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pm11:13~

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 pm11:13

「例の実験体は?」
 金坂大学の大学長、氷川《ひかわ》結城《ゆうき》は手短に質問した。
 オーダーメイドのスーツを着こなしている彼は、まだ三十代で、大学長という地位に就任するには、まだ若いといえる男だ。
 彼は温和な表情で、しかしどこか視線を合わせた者を慄然とさせる眼光を、第三研究所の所長、門野《かどの》誠一《せいいち》に向けている。
 しかし対面する初老の男、門野誠一の返答は懦夫のような覇気のなさだった。
「もうすぐ最終投薬の予定。しかし前回の投与から三十時間経過、能力に変化はなし。これ以上の能力発現の可能性は低いでしょう」
 こんな定時連絡など他の連中でも良いだろうにと、内心の不平が超能力者でなくとも読み取れるほどのやる気のなさだ。
 他の者、特に警備主任の高永大介ならば、上司である氷川結城に自分をアピールしようと必要以上に声を張り上げて報告するだろうが、この研究者はそんな覇気を見せたことはない。
 だが、けして向上心がないわけではなく、また氷川結城に恐れ萎縮しているのでもなく、重要視していないので必要最低限の労力で返答した結果だった。
 彼の頭の中は研究と実験に占められており、人間関係は煩瑣で時間の無駄でしかなく、事務処理と同じようにしか考えていない。
 そして氷川結城の存在も、大学長という役職の存在として認識しているのであって、他の誰かが代わりに大学長に就任しても、まったく気にせずにいつもどおり研究に打ち込むだろう。
 その研究に対する姿勢はさながら夢遊病者のようで、だから実験体の苦悶の呻き声も激痛の悲鳴も、耳にしても良心に届くことはなく、熱病のように研究に没頭し続ける。
 氷川結城も彼の態度を改めようとしたことはなく、態度も気に留めない。
 門野誠一の人格や研究に対する情熱を理解した上で、研究所所長の地位に就けたのだ。
 犬のように肥大化した盲目で役に立たない忠誠心や、出世したいがためだけに時や場所を弁えずに持ち上げるゴマすり、あるいはおこぼれの均霑に与ろうとする卑屈な媚び諂いは、彼の期待することではなった。
 氷川結城が第一に望むのは、常に実績だ。
 そして門野誠一は確かに実績を上げている。
「では、当初の予定通り、搬送を開始する」
「はい」


   pm11:17

 こんな報告いっそ省いたほうが時間の無駄にならずに済む。
 内心、不満を呟きながら門野誠一は大学長室から退室した。
 廊下では副所長の杉原《すぎはら》友恵《ともえ》が待機していた。
 腹部でレポートを両手で押さえており、それが胸を少しだけ豊満に見せていたが、しかし研究のみに優秀な頭脳を傾けている門野誠一が食指を動かすことなど、天地が覆っても在り得なかった。
 それに彼女はお世辞にも魅力的とは言えなかった。
「所長、少しお伺いしたいことがあります」
 甲高く罅割れたような声の彼女は、今年で四十歳になったばかりのはずだが、出世したいがために必要以上に上司に御機嫌取りを続け、神経を酷使した結果、実際年齢よりも十歳以上は老けて見えるようになった。
 本人も自分の老化速度を自覚しているらしく、過度に化粧を塗装して誤魔化そうとしているが、美粧には程遠く、内面の醜悪さを具現化したようにしかなっていない。
 対人関係における感受性の乏しい門野誠一でも、杉原友恵を目にすると不気味だと思わずにはいられない。
 もっとも直接口にするほど礼節を知らないわけでもなかったが。
 彼女は都市伝説に登場する異形の口の女性を連想する、不器用に口紅を塗りつけた肉厚の唇を開き、嗄がれた声を出す
「今夜、遺伝子工学博士が研究所を訪れることになっておりますが」
「それがなんだ?」
「どういう方なのでしょうか? 急に予定に入りましたので、調査や準備などが間に合いませんで」
 実のところ、彼女はそんな博士の名前自体、耳にしたことがないのだが、無知な人物だと判断されてしまうのを恐れ、公言は差し控えた。
 しかし門野誠一もその人物に関して見聞の外だったのだが、彼は自分以外をすべて無知無学だと分類しており、長じてほとんどの人間はまともに対応する価値などないと見做しているので、そもそも興味がなかった。
「ああ、適当な者に案内させておけばいい。どうせ研究内容など理解できぬ蒙昧の輩だ」
「はい、わかりました」
 あからさまに投げやりな対応指示だが、一応の判断が下されたので彼女は安心する。
 これで万一なにかが起きても責任を所長に押し付けることができる。
 それでも門野誠一は陥れられたなどとは思わず、感心すら持たないかもしれないが。
「そんなことより、投薬の結果はどうなった」


   pm11:21

 地下二階第七実験室の拘束台に寝かされた少年に、精密稼動する自動機械《ロボット》の腕《アーム》が、一分1厘の誤差なく、両頚動脈に注射針を到達させ、空気圧縮によって一気に薬物を注入し、同時に実験体が大きく痙攣した。
「うっ! うう……」
 体内に注入された化学物質は、実験体の脳内に劇的な変化をもたらし、№58・春日歩は、唸り声のような苦悶を吐き出す口から、泡状になった涎を垂らし、大きく開かれた目は焦点が合わず、瞳孔が急速に窄まり、視界が喪失する。
 少年が研究所に連行されてから一年、日常的に行われる実験は、さながら終わることのない無実の苦役のように苦痛を与え続けていた。
 いっそ死が訪れてくれれば開放され楽になるだろう。
 だが春日歩は自ら死を望んだことはなかった。
 どれほど精神と肉体を苛まされようとも、意地で耐え抜いた。
 通常ならば衰弱死やショック死の危険を伴う実験でも生存してきたのは、その幼さからは想像できない強靭な意志によるものなのかもしれない。
 チャンスは必ず在る。
 諦めなければ自由を得る好機は必ずあるはずだ。
 その時まで絶対に耐え抜いてみせる。
 窄まった瞳孔が急速に拡大した。
 だが回復した視界に移ったのはここにある光景ではなった。
 断片的で脈絡のない映像が、怒涛のごとく押し寄せてくる。
 それが、現実の光景が網膜に投影されているのではなく、自分の頭の中だけの光景なのだと気付いたが、それを自らの意思で押し止めることができず、№58・春日歩の脳の情報処理能力は限界点に達した。
「あ! あ! あ! ぎあああああ!!」


   pm11:22

 実験体が苦痛に耐えている様子を、強化ガラスを隔てた管理室から研究員たちが観察していた。
 コンピューターの画面に、№58の状態を示す数値が表示される。
「ナトリアン、二十五ミリグラム。ヒストーセス、十ミリグラム。投与終了」
 管理室では、研究員の手順確認の声と、実験体(モルモット)の状態を記録する電子音が、静かに交差する。
 画面にはノイズの多い映像が断片的に、そして流動的に映し出されている。
 拳銃の拡大画像。
 繁華街らしき街灯。
 海の夜明け。
 紅い炎。
 澄み渡る青空。
 立ち並ぶ倉庫。
 時間経過が入り乱れているのか、意味を成さない映像は、実験体の予知したなにかだ。
「生きているのか?」
「現在はまだ。しかし、これだけの量を投与して、よく保てるな」
「上ももう少し考えてほしいものだ。せっかくの実験体が台無しになる」
 能力が明確に発現された実験体は、希少であり貴重だ。
 成果を出したいのは理解できるが、性急に実験を進めれば良いというものではない。
「能力は発現されているが、№58はたいした能力を保有していない」
「直接的な攻撃能力はだ。だが派手な印象を受ける能力ばかりに気を取られるのはどうかと思う。ESPは情報戦において極めて効果的だ。№13がそれを実証している」
「上は君の持論を無視しているよ。残念だが」
 研究員は諦めたように首を振る。
「そうだな」
「上は核兵器の代用を求めているのさ。安全な大量殺戮兵器をな」
 矛盾した要求を当然のように指示する上層部。
 パトロンの意向なのだろう。
「これで成果が出ないようなら、このまま搬送するそうだ。リストには他にもう一人載っていたな」
 №58・春日歩。十二歳。男性。微弱な予知能力《プレコグニクション》を保有。
 他の能力、発現兆候なし。
 今夜、別研究所に搬送予定。
 その詳細は施設内研究員に明らかにされていないが、№58が有効な能力保有者ではないと判断されているのなら、最終処置がどのようなものかは想像が付く。
「失敗作だから処分されんだよ」
 唐突に誰かの声が割って入ってきた。
 研究員たちは実験室に入ってきたその人物に視線を向け、しかしすぐに外した。
 あまり関わりたくない相手だ。
 青と黄色を基調とした、流行りのストリートファッション服の少年。
 №45・鈴木《すずき》鳶尾《とびお》。十七歳。男性。戦闘実験配属実験体。
 人格素行共々問題が多く、刹那的な享楽を好み、嗜虐志向が強く、残酷な欲望を隠そうとしない。
「だからさ、そいつヤっちゃっていいだろ? な? なっなっ? ヤっちまうぜ」
 鈴木鳶尾は楽しげに意味の汲み取りにくい科白を言う。
 だが慣れている研究員たちはすぐに理解した。彼は春日歩を殺すつもりだ。
「まて、実験体には手を出すな……う?」
 慌てて止めようとして手をかざした研究員は、その右腕に不自然な力が加わったのを感じた。だが鈴木鳶尾が腕を掴んだわけではなく、そもそも研究員の腕にはなにも触れていない。
「なにおまえ? あ? なにおまえ、ちょっと俺をナメちゃってんの。おまえナメてっだろ、あ? あっあっ?」
 鈴木鳶尾の奇声じみた科白と共に、腕に加わる力がより強力になっていく。
 念動力《サイコキネシス》。
 鈴木鳶尾の保有する超能力。それは精神作用が物理的な運動能力として発現される。
「う、うう、うあっ、あ! うあああ!」
 激痛に悲鳴を上げ、骨が軋み始めた。
 他の研究者は恐れて鈴木鳶尾を止めるどころか、凶暴に晒されている研究員に近寄ろうともしない。
「ひ、や、やめ……」
 研究員が激痛の中で懇願しようとしたが、それは逆に鈴木鳶尾の嗜虐性を刺激した。
「ふひ」
 奇怪な笑い声を上げた№45に、研究員は複雑骨折を予感した時、救いの女神が現れた。
「止めな、鳶尾」
 途端に腕に加えられていた念動力が消えた。
「大丈夫かい?」
 実験室に入室し鈴木鳶尾を制止させた女性は、床に転がり痛む腕を押さえる研究員に、ぞんざいに尋ねた。
 優しさから気遣っているのではなく、ただ確認をしているだけのようだ。
 №42・奥田《おくだ》佳美《よしみ》。二十三歳。女性。戦闘実験配属実験体。
 ウェーブをかけた長髪を脱色して金色にし、薄い化粧は整った顔立ちをさらに美しく際立て、普段から体に密着した皮製のライダースーツを着用し、グラビアモデルのように均整のとれた自分の肉体を誇示している。
 研究員の誰もが彼女が美女のカテゴリーに入ることを認めているが、個人的に親密な関係になろうとしたものは皆無だった。
 迂闊に触れば火傷する。
 しかし、攻撃的要素を多分に含んだ人格だが、鈴木鳶尾と違い節度を保っている。
「鳶尾、あんた敵味方の区別が付かないのかい? それだから頭が悪いって思われるのさ」
 誰の感想であるのか明確にしていないが、言外に研究員一般の見解であることを示しており、彼らは室内温度が急激に下がったような気がした。
 幸い鈴木鳶尾は奥田佳美を相手にすることにしたようだった。
「ああ! 頭が悪いって誰のことだよ?」
「あんた以外誰がいるってんだい?」
「おまえ今なんつった!? なんつったよ! あぁん!!」
 眉目を歪めて奇声を上げて脅す鈴木鳶尾は、奥田佳美の全身に念動力による重圧をかけた。
 だが、彼女の半身で隠した右手の平に、マッチ棒の火のような小さな火球が生じていた。
「あんた、あたしと殺り合う気かい?」
 不敵な笑みを浮かべる奥田佳美は、内に激烈な炎を含んだ声で確認する。
 その内面を象徴するように、彼女はいつも炎を秘めている。
 発火能力《ファイアスタータ》。
 最大でダイナマイト一本と同程度の爆発力を発揮する火種を創造し、威力は任意調節が可能。
 今の場合、周囲の被害も考慮して人体発火程度に抑えてあるが、しかし鈴木鳶尾の念動力では死に至らしめるのに最低でも三秒必要とするのに対し、彼女の作った火種は接触すると一瞬で全身が炎に包み込まれる。
 そんな状態で念動力を発揮し続けていられるか。
 もし可能であっても、全身火傷と引き換えに、もしくは命を犠牲にして彼女と戦う必要があるのか。
 答えは全て否。
 鈴木鳶尾は念動力を即座に止めた。
「冗談だよ、佳美。ムキんなんなって。あのよ、俺はな、ちょっとモルモットの処分を手伝ってやろうと思っただけなんだよ。な、わかるだろ?」
 転じて陽気になってみせる鈴木鳶尾は、№58を惨殺することでストレスを発散させたいようだ。しかしそれも奥田佳美は許可を与えない。
「あんたもモルモットだろ。私が処分を手伝ってやろうか?」
「わかったよ、引っ込んでますよ。へっ」
 おどけるように手をヒラヒラ頭上で振って、鈴木鳶尾は実験室を後にした。
 自動ドアが閉まるのを見届けた後、奥田佳美は掌の火種を握り潰し、実験室内の研究員に一言断って退室した。
「邪魔したね」
 研究員たちは安堵の息を吐く。
 奥田佳美と鈴木鳶尾は仲が悪く、頻繁に衝突を繰り返すが、幸い深刻な事態にはまだ発展していない。
 しかしいつ最悪の事態が訪れるのか、研究者たちは気が気でならず神経をすり減らしている。
 だが、二人があれだけ喧嘩を繰り返しているのに深刻な対立に発展しないのは、寧ろ仲が良いからではないかという説もある。
 もっともそれが良い材料になるのかわからないが。
 彼らと入れ替わりに研究所所長門野誠一が実験室にやって来た。
 連れているのは副所長の杉原友恵だ。彼女は脇に実験のファイルを挟んでいる。
「なにをしているの?! あなたたち学生じゃないんだから問題を起こさないでくれない!」
 騒動の責任を、一方的に研究者たちにあると決め付けた杉原友恵が、非難し始めた。
 歯茎まで見えるほど唇を捲り上げて、甲高い声で喚く彼女は、学生時代頭を悩ませたヒステリー教師を連想させる。
 彼女の喚き声を遮って、門野誠一が対照的に冷淡に尋ねた。
「№45と№42はなにをした」
 事の顛末を手短に伝えた研究員たちは、門野誠一がそれ以上興味を示さないだろうと予想していたのだが、意外な反応を見せた。
「ほう、腕をやられたのか。見せてみろ」
 鈴木鳶尾の念動力を受けた研究員の腕を手にして観察する。
 勿論、彼の体を案じているのではなく、念動力による攻撃がどのような作用をもたらしているのかに研究心を刺激されただけで、好奇心に目を輝かせている。
「念動力が作用していた時、どんな感覚だった?」
「あ、いや、それは」
 鈴木鳶尾にいたぶられていた間は、激痛で冷静に分析する余裕などなく、唐突な質問に上手く答えられるわけがなかった。
 しかし所長にはそれが不服のようだ。
「思い出せ、その時の感覚を、できるだけ正確にだ。ええい、ここで質問攻めにしても始まらんな。医療室へ行って診断してもらえ。いいか、医師に詳しく説明しておくのだぞ。後で診断書に目を通すからな」
 所長は研究員を実験室から追い出してしまった。
 そして、すぐに興味の対象は№58・春日歩に移る。
「投与の結果はどうだ?」
「心拍数の激増、脳波の変化が見られますが、他の能力の発現は認められません。ですが彼の予知がより先の時間に渡るようになったようです」
「それでは意味がない。仕方あるまい、予定通り搬送するぞ」
「……! ッ……ぁ」
 実験室の春日歩の絶叫が、防音処置された隔壁を越えて、管理室に微かに届いた。
 だが誰も気に留めなかった。
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