幸せを掴む勇気

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嫌な予感

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 この日は灰色の雨雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうな天気である。
「ターニャ、雨が降らないうちに帰って来るんだよ」
 アルセニーは少し心配そうな表情だ。
 この日タチアナは、トロフィムの研究室へ行くのである。
「アルーシャ様、大丈夫でございますわ。それに、ラウラも来てくれますし」
 タチアナはアルセニーを安心させるように微笑む。
「ええ。タチアナ様のことはお任せください」
 ラウラは胸を張ってそう宣言した。
「分かった。くれぐれも、気をつけてくれ」
 アルセニーはトロフィムの研究室へ行くタチアナを少し心配そうに見送った。
「アルセニー様、雲行きも怪しく心配なのは分かりますが、今ご自身が出来ることもなさってください。ユスポフ商会に新たな人材を雇う件について、アルセニー様のお考えも必要ですから」
 パーヴェルは心配そうなアルセニーをそう宥めた。
「……そうだな、パーヴェル。ターニャが帰って来るまで、私もやるべきことをやっておこう」
 アルセニーは根拠のないほんの少しの不安を抱えながら、執務室へ向かう。

 灰色の雨雲は、どんどん広がっていた。






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 トロフィムの研究室にて。
 白衣姿のタチアナは難しい表情で合成をおこなっている。
 しかし、ある部分で合成が止まってしまうので、タチアナは頭を悩ませていた。
「イグナチェフ先生、先日から進めている薬品の合成についてですが、余り反応が進んでいないみたいです。原因は薬品の濃度もしくは、反応させる時に一定のpHに保つ必要があるかと存じておりますが、イグナチェフ先生の見解も教えていただきたいです」
 タチアナは現在つまずいている部分について、トロフィムに意見を聞いていた。
「ああ、これは……」
 トロフィムはあくびをしながらタチアナの実験ノートと合成物を交互に見る。

 相変わらずアッシュブロンドの髪はボサボサで、黒縁メガネの奥に覗くグレーの目の下には濃い隈がある。

「うん、pHだな。この緩衝かんしょう液を使うと良い。今奥さんがやってる合成は緩衝液がないとpHが一定に保てない物質を使っている」
 トロフィムはすぐに緩衝液を取り出した。
「ありがとうございます」
 タチアナはトロフィムから緩衝液を受け取り、再び合成を進めた。
 しばらくするとラウラが入って来る。
「タチアナ様もイグナチェフ先生も、そろそろ休憩になさりませんか? 紅茶を淹れて参りました。お二人共研究や実験に没頭し過ぎでございますよ」
「あら、もうそんな時間なのね」
 タチアナは時計を見てヘーゼルの目を見開く。
「トロフィム先生、休憩にしましょう。先生もあまり寝ていない様子ですし」
 タチアナはクスッと笑う。
「どうしても気になることがあると夜通し調べてしまうたちでね」
 トロフィムもあくびをしながら手を止め、休憩することにしたようだ。

 その後は休憩を終え、タチアナが今おこなっている合成も進み、ユスポフ子爵邸へ帰る時間になった。

 雨はポツリポツリと降り始めている。






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「タチアナ様、急ぎましょう。雨が少しずつ強くなっております」
「そうね、ラウラ。ユスポフ子爵邸に着いたら入浴の準備をお願い出来るかしら?」
「かしこまりました」
 タチアナとラウラは雨の中急いでユスポフ子爵邸へ向かっていた。

 一方、ユスポフ子爵邸では……。
「雨が降り出しましたね」
 パーヴェルが窓の外を見て呟く。
「そうだな。……ターニャ達を迎えに行きたいところだが……」
 アルセニーは窓の外と目の前の書類を交互に見る。
「申し訳ありませんが、アルセニー様にはもう少しユスポフ商会のトップとして目を通していただきたい書類がございます」
 パーヴェルは困ったよに苦笑した。
「ああ、分かっている。すぐに終わらそう」
 アルセニーは書類に目を向けた。
 しかし、どこか胸騒ぎがしていた。

 雨は少しずつ強まっている。

 そして緊急事態が発生した。
 それはタチアナとラウラがユスポフ子爵邸へ帰る途中、帝都中心部の大通りを歩いていた時のこと。
 雨足が強まり周囲の音が雨にかき消されていたので、二人は背後から馬車が近付いて来ていることに全く気付かなかった。
 場所は二人の前で急停車し、中からは帽子を目深に被った男達が出て来た。
「貴方達は何なのです!?」
 ラウラはタチアナを庇うように彼女の前に立つ。
 しかし男達は何も答えず、ラウラを殴り飛ばす。
「ラウラ!」
 倒れたラウラに駆け寄ろうとしたタチアナ。しかし彼女も背後から男に殴られ気を失い、そのまま馬車で連れ去られてしまった。
「タチアナ……様……!」
 倒れたラウラにはどうすることも出来ず、ただタチアナが乗せられた馬車を見送るしかなかった。






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 ユスポフ子爵邸にて。
 雨の音がザーザーと部屋の中まで鳴り響いている。
「かなり雨が降っているが、ターニャもラウラも大丈夫だろうか?」
 アルセニーは残り僅かとなった書類に目を通しながら呟く。
「確かに少し遅くはございますね」
 パーヴェルも心配そうである。
「パーヴェル、この書類を全部読んでもターニャとラウラが帰ってこない場合、迎えに行くぞ」
「かしこまりました」
 こうして二人は急いで仕事を終わらせようとしたその時だ。
「アルセニー様! 大変でございます!」
 ラウラが顔を腫らして戻って来たのだ。
「ラウラ、その顔はどうしたのだ? ……ターニャは!?」
 アルセニーは嫌な予感がした。
「それが……申し訳ございません……! 私がいていながら……!」
 悲痛な表情で謝るラウラ。アルセニーにタチアナが連れ去られたことを話した。
「何てことだ……!?」
 アルセニーはマラカイトの目を零れ落ちそうな程見開き驚愕していた。
「タチアナ様が連れ去られた場所は分かりますか?」
 パーヴェルも血相を変えてラウラにそう聞いた。
「いえ……。申し訳ございません」
 ラウラは悔しそうに俯く。
 そこでパーヴェルはラウラが着ている服のポケットに手紙が入っていることに気付く。
「ラウラさん、その手紙は?」
「手紙……? いつの間に入っていたのでしょう?」
 ラウラはポケットの手紙に覚えがないようだ。手紙を取り出して少し不思議そうな表情をしている。
「この手紙は……!」
 アルセニーはその手紙の筆跡を見て驚愕する。
「見せてくれ!」
 ラウラから奪い取るように手紙を開くアルセニー。
 そこにはこう書いてあった。

『愚かな兄上。
 タチアナ・ミローノヴナを返して欲しければ今すぐ領地を立て直せる程の金をよこせ。場所はユスポフ公爵家の帝都の屋敷タウンハウスまで持って来い』

 手紙の主はマトフェイであった。
「マトフェイ……身代金目的でターニャを……!」
 アルセニーは拳を強く握り締め、わなわなと震えていた。
「パーヴェル、私は今すぐターニャを助けに行く。君はロマノフ家にマトフェイが皇帝陛下の怪我の原因だという証拠を持って行ってくれ。それから、警察をユスポフ公爵家の帝都の屋敷タウンハウスまで行くよう頼んで欲しい」
「承知いたしました」
「それとパーヴェル、もう一つ。この件をこの人物に伝えて欲しい」
「このお方は……!」
 パーヴェルは意外そうな表情である。
「パーヴェル、頼んだぞ」
「承知いたしました。全てお任せください」
 パーヴェルはすぐに動き出した。
「ラウラは悪いがここで待っていてくれ。怪我の手当てが出来なくて済まない。絶対にターニャを救い出すから、その時に彼女を安心させてやってくれ」
「かしこまりました。私の怪我は自分で手当て出来ますので。アルセニー様、タチアナ様のことをよろしくお願いします」
 ラウラはアルセニーを真っ直ぐ見ていた。

 こうしてアルセニーは大雨の中、タチアナの救出に向ったのである。
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