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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その6

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 平橋美憂を見送った鳩池久吾は、自宅マンションへと踵を向けた。
 窮屈なスーツでも盛り上がった上半身は、厚手のコートでさらに大きく演出されている。そして男くさいスキンフェードの短髪、脚の形がわかるタイトなスラックス。そのどれもが精力的なイメージを演出していた。
 鳩池は周囲を見渡してから、イタリア製のトートバッグからスマートフォンを取り出す。歩きスマホという行為は、できるだけ他人に見られないほうがいい。
 出前アプリを開く。そそられるのは餃子で、これをビールとともに流し込みたい。だが人に会うということが重要ないまの身分では、十六時間も臭いが残るものは避けねばならない。やはり今日も蕎麦かうどん、あるいはコンビニで菓子パンでも買おうかと考えていたとき、すぐ横に古いセダンが停車した。
 なんだと思って一瞥を向けると、後部座席のドアが開いた。大きなサングラスをした男がこちらを見ている。肌の様子から若そうに見えるが、背後に見える松葉杖や、足元の補強装具が年齢を曖昧にしていた。
「すいません、最近この辺りに越してきた者なんですが……」
「どうされました?」
 鳩池はスマートフォンをスラックスにねじ込むと、背中を丸めて笑顔で答えた。
この辺りに住んでいるならば、嫌な顔を見せることはできない。サングラスの男は若そうに見えるが、着ているベストのワッペンから高額なものだとわかる。上流階級の人間かもしれないと思った。
 サングラスの男は、型落ちのタブレット端末を鳩池に向けた。画面にはデジタルの地図が表示されている。
「ここに行きたいんですが……」
「この辺りは入り組んでますからね。どこに行かれるんです?」
 鳩池がそう訊ねると、サングラスの男は上半身をうねらせて、車から降りてこようとした。慌ててそれを制す。
「あ、そのままで構いませんよ」
「どうも御親切に。外は寒いでしょう。どうぞ、中へ」
 サングラスの男は、ずるりと自分の体を奥にずらしてスペースを作った。そして小さな声で「痛っ」と言って、装具を付けた足をさする。
 無理をして作られたスペースは、躊躇っていた鳩池の背中を押した。
「お邪魔しますね」
 車に乗り込むとき、運転席に小柄な女の後ろ姿が見えた。黒のロングヘア―にはきついパーマが当たっており、疲れているのか俯いている。ふたりとも若いように見えるが、どういった関係性なのか推測することはできない。足元の空いているスペースに、トートバッグを押し込んだ。
「この赤いマークのとこに行きたいんですが……。あっ、このタブレットはすごく重たいので気を付けてくださいね」
 サングラスの男はそう言うと、あっという間にタブレットを強引に手渡してきた。
鳩池はつい反射で受け取る。他人の物であること、重たいから気を付けろと言われたこと、それもあって自然と両手で受け取ってしまった。
 それを見たサングラスの男は、ポケットから手錠を出す。そして鳩池のタブレットを持つ揃った両手に、がちゃりと手錠をかけた。
「えっ、これは?」
 鳩池はまだ事の重大性に気付いておらず、半笑いで訊ねた。だが男はそれを無視。
続いてドアにロックがかかる音がする。鳩池が運転席を見ると、先ほど項垂れていた女はすでに姿勢を正しており、ちょうどエンジンをかけるところだった。
 ミラー越しに女の顔を見ようとするも、サングラスと大判のマフラーで隠されている。そんなことでようやく、鳩池は自分が窮地にいることに気付いた。
「抵抗すれば殺す」
 そう言った梓馬の手には、包丁が握られている。
「なんですかあなた方は」
「なるべくならシートを汚したくない」
 梓馬はもう一方に持っていたペンチで、鳩池の太ももを挟んだ。悲鳴とともに鳩池の体が飛び跳ねる。中古で買ったタブレットが足元に落ちた。
「おい、いきなり暴れるな。なるべく汚したくないんだ」
 車のシートを汚したくないのは本当だった。そのために諭すように言ったつもりだったが、鳩池は手錠が嵌められた両手で、梓馬の首をしめようとしてきた。
 梓馬はさすがに包丁で応戦はせず、鳩池の指にペンチを近づけた。
 鳩池は指を潰されると思い、慌てて手を放す。
 梓馬はその離れていく手を見送ってから、わざとペンチで空気を押し潰した。自分は人間の指を潰すくらい、どうも思わない人間だとアピールするためだ。
 その効果は抜群で、鳩池は呼吸が荒くなっているものの、いくらかの落ち着きは取り戻していた。
「なにが、目的ですか」
 さすがに政治家の卵、口調も質問の内容も概ね正しい。
「お前を拷問してから殺す。だがある条件を満たせば、無事に生きたまま家に帰してやる」
 もちろん梓馬にそんな気はない。
「条件とは?」
「大人しくしていれば話してやる」
 そう言うと梓馬は、鳩池にカナル型のイヤホンを装着しようとした。嫌がる素振りを見せたものの、ペンチを見せると鳩池はすぐに大人しくなる。それを見てから中古のタブレットを拾いあげるとイヤホンと無線接続させ、アイマスクをかぶせてやり、大音量でBGMを流した。
「よし、もう声を出していいぞ。念のため名前は言うなよ」
 運転席にいる沙月はその声を聞くと、車を走らせ始めた。
「ずいぶん慎重なんだね」
「なにが起きるかわからないからな」
 梓馬はそう言うと、鳩池を眺めた。膨らんでいるのは股間と太もも。スラックスのポケットに手を伸ばして、スマートフォンをさっと抜き取った。
 鳩池は抵抗というよりは驚いて体を動かしたが、手の甲にペンチの冷たさを知らせるとやはりすぐ大人しくなる。それを確認してからスマートフォンの電源を落とした。
 監禁場所として用意された倉庫まで、およそ一時間十七分というのが検索エンジンによる予測だ。都内に入れば防犯カメラの数は飛躍的に増え、予期せぬ検問も警戒しなければならない。鳩池の身柄は目に入るところに置いておきたいが、最悪に備えてトランクに移動させておく必要があった。
 沙月は車を近くの川へと走らせた。例のベンチがある場所だ。川沿いの遊歩道は街灯がなく、フットサル場もこの時間は閉まっていて、人目に晒される心配が少ない。いるとすれば犬の散歩をしている人か、アダルトグッズを持った放火魔くらいだろう。この道の奥で、鳩池をトランクに移す予定だった。
 沙月は川沿いの遊歩道に入ってすぐのところで、車を停めた。予定ではもう少し奥まったところで、停車するはずだった。梓馬がなんだと思っている間に、沙月はさっとスマートフォンを耳に当て、運転席から車外へ出ていく。
 こんなときに電話か。出るなとすぐに言うべきだった――
 嫌な予感がした。脈の音を耳の裏に聞きながら、通話中の沙月の後ろ姿を見る。黒いロングヘア―のカツラは、小さな肩の動きすらも隠している。せわしなく足を動かしていることから、早く電話を切りたがっているのではないかと思えた。
「まずいことになったよ」
 戻ってきた沙月は運転席側のドアを開けると、そのまま話し始めた。鳩池に外の音が聞こえないのはテスト済みだが、それでも不安になる。
「どうした」
 梓馬も車外に出た。横目で細かく鳩池を観察することは忘れない。いまちょうど、音楽に合わせて指を動かしている様子が目に入っている。苛立ちを覚えた。
「お父さんにいまから車を使うって言われたんだよ。しかも倉庫に行くって……」
「な……、それでお前はなんて答えたんだ?」
「男の子といるなんて言えないから、一人でドライブしてる、もうすぐ帰るって言ったよ」
 沙月はきょとんとした顔で言った。
 これは梓馬にとって最悪に近い返答だった。移動手段と監禁場所、片方でも失うと致命的なものが一度に両方なくなった。
「いますぐお父さんに電話しろ。怒られるのが怖かったから言えなかったけど、実はちょっと前に車を盗まれたんだって」
「ええ、すっごく嘘くさいよ」
 沙月は難色を示した。
「いいから言え、怪しまれても最後まで嘘をつき続けろ」
 梓馬の形相は歪んでおり、完全な命令口調だった。
 それに対して、沙月は二択を返した。
「どうする? いまならまだ間に合うよ」
「…………」
 沙月が言っているのは、鳩池を解放するかどうかの判断についてだ。
 梓馬は簡単に決断できなかった。
 元よりリスクを請け負う覚悟ができているということ。鳩池本人を見て興奮してしまっていること。そしてこれまで、出たとこ勝負で勝利してきた経験が、判断のバランスを狂わせていた。
 沙月は現実を告げる。
「そうやって考えてる時間はないよ。お父さんが怪しむかもしれないし、この状況を誰かに見られる可能性だってあるんだよ」
「確かにそのとおりだ。でもこのまま解放すれば警戒されて、もう拉致ができなくなる……」
「それはまた梓馬が考えればどうにかなるよ。それよりもまずいのは、ここで無理やり行動して警察に捕まることじゃない?」
 沙月の言うことは正論。ただ少し倫理観がないだけだ。
 沈黙を守ったままの梓馬の脳裏に、自然と鳩池解放のルートが浮かび上がってくる。想像するだけで、とても許しがたい選択だ。肋骨の裏側が痒くなる。そして鳩池はどれだけ言い含めたところで、必ず警察に通報するという確信もあった。
 鳩池久吾、こいつはまず間違いなく朱里の――
 梓馬は素早い判断をすることができなくなっていた。
 全身をペンチで細切れにしても飽き足らないほどの憎悪、その身柄を確保している。最初で最後のチャンスだ。
「いまを逃せば、次は捨て身になる……」
「そんなことないよ、絶対」
「なる、なるんだ。鳩池は必ず警戒する、護衛がつくかもしれないし、その前に俺が警察に突き止められるかもしれない。だとするともう俺にできるのは、人目を気にせずに包丁を持って突っ込むことだけになる」
「そうはならないよ、あたしが絶対にそうはさせない」
 沙月の口調には、未来を決定する力があるかのようだった。だが具体的な方法を述べないならば、梓馬を説得することはできない。しかしこの言葉は内容以上に刺さっていた。
 正直なところ、梓馬にも降りたい気持ちはある。どれだけ殺意を塗り固めても、軽くなるのは鳩池の尊厳だけで、自分の日常は重いままだ。
 状況は、損得だけで判断できないところまできている。進むか戻るかの選択をするのに、なにを参考にすればいいのかすらわからない。完全に道しるべを失っていた。
 諦めなければならないのか――
 梓馬はすがるような気持ちで、例のベンチに目をやった。視界に朱里の姿を探すが、どこにも見つけることができない。せめて悪口が聞こえれば、判断材料の一つになるかもしれないと、本気で思っていた。そんな都合の良い話はない。
 それでも梓馬は目を皿にして、朱里の亡霊を探し続けた。並ぶ木々の間にいないか、アパートの敷地内にいないか、奥に見える屋敷にいないか。そして花の枯れた花壇にも目をやって、やはりどこにも朱里はいなかった。
 そうか、いないからこそ――
 梓馬はようやく気付く。不在の証明、それこそがこの問題を解決する唯一の方法だったと。
「お前はいまからタクシーで帰って、お父さんと盗難届を出してこい」
 予想外の言葉に、沙月は戸惑った。
「そっちはどうするの?」
 梓馬は指を、例のベンチに向けた。だが指の角度は、そのさらに奥にある屋敷へと向いている。
「俺は鳩池を連れて、あそこに入る」
「えっなんで……、なんで……?」
「あの例のベンチは、朱里にとって尊敬していたおばあちゃんとの思い出の場所なんだ」
「うん……」
「俺は二人が、散歩のついでにベンチに座ってたんだろうと思っていた。でも多分そうじゃない。あの屋敷が朱里のおばあちゃんの家だから、家の前にあるベンチによく座っていたんじゃないかと思った」
「なんで………」
「門の前の花壇、花が枯れてるだろ。あの屋敷は以前から手入れされてなかったが、花壇の花だけはそうじゃなかった。朱里と神社で遊ぶ子供を注意しにいったとき、あのときは確かに花は咲いていた」
「それがどうしたっていうの……」
「いま枯れてるんだ。世話をする人間がいなくなったからだ。俺はその人間を、朱里だったんじゃないかと思っている。時期的にそうであっても不思議じゃない」
 梓馬の突拍子もない発想に、沙月は体を硬直させているだけだった。だがサングラスの奥、マフラーの下では、驚愕の表情が浮かんでいる。
「朱里が、他人の家の花壇に、勝手に水を撒いてただけだったら……?」
「あいつに限ってそれがないとは言えないが……。でも俺はあの家が、朱里のおばあちゃんの家だという可能性にかける」
「もし違ったら……?」
「住人には悪いが、その場で鳩池をめった刺しにして自首する」
「もし無人だったら……?」
「倉庫とは状況が違うからな。だが可能な限り苦しめてから殺す」
「あたしがやめてって言ったら……?」
「すまんとしか言えん……」
 沙月は俯くと、肩をがっくりと落とした。
「もう、決めたんだね……」
「ああ、そうすることにした」
「そっか……」
 沙月はそう言うと、とぼとぼと歩き始める。
 梓馬はそれを見ているだけだった。自分を通り越して、車も通り越して、駅方面へと向かう沙月。その背中がなにを考えているか読めなかった。しかしそれに頭を使っている時間はない。このタイミングでどうしても、言わなければならないことがあったからだ。
 梓馬は離れていく背中に、声を投げる。
「短い間だったが、本当に世話になった。俺のような人間に優しくしてくれて、本当に感謝している。お前といる時間は本当に楽しかった。俺はお前が大好きだ」
 沙月はゆっくりと振り返った。表情は見えない。
「じゃあ、あたしを一番にしてよ……」
 声だけが鳴いていた。頭に警報が響く。どんな嘘を吐けばいいかと考えて、もう手遅れだと直感した。
「気付いていたか……」
「わかるよ。朱里のときも、あたし二番だったんだよ?」
 サングラスとマフラーの隙間を、涙が願いを叶えない流星のように通過した。
 梓馬は言おうとしていた言葉を、思わず飲み込んでしまっていた。誰かの一番になりたいと言った自分が、いかに間抜けだったかを痛感したからだ。
 そして唐突に、答えが出た。なぜ沙月はあれほど朱里が好きだったのに、自分と同じ量の殺意を持たなかったのか。
 俺を一番にしたからだ――
 小さい体の沙月がこちらを向いている。わけのわからない奴、そう言い捨てられればどれだけ楽か。沙月は自分のルールで、今日まで足掻いてきていた。そして梓馬が寂しさと性欲で、その純情を弄んでしまった。
「沙月、ここで別れよう」
「うん……」
「お前は夢を叶えろ。俺にできなかったことを、代わりにやってくれ」
「わかったよ」
「じゃあ、ここでさよならだ」
 梓馬はそう言って、自分から目線を切った。もう話すことはないという意志表示だった。それは誤解なく伝わって、沙月の足音が遠くなっていく。二人の間に、冷たい空気が幾重もの見えない壁を作っていった。
 梓馬はその背中に深く頭を下げて、口のなかで小さく「ありがとう」と言った。
 多分、俺は捕まるだろう。十年は会えない――
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 未来の方向へ進む足音が止まる。恋人だった沙月の声が答え合わせをした。
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