24 / 38
一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その4
しおりを挟む
カーテンは、月明りを遮っていなかった。朱里を二人同時に存在させないためだ。
梓馬はベッドの上で、背を丸めて座っていた。部屋を覆う暗闇には徐々に質量が生まれている。脳裏に意図的に流しているポルノは、朱里と鳩池のハードなセックスだ。
鳩池のセックステクニックは、梓馬よりも数段上という設定。神聖なはずの朱里の肉体を、他の女の肉体と同じように扱っている。朱里は生理機能から、何度も絶頂を迎えていた。そして恍惚とした表情で、鳩池のペニスを口に頬張っている。
腹に熱いものを感じた。これは怒りによるものか、あるいは勃起現象によるものか。
突如、アラーム音が響く。梓馬はベッドから立ち上がると、軽量タイプの黒のダウンジャケットに袖を通し、フードを深く被った。ジョギングという名目の下見の時間だった。
今日の予定も、監視カメラの位置割り出しだった。自分でもどうかと思う方法だったが、それ以外に思い浮かばず、地道に試していくことになっていた。
梓馬の家から鳩池のマンションまでは、歩けば約五十分。流す程度の速度で走って三十五分ほどかかる。深夜のため、市営地下鉄は使えない。ポケットにアダルトグッズを忍ばせて、冬が支配する空間に体温を持ち込んだ。
前回は生ゴミを捨てたが、あっという間にカラスたちが攫ってしまった。これではカラスが、ゴミを持ってきたように見えてしまう。
そのために今回は、女性器の形をリアルに再現したゴム製のオナニーホールと、怒りを具現化したような男性器型マッサージ機を選択する。これをマンションの植木に捨てれば、さすがにカラスも啄むこともない。また、見る物に衝撃を与えることができるだろう。インパクトが大きいほど、マンションの管理側のリアクションも期待できる。
駅前の急斜面を登り切り、線路にかかった橋を渡る。右手に見える図書館には、かつての思い出を見た。制服を着たまま、朱里と児童書コーナーで議論を戦わせた。百万回の人生など現実にはない。
梓馬はいつも、周囲との断絶を感じていた。それがたった一人の人間によって解決され、くつろぐという感触を初めて味わった。
なにを取り戻そうというわけでもない。論理的な顔で、抑止力を語ろうというわけでもない。なにに代弁させることもなく、ただ鳩池に憎しみをぶつけたいだけだった。
しばらく走れば住宅街に入る。斜面を下って少しすれば国道で、ここが地元と認識している最終ラインだ。
今日は帰ってこれる。でもいつか片道になる日がくる――
国道の信号を渡ると、すぐに住宅街に入る。別方向から合流してきた川は、例のベンチへと続いている。もう息は上がっているのに、もっと速度をあげたくなった。
遊歩道に入り込む。遠くに見えるマンションの灯りを見つめながら走った。しばらくしてフットサル場を通過すると、もうベンチは目と鼻の先だ。息を整えるためにも、梓馬はゆっくりと歩き出した。
無造作に並ぶ小ぶりの木々は、いつもどおりだ。しかしわずかな時間でも変化はあるもので、アパートの敷地内の雑草はすべて刈られており、部屋のいくつかに灯りが点いていた。隣の大きな屋敷は相変わらずで、塀には蔦が絡まっており、その上から木々がはみ出したままだ。そして門や塀に並んだ花壇も、同様に放置されているようで、花の首がぼとりと落ちていた。
花壇だけは、手入れされていたはずだが――
そんな疑問は、冬の風が運んでしまった。それに煽られて、例のベンチを目にしてしまう。よせばいいのにと思いながらも、そこに物言わぬ朱里の姿を想像した。幻想はあっという間に現れる。その朱里は、こちらを見て首を傾けた。そしてにこりと笑うと、指が顎にかかった。
梓馬はそれに背を向けると、観覧車の見える商業施設を目指して走り出した。
この辺りはここ二十年で開発が進んだ地区で、東京ほど監視カメラがあるとは思えない。しかし油断をすることもできない。梓馬は十字路に差し掛かる前に大通りを渡って、駅周辺には東からやってきたように演出した。
観覧車のある商業施設の脇を過ぎて、駅ロータリーに入る。そこを通り過ぎて階段を降りれば、もう鳩池のマンションは目の前だった。
階段を降りる途中、フードを引っ張ってさらに目深にした。次いでスニーカーのマジックテープを張りなおした。歩くのと変わらない速度で、目的のマンション前に到達する。
いまごろ鳩池久吾は寝ているだろう、そう思うと胸の裏で黒が広がっていく。だがいまはそのときではない。背の高いマンションに見下されながら、梓馬はマンション脇の植木花壇へと入っていった。
両方のポケットに手を入れて、二種のアダルトグッズを確認する。どちらもそれなりの値段だった。オナホールだけ使用するか迷ったが、そんな馬鹿なことで身元を特定されるわけにはいかない。
周囲を見渡して、問題ないと正面を向いたとき、全身が凍り付いた。
夜の闇だと思っていたものが、急に動き出したからだ。また朱里の亡霊かと思ったが違う。壁にもたれていたそれは人影で、目出し帽の目が爛々と光っていた。
全身黒ずくめという犯罪者特有の姿。手には液体が入ったペットボトルとライターを持っており、はっきりとこちらを睨んでいた。
梓馬も驚いたが、目出し帽の相手もこちらを見て硬直していた。お互いに相手を犯罪者だと、確信しているようだった。
目出し帽の相手は警戒しながら、ゆっくりとした動作でペットボトルとライターを上着のポケットにしまった。そしてごそごそとしている。
吐き気に似た恐怖が、梓馬の鼻過呼吸を荒くする。目出し帽の相手が次にポケットから手を出すとき、その手にはナイフが握られていると直感したからだ。
応戦するために梓馬は、自分の獲物をポケットから抜いた。素手で刃物を捌こうなどと、そんな甘い考えは持ち合わせていない。ゴム製のオナニーホールを盾にして、バイブレーターを剣とすると、はっきりと構えた。
いきなりアダルトグッズを両手に構えた梓馬に、目出し帽の相手は一歩ほど距離を取った。恐怖を感じていることは明白だった。
目出し帽の相手は、女の声で言った。
「お前、変質者か……?」
「お前にだけは言われたくないな」
梓馬は性別差からくる腕力の違いに安心する。そしてゆっくりとオナニーホールを顎下に配置し、本命のバイブレーターを相手に突き出した。
これはまったくの見当違いだ。もし目出し帽の女がナイフを出した場合、梓馬が想定している戦法は通用しない。
オナニーホールで刃物を捌いて、目か喉をバイブレーターで突くというつもりだが、ナイフを受け止めた時点でオナニーホールは切り裂かれる。そして左手に裂傷を負い、怯んだところに追撃をもらうことになる。
仮に上手くナイフを捌くことができたとしても、バイブレーターで致命傷を与えるには、予備動作から命中時までかなり正確なフォームが要求される。この点が一番の差だ。刃物は腕力や技術がなくとも、致命傷を与えられる。いくらも攻撃を浴びないうちに、誰もが戦意喪失し命乞いを始める。あとは首にでも突き立てれば終わりだ。
目出し帽の女はポケットから手を出した。出てきたのは先ほどのペットボトルで、さっとキャップを外すと、マンションの植木花壇に中身を撒いた。
梓馬は相手の意図が読めず、ただただ直視しているだけだった。そうしていると目出し帽の女は、ライターで引火しようとした。自分の手に火が燃え移るのが怖いのか、上手く着火できずにいる。そして梓馬と植え込みを交互に見ては、「どうしよ……」と困っていた。さすがにこれだけ声を聞けば、目出し帽の奥にある顔が誰の物か、簡単に想像がつく。
梓馬は腰を曲げながら近づいた。
「放火する気か?」
「うん……」
沙月はライターをじっと見つめながら答えた。
「これを使え、おそらく簡単に燃える」
梓馬はそう言うと、オナニーホールを差し出した。だが受け取る気配がない。
「こんなの触りたくないよ……」
「安心しろ、これは未使用品だ。それよりお前、俺が誰だかわかってないのか?」
そう言われてフードの奥を覗き込んだ沙月は「うわっ」と言うと、両手をあげて尻もちをついた。
それを見て梓馬は、ずいぶん大げさな驚き方だなと笑った。
「えっ梓馬? もしかして梓馬もあたしと同じように、監視カメラの位置の割り出しにきたの?」
大きな目がまばたきする音が、ぱちぱちぱちと聞こえてきそうだった。
「信じられんが、そういうことだ。フードは取らん。お前もそのまま顔を晒すな。あとお互いに名前を呼ぶのはよそう。そのライターとペットボトルを貸せ、俺がやる」
受け取ったペットボトルの液体を、オナニーホールの疑似膣口に注ぐ。とっとっとっという音が、やけに耳に残った。梓馬はそのまま疑似膣口に左手の軍手をつっこみ、さらにそこにもペットボトルの液体をかけた。それを植木の根本に置き、ライターの火を近づけると、ぼうっと色素の薄い火が灯る。
暗闇に汚い花が咲いた。
「きれい……」
「こんなメッセージ性のある放火は見たことがないな」
そう言うと梓馬は、植え込みの土の部分にバイブレーターを突き立てた。こうしてみると不思議なことに、土から栄養を吸って生えてきたように見える。
「えっ……、ははっ、はははっ、あはははっ」
沙月は焼け残ったあとに佇むアダルトグッズを見て、住民がどんなメッセージを受け取るのか想像すると、火がついたように笑い始めた。犯罪行為時にかかるストレスが、極度の興奮状態を作り出していたからだ。
沙月が異様なテンションで笑い始めたのを見て、梓馬もなぜかこれがとても面白いことのように思えてしまう。同じく普通の状態ではなくなっていた。
「くっ、お前……、笑いごとじゃないぞこれはっ」
確かに笑っている場合ではない。沙月が用意した液体とは、ジッポライターに使う詰め替え用のオイルだ。放っておけば、手が付けられない状態になってしまう。
火を見ながら沙月は、ポケットにペットボトルとライターを戻した。そのとき手がごそごそと動いていたことから、別の物もポケットに入っていると想像できる。
ナイフだろうな――
状況的に考えれば、消火用のなにかだというほうが自然だ。しかし梓馬は遭遇時の発想に引っ張られていた。
「おい、そろそろ火を消して逃げよう。このままじゃここの住人が全員焼け死んでしまう」
梓馬がそう半笑いで言うと、沙月は途端に固まった。
「え、火を消して……?」
「まさか、消すことを考えてなかったのか」
「え、うん……どうしよう」
冗談だろ、梓馬はそう思って沙月の顔をまじまじと見た。目出し帽の奥に綺麗なアーモンド形の目が光っている。
「ぐっ、お前……全部燃えたら……、監視カメラまで燃えちまうだろうがぁ……」
梓馬が笑いを殺しながら言うと、沙月もまた笑いがぶり返してきてしまった。
「あはーっ」
お互いがお互いの笑い方を見て、笑い合っていた。
時間は午前四時になるころだった。溝ノ口のクラブを上がったあと、馴染みの太客とアフターを終えてき里見敦子(さとみあつこ)二十八歳が、タクシーから降りてきた。二十五歳を過ぎてから指名が劇的に減ってしまったことで、自分も独立して店を構えようと日々奮闘している頑張り屋さんだ。
早くシャワーで体の汚れを流したいと思っての矢先、エントランスに入ろうとしたところで、脇のほうから妙な笑い声が聞こえた。よくあることね、と思う。マンションの脇の通路に、近所のマイルドヤンキーがたむろしていることはよくあることだったからだ。だがちらちらと揺れる灯りが漏れていることから、嫌な予感が働いた。
里見敦子二十八歳はこっそりと近づいてみると、生涯忘れることのない光景を目にしてしまう。
ふたりの顔を隠した黒ずくめの人間が、火を前にしながら笑い声をあげていた。炎の灯りのなかには、形の崩れたピンク色のなにかがあり、その隣には極太のバイブレーターが刺さっている。放火魔なのか、芸術家なのか、わからなかった。
里見敦子二十八歳は、悲鳴をあげた。きゃああと叫んでいる自分の声を、他人の声のように感じていた。
そのふたりの人間は悲鳴の主に気付くと、やはり大笑いしながら、信じられない速度で逃げ出していった。
梓馬はベッドの上で、背を丸めて座っていた。部屋を覆う暗闇には徐々に質量が生まれている。脳裏に意図的に流しているポルノは、朱里と鳩池のハードなセックスだ。
鳩池のセックステクニックは、梓馬よりも数段上という設定。神聖なはずの朱里の肉体を、他の女の肉体と同じように扱っている。朱里は生理機能から、何度も絶頂を迎えていた。そして恍惚とした表情で、鳩池のペニスを口に頬張っている。
腹に熱いものを感じた。これは怒りによるものか、あるいは勃起現象によるものか。
突如、アラーム音が響く。梓馬はベッドから立ち上がると、軽量タイプの黒のダウンジャケットに袖を通し、フードを深く被った。ジョギングという名目の下見の時間だった。
今日の予定も、監視カメラの位置割り出しだった。自分でもどうかと思う方法だったが、それ以外に思い浮かばず、地道に試していくことになっていた。
梓馬の家から鳩池のマンションまでは、歩けば約五十分。流す程度の速度で走って三十五分ほどかかる。深夜のため、市営地下鉄は使えない。ポケットにアダルトグッズを忍ばせて、冬が支配する空間に体温を持ち込んだ。
前回は生ゴミを捨てたが、あっという間にカラスたちが攫ってしまった。これではカラスが、ゴミを持ってきたように見えてしまう。
そのために今回は、女性器の形をリアルに再現したゴム製のオナニーホールと、怒りを具現化したような男性器型マッサージ機を選択する。これをマンションの植木に捨てれば、さすがにカラスも啄むこともない。また、見る物に衝撃を与えることができるだろう。インパクトが大きいほど、マンションの管理側のリアクションも期待できる。
駅前の急斜面を登り切り、線路にかかった橋を渡る。右手に見える図書館には、かつての思い出を見た。制服を着たまま、朱里と児童書コーナーで議論を戦わせた。百万回の人生など現実にはない。
梓馬はいつも、周囲との断絶を感じていた。それがたった一人の人間によって解決され、くつろぐという感触を初めて味わった。
なにを取り戻そうというわけでもない。論理的な顔で、抑止力を語ろうというわけでもない。なにに代弁させることもなく、ただ鳩池に憎しみをぶつけたいだけだった。
しばらく走れば住宅街に入る。斜面を下って少しすれば国道で、ここが地元と認識している最終ラインだ。
今日は帰ってこれる。でもいつか片道になる日がくる――
国道の信号を渡ると、すぐに住宅街に入る。別方向から合流してきた川は、例のベンチへと続いている。もう息は上がっているのに、もっと速度をあげたくなった。
遊歩道に入り込む。遠くに見えるマンションの灯りを見つめながら走った。しばらくしてフットサル場を通過すると、もうベンチは目と鼻の先だ。息を整えるためにも、梓馬はゆっくりと歩き出した。
無造作に並ぶ小ぶりの木々は、いつもどおりだ。しかしわずかな時間でも変化はあるもので、アパートの敷地内の雑草はすべて刈られており、部屋のいくつかに灯りが点いていた。隣の大きな屋敷は相変わらずで、塀には蔦が絡まっており、その上から木々がはみ出したままだ。そして門や塀に並んだ花壇も、同様に放置されているようで、花の首がぼとりと落ちていた。
花壇だけは、手入れされていたはずだが――
そんな疑問は、冬の風が運んでしまった。それに煽られて、例のベンチを目にしてしまう。よせばいいのにと思いながらも、そこに物言わぬ朱里の姿を想像した。幻想はあっという間に現れる。その朱里は、こちらを見て首を傾けた。そしてにこりと笑うと、指が顎にかかった。
梓馬はそれに背を向けると、観覧車の見える商業施設を目指して走り出した。
この辺りはここ二十年で開発が進んだ地区で、東京ほど監視カメラがあるとは思えない。しかし油断をすることもできない。梓馬は十字路に差し掛かる前に大通りを渡って、駅周辺には東からやってきたように演出した。
観覧車のある商業施設の脇を過ぎて、駅ロータリーに入る。そこを通り過ぎて階段を降りれば、もう鳩池のマンションは目の前だった。
階段を降りる途中、フードを引っ張ってさらに目深にした。次いでスニーカーのマジックテープを張りなおした。歩くのと変わらない速度で、目的のマンション前に到達する。
いまごろ鳩池久吾は寝ているだろう、そう思うと胸の裏で黒が広がっていく。だがいまはそのときではない。背の高いマンションに見下されながら、梓馬はマンション脇の植木花壇へと入っていった。
両方のポケットに手を入れて、二種のアダルトグッズを確認する。どちらもそれなりの値段だった。オナホールだけ使用するか迷ったが、そんな馬鹿なことで身元を特定されるわけにはいかない。
周囲を見渡して、問題ないと正面を向いたとき、全身が凍り付いた。
夜の闇だと思っていたものが、急に動き出したからだ。また朱里の亡霊かと思ったが違う。壁にもたれていたそれは人影で、目出し帽の目が爛々と光っていた。
全身黒ずくめという犯罪者特有の姿。手には液体が入ったペットボトルとライターを持っており、はっきりとこちらを睨んでいた。
梓馬も驚いたが、目出し帽の相手もこちらを見て硬直していた。お互いに相手を犯罪者だと、確信しているようだった。
目出し帽の相手は警戒しながら、ゆっくりとした動作でペットボトルとライターを上着のポケットにしまった。そしてごそごそとしている。
吐き気に似た恐怖が、梓馬の鼻過呼吸を荒くする。目出し帽の相手が次にポケットから手を出すとき、その手にはナイフが握られていると直感したからだ。
応戦するために梓馬は、自分の獲物をポケットから抜いた。素手で刃物を捌こうなどと、そんな甘い考えは持ち合わせていない。ゴム製のオナニーホールを盾にして、バイブレーターを剣とすると、はっきりと構えた。
いきなりアダルトグッズを両手に構えた梓馬に、目出し帽の相手は一歩ほど距離を取った。恐怖を感じていることは明白だった。
目出し帽の相手は、女の声で言った。
「お前、変質者か……?」
「お前にだけは言われたくないな」
梓馬は性別差からくる腕力の違いに安心する。そしてゆっくりとオナニーホールを顎下に配置し、本命のバイブレーターを相手に突き出した。
これはまったくの見当違いだ。もし目出し帽の女がナイフを出した場合、梓馬が想定している戦法は通用しない。
オナニーホールで刃物を捌いて、目か喉をバイブレーターで突くというつもりだが、ナイフを受け止めた時点でオナニーホールは切り裂かれる。そして左手に裂傷を負い、怯んだところに追撃をもらうことになる。
仮に上手くナイフを捌くことができたとしても、バイブレーターで致命傷を与えるには、予備動作から命中時までかなり正確なフォームが要求される。この点が一番の差だ。刃物は腕力や技術がなくとも、致命傷を与えられる。いくらも攻撃を浴びないうちに、誰もが戦意喪失し命乞いを始める。あとは首にでも突き立てれば終わりだ。
目出し帽の女はポケットから手を出した。出てきたのは先ほどのペットボトルで、さっとキャップを外すと、マンションの植木花壇に中身を撒いた。
梓馬は相手の意図が読めず、ただただ直視しているだけだった。そうしていると目出し帽の女は、ライターで引火しようとした。自分の手に火が燃え移るのが怖いのか、上手く着火できずにいる。そして梓馬と植え込みを交互に見ては、「どうしよ……」と困っていた。さすがにこれだけ声を聞けば、目出し帽の奥にある顔が誰の物か、簡単に想像がつく。
梓馬は腰を曲げながら近づいた。
「放火する気か?」
「うん……」
沙月はライターをじっと見つめながら答えた。
「これを使え、おそらく簡単に燃える」
梓馬はそう言うと、オナニーホールを差し出した。だが受け取る気配がない。
「こんなの触りたくないよ……」
「安心しろ、これは未使用品だ。それよりお前、俺が誰だかわかってないのか?」
そう言われてフードの奥を覗き込んだ沙月は「うわっ」と言うと、両手をあげて尻もちをついた。
それを見て梓馬は、ずいぶん大げさな驚き方だなと笑った。
「えっ梓馬? もしかして梓馬もあたしと同じように、監視カメラの位置の割り出しにきたの?」
大きな目がまばたきする音が、ぱちぱちぱちと聞こえてきそうだった。
「信じられんが、そういうことだ。フードは取らん。お前もそのまま顔を晒すな。あとお互いに名前を呼ぶのはよそう。そのライターとペットボトルを貸せ、俺がやる」
受け取ったペットボトルの液体を、オナニーホールの疑似膣口に注ぐ。とっとっとっという音が、やけに耳に残った。梓馬はそのまま疑似膣口に左手の軍手をつっこみ、さらにそこにもペットボトルの液体をかけた。それを植木の根本に置き、ライターの火を近づけると、ぼうっと色素の薄い火が灯る。
暗闇に汚い花が咲いた。
「きれい……」
「こんなメッセージ性のある放火は見たことがないな」
そう言うと梓馬は、植え込みの土の部分にバイブレーターを突き立てた。こうしてみると不思議なことに、土から栄養を吸って生えてきたように見える。
「えっ……、ははっ、はははっ、あはははっ」
沙月は焼け残ったあとに佇むアダルトグッズを見て、住民がどんなメッセージを受け取るのか想像すると、火がついたように笑い始めた。犯罪行為時にかかるストレスが、極度の興奮状態を作り出していたからだ。
沙月が異様なテンションで笑い始めたのを見て、梓馬もなぜかこれがとても面白いことのように思えてしまう。同じく普通の状態ではなくなっていた。
「くっ、お前……、笑いごとじゃないぞこれはっ」
確かに笑っている場合ではない。沙月が用意した液体とは、ジッポライターに使う詰め替え用のオイルだ。放っておけば、手が付けられない状態になってしまう。
火を見ながら沙月は、ポケットにペットボトルとライターを戻した。そのとき手がごそごそと動いていたことから、別の物もポケットに入っていると想像できる。
ナイフだろうな――
状況的に考えれば、消火用のなにかだというほうが自然だ。しかし梓馬は遭遇時の発想に引っ張られていた。
「おい、そろそろ火を消して逃げよう。このままじゃここの住人が全員焼け死んでしまう」
梓馬がそう半笑いで言うと、沙月は途端に固まった。
「え、火を消して……?」
「まさか、消すことを考えてなかったのか」
「え、うん……どうしよう」
冗談だろ、梓馬はそう思って沙月の顔をまじまじと見た。目出し帽の奥に綺麗なアーモンド形の目が光っている。
「ぐっ、お前……全部燃えたら……、監視カメラまで燃えちまうだろうがぁ……」
梓馬が笑いを殺しながら言うと、沙月もまた笑いがぶり返してきてしまった。
「あはーっ」
お互いがお互いの笑い方を見て、笑い合っていた。
時間は午前四時になるころだった。溝ノ口のクラブを上がったあと、馴染みの太客とアフターを終えてき里見敦子(さとみあつこ)二十八歳が、タクシーから降りてきた。二十五歳を過ぎてから指名が劇的に減ってしまったことで、自分も独立して店を構えようと日々奮闘している頑張り屋さんだ。
早くシャワーで体の汚れを流したいと思っての矢先、エントランスに入ろうとしたところで、脇のほうから妙な笑い声が聞こえた。よくあることね、と思う。マンションの脇の通路に、近所のマイルドヤンキーがたむろしていることはよくあることだったからだ。だがちらちらと揺れる灯りが漏れていることから、嫌な予感が働いた。
里見敦子二十八歳はこっそりと近づいてみると、生涯忘れることのない光景を目にしてしまう。
ふたりの顔を隠した黒ずくめの人間が、火を前にしながら笑い声をあげていた。炎の灯りのなかには、形の崩れたピンク色のなにかがあり、その隣には極太のバイブレーターが刺さっている。放火魔なのか、芸術家なのか、わからなかった。
里見敦子二十八歳は、悲鳴をあげた。きゃああと叫んでいる自分の声を、他人の声のように感じていた。
そのふたりの人間は悲鳴の主に気付くと、やはり大笑いしながら、信じられない速度で逃げ出していった。
1
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
俺は先輩に恋人を寝取られ、心が壊れる寸前。でも……。二人が自分たちの間違いを後で思っても間に合わない。俺は美少女で素敵な同級生と幸せになる。
のんびりとゆっくり
恋愛
俺は島森海定(しまもりうみさだ)。高校一年生。
俺は先輩に恋人を寝取られた。
ラブラブな二人。
小学校六年生から続いた恋が終わり、俺は心が壊れていく。
そして、雪が激しさを増す中、公園のベンチに座り、このまま雪に埋もれてもいいという気持ちになっていると……。
前世の記憶が俺の中に流れ込んできた。
前世でも俺は先輩に恋人を寝取られ、心が壊れる寸前になっていた。
その後、少しずつ立ち直っていき、高校二年生を迎える。
春の始業式の日、俺は素敵な女性に出会った。
俺は彼女のことが好きになる。
しかし、彼女とはつり合わないのでは、という意識が強く、想いを伝えることはできない。
つらくて苦しくて悲しい気持ちが俺の心の中であふれていく。
今世ではこのようなことは繰り返したくない。
今世に意識が戻ってくると、俺は強くそう思った。
既に前世と同じように、恋人を先輩に寝取られてしまっている。
しかし、その後は、前世とは違う人生にしていきたい。
俺はこれからの人生を幸せな人生にするべく、自分磨きを一生懸命行い始めた。
一方で、俺を寝取った先輩と、その相手で俺の恋人だった女性の仲は、少しずつ壊れていく。そして、今世での高校二年生の春の始業式の日、俺は今世でも素敵な女性に出会った。
その女性が好きになった俺は、想いを伝えて恋人どうしになり。結婚して幸せになりたい。
俺の新しい人生が始まろうとしている。
この作品は、「カクヨム」様でも投稿を行っております。
「カクヨム」様では。「俺は先輩に恋人を寝取られて心が壊れる寸前になる。でもその後、素敵な女性と同じクラスになった。間違っていたと、寝取った先輩とその相手が思っても間に合わない。俺は美少女で素敵な同級生と幸せになっていく。」という題名で投稿を行っております。
【破天荒注意】陰キャの俺、異世界の女神の力を借り俺を裏切った幼なじみと寝取った陽キャ男子に復讐する
花町ぴろん
ファンタジー
陰キャの俺にはアヤネという大切な幼なじみがいた。
俺たち二人は高校入学と同時に恋人同士となった。
だがしかし、そんな幸福な時間は長くは続かなかった。
アヤネはあっさりと俺を捨て、イケメンの陽キャ男子に寝取られてしまったのだ。
絶望に打ちひしがれる俺。夢も希望も無い毎日。
そんな俺に一筋の光明が差し込む。
夢の中で出会った女神エリステア。俺は女神の加護を受け辛く険しい修行に耐え抜き、他人を自由自在に操る力を手に入れる。
今こそ復讐のときだ!俺は俺を裏切った幼なじみと俺の心を踏みにじった陽キャイケメン野郎を絶対に許さない!!
★寝取られ→ざまぁのカタルシスをお楽しみください。
※この小説は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
浮気したけど『ざまぁ』されなかった女の慟哭
Raccoon
恋愛
ある日夫——正樹が死んでしまった。
失意の中私——亜衣が見つけたのは一冊の黒い日記帳。
そこに書かれてあったのは私の罪。もう許されることのない罪。消えることのない罪。
この日記を最後まで読んだ時、私はどうなっているのだろうか。
浮気した妻が死んだ夫の10年分の日記読むお話。
彼女の浮気相手からNTRビデオレターが送られてきたから全力で反撃しますが、今さら許してくれと言われてももう遅い
うぱー
恋愛
彼女の浮気相手からハメ撮りを送られてきたことにより、浮気されていた事実を知る。
浮気相手はサークルの女性にモテまくりの先輩だった。
裏切られていた悲しみと憎しみを糧に社会的制裁を徹底的に加えて復讐することを誓う。
■一行あらすじ
浮気相手と彼女を地獄に落とすために頑張る話です(●´艸`)ィヒヒ
帰ってきたら彼女がNTRされてたんだけど、二人の女の子からプロポーズされた件
ケイティBr
恋愛
感情の矛先をどこに向けたらいいのか分からないよ!と言う物語を貴方に
ある日、俺が日本に帰ると唐突に二人の女性からプロポーズされた。
二人共、俺と結婚したいと言うが、それにはそれぞれの事情があって、、、、
で始まる三角関係ストーリー
※NTRだけど結末が胸糞にならない。そんな物語だといいな?
※それにしても初期設定が酷すぎる。事に改めて気づく。さてどうしたもんか。でもこの物語の元ネタを作者なりに救いたい。
悲しいことがあった。そんなときに3年間続いていた彼女を寝取られた。僕はもう何を信じたらいいのか分からなくなってしまいそうだ。
ねんごろ
恋愛
大学生の主人公の両親と兄弟が交通事故で亡くなった。電話で死を知らされても、主人公には実感がわかない。3日が過ぎ、やっと現実を受け入れ始める。家族の追悼や手続きに追われる中で、日常生活にも少しずつ戻っていく。大切な家族を失った主人公は、今までの大学生活を後悔し、人生の有限性と無常性を自覚するようになる。そんな折、久しぶりに連絡をとった恋人の部屋を心配して訪ねてみると、そこには予期せぬ光景が待っていた。家族の死に直面し、人生の意味を問い直す青年の姿が描かれる。
愛しい彼女に浮気され、絶望で川に飛び込んだ俺~死に損なった時に初めて激しい怒りが込み上げて来た~
こまの ととと
恋愛
休日の土曜日、高岡悠は前々から楽しみにしていた恋人である水木桃子とのデートを突然キャンセルされる。
仕方なく街中を歩いていた時、ホテルから出て来る一組のカップルを発見。その片方は最愛の彼女、桃子だった。
問い詰めるも悪びれる事なく別れを告げ、浮気相手と一緒に街中へと消えて行く。
人生を掛けて愛すると誓った相手に裏切られ、絶望した悠は橋の上から川へと身投げするが、助かってしまう。
その時になり、何故自分がこれ程苦しい思いをしてあの二人は幸せなんだと激しい怒りを燃やす。
復讐を決意した悠は二人を追い込む為に人鬼へと変貌する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる