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十八話
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雨が降っていた。
村が危険な状態でも死者の弔いは必要であり、葬儀は執り行われ、幸い何事もなく通夜も終わり、妖魔の犠牲者は火葬に処され、墓所に入れられた。
葬儀に参列する中から、朝廷道士と兵士はなにをしていたのだ、という不満と憤懣の囁きが聞こえたが、しかし彼らに阻止できなかったことが、村人にできるとは考え難く、それ以上の声は上がらなかった。
犠牲となった村人は働き盛りの青年だった。
結婚しており、生まれたばかりの子供が一人いる。
子供のためにも仕事に精を出すと、幸せそうに周囲に話していた。
青年の妻は乳飲み子を抱いて呆然としている。
どこを見ているのか判別できない視線で、現実を受け入れることができないと言うより、理解さえできていないような。
青年の母親が泣いている。
立派に育った息子を亡くした嘆きを誰もが理解し、そして慰めるすべをもたない。
父親は涙することなく葬儀を進めていたが、どこか心ここにあらずといった雰囲気だった。
リョホウはそんな様子を目にしても、薬師として彼らにしてあげられることはなく、ただ葬儀をささやかに手伝うことしかできなかった。
他の人たちも同じ気持ちなのだろう。
メイリンが不意に視線を葬儀から、背後へ視線を向けた。
リョホウは妻がなにに気付いたのかと、妻の視線を追う。
黒い外套を羽織った人物がそこにいた。
先日、湖で見かけた人物と同じだろうか。
その目はやはりメイリンに向けられている。
葬儀に参列する村人とは違う。
深く被る外套のせいで顔は見えないが、その奇妙な気配は、村の人間とは異なる。
村の人間の雰囲気なら、わかる。
外部の人間は、今は道士と兵士だけだ。姿でわかる。
だが、あの人物は誰なのか。
メイリンは鋭い視線を黒衣の男に定めて微動しない。
「あの人は?」
リョホウが小声で訊ねると、メイリンは穏やかな目に戻り、夫に向けて首を振る。
「いえ、なんでもないわ」
視線を再び黒衣の人影に向けたときには、誰もいなかった。
故人が墓所に入れられ、葬儀に一段落つくと、参列者は帰宅する。
「やりきれないよな」
帰路の途中、ホウロが話しかけてきた。
「俺はまだ結婚してないが、親はいるんだ」
ホウロはリョホウの返事を待たず、独白するように続けた。
「よく言われるよ。親より死ぬ親不幸はないってな。女房も小さい子がいるのに旦那に死なれちゃたまったもんじゃないだろ」
暗にメイリンとのことを示しているのは明らかだった。
「夜は注意しろ。一人で行動するな。少なくとも、今はな」
最初の発見者同然のリョホウは、同時に犠牲者になる可能性が高かったということだ。
そのことはフェイアにも指摘された事だった。
「そうだね。気をつけるよ」
「ん。それじゃ」
ホウロはその場を離れた。
今日は村中が仕事を休みにしており、そんなに急ぐ必要はないのだが、彼は一つのところに留まっていられない性格だ。
あるいは、体を動かしていないと不安なのかもしれない。
妖魔がどこに潜んでいるのかわからない恐怖は、村全体に広まっている。
「最初にメイリンを見たんだね?」
遺体が発見された場所の調査を終えたフェイアは、葬儀に参列していたカイウと兵士に質問していた。
「ええ、そんな気がしたんですが……」
しかし後から考えると、リョホウの言葉を聞いてからメイリンなのだと思ったような気がする。
そうなると自分の判断の真偽が自分でもわからず、断言することができない。
「俺は姿自体は見てないんです」
兵士が答える。目を向けた時には闇に紛れて姿が消えていた。
「そうか」
フェイアは聞いたことを吟味するように目蓋を閉じた。
その意味は二人には理解できなかった。
葬儀が終わった後、リョホウはフェイア道士に宿に呼ばれ、目撃した人影についていくつか質問を受けたが、しかし答えられることは少なく、三つ四つの受け答えで終わった。
フェイアは再び現場の調査へ向う。
メイリンはどこかに出かけており、リョホウはもうここにいる必要はないと、すぐに仕事に戻ろうとすると、少しは休むようにとユイハは引き止め、お茶を出した。
実質的に兵士の宿舎となっているこの宿で、呑気にお茶を飲む状況に、リョホウは居心地の悪さを感じていたが、しかしお茶一杯を断るのも気が引けた。
「ねえ、メイリンとはどうなの?」
好奇心に目を輝かせて漠然とした質問をしてくる。
内容に明確性が欠けるが、しかしなにを聞きたいのかはよくわかる。
ユイハとは同年代だ。リョホウは村の中でも若くして妻を持ったことで、同年代から興味の対象になることは理解していた。
「どうって、普通だよ。君の両親と似たようなものだと思う」
「お母さんからそんな話聞いたりしないって。ねえ、結婚生活ってどんな感じ?」
先日、同じ村の人間がなくなったばかりだというのに、ひどく無邪気で明るい調子で、年頃の女の子の興味を引く話題を振って来る。
親しくなかったから割り切ることができるのか、あるいはこういう状況だからこそ楽しい話をして暗い雰囲気を払拭したいのか。
楽しい話が二度とできないかもしれないと考えたのか。
リョホウは茶を少し口に含んでから答えた。
「楽しいよ。側にいて欲しい人が一緒にいてくれるのは、嬉しい」
単純で少ない言葉だが、それでリョホウの気持ちのすべてを表していた。
ユイハは大きく嘆息する。
「いいなあ。私も素敵な人と出会いたい」
「ホウロは」
軽い気持ちで名前を出してみると、ユイハは手を振る。
「駄目だめダメ。問題外」
三回も繰り返さなくてもいいだろうに。少しホウロが気の毒になった。
「三回も繰り返すことないだろ」
話題の人物が、荷袋を担いで現れた。
「ほら、頼まれてたやつ」
「ありがとう」
ホウロが麻袋をテーブルの上に置くと、中から穀物らしい音がした。ユイハは麻袋を受け取ると、それを食料保存室に運ぶ。
ユイハの姿が扉の向こうに消えると、リョホウはそれを機に席を立った。
「おい、行くのか?」
ホウロが訊ねる。
「うん。仕事があるから」
そしてリョホウは宿を後にした。
しばらくしてから戻ってきたユイハが、リョホウの姿がないことに、明らかに態度に表して残念がる。
「もう帰っちゃったの」
「いい加減諦めたらどうだ」
うなだれるユイハに、ホウロは進言する。
「諦めてるわよ」
結婚した時点で完全に望みは絶たれたのだ。
話しかけるくらい構わないではないか。
それさえも未練ととられるのは心外だ。
「まだリョホウのこと好きなのか?」
「好きな人が結婚したからってどうでもよくなるわけじゃない」
リョホウに純粋な好意以上のものを感じるようになったのはいつ頃なのか、ユイハはよくわからない。
ただ気がついたら世界で一番好きな人になっていた。
なにかと声をかけ、遊びに誘い、彼がどう思っているのかいつも気になって、想いを告げる好機を待っていた。
それなのに、想いを寄せる人は、自分に友情以上の好意を全く持つことはなく、やがて彼にとって世界で一番好きな人を見つけた。
「……うん?」
ふと視線を感じて戸口に二人は目を向けた。
そこにはいつの間にいたのだろうか、メイリンが立っていた。
「メイリン。どうしたの?」
不自然に明るく訊ねるユイハは、内心話を聞かれたのではないかと危惧していた。
「あの、リョホウが来ているって聞いたんだけど」
例の夜以来、メイリンはずっとここで寝泊りしている。
ゴウリュウとゴウエンが拿捕された時、一度は家に戻ろうとしたが、ユイハに止められた。
妖魔がいる以上、危険なのは変わらない。
リョホウと会う機会が少なくなり、ユイハやコウライが話し相手になるが、しかし時折寂しそうな表情を見せていた。
「さっき帰ったぜ。行き違いになったんじゃないか?」
ユイハの代わりに答えるホウロに、会釈してメイリンはその場を去った。
リョホウのあとを追ったのだろうか。
脱力してテーブルに突っ伏したユイハは、独り言のように呟く。
「聞かれたかな?」
「聞かれたからよそよそしかったんだと思う」
ホウロも都合の悪い話を聞かれたと、ばつの悪い顔をしていた。
ユイハは頭を抱える。
メイリンとは村では数少ない同年代の友人で、そして関係はきわめて良好だった。
それがいきなり亀裂が入ることになるなんて。
「あううー。どうしよぉー」
「気にしすぎなんじゃないか。別にたいしたことないだろ」
「あんたは無神経だからそう思えるのよ。あの子、絶対に気にする」
好きな人が一番大切にしている人は、困ったことに自分も嫌いではなかった。
控えめに表現しても。
二人の幸せは、自分が好きな人と一緒になることの次に、嬉しいことだから。
自分の思いを成就することより、好きな人の想いを優先してしまうのは、お人好しのすることだとは思う。
だがユイハは悪人にはなれなかった。なろうと思っても不可能だっただろう。
彼女は根っからそういう人間だ。
「どうしよぉー?」
どうするべきか、頭を抱えて悩むユイハに、ホウロは荷車から小包を取り出してテーブルの上に置いた。
「これ、頼まれてリョホウのところに届ける予定なんだけどな。ほら、借金帳消しのお礼だって。そういうの結構頼まれてるんだけどよ、ちょっと忙しくて手が回りそうにない。手伝ってくれないか」
ユイハは、ホウロの顔と小包を交互に見比べると、やがて明るい表情で抱きついた。
「ありがと。それじゃ、行ってくるね」
荷物をメイリンに渡せば、話をする機会になる。ささやかな配慮に感謝して、ユイハは小包を脇に抱えると、リョホウの家へと向かった。
「早く帰れよー」
後姿を見届けて、ホウロは嘆息し、荷車を引いて家に帰ることにした。
「俺も、お人好しだよな」
想い人の想いを優先してしまうのは、お人好しのすることだ。
だが仲違いをしてまで奪い合いたくなかった。八方美人と呼ばれようとも、三人とも好きだった。
それにホウロは待つのがそんなに嫌ではなかった。
彼女の側で話しかけ、相談に乗り、支えとなるのは、楽しく嬉しくことだった。
それはささやかで穏やかな時間。
妖魔の恐怖が満ちていく村で、恋愛に悩むなど、日常的で平和な時間だった。
一時の偽りの安らぎに過ぎなかった。
次の日、ユイハは死体で見つかった。
村が危険な状態でも死者の弔いは必要であり、葬儀は執り行われ、幸い何事もなく通夜も終わり、妖魔の犠牲者は火葬に処され、墓所に入れられた。
葬儀に参列する中から、朝廷道士と兵士はなにをしていたのだ、という不満と憤懣の囁きが聞こえたが、しかし彼らに阻止できなかったことが、村人にできるとは考え難く、それ以上の声は上がらなかった。
犠牲となった村人は働き盛りの青年だった。
結婚しており、生まれたばかりの子供が一人いる。
子供のためにも仕事に精を出すと、幸せそうに周囲に話していた。
青年の妻は乳飲み子を抱いて呆然としている。
どこを見ているのか判別できない視線で、現実を受け入れることができないと言うより、理解さえできていないような。
青年の母親が泣いている。
立派に育った息子を亡くした嘆きを誰もが理解し、そして慰めるすべをもたない。
父親は涙することなく葬儀を進めていたが、どこか心ここにあらずといった雰囲気だった。
リョホウはそんな様子を目にしても、薬師として彼らにしてあげられることはなく、ただ葬儀をささやかに手伝うことしかできなかった。
他の人たちも同じ気持ちなのだろう。
メイリンが不意に視線を葬儀から、背後へ視線を向けた。
リョホウは妻がなにに気付いたのかと、妻の視線を追う。
黒い外套を羽織った人物がそこにいた。
先日、湖で見かけた人物と同じだろうか。
その目はやはりメイリンに向けられている。
葬儀に参列する村人とは違う。
深く被る外套のせいで顔は見えないが、その奇妙な気配は、村の人間とは異なる。
村の人間の雰囲気なら、わかる。
外部の人間は、今は道士と兵士だけだ。姿でわかる。
だが、あの人物は誰なのか。
メイリンは鋭い視線を黒衣の男に定めて微動しない。
「あの人は?」
リョホウが小声で訊ねると、メイリンは穏やかな目に戻り、夫に向けて首を振る。
「いえ、なんでもないわ」
視線を再び黒衣の人影に向けたときには、誰もいなかった。
故人が墓所に入れられ、葬儀に一段落つくと、参列者は帰宅する。
「やりきれないよな」
帰路の途中、ホウロが話しかけてきた。
「俺はまだ結婚してないが、親はいるんだ」
ホウロはリョホウの返事を待たず、独白するように続けた。
「よく言われるよ。親より死ぬ親不幸はないってな。女房も小さい子がいるのに旦那に死なれちゃたまったもんじゃないだろ」
暗にメイリンとのことを示しているのは明らかだった。
「夜は注意しろ。一人で行動するな。少なくとも、今はな」
最初の発見者同然のリョホウは、同時に犠牲者になる可能性が高かったということだ。
そのことはフェイアにも指摘された事だった。
「そうだね。気をつけるよ」
「ん。それじゃ」
ホウロはその場を離れた。
今日は村中が仕事を休みにしており、そんなに急ぐ必要はないのだが、彼は一つのところに留まっていられない性格だ。
あるいは、体を動かしていないと不安なのかもしれない。
妖魔がどこに潜んでいるのかわからない恐怖は、村全体に広まっている。
「最初にメイリンを見たんだね?」
遺体が発見された場所の調査を終えたフェイアは、葬儀に参列していたカイウと兵士に質問していた。
「ええ、そんな気がしたんですが……」
しかし後から考えると、リョホウの言葉を聞いてからメイリンなのだと思ったような気がする。
そうなると自分の判断の真偽が自分でもわからず、断言することができない。
「俺は姿自体は見てないんです」
兵士が答える。目を向けた時には闇に紛れて姿が消えていた。
「そうか」
フェイアは聞いたことを吟味するように目蓋を閉じた。
その意味は二人には理解できなかった。
葬儀が終わった後、リョホウはフェイア道士に宿に呼ばれ、目撃した人影についていくつか質問を受けたが、しかし答えられることは少なく、三つ四つの受け答えで終わった。
フェイアは再び現場の調査へ向う。
メイリンはどこかに出かけており、リョホウはもうここにいる必要はないと、すぐに仕事に戻ろうとすると、少しは休むようにとユイハは引き止め、お茶を出した。
実質的に兵士の宿舎となっているこの宿で、呑気にお茶を飲む状況に、リョホウは居心地の悪さを感じていたが、しかしお茶一杯を断るのも気が引けた。
「ねえ、メイリンとはどうなの?」
好奇心に目を輝かせて漠然とした質問をしてくる。
内容に明確性が欠けるが、しかしなにを聞きたいのかはよくわかる。
ユイハとは同年代だ。リョホウは村の中でも若くして妻を持ったことで、同年代から興味の対象になることは理解していた。
「どうって、普通だよ。君の両親と似たようなものだと思う」
「お母さんからそんな話聞いたりしないって。ねえ、結婚生活ってどんな感じ?」
先日、同じ村の人間がなくなったばかりだというのに、ひどく無邪気で明るい調子で、年頃の女の子の興味を引く話題を振って来る。
親しくなかったから割り切ることができるのか、あるいはこういう状況だからこそ楽しい話をして暗い雰囲気を払拭したいのか。
楽しい話が二度とできないかもしれないと考えたのか。
リョホウは茶を少し口に含んでから答えた。
「楽しいよ。側にいて欲しい人が一緒にいてくれるのは、嬉しい」
単純で少ない言葉だが、それでリョホウの気持ちのすべてを表していた。
ユイハは大きく嘆息する。
「いいなあ。私も素敵な人と出会いたい」
「ホウロは」
軽い気持ちで名前を出してみると、ユイハは手を振る。
「駄目だめダメ。問題外」
三回も繰り返さなくてもいいだろうに。少しホウロが気の毒になった。
「三回も繰り返すことないだろ」
話題の人物が、荷袋を担いで現れた。
「ほら、頼まれてたやつ」
「ありがとう」
ホウロが麻袋をテーブルの上に置くと、中から穀物らしい音がした。ユイハは麻袋を受け取ると、それを食料保存室に運ぶ。
ユイハの姿が扉の向こうに消えると、リョホウはそれを機に席を立った。
「おい、行くのか?」
ホウロが訊ねる。
「うん。仕事があるから」
そしてリョホウは宿を後にした。
しばらくしてから戻ってきたユイハが、リョホウの姿がないことに、明らかに態度に表して残念がる。
「もう帰っちゃったの」
「いい加減諦めたらどうだ」
うなだれるユイハに、ホウロは進言する。
「諦めてるわよ」
結婚した時点で完全に望みは絶たれたのだ。
話しかけるくらい構わないではないか。
それさえも未練ととられるのは心外だ。
「まだリョホウのこと好きなのか?」
「好きな人が結婚したからってどうでもよくなるわけじゃない」
リョホウに純粋な好意以上のものを感じるようになったのはいつ頃なのか、ユイハはよくわからない。
ただ気がついたら世界で一番好きな人になっていた。
なにかと声をかけ、遊びに誘い、彼がどう思っているのかいつも気になって、想いを告げる好機を待っていた。
それなのに、想いを寄せる人は、自分に友情以上の好意を全く持つことはなく、やがて彼にとって世界で一番好きな人を見つけた。
「……うん?」
ふと視線を感じて戸口に二人は目を向けた。
そこにはいつの間にいたのだろうか、メイリンが立っていた。
「メイリン。どうしたの?」
不自然に明るく訊ねるユイハは、内心話を聞かれたのではないかと危惧していた。
「あの、リョホウが来ているって聞いたんだけど」
例の夜以来、メイリンはずっとここで寝泊りしている。
ゴウリュウとゴウエンが拿捕された時、一度は家に戻ろうとしたが、ユイハに止められた。
妖魔がいる以上、危険なのは変わらない。
リョホウと会う機会が少なくなり、ユイハやコウライが話し相手になるが、しかし時折寂しそうな表情を見せていた。
「さっき帰ったぜ。行き違いになったんじゃないか?」
ユイハの代わりに答えるホウロに、会釈してメイリンはその場を去った。
リョホウのあとを追ったのだろうか。
脱力してテーブルに突っ伏したユイハは、独り言のように呟く。
「聞かれたかな?」
「聞かれたからよそよそしかったんだと思う」
ホウロも都合の悪い話を聞かれたと、ばつの悪い顔をしていた。
ユイハは頭を抱える。
メイリンとは村では数少ない同年代の友人で、そして関係はきわめて良好だった。
それがいきなり亀裂が入ることになるなんて。
「あううー。どうしよぉー」
「気にしすぎなんじゃないか。別にたいしたことないだろ」
「あんたは無神経だからそう思えるのよ。あの子、絶対に気にする」
好きな人が一番大切にしている人は、困ったことに自分も嫌いではなかった。
控えめに表現しても。
二人の幸せは、自分が好きな人と一緒になることの次に、嬉しいことだから。
自分の思いを成就することより、好きな人の想いを優先してしまうのは、お人好しのすることだとは思う。
だがユイハは悪人にはなれなかった。なろうと思っても不可能だっただろう。
彼女は根っからそういう人間だ。
「どうしよぉー?」
どうするべきか、頭を抱えて悩むユイハに、ホウロは荷車から小包を取り出してテーブルの上に置いた。
「これ、頼まれてリョホウのところに届ける予定なんだけどな。ほら、借金帳消しのお礼だって。そういうの結構頼まれてるんだけどよ、ちょっと忙しくて手が回りそうにない。手伝ってくれないか」
ユイハは、ホウロの顔と小包を交互に見比べると、やがて明るい表情で抱きついた。
「ありがと。それじゃ、行ってくるね」
荷物をメイリンに渡せば、話をする機会になる。ささやかな配慮に感謝して、ユイハは小包を脇に抱えると、リョホウの家へと向かった。
「早く帰れよー」
後姿を見届けて、ホウロは嘆息し、荷車を引いて家に帰ることにした。
「俺も、お人好しだよな」
想い人の想いを優先してしまうのは、お人好しのすることだ。
だが仲違いをしてまで奪い合いたくなかった。八方美人と呼ばれようとも、三人とも好きだった。
それにホウロは待つのがそんなに嫌ではなかった。
彼女の側で話しかけ、相談に乗り、支えとなるのは、楽しく嬉しくことだった。
それはささやかで穏やかな時間。
妖魔の恐怖が満ちていく村で、恋愛に悩むなど、日常的で平和な時間だった。
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