった。しかし人払いしているのか誰にも会わない。アルベールはああ言っていたが、侯爵家の妻を誘拐したのだからそれなりに処罰は覚悟しているのだろう。出来るだけ使用人を巻き込まないようにとしている片鱗を垣間見た気がして胸が傷んだ。
「奥様、どこに行くんです! ここからは逃げられませんよ!」
後ろからジルベールの叫び声が聞こえる。逃げる足を速めた。何としても外に出て逃げなくてはいけない。フレデリックをここに来させてはいけない。そんな事をすればフレデリックが危険な目に遭ってしまう。これ以上足手まといだけにはなりたくない。もし本当に自分がフレデリックの弱みとなってしまったら、なんて幸せなことなのだろう。それだけでもう十分報われた気がした。
「奥様その先は……」
「アナスタシア!」
二つの声が重なる。ジルベールの他に聞き間違えるはずのない声。振り返ろうとした時だった。急に足元が宙をかく。ぐらりと揺れた視界に空が映った。
「アナスタシア――!」
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