国の英雄は愛妻を思い出せない

山田ランチ

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4 残酷な言葉

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 翌日、朝早くから訪れた医師に、小さな屋敷の中では不穏な空気が満ちていた。

「お前達に話しておきたい事があるんだ。実は王都へ戻る途中に事故に遭い、崖を落ちてしまったんだ。その時に頭を打ったようで、俺の記憶は所々抜け落ちているらしい」
「そんな、お怪我をされたのですか?」

 マルクは身を乗り出してきたが、それには首を振った。

「大きな怪我はしていない。記憶についてはこの者から話してもらおうと思って呼んだんだ。戦争にも同行した軍医のロランだ。ロラン、頼む」
「軍医のロランと申します。まずは見て頂いた通り、フレデリック様は頑丈なお方なのです。崖から落ちたと言っても真っ逆さまという状況ではありませんでした。ただ先程お話にあった通り、頭を打ったと思われる一時的な記憶喪失を起こしておられます」
「それではすぐに思い出されるのですか?」

 アナスタシアは血の気の引いた顔でロランを食い入るように見つめていた。

「正直な所分かりません。今日思い出すかもしれないし、三年後かもしれません。もしくは一生思い出さない可能性も。ですから皆様にお願いしたい事はただ一つ。思い出す事を望まないで頂きたいのです」
「思い出す事を望まない、ですか?」
「そうです奥様。記憶を失くした者が一番辛いし思い出したいと思っているのです。周囲が圧を掛けてしまっては、思い出せない苛立ちと罪悪感や絶望感から精神を病んでしまう者もおります。もちろん適度に昔話をするのは構いません」
「あの、それで、具体的にはどのような事を忘れていらっしゃるのですか?」

 フレデリックはくると思っていた質問に思わず身体を固くした。

「幼少期と二十歳前後の記憶だろうか」

 みるみるうちにアナスタシアの顔が固まっていくのが分かる。見るに耐えずに顔を逸らしてしまった。

「そうなると、坊っちゃんは奥様の事は覚えていらっしゃらないと、そういう事ですか?」
「……そうだ」

 ちらりと見ると、アナスタシアはドレスにシワがつきそうな程に拳を握り締めていた。

「お前達には迷惑を掛ける事になる。すまない」
「すまないだなんてとんでもありません! 旦那様は旦那様です。 誠心誠意お使えするだけですよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいがすまない。お前の事も覚えていないんだ」
「そりゃそうですよ。俺は二年前に雇われたんですから。奥様に声を掛けて頂いてこの屋敷で雇って頂いているんです。ジルベールと申します!」

 人懐っこい笑みを浮かべるその青年はアナスタシアよりも少し若く見えた。

「ジルベールか。知人と名が似ているから忘れる事はなさそうだな。だが、アナスタシアが声を掛けたとは?」

 思わず声が低くなった言葉に、ジルベールは慌てて付け加えるようにして言った。

「俺のじいちゃんは昔に城の食堂で、その後は王都で料理店をしていたんです。俺もそこで働いていたんですが、身体を壊して店を畳んでしまったんですよ。さすがに一人じゃ無理だし誰かを雇う余裕もなかった時に奥様が俺の料理を食べて、いたく感動して下さって。それからこの屋敷に置いてもらうようになったんです。俺はじいちゃんが居るので通いなんですが、この屋敷は男手が少なくて物騒な気もするので、たまに泊まったりもしています。そうだ、奥様はお菓子を焼かれるのが本当に上手なんですよ!」

 悪気なくにっこりと笑顔を浮かべてくるジルベールに、得体のしれない感情が沸き起こってきたが、それには気付かない振りをして頷いた。

「それはジルベールの教え方がいいからよ。今度フレデリック様にも……」

 嬉しそうにこちらを見たアナスタシアには笑みを返す余裕はなかった。ようやく戻った笑みを一瞬にして消してまったアナスタシアに心が傷んだが、もはやどうしようもなかった。

「フレデリック様は私を覚えていらっしゃらないのに、申し訳ございません」
「いや構わないよ。今度その得意の菓子を振る舞ってくれ」
「はい! 楽しみにしていて下さいね!」

 数日はゆっくり屋敷で過ごした。アナスタシアと食事を共にしたり、庭でお茶をし、ゆっくり本を読んだりもした。戦場での話は聞きたくないだろうと思い、敢えて切り出す事はなかった。アナスタシアはロランの言い付けをちゃんと守っているのか、二人の出会いの話やどうやって結婚したかなど、本当は思い出してほしいだろう事は話してこなかった。アナスタシアはいい意味で空気のような存在で、特にお喋りな方ではないが間の取り方が心地よく、自然と会話が続く辺り、やはり夫婦だったのかと思う時が度々あった。




 フレデリックは登城した帰りにモルガンを連れて帰る事にした。

「お帰りなさいませ! フレデリック様」

 嬉しそうに玄関まで出迎えに出てきたアナスタシアは、後ろにいるモルガンを興味深げに見つめていた。

「今日は客人を連れてきたんだ。モルガン、俺の副官だ」
「初めましてモルガン様。妻のアナスタシアと申します」

 するとモルガンは膝を突いてアナスタシアの手を取った。

「どうぞモルガンとお呼び下さい。やっとお目にかかる事が出来ました。フレデリック様の身辺が落ち着きましたら私はこのお屋敷でお世話になる予定なのです。ですから奥様とも仲良くさせて頂きたいと思っております」
「まあそれは素敵ですね! 家族が増えるのは大歓迎です」

 するとモルガンは固まってしまった。 

「あの、私なにか気に触る事を言ってしまいましたか?」

 不安げなアナスタシアはどうしていいのか分からずにフレデリックを見上げた。

「俺はこいつを客間に通すからアナスタシアは夕食の時にでも話をしよう」
「かしこまりました。それではご自分の家だと思ってお過ごしくださいね、モルガンさん」
「ありがとうございます」

 フレデリックと二人になったモルガンは今だ放心状態でソファに座っていた。 

「あのお方がフレデリック様の奥様なのですね。想像していたよりもずっと可憐なお方でした」
「人の妻を勝手に想像するな。ほら」

 フレデリックは無造作に強めの酒をグラスに注ぐと差し出した。

「いつの間にか“人の妻“などと、すっかり夫気取りですね」
「気取りじゃなくて夫なんだよ」
「それは記憶がなくとも気に入ったという事でしょう? まあ確かにあそこまでお美しい妻がいたらすぐに惚れてしまいますよね? でも奥様も大変ですね。リュカ様の仰った事もあながち間違いではなかったようです」
「なぜ今リュカが出てくるんだ?」
「ほら、浴場で仰っていた話ですよ」

 その瞬間、フレデリックは酒を吹いた。

「そんなに驚かれなくてもいいでしょう? もう家に帰って七日経つのですから、男と女なんてものは肌を重ねれば自然とすれ違いもなくなるものです」
「知ったような口を。お前に男女の何を知っているっていうんだ」
「これなら近い内に愛らしいお子も誕生しそうで、楽しみが一つ増えました」

 しかしフレデリックは俯いたまま返事をしなかった。モルガンの目がどんどん見開かれていく。そして憐れむような顔をした。

「まさかフレデリック様、男としての機能を……」
「あるさ! でも出来ないんだ」
「何故?」
「理由は色々ある。でも一番は記憶だな。あれの待っていた男は今の俺じゃない」
「何を言い出すかと思えば柄にもなく哲学的な事を。いいですか、あなたはたった一人なのです。記憶があろうとなかろうと奥様の夫はあなた一人なのです。存分に愛して差し上げればよいでしょう?」
「そこなんだよ。俺はアナスタシアを愛してはいない」

 さすがのモルガンも言葉を失ったようだった。 

「確かに愛しいとは思う。可愛らしいし抱きたいとも。でも愛しているかと聞かれたら答えは違う。今は夫婦だという事実があるから共に暮らしているが、これが何年も続けばどうだ? うまくやっていく自信がないんだ。それなのに抱いてもし子が出来たら? そんな関係はアナスタシアにも良くないだろ」
「それはいけない事なのですか?」
「分からないな。この一週間色々調べてみたが、アナスタシアの実家は辺境伯の親類の男爵家だったよ。よく考えてみろ、俺は爵位は継がないとしても侯爵家の人間。どうみても家柄が釣り合わない。それなのにどうして結婚したんだ? ギレム家に利益がないだろ。それとも辺境伯との繋がりを持つようにと父に言われたのだろうか? 全く思い浮かばないんだ」
「恋愛結婚だったとは思わないのですか?」 

 フレデリックは唸りながら酒を煽った。

「それはないな。考えてもみろ? 当時俺は二十一歳、アナスタシアは十六歳だった。という事はアナスタシアがデビュタントを終えてすぐに出会っていれば俺にもその頃の記憶があるはずだ。ないという事は俺が二十前後の時に出会ってすぐに結婚したという事になるだろ。だとしたら出会いからアナスタシアの事を忘れている事にも頷ける。俺は父から政略結婚をさせられて、拒む為に出兵した?」

 自問自答するように呟くと、モルガンがグラスを勢いよく机に置いた。

「それはありえません! フレデリック様はあまり奥様の事を話される事はありませんでしたが、帰還を心待ちにされていたのはよく存じております。政略結婚で逃げるように戦地へ向かった者が、何度も嬉しそうに奥様と手紙のやり取りをするでしょうか?」

 反論出来なくてモルガンから目を逸した。

「明日は陛下から呼び出されているからお前も来るように」
「私もですか?」
「例の勲章授与の式典だよ。それぞれ要望があって整理に時間が掛かったと今日兄から言われた」
「ギレム侯爵は陛下の側近でいらっしゃいますからね。次期宰相としてのお声も高いお方だと、王城にいてよく耳にしました」
「俺には少々優し過ぎるような気もするけどがな」

 モルガンはその言葉に首を捻っていたが、それ以上兄に対して話す事はしなかった。

 アナスタシアは部屋に飛び込むと、胸を押さえながら寝台に顔を埋めていた。 

――アナスタシアを愛してはいない。

 食事の前にお酒を飲んでいるだろうフレデリック達の為に、軽食をと思って近づいたのがよくなかった。聞こえてきた会話は心臓を抉るようなものだった。薄々気がついてはいた。それでも時間と共にまた好きになってくれると淡い期待を抱いていたのも事実だった。あれだけ想いを伝え合い、結婚したというのにその全てを忘れてしまったフレデリック。どうしたらもう一度好きになってもらえるのか、どんな自分をフレデリックは好きになってくれたのか、今となっては分らない事だらけだった。

「どうしたらいいのフレデリック様……」

 声を押し殺して泣き続けた。




「アナスタシアは来ないのか?」

 食事の用意は二人分。マルクから気分が優れないから晩餐は二人で取って欲しいと言っていると聞いたフレデリックは、居ても立ってもいられずにアナスタシアの部屋を訪れていた。
 帰宅時に会った時にはとても元気そうだったが、見落としていただけなのだろうか。扉を叩くが返事はない。入ろうか躊躇ったが、心配の方が勝っていた。扉には鍵がかかっておらず、部屋の中は真っ暗になっていた。奥の寝台はこんもりと膨らんでいる。近付くのは憚られて声を掛けてみるが返事はない。ゆっくり近付くと、毛布を握りしめるようにして眠っているアナスタシアがいた。毛布の中には入らなかったのだろう。服が捲れて膝まで上がっている。起こさないように服を下げようとして、肌に触れてしまった。

「……んっ」

 寝息のような、吐息のような声がして、フレデリックは思わず手を引っ込めた。

「アナスタシア?」

 しかし返事はない。今度こそ服を下げるとソファの背もたれに掛けてあった膝掛けを足元にかけてやる。そして起こさないように滑らかな髪を指で梳いてみた。

「俺達は本当に愛し合っていたんだろうか? すまない、アナスタシア」
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