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10 昔の記憶

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六年と少し前

 アナスタシアは城の中を息を切らしながら走っていた。
 アナスタシアのコーレ男爵家は、昔々先祖の代は石炭が取れた豊かな土地だったが、今となっては穴ばかりの山に、豊かではない大地で農作物の育ちは悪かった。それでも領地では父は領主様、アナスタシアはお嬢様と領民に愛さていた。しかし愛されているのと領地の運営はまた別の問題。もう領地を捨て値同然でどこかの貴族に売り渡すしかないところまできていた。しかし領地を差し出した所で、領民を助けてもらえるかまでは分からない。領民は住む所を失い路頭に迷うかもしれない。それにこんな痩せた大地しかない領地を一体誰が引き受けてくれるというのだろうか。

 真夜中、部屋の暗さだけでなく顔色の悪い父親に呼ばれた時は嫌な予感がしていた。それでもこの数ヶ月というもの、金策に奔走しほとんど家に帰っていなかった父は、目に見えてやつれていた。なんとか半年先までの食料は確保してきたらしいがその先の目処が立たない。
 もう限界のようだった。
 守るべき領民がこのまま飢えで死んでいくのだけはなんとしも阻止しなくてはいけないと、アナスタシア自身も分かっていた。

「アナスタシア、私の言う所に嫁いでくれるかい?」

 声には痛ましさが滲み出ている。廊下からは母親の泣く声が聞こえていた。

「どちらにでしょうか」

 自分でも驚くほど冷静に答えたと思っている。父親は泣き出しそうな顔で、それでも領民の命を預かる領主として、まっすぐにアナスタシアを見据えた。

「ベルナンド侯爵だよ。ベルナンド侯爵のご正妻はお亡くなりになられているが、お前は妻にはなれない」
「妾という事でしょうか」
「そうだ」

 たったそれだけの短い言葉が震えている。アナスタシアは服の裾を持ち上げると父親に挨拶をした。

「そのお役目立派に務めてみせます」


――誓ったはずなのに。そう心に決めたじゃない!

 領地から出て、国王に結婚の承諾を取りに来ていた日の事だった。父親が国王に謁見している間に城の中を怖いもの見たさで歩いていた時の事。迷って城の奥深くへと入って来てしまっていた。
 そして偶然見つけてしまったのだった。城務めをしている未来の夫を。
 誰かがその男をベルナンド侯爵と呼んだ。通り過ぎ様に顔を見ると、父親とさほど変わらない年に見えた。

「ベルナンド侯爵はご結婚なさるとか? 今度はどこのご令嬢ですかな?」

 権力を持った男達が楽しそうに、女を物みたいに思いながら話している。

「どこぞの田舎貴族が運営出来なくなった領地を助けてくれと娘を差し出してきてな。美しいとは耳にしていたから何度か遊んだら返すつもりだったのに、それをわざわざ結婚の承諾を取りにきたなど全く。こちらに話も通さず陛下に謁見の申込みまでしていたようでね。恥知らずな田舎貴族めが。金という農作物に群がる虫のようだよ」
「そういう虫は叩いても叩いても湧いて出てきますからな。それで、その領地は助けてやらないのですか?」
「冗談だろう! 泥に金を捨てるようなものだ。向こうが勝手に娘を差し出すと言ってきただけだよ。領地を助けるなんていう約束はしていない」

 アナスタシアは怒りに任せて振り返ろうとした時だった。その時、少し離れた中庭に目が留まる。長椅子には座って語らっている美男美女の二人組。物語の中から出てきたような美しいその姿は城の美しい庭と相まって、本の表紙のようだった。怒りも忘れて見惚れていると、座っていた男性の方と目が合う。アナスタシアの心臓は激しく鼓動を打ったが、青年も驚いたように立ち上がるとこちらに向かって歩いてくる。アナスタシアは反射的に走っていた。すると本の世界から抜け出てきたような青年は後ろから追いかけてきた。

「君、待ってくれ! 少しだけ話を……」

 恐る恐る振り返ると、整えていた髪を乱し、肩で息をする青年を見ながらアナスタシアは信じられない気持ちで見上げた。

「何かご用でしょうか」
「俺の事を覚えていないか? 君はアナスタシアだろう?」

 素敵だと思った相手からまさか名前を呼ばれ、頭が真っ白になってしまったアナスタシアは首を振ってしまった。すると青年はがっかりしたように肩を落とした。

「そうか、すまない。探していた子に似ていたものだから」
「あの私、これで失礼致します」
「フレデリック様? どうなさいました?」

 後ろ髪引かれる思いで少しだけ振り返る。そこには美しい女性と、その後ろ姿を見つめるベルナンド侯爵の姿があった。
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