久遠の玉響

神泉灯

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十九話

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 村から少し離れた湖は、澄んだ清水を湛えていたが、その端だけが今は濁っていた。
 兵士たちが遺品を回収するため湖の中に入ったため、底に溜まっている土砂が掻き混ぜられたせいだが、それが血の色に見える。
 彼女は切れ端だけしか残っていなかった。
 左手。右足。頭部。
 宿屋の主人夫婦は呆然としていた。
 検分に立ち合わせなかったが、遠くからでも娘かどうかの判別はつくのだろう。
 それなのに、錯乱さえできないほど、それは現実味がなかった。
 一部しか残されていない遺体。
 喰い散らかした、喰べ残し。
 事態を知ったホウロとリョホウが現場に現れた。
 二人とも走って来たので息が上がっている。
 リョホウは人だかりの手前で止まったが、ホウロはさらに掻き分けて、兵士の制止も振り切って、ユイハのところへ走り続けた。
 それが二人の感情の差を表すように。
「ユイハ」
 震える声で訊ねても、彼女は答えない。
 水に冷え、血が抜けた彼女は、人形のようで、まるで誰かの性質の悪いいたずらのように思えた。
「なんで? なんで? どうして? こんな。違う。俺は。こんなのは違う……」
 どう見えても、どう思うとも、現実は変わらない。
 小包の配達を頼んだのは誰だ。
 手伝いを頼んだのは誰だ。
 本来死ぬはずだったのは誰だ。
「うぁあああああ!!」
 ホウロは絶叫して這い蹲りユイハの残りをかき集めようとした。
 コウライに止められた。
 容赦なく、首筋に手刀を加え、気絶させることで。
 少しの間でも現実から逃れることのできたのは、ホウロにとって短い救いかもしれない。
 目を覚ませば残酷な現実が待っているが。


「運んで」
 コウライが兵士に、気絶させたホウロを現場から離れさせると、フェイアの検証のために自身も離れた。
 フェイアはいつものように札を使い、呪文を唱え、その時の状況を再現する。
 人型の紙切れは舞うように地面をのた打ち回る。被害者がどのように餌食となったのか、克明に伝える。ユイハはいつどこからどうしてここへ来たのか。
「やはりそうか」
 妖気の反応がおかしい。
 妖気は突然出現して、突然消える。
 つまり、人間に化けて接近し、食事が終わった後、人間に化けて離れている。
 前回の青年の時と同じだ。
 だがゴウリュウが雇っていた、例の妖魔の芝居をしていたゴロツキは違う。
 妖魔の痕跡がほとんど残されていた。
 妖気が消えたのは距離が遠くに離れてからだった。
 推測するなら、この村での妖魔の最初の犠牲者は、あのゴロツキの二人、あるいは恐怖に精神を病んだものを入れれば、三人というべきか。それから青年。三度目にユイハ。
 やはり、村人に化けている。
 最初の時は村人に混じっていなかった。そのため妖気が大量に残された。
 しかし二度目以降は村人の誰かと代わっている。
 だから人間に化けることによって妖気が途絶える。
 だが、誰に?
 村人たちへ目を向けると、その中にリョホウの姿があった。だがその隣には、いつもいるはずの彼の妻の姿はない。


 知らせを受けたメイリンは、現場へ向かった。村人の大半はすでに湖へ向かい、リョホウとホウロもすでにそちらへ向かったらしい。
 湖の手前で人だかりができていた。村人たちがその真偽を確かめるために、集まっている。
 そこから少し離れた場所で、倒木に腰掛けるリョホウの姿があった。彼に駆け寄ると、夫はすぐに妻に気付いた。
「……メイリン。ユイハが、殺されたよ」
 静かに事実を告げるリョホウの表情は、沈痛や悲哀を一切表さない、能面のような表情のなさだった。
 まるでメイリンと出会う前の、一人で生きていた時のように。
「僕は知ってたんだ。気付いていた。ユイハが僕のことを想ってくれていたのは」
 訥々と告げる。
「でも、僕は彼女の想いには応えなかった。一度だって優しくしたことがないんだ。一度も。一度ぐらい優しくしてあげればよかったのかな?」
 メイリンは答えない。
 答えても意味がないことだから。
「どうして僕は、ユイハに優しい言葉の一つぐらいかけて上げられなかったのかな? いや、理由はわかってるんだ。理由はとても単純で簡単だから」
 ユイハが好きではなかったから。
 自分に好意を向けられても、好きにならなかったから。
 自分に恋しているのだと知っても、好きになれなかったから。
 自分はそういう人間だ。
 沈黙して告白を聞いていたメイリンはリョホウを抱きしめた。
 それは母の慈愛のように、姉の庇護のように、妹の思慕のように、そして娘が縋るように。
「あなたは優しい人よ」



 ユイハの葬儀が行われた。
 一週間も経たないうちに二人が殺害された。ゴウリュウの手下を入れれば四人。
 宿屋の主人夫婦は、朝廷から派遣された妖魔退治の道士を、宿から追い出した。
 娘を殺された今では、歓迎できない。
 宿泊も許せない。
 非難して追い出す気は望んでもいないのに湧き上がってくる。
 村長のウクバがとりなしても効果はなかった。
 非難は宿屋夫婦だけではなく、村人の一部からも起きていた。
 いっそ役に立たない兵士は追い出して自分たちで対処するべきだという極端な意見まで出始め、それどころか、混乱を恐れて秘密にしていたことが、どこからか知れ渡っていた。
「妖魔は人間に化けるんだとよ」
「妖魔は俺達の中に紛れ込んでいるかもしれない」
「俺達の中に化け物がいる」
「道士は俺達の中に妖魔がいることを黙っていた」
「俺達で妖魔を探し出すんだ」
「見つけ出して殺せ」
 殺気立った気配が、村中に蔓延し始めている。
 もしこれが最高潮に達すると、きっかけ一つで村中の人間が殺しあうかもしれない。
 フェイアが恐れていた事態が進行しつつあった。
「どうしたもんかね?」
 コウライがどこか呑気に問いかける。彼女はいつでも自分の調子を崩したことはない。
 神経質に心配ばかりしている自分にとっては、彼女のその大らかさが助けとなる。
 もっとも細かいことを気にしない傾向もあるので、その辺は自分が補う必要があるのだが。
「最悪の事態になる前に、妖魔を見つけ出して滅ぼす」
「どうやって?」
 人間の仕業だった時と違い、妖魔の仕業である三つの事件は妖気が残されていた。
 しかし、追跡しようとしたが妖気は途中で途絶えている。
 最初の事件と共通した見解となるが、どうやらこの妖魔は、人間に化ける。そのためどこに潜んでいるかわからない。
 村人の誰かを記憶ごと喰らい、紛れ込んでいる可能性は高い。
 村人が考えていることは、おそらく真実だ。
 しかし、彼らの知らないこともある。
「妖魔が誰なのかは検討がついている」


 フェイアはリョホウに、ゴウリュウの屋敷の使用の許可を貰った。
 罪人として捕らえられた彼らの財産、家屋敷などの管理は、唯一の血縁者であるリョホウにある。
 リョホウは屋敷の使用を承諾した。
 快くという顔ではなかったが、それでも妖魔を討ちとることができるのは、フェイアたちしかいないということを理解しているからだろう。
 もし祖父とのささやかな交友がなければ、それもなかったかもしれない。
「いや、そんなことはないか」
 フェイアは一人呟く。
 冷淡なようでいて、リョホウはそのような人格には縁遠い。
 家屋敷の使用を頼んだとき、彼は静かに願った。
「ユイハの敵をとってください」
 フェイアは言われなくともそのつもりでいた。
 自分が滞在していながら防げなかった数々の犠牲。
 彼らのためにも、そして自身に課せた使命を果たすためにも。
 リョホウにとって、さらに残酷な結末が待っているかもしれないと思いながら。


 ユイハの墓標を前に、ホウロはうなだれていた。
 周囲には誰もいない。
 だから彼の言葉を聞くものは誰もいない。
 ユイハには、もうなにも聞こえない。
「敵はとってやる。絶対にとってやる。敵をとる。殺す。絶対に殺す。化け物め。殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……」
 人が好く面倒見の良い善良なホウロは、今や呪詛を撒き散らし憎悪と憤怒に満ちていた。
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