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26・強制された王女らしい振る舞い
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マリアンヌとオットーが細い裏道を通り、やがて開けた場所に出た。
煉瓦の壁で区分けされた公園らしく、なにより嬉しいのは、その足場は金網ではなく、煉瓦が敷かれていたことだった。
先のこともあるので、念のために足先で確認するが、足を踏み入れた途端に崩れることはなかった。
今度は確かに足場が存在する。
二人は思わず安堵の息を吐く。
虚空の上を歩いている感覚は、精神衛生に大変悪い。
人は空を飛ぶ夢や願望を持っているというが、それはただの無い物ねだりに過ぎないのを思い知った。
地に足がついていなければ不安で仕方がない。
煉瓦で作られた弓形の入口の壁に、古びた看板が貼り付けられていた。
知らない文字で書かれているので読めなかったが、たぶん公園の名前だろう。
マリアンヌは気にせずに進もうとした。だが、弓形の入口を通過しようとした所で、足を止めた。
良く見ると入口には金網が張られている。これでは先に進めない。
「困りましたわね」
金網に手をかけて軽く揺らしてみる。
金属の重なりあう独特の音が鳴るが、足場と同じく頑強で外れそうもない。
「ナイフで切れるかな?」
「うーん。どうでしょうか」
先ほどの階段の時も金網を切断しようかと考えたが、所持しているナイフは小さく、到底切れるとは思えない。
しかしいつまでもこんな不安定な足場を歩き回りたくないので、とにかく挑戦する。
しばらくマリアンヌはナイフで金網切断に努力を注いでみたが、やはり無駄だった。
「はあ、ダメですわ。やっぱりこんな物では切断できません」
マリアンヌが諦めの嘆息をして顔を上げ、なにか方法はないだろうかと、金網の向こう側に目を凝らした。
石像と思しき物が幾つか飾られているが、なにかの記念公園なのだろうか。
その像は酷く不気味な姿をしている。
体中に布を巻かれ留め金で固定された、まるで囚人が拘束具を着せられているような姿だ。
頭部には十字模様が描かれた布が被せられ、表情は見えない。
姿勢は様々だが、それが十体数体ある。
ただ一つだけ違う姿の石像があった。
中心に位置しているそれは、やはり顔は布で覆われているが、僧衣と思しき衣服で拘束されてはいない。
右手に聖典なのか一冊の本を持ち、左手には大きなナイフを持っている。
それは死刑執行人を思わせた。
もしかするとここは処刑場だったのではないだろうか。
罪人に極刑が執行される場所。
「……うん?」
オットーが不意に疑念の声を呟いた。
「どうしましたの、オットー?」
「今、石像が動いたような気がしたんだけど……」
言われてマリアンヌも石像を注視する。
石像が動くはずがないのだが、しかし異常な地域の、異常事態の真っ最中。
その程度のことは起こるかもしれないし、何らかの機械的な仕掛けが施されている可能性もある。
(……いえ、あれは本当に石像なの? 灰色だから石に見えるだけなのかも)
不安混じりの疑問は正しく、それは唐突に台座から降り、滑らかな動きで一斉に二人に向かってきた。
CIIIII!!
十数体の石像だと思っていた魔物が、拘束具で思うように動かない体の自由を最大限に発揮しようと、蠢かしくねらせて近づいてくる不気味な様は、二人の恐怖を喚起させた。
「「うわあ!」」
驚いて叫び声を上げ逃げ出す。
しかし十メートルも進まないうちに、ふと気がついてマリアンヌは振り返った。
十数体の石像は金網に遮られ進めないでいる。
烏合の衆のように群がっているだけだ。
「オットー、待ってください。そんなに急ぐ必要はありませんわ」
「えぇ?」
促されてオットーも振り返り、拘束具の囚人たちがどういう状況にあるのか理解した。
両腕を後ろで縛られた彼らは金網をその手で引き破ることもできず、基本的にそれほど力がないのだろう、体当たりしても微妙な撓みが衝撃を吸収して突破できないでいる。
そもそも頭に布を巻き付けられた彼らに視覚があるのかどうかも怪しいものだ。
全体的に動きは鈍く頼りなく、ある一体は全く見当違いの方向へ進んだりして、単純に音に反応して動いているだけのようだ。
その向こう側に見える、死刑執行人だけは本物の石像だったのか、微動もしていない。
とにかく安全のようだ。
「マリアンヌ、行こう。ここからは、どうしたって先へは進めないよ」
「そうですわね」
落ち着きを取り戻した二人は、残念な思いで静かにその場から離れた。
背後でいつまでも拘束具の囚人たちが蠢いている音だけが聞こえた。
それは助けを求めているように見えて、少しだけ哀れに思えた。
歩き続けながら調べて分かったが、金網は路面だけに敷かれているのではなく、道を遮断するためにも張られていた。
全体的に特定の区域の外へは出られないようになっており、進行方向を限定している。本来の使用方法ではあるのだが、これが魔物の誘導か罠なのか、それとも別の何かなのか分からないが、とにかく進める場所へ進むしかなかった。
しかし、まるで巨大な鳥かごの中に閉じ込められているようで、いくら進んでも、同じ個所を延々と歩き続けているような感覚に囚われる。
だけどいつでも自分の人生はそんなものだったのかもしれない。
虚空の上を歩いているような、酷く不安定な人生だ。
王国の姫君として生誕したマリアンヌは、周囲の誘導と強制の元に生きてきた。
王女らしくしなさいませ。
姫として振舞いなさいませ。
これが王女らしゅう御座います。
あれが王女に相応しくあります。
それが彼女の人生だった。
自分で決めたようでいて、その実、本当に自分で決断した事などなかったように思える。
ただ一度を除いて。
そしてその選択は、失敗だった。
それまでは自分の出生と立場に不満を持っていた。
同時に強制的に背負わされる数々の責任とやらにも。
王女として振舞いなさいませ。
姫君らしくなさいませ。
あなたはとても高貴なお方なのだから。
あなたは皆の敬愛を受ける王女殿下なのですから。
自ら望んで王女として生まれたわけではないのに、周囲が持ち上げ御輿に担ぐその様に、王女の役など自分でなくても、誰でも代用が利くような気がしてならなかった。
物心ついた時から違和感に苛まされ落ち着かず、まるで籠の中に閉じ込められて、振り回されながら持ち運びされている気分だった。
だけど自由を得たくて御輿から降りようとしても、籠の檻は頑強だった。
自分は周囲に咲いている硝子の花と同じだ。
いくら美しく着飾られても、近くで見れば命のない偽りの華であるのが判明してしまう。だから皆は籠の中に閉じ込め、謁見を限定する。
目の前さえ見えない愚者だけに。
そうして御輿の上で束縛され、同年代の子供たちが気侭に遊んでいる光景を、遠くから羨望の眼差しで見続けた。
それでもいつか籠を破りあの中に入りたかった。
けれど、あの時から自分は足掻くことを完全に止めてしまった。
そういえば、幽閉の塔に閉じ込められてから、自分は救助の到着を一ヶ月も待っていた。
積極的に動こうと思えばできた筈なのに、今になるまで消極的な選択しか取らなかった。
それは王女に相応しいからではなかったのだろうか。
無力で、自分一人ではなにもできないか弱いお姫様。
そんな行動を刷り込まれたかのように選択していたような気がする。
しかし経緯はともかく、今は自分で歩いている。
置かれた状況は安全な王城とは比較にならないほど危険だが、お目付け役も護衛もなく、自分の意のままに歩いている。
マリアンヌはその事実に気が付いた。
今の自分は己の力で自分を救おうとしている。そしてここには城の者は誰もいない。
つまり自由だ。
至極当然のように城に帰還することばかり考えていたが、魔王殿を脱出した後、どうして王国に戻る必要があるのだろうか。
どうして籠の中に戻らなければならないのだろうか。
そのまま自由の世界へ飛び立てば良いではないか。
マリアンヌは心の内に歓喜が生じた。
魔王殿脱出に成功した暁には、そのままオットーと一緒に世俗へ紛れて暮らせばいい。
勿論、口で言うほど易しくはないだろう。
世間知らずの自分がどれだけ苦労するか想像もつかない。
だけど魔王殿から逃げ出せたのなら、城からだって逃げられる筈だ。
鳥籠に戻る必要はない。全くない。
マリアンヌの表情に自然と笑みが浮び、オットーの手を握った。
唐突に手を握られて、少年は少し戸惑い、そうする彼女の意図を窺おうと顔を見た。
なにか良い案でも思いついたのか、微笑んでいるようだが、真っ直ぐ前方を見据えていたのでよく分からなかった。
けれど、オットーはその手を軽く握り返した。
彼女手は柔らかくて、こうして触れているだけで、なんだかとても嬉しくなる。
「オットー、早く入れる場所を探しましょう。どこかに金網を切断できる道具があるかもしれません」
提案するマリアンヌの声はどこか楽しそうだった。
建物の大半は鍵がかかっていたが、しかし二十回を超えて漸く鍵のかかっていない扉を発見した。
少しだけ開けて隙間から中を窺う。
広々とした屋内には、テーブルと椅子が散乱し、カウンターの奥には瓶類やコップ類が並べられている。
寂れた雰囲気の大衆酒場のようだ。動く物や不審な者は見られない。
「大丈夫?」
「ええ、魔物も影もいませんわ」
二人はそれでも物音を立てないように中へ入った。
「おじゃましまーす」
オットーが小声で断りを入れる。
知らずに習慣が現れてしまったのか、あるいは恐れる心を紛らわす為の冗談だったのかもしれない。
マリアンヌは屋内を探索するが、目ぼしい物は見つけられなかった。
ただ酒瓶の中身が残っていることや、埃の積もり具合から推測すると、完全に放置していた期間は、やはり三四十年程度のように思える。
前回の戦いは三百年前。
魔物が活動を再開したのはここ数年。
この差は一体なんだろう。
複雑に考えればどんな説明でも付けられるが、しかし不調和は解消されない。
もっと合理的な説明があると思う。
サリシュタール先生なら明確な答えに導いてくれるだろう。
(まあ、良いですわ)
マリアンヌが深く考えるのを止めて、転がっている椅子を立てて腰掛ける。
「オットー、こちらへ」
椅子を促すマリアンヌの声は、なぜだか楽しそうだ。
状況は好転していないのに。
本当になにか良い案が思い浮かんだのだろうか。
オットーが椅子に座ると、マリアンヌは右腕を手に取った。
布切れは斑に赤く染まっているが、血は止まっているようだ。
元々たいした出血ではなく、動揺して怪我が酷く見えただけなのかもしれない。
しかし包帯代わりの布は換える頃合だろう。
「そろそろ交換したほうが良いでしょう。痛みはありませんか?」
「うん、大丈夫だよ」
この少年と一緒に暮らすのも悪くない。
そんなことを考えながら、右腕に巻き付けてあった布を取る。
そこにある傷を予想して心構えをしていたが、しかし右腕に怪我はなかった。
「あれ?」
オットーは怪訝な声を上げた。
傷が完治しており、その痕跡は全く見られない、白く綺麗な肌だ。
だがこんな短時間に治るだろうか。
「治ってるね。どうしてだろ?」
「……」
マリアンヌは答えず、少年の右腕を凝視するその顔は強張っている。
「マリアンヌ?」
「え? ああ、ええ、良かったですわ、治って」
名を呼ばれて我に返ったマリアンヌは、喜んでいるように装ったが、その笑顔が作為的であるのはオットーにも分かった。
「どうしたの? なんだか、その、様子が変だけど」
不安の混じった声でオットーは尋ねる。
マリアンヌの様子は明らかに不自然だ。
怪我の完治が不思議でならないのは自分も同じだが、内心酷く動揺しているような感じだ。
「いえ。……いえ、なんでもありません。ただ、ちょっと驚いてしまって。このドレス、魔物の力が込められてあったのかもしれませんわね。だから傷が早く治ったのでしょう」
彼女の言葉は思いつきの出任せだ。
しかしオットーは容易く信じ、安心したように微笑んだ。
まるで天使の微笑のように。
「うん、そうだね。なんだか変だね。魔物から逃げてるのに、魔物の力で助かったなんて」
「ええ、本当に」
マリアンヌは自然な笑みを創ることに成功し、相槌を打った。
(忘れていた。オットーは魔王ゲオルギウス。……どうしてこんな大切なことを失念していたの)
傷の治りが早いのは当然だ。
その力は時に死をも否定すると伝承されているのに、あの程度の傷が何程だというのか。
考えてみれば、怪我の原因である舗装路の崩落の際、オットーは片腕で自分を掴んでいた。
十二三歳程度の子供の、それもお世辞にも逞しいとはいえない体躯で、そんな芸当ができるわけがないのだ。
普通の子供なら持ち堪えられずに手が離れてしまうか、よしんば少しでも耐えたとしても肩が脱臼してしまい、結局は同じ結果となるだろう。
しかし彼は片腕で人一人を持ち上げたのだ。
「これ、飲めるかな?」
喉が渇いたのか、オットーはカウンターに放置されていた不気味な色の液体の入った瓶を片手に思案している。
その純朴としかいいようのない仕草や姿には、魔王の面影は残っていない。
記憶喪失よる人格の変化と、それに伴う印象の落差が、彼の正体を失念させてしまっていた。
だが記憶を失い、内包する力の存在と使用法を忘却してさえ、今のような力が発現されているのだ。
本来の魔王とは如何なる力の持ち主だったのだろうか。
伝説上の大殺戮者が、現実に目の前に存在しているという事実を、マリアンヌは今更実感し始めた。
「……止めたほうが良いと思います」
本気で飲むように見えて、マリアンヌはオットーから瓶を取り上げる。
その瓶の中に目玉が一つ入っていた。
液体の中で浮遊するそれが緩慢に回転し、自分の視線が重なった。
「ひっ」
恐怖と驚愕で思わず取り落とす。瓶が砕けて内容物が四散するが、その中に在った筈の眼球はどこにも見当たらなかった。錯覚だったのだろうか。
(落ち着いて。今、私は動揺しているわ。心を落ち着けないと)
「ど、どうしたの?」
オットーの少し驚いた、そして不安そうな質問に、努めて冷静に返答するマリアンヌの声はそれでも震えていた。
「なんでもありません。なんでもありませんわ」
どうしてだろう、今までなんでもなかった筈なのに、意識に上がった途端、オットーが、魔王ゲオルギウスが恐ろしくて堪らなくなった。
煉瓦の壁で区分けされた公園らしく、なにより嬉しいのは、その足場は金網ではなく、煉瓦が敷かれていたことだった。
先のこともあるので、念のために足先で確認するが、足を踏み入れた途端に崩れることはなかった。
今度は確かに足場が存在する。
二人は思わず安堵の息を吐く。
虚空の上を歩いている感覚は、精神衛生に大変悪い。
人は空を飛ぶ夢や願望を持っているというが、それはただの無い物ねだりに過ぎないのを思い知った。
地に足がついていなければ不安で仕方がない。
煉瓦で作られた弓形の入口の壁に、古びた看板が貼り付けられていた。
知らない文字で書かれているので読めなかったが、たぶん公園の名前だろう。
マリアンヌは気にせずに進もうとした。だが、弓形の入口を通過しようとした所で、足を止めた。
良く見ると入口には金網が張られている。これでは先に進めない。
「困りましたわね」
金網に手をかけて軽く揺らしてみる。
金属の重なりあう独特の音が鳴るが、足場と同じく頑強で外れそうもない。
「ナイフで切れるかな?」
「うーん。どうでしょうか」
先ほどの階段の時も金網を切断しようかと考えたが、所持しているナイフは小さく、到底切れるとは思えない。
しかしいつまでもこんな不安定な足場を歩き回りたくないので、とにかく挑戦する。
しばらくマリアンヌはナイフで金網切断に努力を注いでみたが、やはり無駄だった。
「はあ、ダメですわ。やっぱりこんな物では切断できません」
マリアンヌが諦めの嘆息をして顔を上げ、なにか方法はないだろうかと、金網の向こう側に目を凝らした。
石像と思しき物が幾つか飾られているが、なにかの記念公園なのだろうか。
その像は酷く不気味な姿をしている。
体中に布を巻かれ留め金で固定された、まるで囚人が拘束具を着せられているような姿だ。
頭部には十字模様が描かれた布が被せられ、表情は見えない。
姿勢は様々だが、それが十体数体ある。
ただ一つだけ違う姿の石像があった。
中心に位置しているそれは、やはり顔は布で覆われているが、僧衣と思しき衣服で拘束されてはいない。
右手に聖典なのか一冊の本を持ち、左手には大きなナイフを持っている。
それは死刑執行人を思わせた。
もしかするとここは処刑場だったのではないだろうか。
罪人に極刑が執行される場所。
「……うん?」
オットーが不意に疑念の声を呟いた。
「どうしましたの、オットー?」
「今、石像が動いたような気がしたんだけど……」
言われてマリアンヌも石像を注視する。
石像が動くはずがないのだが、しかし異常な地域の、異常事態の真っ最中。
その程度のことは起こるかもしれないし、何らかの機械的な仕掛けが施されている可能性もある。
(……いえ、あれは本当に石像なの? 灰色だから石に見えるだけなのかも)
不安混じりの疑問は正しく、それは唐突に台座から降り、滑らかな動きで一斉に二人に向かってきた。
CIIIII!!
十数体の石像だと思っていた魔物が、拘束具で思うように動かない体の自由を最大限に発揮しようと、蠢かしくねらせて近づいてくる不気味な様は、二人の恐怖を喚起させた。
「「うわあ!」」
驚いて叫び声を上げ逃げ出す。
しかし十メートルも進まないうちに、ふと気がついてマリアンヌは振り返った。
十数体の石像は金網に遮られ進めないでいる。
烏合の衆のように群がっているだけだ。
「オットー、待ってください。そんなに急ぐ必要はありませんわ」
「えぇ?」
促されてオットーも振り返り、拘束具の囚人たちがどういう状況にあるのか理解した。
両腕を後ろで縛られた彼らは金網をその手で引き破ることもできず、基本的にそれほど力がないのだろう、体当たりしても微妙な撓みが衝撃を吸収して突破できないでいる。
そもそも頭に布を巻き付けられた彼らに視覚があるのかどうかも怪しいものだ。
全体的に動きは鈍く頼りなく、ある一体は全く見当違いの方向へ進んだりして、単純に音に反応して動いているだけのようだ。
その向こう側に見える、死刑執行人だけは本物の石像だったのか、微動もしていない。
とにかく安全のようだ。
「マリアンヌ、行こう。ここからは、どうしたって先へは進めないよ」
「そうですわね」
落ち着きを取り戻した二人は、残念な思いで静かにその場から離れた。
背後でいつまでも拘束具の囚人たちが蠢いている音だけが聞こえた。
それは助けを求めているように見えて、少しだけ哀れに思えた。
歩き続けながら調べて分かったが、金網は路面だけに敷かれているのではなく、道を遮断するためにも張られていた。
全体的に特定の区域の外へは出られないようになっており、進行方向を限定している。本来の使用方法ではあるのだが、これが魔物の誘導か罠なのか、それとも別の何かなのか分からないが、とにかく進める場所へ進むしかなかった。
しかし、まるで巨大な鳥かごの中に閉じ込められているようで、いくら進んでも、同じ個所を延々と歩き続けているような感覚に囚われる。
だけどいつでも自分の人生はそんなものだったのかもしれない。
虚空の上を歩いているような、酷く不安定な人生だ。
王国の姫君として生誕したマリアンヌは、周囲の誘導と強制の元に生きてきた。
王女らしくしなさいませ。
姫として振舞いなさいませ。
これが王女らしゅう御座います。
あれが王女に相応しくあります。
それが彼女の人生だった。
自分で決めたようでいて、その実、本当に自分で決断した事などなかったように思える。
ただ一度を除いて。
そしてその選択は、失敗だった。
それまでは自分の出生と立場に不満を持っていた。
同時に強制的に背負わされる数々の責任とやらにも。
王女として振舞いなさいませ。
姫君らしくなさいませ。
あなたはとても高貴なお方なのだから。
あなたは皆の敬愛を受ける王女殿下なのですから。
自ら望んで王女として生まれたわけではないのに、周囲が持ち上げ御輿に担ぐその様に、王女の役など自分でなくても、誰でも代用が利くような気がしてならなかった。
物心ついた時から違和感に苛まされ落ち着かず、まるで籠の中に閉じ込められて、振り回されながら持ち運びされている気分だった。
だけど自由を得たくて御輿から降りようとしても、籠の檻は頑強だった。
自分は周囲に咲いている硝子の花と同じだ。
いくら美しく着飾られても、近くで見れば命のない偽りの華であるのが判明してしまう。だから皆は籠の中に閉じ込め、謁見を限定する。
目の前さえ見えない愚者だけに。
そうして御輿の上で束縛され、同年代の子供たちが気侭に遊んでいる光景を、遠くから羨望の眼差しで見続けた。
それでもいつか籠を破りあの中に入りたかった。
けれど、あの時から自分は足掻くことを完全に止めてしまった。
そういえば、幽閉の塔に閉じ込められてから、自分は救助の到着を一ヶ月も待っていた。
積極的に動こうと思えばできた筈なのに、今になるまで消極的な選択しか取らなかった。
それは王女に相応しいからではなかったのだろうか。
無力で、自分一人ではなにもできないか弱いお姫様。
そんな行動を刷り込まれたかのように選択していたような気がする。
しかし経緯はともかく、今は自分で歩いている。
置かれた状況は安全な王城とは比較にならないほど危険だが、お目付け役も護衛もなく、自分の意のままに歩いている。
マリアンヌはその事実に気が付いた。
今の自分は己の力で自分を救おうとしている。そしてここには城の者は誰もいない。
つまり自由だ。
至極当然のように城に帰還することばかり考えていたが、魔王殿を脱出した後、どうして王国に戻る必要があるのだろうか。
どうして籠の中に戻らなければならないのだろうか。
そのまま自由の世界へ飛び立てば良いではないか。
マリアンヌは心の内に歓喜が生じた。
魔王殿脱出に成功した暁には、そのままオットーと一緒に世俗へ紛れて暮らせばいい。
勿論、口で言うほど易しくはないだろう。
世間知らずの自分がどれだけ苦労するか想像もつかない。
だけど魔王殿から逃げ出せたのなら、城からだって逃げられる筈だ。
鳥籠に戻る必要はない。全くない。
マリアンヌの表情に自然と笑みが浮び、オットーの手を握った。
唐突に手を握られて、少年は少し戸惑い、そうする彼女の意図を窺おうと顔を見た。
なにか良い案でも思いついたのか、微笑んでいるようだが、真っ直ぐ前方を見据えていたのでよく分からなかった。
けれど、オットーはその手を軽く握り返した。
彼女手は柔らかくて、こうして触れているだけで、なんだかとても嬉しくなる。
「オットー、早く入れる場所を探しましょう。どこかに金網を切断できる道具があるかもしれません」
提案するマリアンヌの声はどこか楽しそうだった。
建物の大半は鍵がかかっていたが、しかし二十回を超えて漸く鍵のかかっていない扉を発見した。
少しだけ開けて隙間から中を窺う。
広々とした屋内には、テーブルと椅子が散乱し、カウンターの奥には瓶類やコップ類が並べられている。
寂れた雰囲気の大衆酒場のようだ。動く物や不審な者は見られない。
「大丈夫?」
「ええ、魔物も影もいませんわ」
二人はそれでも物音を立てないように中へ入った。
「おじゃましまーす」
オットーが小声で断りを入れる。
知らずに習慣が現れてしまったのか、あるいは恐れる心を紛らわす為の冗談だったのかもしれない。
マリアンヌは屋内を探索するが、目ぼしい物は見つけられなかった。
ただ酒瓶の中身が残っていることや、埃の積もり具合から推測すると、完全に放置していた期間は、やはり三四十年程度のように思える。
前回の戦いは三百年前。
魔物が活動を再開したのはここ数年。
この差は一体なんだろう。
複雑に考えればどんな説明でも付けられるが、しかし不調和は解消されない。
もっと合理的な説明があると思う。
サリシュタール先生なら明確な答えに導いてくれるだろう。
(まあ、良いですわ)
マリアンヌが深く考えるのを止めて、転がっている椅子を立てて腰掛ける。
「オットー、こちらへ」
椅子を促すマリアンヌの声は、なぜだか楽しそうだ。
状況は好転していないのに。
本当になにか良い案が思い浮かんだのだろうか。
オットーが椅子に座ると、マリアンヌは右腕を手に取った。
布切れは斑に赤く染まっているが、血は止まっているようだ。
元々たいした出血ではなく、動揺して怪我が酷く見えただけなのかもしれない。
しかし包帯代わりの布は換える頃合だろう。
「そろそろ交換したほうが良いでしょう。痛みはありませんか?」
「うん、大丈夫だよ」
この少年と一緒に暮らすのも悪くない。
そんなことを考えながら、右腕に巻き付けてあった布を取る。
そこにある傷を予想して心構えをしていたが、しかし右腕に怪我はなかった。
「あれ?」
オットーは怪訝な声を上げた。
傷が完治しており、その痕跡は全く見られない、白く綺麗な肌だ。
だがこんな短時間に治るだろうか。
「治ってるね。どうしてだろ?」
「……」
マリアンヌは答えず、少年の右腕を凝視するその顔は強張っている。
「マリアンヌ?」
「え? ああ、ええ、良かったですわ、治って」
名を呼ばれて我に返ったマリアンヌは、喜んでいるように装ったが、その笑顔が作為的であるのはオットーにも分かった。
「どうしたの? なんだか、その、様子が変だけど」
不安の混じった声でオットーは尋ねる。
マリアンヌの様子は明らかに不自然だ。
怪我の完治が不思議でならないのは自分も同じだが、内心酷く動揺しているような感じだ。
「いえ。……いえ、なんでもありません。ただ、ちょっと驚いてしまって。このドレス、魔物の力が込められてあったのかもしれませんわね。だから傷が早く治ったのでしょう」
彼女の言葉は思いつきの出任せだ。
しかしオットーは容易く信じ、安心したように微笑んだ。
まるで天使の微笑のように。
「うん、そうだね。なんだか変だね。魔物から逃げてるのに、魔物の力で助かったなんて」
「ええ、本当に」
マリアンヌは自然な笑みを創ることに成功し、相槌を打った。
(忘れていた。オットーは魔王ゲオルギウス。……どうしてこんな大切なことを失念していたの)
傷の治りが早いのは当然だ。
その力は時に死をも否定すると伝承されているのに、あの程度の傷が何程だというのか。
考えてみれば、怪我の原因である舗装路の崩落の際、オットーは片腕で自分を掴んでいた。
十二三歳程度の子供の、それもお世辞にも逞しいとはいえない体躯で、そんな芸当ができるわけがないのだ。
普通の子供なら持ち堪えられずに手が離れてしまうか、よしんば少しでも耐えたとしても肩が脱臼してしまい、結局は同じ結果となるだろう。
しかし彼は片腕で人一人を持ち上げたのだ。
「これ、飲めるかな?」
喉が渇いたのか、オットーはカウンターに放置されていた不気味な色の液体の入った瓶を片手に思案している。
その純朴としかいいようのない仕草や姿には、魔王の面影は残っていない。
記憶喪失よる人格の変化と、それに伴う印象の落差が、彼の正体を失念させてしまっていた。
だが記憶を失い、内包する力の存在と使用法を忘却してさえ、今のような力が発現されているのだ。
本来の魔王とは如何なる力の持ち主だったのだろうか。
伝説上の大殺戮者が、現実に目の前に存在しているという事実を、マリアンヌは今更実感し始めた。
「……止めたほうが良いと思います」
本気で飲むように見えて、マリアンヌはオットーから瓶を取り上げる。
その瓶の中に目玉が一つ入っていた。
液体の中で浮遊するそれが緩慢に回転し、自分の視線が重なった。
「ひっ」
恐怖と驚愕で思わず取り落とす。瓶が砕けて内容物が四散するが、その中に在った筈の眼球はどこにも見当たらなかった。錯覚だったのだろうか。
(落ち着いて。今、私は動揺しているわ。心を落ち着けないと)
「ど、どうしたの?」
オットーの少し驚いた、そして不安そうな質問に、努めて冷静に返答するマリアンヌの声はそれでも震えていた。
「なんでもありません。なんでもありませんわ」
どうしてだろう、今までなんでもなかった筈なのに、意識に上がった途端、オットーが、魔王ゲオルギウスが恐ろしくて堪らなくなった。
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