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5 たとえ記憶がなくとも
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いつの間にか眠ってしまい、起きた時にはすでにフレデリックは登城した後だった。
晩餐を断っただけでなく、夫の客人が来ているというのに見送りもしないなんてきっと呆れられたに違いない。動けずにそのまま部屋の中で膝を抱えた。
「奥様? 入っても宜しいですか?」
ルネの声になんとか立ち上がり扉を開けると、心配そうな顔をしたルネが立っていた。
「まあまあ酷いお顔ですね。朝食は食べられそうですか? もうすぐお医者様がいらっしゃいますから簡単に準備致しましょう」
「お医者? フレデリック様に何かあったの!?」
すると窘めるように肩に手を置かれた。
「お医者様に見ていただくのは奥様の方ですよ。旦那様にお医者様を呼ぶように仰せつかっておりますから、観念して下さいね」
「待って、私はどこも……」
言い掛けて口を噤む。晩餐に顔を出せない程に具合が悪いとなれば医者を呼ばれても仕方がない。大人しく診察を受けた所で何も症状はないと思うが従う事にした。
――仮病だと知られてしまうわね。
医者と聞きまさかと思ったが、来たのは予想通りロランだった。長期の遠征から戻ったばかりだというのに申し訳無さを感じながら診察を終えると、ロランは慈しむように向き直ってくれてた。
「この度は奥様には多大なるご心労をお掛けし、私もモルガンも申し訳なく思っております」
「心労だなんてお恥ずかしいです。私は何ともありませんから、フレデリック様には問題なかったとお伝え頂けませんか?」
「本当にフレデリックにはもったいないくらいですよ」
「それに記憶の事はロラン先生とモルガンさんが気に病む事ではありません。事故なのですから」
「何も聞いていないのですか?」
驚いたロランは苦笑いした。
「私の口から伝えるのもなんなのですが、今回の事故は何者かに襲われて起きたようなのです。現在調査中なのでこの話はご内密にお願い致します」
「フレデリック様が誰かに狙われているという事ですか?」
「フレデリックかモルガンか、または別の者なのかはまだ分かりませんが、矢からモルガンを守るようして二人で崖を落ちていきました。同行していた医師として私にも責任があります」
「そんな事ありません! どちらにしても崖から落ちたのは事故だと思います。悪いのは襲ってきた者のせいです!」
息巻いて言うと、ロランは優しく頷いた。
「今はお辛いかも知れませんが、時間が解決してくれますよ。どうかお心安らかにお過ごし下さい」
ロランが帰った後、真っ直ぐに厨房へと向かった。フレデリックとモルガンの為にお詫びの菓子を焼く為だ。ジルベールは窯から丁度焼き上がったパンを取り出していた所だった。中からは香ばしい小麦の香りがしてくる。こちらに気がついたジルベールは、嬉しそうに近付いてくると焼きたてのパンを差し出してくれた。
「体調はどうですか? 何か食べれそうですか? すぐにお出しできるものならスープが……」
話している間にもパンの匂いに釣られて、ジルベールの手からパンを受け取る。そして本当はいけない事だと知りながらもそのまま厨房で軽食を取った。気を取り直してその後はジルベールと一緒に焼き菓子を二種類作ると、小分けにして籠の中にこれでもかという程に詰めた。
「完成ね。これなら人数が増えても十分に行き渡るわ」
香り高いお酒で漬け込んだ乾燥果実をふんだんに練り込んだクッキーに、バターたっぷりのパウンドケーキは、男の人なら二口で食べられる大きさだ。昨日までの憂鬱な気分を無理やり晴らすと、ルネと共に馬車に乗り込んだ。
式典は滞りなく進み、今この時を持ってフレデリックはフレデリック・ディミトリ・ギレム侯爵と名乗る事が許された。モルガンも騎士の称号を得て、これで堂々と城の中を歩く事が出来る。自分の事よりもモルガンがそうなってくれた事の方が正直感慨深いものがあった。
今日はいつもの軍服ではなく貴族の正装で来ている為、慣れない服装に長時間の拘束は辛いものがある。貴族の正装は実に面倒で、シャツの上にベストを来て、無駄に硬いジャケットを合わせる。そのジャケットにも装飾が沢山付いているものだからとにかく動きにくい。
短く切った髪のせいもあって首元が涼しくなった上、こうした場で目立つ事に慣れていないフレデリックからしてみれば落ち着かない時間だった。でもそれも終わってしまえばなんて事はない。何よりこうした不自由の中にこそ、平和があるのだと感じる事が出来た。
モルガンと廊下を歩いているとふと視線を感じて立ち止まる。沢山の使用人が道を開けていく先には、真ん中に若く美しい侍女達を連れた女性が立っていた。侍女達も美しいが囲まれるようにして立っている女性は一際美しさを放っていた。
「ミレーユ……」
無意識に口から零れ出た言葉と共に苦い思いが広がっていく。ミレーユは元婚約者だった。もちろん覚えているのは幼い頃から共に遊んだ仲だったからだ。すっかり美しい大人の女性になったミレーユはゆっくりと近付いてくると前に立ち、軽く膝を折って淑女の礼を取った。
「ルグラン王国の英雄にご挨拶申し上げます」
真ん中から分けた前髪が緩やかな動きを付けて巻かれている。胸元は大きく開き、シミ一つない白い肌には、主張するような大ぶりのペリドットが埋め込まれた首飾りが掛けられていた。唇に引かれた赤い口紅で微笑む姿は妖艶な美女で、長いこと戦場にいたフレデリックにはやや刺激が強すぎるようにも思える容姿に、思わず視線を逸らした。
「お久しぶりです、ベルナンド侯爵夫人」
ミレーユは婚約していたフレデリックを振って、二十も上のベルナンド侯爵に嫁いだのはもう昔の話。歳月はあっという間だと、この時ばかりは感じられずにはいられなかった。
「随分堅苦しい挨拶をなさるのですね。私とあなたの仲だというのに」
「誤解を招く物言いは止めた方が宜しいかと。ベルナンド侯爵はお元気ですか?」
「えぇ、主人は元気よ」
そう言って物憂げに微笑んできた。
「そちらの奥様。お名前は、ええっと……」
「アナスタシア。妻の名前はアナスタシアです」
何故か語尾を強めに言ってしまったのは気のせいだろうか。ミレーユは満足したように目を細めた。
「お可愛らしいアナスタシア様はお元気かしら。なかなか夜会にもお姿をお見せにならないし、あなたも帰ってきたのだから、今度アナスタシア様をお茶会にお誘いしてもよろしい?」
「アナスタシアに聞いてみます。それでは私はこれで」
「フレデリック、私達今でも友人でしょう? また昔のように仲良くなりたいわ」
ミレーユのレースの手袋をした指先が腕に触れる。フレデリックはその指先を避けるように身体を逸らした。
「互いに伴侶を得ているのですからそれは難しいでしょうね」
冷たく言い放つとその場を後にした。
「あのような女性がお好きなのですか?」
ずっと黙って付いて来ていたモルガンは誰もいなくなった所で声を掛けてきた。
「私は奥様の方がお美しいと思います」
「あのな、ミレーユとの婚約は家が決めた事だったんだ。俺が望んでいた訳じゃない」
「それではなぜ破談になったのです?」
フレデリックは言い出しにくくて押し黙ってしまった。
「言いにくいのであれば……」
「俺が次男だからだろう。爵位を継げないからミレーユの父親がベルナンド侯爵に乗り換えた。式の日取りまで決まっていたにも関わらず。ベルナンド侯爵はミレーユより二十も上だったんだぞ? 父親との年齢の方が近かった。しかも後妻だった。確かあの時すでにミレーユと年の近い子供がいたんだ」
一気に話して肩で息が乱れた事に気が付いた。
「……もしかして、俺は爵位を賜ってミレーユを取り戻したかったのか?」
自分に問うように漏れ出た言葉に心の中がざわめき出す。ミレーユに会った瞬間、幼い頃の記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
「フレデリック様は奥様を大事に思っていらっしゃいました。これだけははっきりと何度でも申し上げられます」
「フレデリック様!」
廊下の先から声が聞こえて二人同時に振り返ると、アナスタシアが近付いて来た所だった。ミレーユを見たからだろうか、どうしてもアナスタシアが子供に見えてしまう。それに今しがた偶然とはいえミレーユと会っていたものだから、浮気ではないのになんとなく居心地の悪さを感じた。
「出歩いて大丈夫なのか? ロランはなんと言っていたんだ?」
「大丈夫です。軽い疲労でしたので眠ったら治りました。それよりも昨晩のお詫びをしたくて早速お菓子を焼いて参りました」
「それなら家で受け取ったのに」
「モルガンさんにもお渡ししたくて、ご迷惑かと思ったのですがお城まで来てしまいました」
「私にもですか?」
ぱっと顔を明るくするモルガンに、フレデリックは若干の苛立ちを感じた時だった。
「アン? アンじゃないか。王城に来るなんて珍しいな!」
ディミトリが小走りで向かってくる。満面の笑みを浮かべてアナスタシアの持っている籠の中を覗き込んでいた。
「これは僕の大好物じゃないか! まさか僕に?」
するとアナスタシアは嬉しそうに小分けにしてある包みの一つをディミトリに渡した。
「本当に鼻が効きますね。こんな事もあろうかと沢山持って参りました」
「ありがとうアン。お茶の時間に大切に頂くよ」
フレデリックは背中を向けて歩き出していた。
「フレデリック様? どちらへ?」
アナスタシアよりもずっと背の高い自分は早足で歩けば、アナスタシアは走らなければ間に合わない。それでも速度を緩める気はない。無性に腹が立って仕方ない。なぜディミトリは人の妻を愛称で呼ぶのか、あの様子ではアナスタシアの手作りのお菓子を好物になるほど何度も食べた事があるという事になる。という事は家にも来ていたという事か。ぴたりと足を止めると、アナスタシアはほっとしたように前に出てきた。
「フレデリック様もお茶のお時間に……」
「お茶をする習慣はない。戦場では食える時に食い、それも味は二の次だった。生きる為に食っていたのであって楽しむ為ではなかった。身に付いた習慣はそう簡単には抜けない」
「まあまあフレデリック。アンのお菓子は本当に美味しいんだよ。一度食べてこらん」
差し出された包みを思わず払ってしまう。床に落ちた包みのリボンは解けて、中から少し焼き菓子が出てしまった。
「フレデリックいい加減にしろ! お前の事を思って作ってくれたんだぞ。記憶があるなしに関係なく、今のお前の態度は最低だ。分かっているのか?」
廊下でのギレム侯爵同士の言い合いに人が集まっていく。フレデリックは居た堪れなくて足早にその場から離れた。
「私はフレデリック様を追い詰めているんでしょうか」
「そんな事はないよ。アンはアンのままでいいんだ。戦場から戻ってまだ日が浅いからきっとまだこの平和に慣れていないんだ。時間が経てばきっと分かってくれるさ」
「その通りです奥様。これは私が頂いても?」
床に散らばった焼き菓子を払って取り上げたモルガンは嬉しそうに口に頰張った。
「駄目ですモルガンさん! 落ちた物を食べたらお腹を壊してしまいます」
「大丈夫ですよ、もっと酷い物を食べて参りましたから、ここの床はそれに比べれば皿程に綺麗です」
そういうとアナスタシアは悲しそうに笑ってみせた。
晩餐を断っただけでなく、夫の客人が来ているというのに見送りもしないなんてきっと呆れられたに違いない。動けずにそのまま部屋の中で膝を抱えた。
「奥様? 入っても宜しいですか?」
ルネの声になんとか立ち上がり扉を開けると、心配そうな顔をしたルネが立っていた。
「まあまあ酷いお顔ですね。朝食は食べられそうですか? もうすぐお医者様がいらっしゃいますから簡単に準備致しましょう」
「お医者? フレデリック様に何かあったの!?」
すると窘めるように肩に手を置かれた。
「お医者様に見ていただくのは奥様の方ですよ。旦那様にお医者様を呼ぶように仰せつかっておりますから、観念して下さいね」
「待って、私はどこも……」
言い掛けて口を噤む。晩餐に顔を出せない程に具合が悪いとなれば医者を呼ばれても仕方がない。大人しく診察を受けた所で何も症状はないと思うが従う事にした。
――仮病だと知られてしまうわね。
医者と聞きまさかと思ったが、来たのは予想通りロランだった。長期の遠征から戻ったばかりだというのに申し訳無さを感じながら診察を終えると、ロランは慈しむように向き直ってくれてた。
「この度は奥様には多大なるご心労をお掛けし、私もモルガンも申し訳なく思っております」
「心労だなんてお恥ずかしいです。私は何ともありませんから、フレデリック様には問題なかったとお伝え頂けませんか?」
「本当にフレデリックにはもったいないくらいですよ」
「それに記憶の事はロラン先生とモルガンさんが気に病む事ではありません。事故なのですから」
「何も聞いていないのですか?」
驚いたロランは苦笑いした。
「私の口から伝えるのもなんなのですが、今回の事故は何者かに襲われて起きたようなのです。現在調査中なのでこの話はご内密にお願い致します」
「フレデリック様が誰かに狙われているという事ですか?」
「フレデリックかモルガンか、または別の者なのかはまだ分かりませんが、矢からモルガンを守るようして二人で崖を落ちていきました。同行していた医師として私にも責任があります」
「そんな事ありません! どちらにしても崖から落ちたのは事故だと思います。悪いのは襲ってきた者のせいです!」
息巻いて言うと、ロランは優しく頷いた。
「今はお辛いかも知れませんが、時間が解決してくれますよ。どうかお心安らかにお過ごし下さい」
ロランが帰った後、真っ直ぐに厨房へと向かった。フレデリックとモルガンの為にお詫びの菓子を焼く為だ。ジルベールは窯から丁度焼き上がったパンを取り出していた所だった。中からは香ばしい小麦の香りがしてくる。こちらに気がついたジルベールは、嬉しそうに近付いてくると焼きたてのパンを差し出してくれた。
「体調はどうですか? 何か食べれそうですか? すぐにお出しできるものならスープが……」
話している間にもパンの匂いに釣られて、ジルベールの手からパンを受け取る。そして本当はいけない事だと知りながらもそのまま厨房で軽食を取った。気を取り直してその後はジルベールと一緒に焼き菓子を二種類作ると、小分けにして籠の中にこれでもかという程に詰めた。
「完成ね。これなら人数が増えても十分に行き渡るわ」
香り高いお酒で漬け込んだ乾燥果実をふんだんに練り込んだクッキーに、バターたっぷりのパウンドケーキは、男の人なら二口で食べられる大きさだ。昨日までの憂鬱な気分を無理やり晴らすと、ルネと共に馬車に乗り込んだ。
式典は滞りなく進み、今この時を持ってフレデリックはフレデリック・ディミトリ・ギレム侯爵と名乗る事が許された。モルガンも騎士の称号を得て、これで堂々と城の中を歩く事が出来る。自分の事よりもモルガンがそうなってくれた事の方が正直感慨深いものがあった。
今日はいつもの軍服ではなく貴族の正装で来ている為、慣れない服装に長時間の拘束は辛いものがある。貴族の正装は実に面倒で、シャツの上にベストを来て、無駄に硬いジャケットを合わせる。そのジャケットにも装飾が沢山付いているものだからとにかく動きにくい。
短く切った髪のせいもあって首元が涼しくなった上、こうした場で目立つ事に慣れていないフレデリックからしてみれば落ち着かない時間だった。でもそれも終わってしまえばなんて事はない。何よりこうした不自由の中にこそ、平和があるのだと感じる事が出来た。
モルガンと廊下を歩いているとふと視線を感じて立ち止まる。沢山の使用人が道を開けていく先には、真ん中に若く美しい侍女達を連れた女性が立っていた。侍女達も美しいが囲まれるようにして立っている女性は一際美しさを放っていた。
「ミレーユ……」
無意識に口から零れ出た言葉と共に苦い思いが広がっていく。ミレーユは元婚約者だった。もちろん覚えているのは幼い頃から共に遊んだ仲だったからだ。すっかり美しい大人の女性になったミレーユはゆっくりと近付いてくると前に立ち、軽く膝を折って淑女の礼を取った。
「ルグラン王国の英雄にご挨拶申し上げます」
真ん中から分けた前髪が緩やかな動きを付けて巻かれている。胸元は大きく開き、シミ一つない白い肌には、主張するような大ぶりのペリドットが埋め込まれた首飾りが掛けられていた。唇に引かれた赤い口紅で微笑む姿は妖艶な美女で、長いこと戦場にいたフレデリックにはやや刺激が強すぎるようにも思える容姿に、思わず視線を逸らした。
「お久しぶりです、ベルナンド侯爵夫人」
ミレーユは婚約していたフレデリックを振って、二十も上のベルナンド侯爵に嫁いだのはもう昔の話。歳月はあっという間だと、この時ばかりは感じられずにはいられなかった。
「随分堅苦しい挨拶をなさるのですね。私とあなたの仲だというのに」
「誤解を招く物言いは止めた方が宜しいかと。ベルナンド侯爵はお元気ですか?」
「えぇ、主人は元気よ」
そう言って物憂げに微笑んできた。
「そちらの奥様。お名前は、ええっと……」
「アナスタシア。妻の名前はアナスタシアです」
何故か語尾を強めに言ってしまったのは気のせいだろうか。ミレーユは満足したように目を細めた。
「お可愛らしいアナスタシア様はお元気かしら。なかなか夜会にもお姿をお見せにならないし、あなたも帰ってきたのだから、今度アナスタシア様をお茶会にお誘いしてもよろしい?」
「アナスタシアに聞いてみます。それでは私はこれで」
「フレデリック、私達今でも友人でしょう? また昔のように仲良くなりたいわ」
ミレーユのレースの手袋をした指先が腕に触れる。フレデリックはその指先を避けるように身体を逸らした。
「互いに伴侶を得ているのですからそれは難しいでしょうね」
冷たく言い放つとその場を後にした。
「あのような女性がお好きなのですか?」
ずっと黙って付いて来ていたモルガンは誰もいなくなった所で声を掛けてきた。
「私は奥様の方がお美しいと思います」
「あのな、ミレーユとの婚約は家が決めた事だったんだ。俺が望んでいた訳じゃない」
「それではなぜ破談になったのです?」
フレデリックは言い出しにくくて押し黙ってしまった。
「言いにくいのであれば……」
「俺が次男だからだろう。爵位を継げないからミレーユの父親がベルナンド侯爵に乗り換えた。式の日取りまで決まっていたにも関わらず。ベルナンド侯爵はミレーユより二十も上だったんだぞ? 父親との年齢の方が近かった。しかも後妻だった。確かあの時すでにミレーユと年の近い子供がいたんだ」
一気に話して肩で息が乱れた事に気が付いた。
「……もしかして、俺は爵位を賜ってミレーユを取り戻したかったのか?」
自分に問うように漏れ出た言葉に心の中がざわめき出す。ミレーユに会った瞬間、幼い頃の記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
「フレデリック様は奥様を大事に思っていらっしゃいました。これだけははっきりと何度でも申し上げられます」
「フレデリック様!」
廊下の先から声が聞こえて二人同時に振り返ると、アナスタシアが近付いて来た所だった。ミレーユを見たからだろうか、どうしてもアナスタシアが子供に見えてしまう。それに今しがた偶然とはいえミレーユと会っていたものだから、浮気ではないのになんとなく居心地の悪さを感じた。
「出歩いて大丈夫なのか? ロランはなんと言っていたんだ?」
「大丈夫です。軽い疲労でしたので眠ったら治りました。それよりも昨晩のお詫びをしたくて早速お菓子を焼いて参りました」
「それなら家で受け取ったのに」
「モルガンさんにもお渡ししたくて、ご迷惑かと思ったのですがお城まで来てしまいました」
「私にもですか?」
ぱっと顔を明るくするモルガンに、フレデリックは若干の苛立ちを感じた時だった。
「アン? アンじゃないか。王城に来るなんて珍しいな!」
ディミトリが小走りで向かってくる。満面の笑みを浮かべてアナスタシアの持っている籠の中を覗き込んでいた。
「これは僕の大好物じゃないか! まさか僕に?」
するとアナスタシアは嬉しそうに小分けにしてある包みの一つをディミトリに渡した。
「本当に鼻が効きますね。こんな事もあろうかと沢山持って参りました」
「ありがとうアン。お茶の時間に大切に頂くよ」
フレデリックは背中を向けて歩き出していた。
「フレデリック様? どちらへ?」
アナスタシアよりもずっと背の高い自分は早足で歩けば、アナスタシアは走らなければ間に合わない。それでも速度を緩める気はない。無性に腹が立って仕方ない。なぜディミトリは人の妻を愛称で呼ぶのか、あの様子ではアナスタシアの手作りのお菓子を好物になるほど何度も食べた事があるという事になる。という事は家にも来ていたという事か。ぴたりと足を止めると、アナスタシアはほっとしたように前に出てきた。
「フレデリック様もお茶のお時間に……」
「お茶をする習慣はない。戦場では食える時に食い、それも味は二の次だった。生きる為に食っていたのであって楽しむ為ではなかった。身に付いた習慣はそう簡単には抜けない」
「まあまあフレデリック。アンのお菓子は本当に美味しいんだよ。一度食べてこらん」
差し出された包みを思わず払ってしまう。床に落ちた包みのリボンは解けて、中から少し焼き菓子が出てしまった。
「フレデリックいい加減にしろ! お前の事を思って作ってくれたんだぞ。記憶があるなしに関係なく、今のお前の態度は最低だ。分かっているのか?」
廊下でのギレム侯爵同士の言い合いに人が集まっていく。フレデリックは居た堪れなくて足早にその場から離れた。
「私はフレデリック様を追い詰めているんでしょうか」
「そんな事はないよ。アンはアンのままでいいんだ。戦場から戻ってまだ日が浅いからきっとまだこの平和に慣れていないんだ。時間が経てばきっと分かってくれるさ」
「その通りです奥様。これは私が頂いても?」
床に散らばった焼き菓子を払って取り上げたモルガンは嬉しそうに口に頰張った。
「駄目ですモルガンさん! 落ちた物を食べたらお腹を壊してしまいます」
「大丈夫ですよ、もっと酷い物を食べて参りましたから、ここの床はそれに比べれば皿程に綺麗です」
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