上 下
92 / 94
番外編

偶然

しおりを挟む
 役者さんたちは、組長さんを騙す仕込みをするために、日中から港の倉庫へ向かった。
 こうなれば最後まで伝説の殺し屋キラーゲージを演じて、組長さんを騙しきってみせると意気込んでいた。
 その港への途中のことだった。
 映画の撮影が行われていた。
 下っ端ヤクザさんは、
「これなんですよ。俺が役者さんを雇って組長を騙そうって考えたきっかけって。この映画撮影を見たからなんです」
 愛人さんが呆れて、
「こんなんで騙せるわけないのにねー」
 役者さんは映画撮影を少し見て、
「あ、あの人!」
 不意に声を上げた。
「どうしました?」
 わたしが聞くと、
「あそこのベンチに座ってる人。あの人だ。ほら、憶えてないか。俺が役者を志すきっかけになった映画の主演俳優だ。もう ずいぶん歳を召されているけど、間違いない」


 カーット!
 映画の撮影が一区切り付いたようだ。
「俺、ちょっと話してくる」
「あ、わたしも行きます」
 そして役者さんは恐る恐る、老役者さんに話しかけた。
「あ、あの、ちょっといいですか」
「はい、なんでしょう」


 役者さんは自分があなたのファンだと言うこと。
 そしてあなたの映画を見て役者を目指したことを話した。
 老役者さんは嬉しそうな笑顔だった。
「そうでしたか。わたしの映画を見て同じ道を目指したのですか。嬉しいですねぇ。わたしのような老いぼれにも、まだファンがいるなんて」
「あなたにずっと聞きたかったことがあるんです」
「なんでしょう?」
「あの映画のラスト。別れのシーンで、あなたはなにかを堪えるような表情をしていました。俺はあれに物凄く感動したんです。
 あれはただ涙を堪えているんじゃない。涙だけではなく、もっと別の何か。何を堪えているのか分からない。でも、別れの時に出る感情を堪えている。あれは一体何だったのか。
 教えてください。あの別れのシーンで、あなたはなにを堪えている演技をしたのですか?」
 老役者さんは少し気まずそうな表情になった。
「いやぁ、あれはなんと言いますか。実はね、監督から言われたんです。フィルムの残りが少なくて、ワンテイクしか撮れないって。だから絶対NGを出さないでくれって。なのにね、あの時のシーンに限って、急にくしゃみが出そうになったんです。それを堪えていたんですよ」
「……くしゃみを堪えていた?」
 役者さんは呆気にとられた。
「はい、そうなんです」
 老役者さんはやはり気まずそうな表情。
 役者さんはしばらくして、苦笑いした。
「なんだ、そんなことだったのか。
 でも、案外そんな物なのかも知れませんね。名シーンは偶然によって誕生する物なのかも。俺も今、そんな仕事をしているんです」
「そうですか。あなたも偶然良い仕事をしているんですね。頑張ってください」


 こうして長年の謎が解け、役者さんは一世一代の大芝居へと向かった。


 夜の港の三番倉庫の前にて。
 関係者が集まっていた。
 役者さん。
 わたし。
 下っ端ヤクザさん。
 愛人さん。
 事務員さん男。
 事務員さん女。
 マネージャーさんは組長さんを騙すための仕込みの指揮で隠れている。
 みんな集まっている中、組長さんが姿を現した。
 組長さん一人だけだ。
 他のヤクザはいない。
 でも、手にマシンガンを持っている。
 あれで蜂の巣にされたらひとたまりもない。
 組長さんは怒りを堪えているような表情で告げる。
「さあ、話をつけようか」
 役者さんは愛人さんの肩を抱き寄せた。
「こいつは、もう俺の女だ」
 愛人さんも役者さんにしなだれた。
「あたし、この人のことが好きになったの。愛しているの。だからこの人と幸せになるの」
 組長さんは鼻息荒く。
「わしから離れられると本気で思っているのか」
「もう決めたことなの。貴方がなにを言っても私の気持ちは変わらないわ」
「そうか。よくわかった」
 組長さんはマシンガンを両手に持った。


 さあ、役者さんの一世一代の演技 開始だ。
しおりを挟む

処理中です...