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雲覆う谷間の影には 松本花編 その2
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この目はきっと、底なしの絶望を長時間見続けた後遺症だ。
「うちの娘になんの用だと訊いてるんだ」
松本父はそう言うと、周囲を憚ったのか、先ほどまで自分が座っていた椅子をこちらのテーブルに持ってきた。
その間、梓馬はただただ混乱していた。松本母だけでも不可解だったのに、ここで実は最初から父親も後ろで会話を聞いていたとなれば、正常でいられるわけがない。
環境の唐突な変化は、人間を簡単に木偶化する。梓馬の処理能力ではとても対応できない。隣の沙月を思いやる余裕すら持てない。
「あたしは……朱里の友達です」
先に答えたのは沙月だった。もちろんこれは質問に答えられていない。だが本筋に対しては明確に答えている。
「たいした恰好だな。で、君はなんだ?」
矛先が自分に向いた梓馬は、強い衝動をきっかけに喉の金縛りが解けた。気付かぬうちに身を乗り出していた。沙月を隠そうとしていると、自分でも気付かずに。
「その前に、あなたは誰ですか?」
質問には答えず、梓馬は反問する。挑発するような態度ではあるが、しかしこれは確実に正論。傍から見れば異常なのは明らかに松本父だ。
「私はこの子の父親だ」
「そうですか。なぜここに?」
梓馬は主導権を維持するため、当たり前の言葉のみを使う。
「…………」
松本父は無言を使ってコミュニケーションを拒否、代わりに強烈な睨みを飛ばしてくる。そういうやり方か……。だったら急所を突いてやる――
梓馬は声の調子を柔らかくして、花に質問の矛先を変えた。
「花さん、どうしてお父さんがここにいるか、俺に教えてくれ」
もちろん松本花が、すんなりと答えられるわけがない。梓馬はただ、娘を矢面に立たせるぞと脅したかった。
「娘が心配だからです」
答えたのは松本母だった。嘘ではないだろうが、説明になっていない。
「でしょうね。沙月は見た目がこれですから、勘違いされても仕方がない」
梓馬は沙月を見て冗談のように言った。もちろん、沙月が原因でないことはわかっている。これは仕掛けだ。
「あ、そういうわけじゃないですよ」
松本母は初めて目を丸くして、手を振って否定した。
「あれ、そうだったんですか。え、だとしたら心配の原因は僕ですか?」
「いや、そういうわけでも………」
今度は手の振りが若干甘かった。
人間は嘘をつく際にストレスを得る。何度も無理に嘘を吐かせれば、真実を言いたいという欲求を刺激することができる。
「では日曜日の昼間に、花さんを呼び出すことが非常識でしたか?」
もちろんそんなことはない。平日の深夜に呼び出すほうがよほどおかしい。
「いえいえそんな」
「もう少し格式のある店にするべきでしたか?」
「いえ……」
「受験の時期とずらすべきでしたか?」
「えっ……」
花の母親の顔から、どんどん作り笑いの破片が取れていく。良い兆候だ、梓馬の目尻に黒い皺が浮かんでいく。より苛烈な質問をくり出すことに抵抗がなくなっていく。
「じゃあこの店でもあなた方には……」
そう言いかけたとき。
「君たちだよ?」
松本父だった。丁寧な口調に怒りをふんだんに滲ませ、身を乗り出して割り込んできた。
「俺たちが?」
「心配の原因は君たちだ。加賀美朱里の関係者なんだろう?」
これは完全なでっち上げ。加賀美朱里の関係者だと知ったのは、つい先ほどのはずだ。だが梓馬はそれを指摘するつもりはない。ここで時系列の矛盾を突けば、くり返しになる。目の前の男は、言いたいことだけを言い、言いたくないことには沈黙を貫くからだ。
「そうです、朱里はあたしの友達です」
沙月が正々堂々と、丸い胸を張りだして言い切った。眼光を鋭くした松本父に対して、まったく怯む様子がない。古着を馬鹿にされても、朱里を悪く言われても、五十嵐沙月は自分が信じる価値を偽らない。
梓馬はこれまで、沙月を嫌な奴だとしか思っていなかった。それは間違っていない。沙月は誰かにとっては悪人で、別の誰かにとっては善人だ。
これは沙月だけに言えることではなく、自分を含めた誰にでも言えることだ。どれだけ気を配ろうと様々な解釈が横行し、実際とは違う虚像をでっち上げられる。誰もがそれを恐れて、少しずつ自分の実像を変えていく。鏡が左右を逆に映すならば、真逆の存在になろうとする。
しかし沙月は違う。片方の皿をなくした天秤に、自分のすべてを乗せることができる。周囲にどれだけ歪に映ろうと、実像だけを見つめていられる。
その堂々した様子が、梓馬に影響を与えた。
「加賀美朱里は俺の……」
本当に言うのか俺は――
嫌な笑いが口元に湧く。やめたほうがいい、そんなことはわかっている。しかし口にした名前、その響きはいつも自分を男らしく振る舞わせてきた。
「加賀美朱里は、俺の恋人です」
受け取った松本家は口や目を大きく開けるという反応を見せるも、一様だったのは信じられないという表現だけだった。
「ええ……」
松本母が口元に手を当てている。隣の松本花も声こそないものの、同じほどの衝撃を受けているのが明白だった。そして松本父が今日一番の困惑を顔に携えて、わなわなと口を震わせていた。
「き、君はそこの五十嵐沙月さんの彼氏と言ってたじゃないか……」
「あなたたちはいったいどういう関係なのよ……」
正論だ。
批判的な言葉と視線をぶつけられて、梓馬は首を傾けて固まってしまった。
真実を話せば、沙月の彼氏だという嘘を付いたことがばれる。そうすればなけなしの信頼が、完全に消え去るだろう。かといって嘘を話せば、簡単に矛盾を指摘される。どちらのルートでも信頼を得ることはできない。
詰んだのか――
口元に手を当てて、声を出さずに呟いた。途端に始まるネガティブ思考、自分が劣っているという証拠探しが始まる。
幼稚園では喧嘩が弱くて、奴隷のような扱いを受けていた。小学生時代は足が遅くて、女子に負けた。中学受験は失敗して、地元の公立中学に通うことになった。高校受験のころには、斜に構えることで恰好をつけるしかなくなっていた。自分は無能なんだ、そう信じることでしか身を守る術が残っていなかった。
しかしその思い込みは、加賀美朱里がすでに砕いている。
もし市原梓馬に優れている部分があるとすれば、それは諦めが悪いということだ。頭は良くない、機転が利くわけでもない。同じ失敗は何度も犯すし、それを他人のせいだと思い込もうとする。しかしどれほど打ちのめされても、いくつもの無能の証拠を並べられようとも、育たなかった自尊心は変化を恐れながら成長してきた。心安らぐことのない自分の部屋で、子供のころからずっと今日まで、そうやって生きてきた。加賀美朱里の保証する梓馬の価値は、発想の突飛さだけではない。
「確かに俺は沙月の彼氏です。ですが同時に朱里の彼氏でもあります。これらは矛盾しません、両立可能なことなんですよ。沙月と朱里のどちらかの彼氏になった場合、あまった側の彼氏になれないというのは実に善良な思い込みだと思いませんか」
口にすると、絡まっていた意図と糸が解けていく。矛盾に刺さっていた串が、するりと抜けていく。梓馬は胸を張っていた。見えていなかったルート、同調という勝ち筋を見つけたからだ。立場はどちらでもいい、朱里が悪人という前提で話せばいい。反論も擁護も、相手の持つ真実の鏡映しに過ぎない。
「君たちのことは知らないが、加賀美朱里はそういう人間だろうね」
松本父はそう言い捨てた。冷えた声色だった。
梓馬はこれに対して、乱れた関係を肯定する態度をとっていこうと考えた。そうすることで、松本父から沈黙という選択肢を奪うつもりだった。しかし沙月がテーブルに手を乗せた。
「どういう意味ですか」
テーブルを叩きたかったのかもしれない。
「どうもこうも、加賀美朱里の素行についての印象を言ったまでだ」
「朱里はそんな子じゃないです。クラスで浮いていたあたしに、たった一人声をかけてくれた親友です」
沙月の挑むような目は、花の父親を完全に否定していた。朱里をこうまで悪く言うには、必ず根拠があるはずだ。しかしそれでも、真っ向から自分の真実をぶつけていく。
梓馬はそれを黙って見ていた。
心情的に沙月と同意見だ。朱里を悪く言うなら痛めつけてやりたい。だが沙月が反論すればするほど、松本父は更なる反論をくり返すはずだ。そこには隠している根拠が眠っているに違いない。
「それが加賀美朱里のやり口だと知らんから、そういうことが言える」
「やり口ってなんのことですか、朱里のなにを知っているんですか」
よく言った、と梓馬は沙月を心の中で褒めた。松本父の表情には、明確に不快さが出ている。第六感に頼らずとも、次の言葉が重要になることは、簡単に想像できた。松本父はいま、真実を突き付けることで自分の正当性を主張したがっている。
しかし、そうはならなかった。
「君たちに話すようなことではない」
電球が切れたように、松本父は言った。初めて見せた人間らしさだった。
これほど苛烈さと弱さを併せ持った人間が、こうまで自分をコントロールすることができるのだろうか。
率直な疑問を持つ梓馬だったが、父親という存在を上手くイメージできずに判断をしかねる。あまりの掴みどころのなさに、自分たちがいまここで、なにについて話し合っているのかわからなくなりそうだった。
そもそもおかしいのが、構図として対立しているにも関わらず、あまりに話が進まないということだ。
そこで梓馬が最初に思いついたのは、実はお互いに同じ立場なのではないか、ということだ。どちらも知りたいことがあるために、手持ちの情報を切り札として伏せているのではないかと。この場合、自分から切り札を出せば状況は好転する可能性がある。
次に思いついたのは、外的要因が絡んでいることだ。なにか自分たちの知らない仕掛けがすでにかかっていて、そのせいで状況が停滞している可能性があるかもと。
梓馬は切り札を温存した。
「なにか話せない事情がありますか?」
朱里が妊娠していたこと、死亡したことを言う気になれず、後者の可能性を消極的に選択した。
この質問に対して松本父は逡巡を見せると、一度だけ首を縦に深く沈めた。
嘘だろ……、いま肯定したのか――
冗談かと思ったが、松本家は全員が俯いたままで、総出で外的要因の存在を仄めかしているように見える。
押すべきか、引くべきか――
梓馬の中でせめぎ合いが始まった。
松本家は明らかに、自分たちで解決できない問題を抱えている。それに協力すると言えば、切り札を見せるのではないか。
本当にそうだろうか。話せないということは、現時点でこちらがその資格を持っていないということだ。その状態で無理を通せば、こちらに対する警戒が強くなる可能性が高い。ならばここは一端引き下がり、資格を得てから説得にかかったほうがいいような気もする。
押せば速度で勝り、引けば確実性で勝る。
「良ければ事情を話してもらえませんか。俺たちにできることなら、なんでも協力しますよ」
梓馬は結局、自分がどうするかという話をした。これが大きな失敗だった。
松本家は、沙月と梓馬の正体を知らないにも関わらず、企みを持ってこの場所に現れた。この事実だけでも、交渉に決着がないことは想像できる。それでも口を割らせるというのならば、それなりの代償が必要だ。梓馬の想定と認識は甘すぎで、未成年という経験の浅さがこの異様を疑わせず、また、順応の手助けをしてしまっていた。
梓馬はこれまで周囲の大人たちから、この状況を好転させる方法を聞かされていた。なぜ偉人が後世に格言を残しても、愚か者があとを絶たないか。体験を伴った経験でなければ、技能として習得できないからだ。
松本父の目的は最初からただ一つ、娘を守ることのみだ。特殊な状況に飲まれて何度か弱さを見せてしまったが、大人であるだけに初志は貫徹する。
「いや、私たちには大変なことなんてない。ただね、可愛い一人娘があの学校の懐かしい友人と会うとなれば、親としてはどうしても心配してしまうというわけだ」
松本父は、わかりきった嘘を述べた。取り繕うこともしない姿勢は、完全な拒絶を選んだということを示している。
「そうですか……。それはもしかしたら、そういうものかもしれないですね」
梓馬がそう言うと、隣の沙月が目を剥いた。
「正気なの? 明らかになにか隠してるよ。いまここで言わせないと、もう二度と会ってもらえないのがわからないの?」
これはもっともな意見だ。事実、松本父はもう会うまいと決めている。だが梓馬からすれば、そんなものはいくらでもひっくりかえせるという認識だった。
「お前こそ、この人たちになにも言う気がないのがわからないのか?」
そうさせた張本人だとは思えない口ぶりだ。
「それを言わせるのがお前の仕事じゃないの」
「嫌がってる人たちに無理強いしたくないんだ」
これは嘘だ。本当は暴力を使ってでも口を割らせたい。しかし梓馬はここで、わずかに残った信頼を守るべきと判断した。そうすれば、松本家の切り札に触れる資格をえたときに、交渉が再開できる。連絡するだけで、向こうから会いたいと言わせる自信があった。長期的に見れば、いまの自分の考えが絶対に正しいはずだと。それだけに、沙月のあまりにも短絡的な言動に腹が立つ。怒っていれば勝手に事態が進むと思っている幼稚さ、それがどれほど愚かか責め立てたかった。
梓馬は自分のほうが利口だと思っている。もし本当に賢いならば、なぜいま沙月の目が潤み始めているのか計算できるはずだっただろう。
「悪く言われた。朱里を悪く言われたんだよっ」
至近距離で促音を使われ、沙月の唾液が飛散する。
梓馬はそれを真っ向から受け止めた。
「朱里が悪人だって言われて、俺が平気に見えたかよ」
「だったらなんであたしを止めるの、なんで本当のことを言わせるのを止めるの」
「お前がそれをやればやるほど、目的が遠くなるからだ」
「じゃあなにも得られないまま帰って、朱里が悪く言われて黙ったままで、ここから帰るっていう気なの?」
「俺がなんでもできると思うなよ、できないことのほうが多いんだ」
二人は周囲に構うことなく、自分たちだけの世界を構築してしまっていた。一つのテーブルにできた断絶、その谷間は深く、二つのグループには大きな溝ができていた。
松本父が咳払いで注目を引く。
「お取込みのところ悪いが、そろそろ私たちは帰らせてもらうよ」
それを皮切りに、松本家の面々が椅子から立ち上がり始めた。なにもできなかった二人は、無力感に頭を押さえつけられていて、止める言葉すら持たなかった。
頭上のほうで「帰るぞ」という音がする。年季を帯びた手がレシートを拾い上げる。いまテーブルに残っているのは、四つのマグカップと手痛い敗北だ。朱里に関する重要な情報は、まだ目に映っていない。こうして松本家はその場を後にしてしまった。
もっと良い方法があったはずだ――
手広く感じる四人がけの席で、梓馬は今日の出来事を振り返ろうとした。本当は、自分が最善の行動を取ったと思える根拠を探したいだけだ。ならばいま最もしなければならないのはその逆で、自分が失敗したと口にすることだ。手元にある最強の切り札は、沙月という存在なのだから。
「不手際だった、すまん」
梓馬は沙月の顔を見れず、正面のさらに先、よくわからない絵画を見ながら言った。
返事がなかったので、つらつら言葉を続けていく。
「でも収穫がなかったわけじゃない。今回のことを元に、次の出方を再考する。沙月の力が必要なんだ、これからも協力してほしい」
沙月は空席の向こうを見ながら口を開いた。
「お前ならなんでもできるって、それが自慢なんだって、朱里が言ってたよ」
誉め言葉だというのはわかる。しかし状況を鑑みると、皮肉にしか聞こえない。梓馬は言い返したい気持ちを飲み込んだ。
「そうか……」
「朱里のおじさんと言い合ってるとき、なに言ってるのかわからなかったけど、あたしもお前はすごいんだろうなってわかった」
「わからないのに、すごいってわかっちゃったのか」
梓馬は言った直後に、まずいと思った。隣で頭の沈む気配を感じ取り、思わず目をやってしまう。俯いた沙月の横顔には髪が垂れていて、表情を読むことができなかった。
「お前は古着の匂いのこともわかってたよ……」
「ああ、あれは、なんとなくな」
「匂い、気になる?」
沙月はそう言うと、距離を詰めてきた。ライダースを脱いでいるせいで、女の匂いが強調されていた。
途端に強くなった沙月の体臭に、梓馬はまた正面の絵画を見るしかない。
「いや好きな匂いだ、古着の匂い……」
「そうなんだ……」
梓馬は必死に絵画を見た。隣の沙月は明らかにこちらを凝視していて、まだこの話を続けたがっているのがわかる。これまでにないくらい、真剣に絵画を見つめるしかなかった。
「俺たちも帰るか……」
「うん……」
そう言って沙月が席から立ち上がり、梓馬も立ち上がった。
コートを手渡され、お互いに袖を通し始めていく。なるべく沙月の方を見ないようにした。股間まで立ち上がりそうな気がしたからだ。
レシートを手に取ろうとして、そういえばと思い出す。支払いは松本父が請け負っていた。
こんなときにも大人にはルールがあるんだな――
そうおもったとき、足元に人影が伸びてきていた。なんだと思って顔を向けると、なんと松本父が戻ってきていた。
梓馬は思わず口角を上げてしまう。迷いながらも、必死に言葉を紡いで良かったと心底感じた。しかしすぐに違和感を覚える。
松本父は笑っていなかった。それどころか、バツが悪そうな顔だった。
「自分の分のレシートを忘れていてね……」
松本父はそう言って、後ろの席からレシートを拾い上げた。
もちろん、なにも教えてくれなかった。
「うちの娘になんの用だと訊いてるんだ」
松本父はそう言うと、周囲を憚ったのか、先ほどまで自分が座っていた椅子をこちらのテーブルに持ってきた。
その間、梓馬はただただ混乱していた。松本母だけでも不可解だったのに、ここで実は最初から父親も後ろで会話を聞いていたとなれば、正常でいられるわけがない。
環境の唐突な変化は、人間を簡単に木偶化する。梓馬の処理能力ではとても対応できない。隣の沙月を思いやる余裕すら持てない。
「あたしは……朱里の友達です」
先に答えたのは沙月だった。もちろんこれは質問に答えられていない。だが本筋に対しては明確に答えている。
「たいした恰好だな。で、君はなんだ?」
矛先が自分に向いた梓馬は、強い衝動をきっかけに喉の金縛りが解けた。気付かぬうちに身を乗り出していた。沙月を隠そうとしていると、自分でも気付かずに。
「その前に、あなたは誰ですか?」
質問には答えず、梓馬は反問する。挑発するような態度ではあるが、しかしこれは確実に正論。傍から見れば異常なのは明らかに松本父だ。
「私はこの子の父親だ」
「そうですか。なぜここに?」
梓馬は主導権を維持するため、当たり前の言葉のみを使う。
「…………」
松本父は無言を使ってコミュニケーションを拒否、代わりに強烈な睨みを飛ばしてくる。そういうやり方か……。だったら急所を突いてやる――
梓馬は声の調子を柔らかくして、花に質問の矛先を変えた。
「花さん、どうしてお父さんがここにいるか、俺に教えてくれ」
もちろん松本花が、すんなりと答えられるわけがない。梓馬はただ、娘を矢面に立たせるぞと脅したかった。
「娘が心配だからです」
答えたのは松本母だった。嘘ではないだろうが、説明になっていない。
「でしょうね。沙月は見た目がこれですから、勘違いされても仕方がない」
梓馬は沙月を見て冗談のように言った。もちろん、沙月が原因でないことはわかっている。これは仕掛けだ。
「あ、そういうわけじゃないですよ」
松本母は初めて目を丸くして、手を振って否定した。
「あれ、そうだったんですか。え、だとしたら心配の原因は僕ですか?」
「いや、そういうわけでも………」
今度は手の振りが若干甘かった。
人間は嘘をつく際にストレスを得る。何度も無理に嘘を吐かせれば、真実を言いたいという欲求を刺激することができる。
「では日曜日の昼間に、花さんを呼び出すことが非常識でしたか?」
もちろんそんなことはない。平日の深夜に呼び出すほうがよほどおかしい。
「いえいえそんな」
「もう少し格式のある店にするべきでしたか?」
「いえ……」
「受験の時期とずらすべきでしたか?」
「えっ……」
花の母親の顔から、どんどん作り笑いの破片が取れていく。良い兆候だ、梓馬の目尻に黒い皺が浮かんでいく。より苛烈な質問をくり出すことに抵抗がなくなっていく。
「じゃあこの店でもあなた方には……」
そう言いかけたとき。
「君たちだよ?」
松本父だった。丁寧な口調に怒りをふんだんに滲ませ、身を乗り出して割り込んできた。
「俺たちが?」
「心配の原因は君たちだ。加賀美朱里の関係者なんだろう?」
これは完全なでっち上げ。加賀美朱里の関係者だと知ったのは、つい先ほどのはずだ。だが梓馬はそれを指摘するつもりはない。ここで時系列の矛盾を突けば、くり返しになる。目の前の男は、言いたいことだけを言い、言いたくないことには沈黙を貫くからだ。
「そうです、朱里はあたしの友達です」
沙月が正々堂々と、丸い胸を張りだして言い切った。眼光を鋭くした松本父に対して、まったく怯む様子がない。古着を馬鹿にされても、朱里を悪く言われても、五十嵐沙月は自分が信じる価値を偽らない。
梓馬はこれまで、沙月を嫌な奴だとしか思っていなかった。それは間違っていない。沙月は誰かにとっては悪人で、別の誰かにとっては善人だ。
これは沙月だけに言えることではなく、自分を含めた誰にでも言えることだ。どれだけ気を配ろうと様々な解釈が横行し、実際とは違う虚像をでっち上げられる。誰もがそれを恐れて、少しずつ自分の実像を変えていく。鏡が左右を逆に映すならば、真逆の存在になろうとする。
しかし沙月は違う。片方の皿をなくした天秤に、自分のすべてを乗せることができる。周囲にどれだけ歪に映ろうと、実像だけを見つめていられる。
その堂々した様子が、梓馬に影響を与えた。
「加賀美朱里は俺の……」
本当に言うのか俺は――
嫌な笑いが口元に湧く。やめたほうがいい、そんなことはわかっている。しかし口にした名前、その響きはいつも自分を男らしく振る舞わせてきた。
「加賀美朱里は、俺の恋人です」
受け取った松本家は口や目を大きく開けるという反応を見せるも、一様だったのは信じられないという表現だけだった。
「ええ……」
松本母が口元に手を当てている。隣の松本花も声こそないものの、同じほどの衝撃を受けているのが明白だった。そして松本父が今日一番の困惑を顔に携えて、わなわなと口を震わせていた。
「き、君はそこの五十嵐沙月さんの彼氏と言ってたじゃないか……」
「あなたたちはいったいどういう関係なのよ……」
正論だ。
批判的な言葉と視線をぶつけられて、梓馬は首を傾けて固まってしまった。
真実を話せば、沙月の彼氏だという嘘を付いたことがばれる。そうすればなけなしの信頼が、完全に消え去るだろう。かといって嘘を話せば、簡単に矛盾を指摘される。どちらのルートでも信頼を得ることはできない。
詰んだのか――
口元に手を当てて、声を出さずに呟いた。途端に始まるネガティブ思考、自分が劣っているという証拠探しが始まる。
幼稚園では喧嘩が弱くて、奴隷のような扱いを受けていた。小学生時代は足が遅くて、女子に負けた。中学受験は失敗して、地元の公立中学に通うことになった。高校受験のころには、斜に構えることで恰好をつけるしかなくなっていた。自分は無能なんだ、そう信じることでしか身を守る術が残っていなかった。
しかしその思い込みは、加賀美朱里がすでに砕いている。
もし市原梓馬に優れている部分があるとすれば、それは諦めが悪いということだ。頭は良くない、機転が利くわけでもない。同じ失敗は何度も犯すし、それを他人のせいだと思い込もうとする。しかしどれほど打ちのめされても、いくつもの無能の証拠を並べられようとも、育たなかった自尊心は変化を恐れながら成長してきた。心安らぐことのない自分の部屋で、子供のころからずっと今日まで、そうやって生きてきた。加賀美朱里の保証する梓馬の価値は、発想の突飛さだけではない。
「確かに俺は沙月の彼氏です。ですが同時に朱里の彼氏でもあります。これらは矛盾しません、両立可能なことなんですよ。沙月と朱里のどちらかの彼氏になった場合、あまった側の彼氏になれないというのは実に善良な思い込みだと思いませんか」
口にすると、絡まっていた意図と糸が解けていく。矛盾に刺さっていた串が、するりと抜けていく。梓馬は胸を張っていた。見えていなかったルート、同調という勝ち筋を見つけたからだ。立場はどちらでもいい、朱里が悪人という前提で話せばいい。反論も擁護も、相手の持つ真実の鏡映しに過ぎない。
「君たちのことは知らないが、加賀美朱里はそういう人間だろうね」
松本父はそう言い捨てた。冷えた声色だった。
梓馬はこれに対して、乱れた関係を肯定する態度をとっていこうと考えた。そうすることで、松本父から沈黙という選択肢を奪うつもりだった。しかし沙月がテーブルに手を乗せた。
「どういう意味ですか」
テーブルを叩きたかったのかもしれない。
「どうもこうも、加賀美朱里の素行についての印象を言ったまでだ」
「朱里はそんな子じゃないです。クラスで浮いていたあたしに、たった一人声をかけてくれた親友です」
沙月の挑むような目は、花の父親を完全に否定していた。朱里をこうまで悪く言うには、必ず根拠があるはずだ。しかしそれでも、真っ向から自分の真実をぶつけていく。
梓馬はそれを黙って見ていた。
心情的に沙月と同意見だ。朱里を悪く言うなら痛めつけてやりたい。だが沙月が反論すればするほど、松本父は更なる反論をくり返すはずだ。そこには隠している根拠が眠っているに違いない。
「それが加賀美朱里のやり口だと知らんから、そういうことが言える」
「やり口ってなんのことですか、朱里のなにを知っているんですか」
よく言った、と梓馬は沙月を心の中で褒めた。松本父の表情には、明確に不快さが出ている。第六感に頼らずとも、次の言葉が重要になることは、簡単に想像できた。松本父はいま、真実を突き付けることで自分の正当性を主張したがっている。
しかし、そうはならなかった。
「君たちに話すようなことではない」
電球が切れたように、松本父は言った。初めて見せた人間らしさだった。
これほど苛烈さと弱さを併せ持った人間が、こうまで自分をコントロールすることができるのだろうか。
率直な疑問を持つ梓馬だったが、父親という存在を上手くイメージできずに判断をしかねる。あまりの掴みどころのなさに、自分たちがいまここで、なにについて話し合っているのかわからなくなりそうだった。
そもそもおかしいのが、構図として対立しているにも関わらず、あまりに話が進まないということだ。
そこで梓馬が最初に思いついたのは、実はお互いに同じ立場なのではないか、ということだ。どちらも知りたいことがあるために、手持ちの情報を切り札として伏せているのではないかと。この場合、自分から切り札を出せば状況は好転する可能性がある。
次に思いついたのは、外的要因が絡んでいることだ。なにか自分たちの知らない仕掛けがすでにかかっていて、そのせいで状況が停滞している可能性があるかもと。
梓馬は切り札を温存した。
「なにか話せない事情がありますか?」
朱里が妊娠していたこと、死亡したことを言う気になれず、後者の可能性を消極的に選択した。
この質問に対して松本父は逡巡を見せると、一度だけ首を縦に深く沈めた。
嘘だろ……、いま肯定したのか――
冗談かと思ったが、松本家は全員が俯いたままで、総出で外的要因の存在を仄めかしているように見える。
押すべきか、引くべきか――
梓馬の中でせめぎ合いが始まった。
松本家は明らかに、自分たちで解決できない問題を抱えている。それに協力すると言えば、切り札を見せるのではないか。
本当にそうだろうか。話せないということは、現時点でこちらがその資格を持っていないということだ。その状態で無理を通せば、こちらに対する警戒が強くなる可能性が高い。ならばここは一端引き下がり、資格を得てから説得にかかったほうがいいような気もする。
押せば速度で勝り、引けば確実性で勝る。
「良ければ事情を話してもらえませんか。俺たちにできることなら、なんでも協力しますよ」
梓馬は結局、自分がどうするかという話をした。これが大きな失敗だった。
松本家は、沙月と梓馬の正体を知らないにも関わらず、企みを持ってこの場所に現れた。この事実だけでも、交渉に決着がないことは想像できる。それでも口を割らせるというのならば、それなりの代償が必要だ。梓馬の想定と認識は甘すぎで、未成年という経験の浅さがこの異様を疑わせず、また、順応の手助けをしてしまっていた。
梓馬はこれまで周囲の大人たちから、この状況を好転させる方法を聞かされていた。なぜ偉人が後世に格言を残しても、愚か者があとを絶たないか。体験を伴った経験でなければ、技能として習得できないからだ。
松本父の目的は最初からただ一つ、娘を守ることのみだ。特殊な状況に飲まれて何度か弱さを見せてしまったが、大人であるだけに初志は貫徹する。
「いや、私たちには大変なことなんてない。ただね、可愛い一人娘があの学校の懐かしい友人と会うとなれば、親としてはどうしても心配してしまうというわけだ」
松本父は、わかりきった嘘を述べた。取り繕うこともしない姿勢は、完全な拒絶を選んだということを示している。
「そうですか……。それはもしかしたら、そういうものかもしれないですね」
梓馬がそう言うと、隣の沙月が目を剥いた。
「正気なの? 明らかになにか隠してるよ。いまここで言わせないと、もう二度と会ってもらえないのがわからないの?」
これはもっともな意見だ。事実、松本父はもう会うまいと決めている。だが梓馬からすれば、そんなものはいくらでもひっくりかえせるという認識だった。
「お前こそ、この人たちになにも言う気がないのがわからないのか?」
そうさせた張本人だとは思えない口ぶりだ。
「それを言わせるのがお前の仕事じゃないの」
「嫌がってる人たちに無理強いしたくないんだ」
これは嘘だ。本当は暴力を使ってでも口を割らせたい。しかし梓馬はここで、わずかに残った信頼を守るべきと判断した。そうすれば、松本家の切り札に触れる資格をえたときに、交渉が再開できる。連絡するだけで、向こうから会いたいと言わせる自信があった。長期的に見れば、いまの自分の考えが絶対に正しいはずだと。それだけに、沙月のあまりにも短絡的な言動に腹が立つ。怒っていれば勝手に事態が進むと思っている幼稚さ、それがどれほど愚かか責め立てたかった。
梓馬は自分のほうが利口だと思っている。もし本当に賢いならば、なぜいま沙月の目が潤み始めているのか計算できるはずだっただろう。
「悪く言われた。朱里を悪く言われたんだよっ」
至近距離で促音を使われ、沙月の唾液が飛散する。
梓馬はそれを真っ向から受け止めた。
「朱里が悪人だって言われて、俺が平気に見えたかよ」
「だったらなんであたしを止めるの、なんで本当のことを言わせるのを止めるの」
「お前がそれをやればやるほど、目的が遠くなるからだ」
「じゃあなにも得られないまま帰って、朱里が悪く言われて黙ったままで、ここから帰るっていう気なの?」
「俺がなんでもできると思うなよ、できないことのほうが多いんだ」
二人は周囲に構うことなく、自分たちだけの世界を構築してしまっていた。一つのテーブルにできた断絶、その谷間は深く、二つのグループには大きな溝ができていた。
松本父が咳払いで注目を引く。
「お取込みのところ悪いが、そろそろ私たちは帰らせてもらうよ」
それを皮切りに、松本家の面々が椅子から立ち上がり始めた。なにもできなかった二人は、無力感に頭を押さえつけられていて、止める言葉すら持たなかった。
頭上のほうで「帰るぞ」という音がする。年季を帯びた手がレシートを拾い上げる。いまテーブルに残っているのは、四つのマグカップと手痛い敗北だ。朱里に関する重要な情報は、まだ目に映っていない。こうして松本家はその場を後にしてしまった。
もっと良い方法があったはずだ――
手広く感じる四人がけの席で、梓馬は今日の出来事を振り返ろうとした。本当は、自分が最善の行動を取ったと思える根拠を探したいだけだ。ならばいま最もしなければならないのはその逆で、自分が失敗したと口にすることだ。手元にある最強の切り札は、沙月という存在なのだから。
「不手際だった、すまん」
梓馬は沙月の顔を見れず、正面のさらに先、よくわからない絵画を見ながら言った。
返事がなかったので、つらつら言葉を続けていく。
「でも収穫がなかったわけじゃない。今回のことを元に、次の出方を再考する。沙月の力が必要なんだ、これからも協力してほしい」
沙月は空席の向こうを見ながら口を開いた。
「お前ならなんでもできるって、それが自慢なんだって、朱里が言ってたよ」
誉め言葉だというのはわかる。しかし状況を鑑みると、皮肉にしか聞こえない。梓馬は言い返したい気持ちを飲み込んだ。
「そうか……」
「朱里のおじさんと言い合ってるとき、なに言ってるのかわからなかったけど、あたしもお前はすごいんだろうなってわかった」
「わからないのに、すごいってわかっちゃったのか」
梓馬は言った直後に、まずいと思った。隣で頭の沈む気配を感じ取り、思わず目をやってしまう。俯いた沙月の横顔には髪が垂れていて、表情を読むことができなかった。
「お前は古着の匂いのこともわかってたよ……」
「ああ、あれは、なんとなくな」
「匂い、気になる?」
沙月はそう言うと、距離を詰めてきた。ライダースを脱いでいるせいで、女の匂いが強調されていた。
途端に強くなった沙月の体臭に、梓馬はまた正面の絵画を見るしかない。
「いや好きな匂いだ、古着の匂い……」
「そうなんだ……」
梓馬は必死に絵画を見た。隣の沙月は明らかにこちらを凝視していて、まだこの話を続けたがっているのがわかる。これまでにないくらい、真剣に絵画を見つめるしかなかった。
「俺たちも帰るか……」
「うん……」
そう言って沙月が席から立ち上がり、梓馬も立ち上がった。
コートを手渡され、お互いに袖を通し始めていく。なるべく沙月の方を見ないようにした。股間まで立ち上がりそうな気がしたからだ。
レシートを手に取ろうとして、そういえばと思い出す。支払いは松本父が請け負っていた。
こんなときにも大人にはルールがあるんだな――
そうおもったとき、足元に人影が伸びてきていた。なんだと思って顔を向けると、なんと松本父が戻ってきていた。
梓馬は思わず口角を上げてしまう。迷いながらも、必死に言葉を紡いで良かったと心底感じた。しかしすぐに違和感を覚える。
松本父は笑っていなかった。それどころか、バツが悪そうな顔だった。
「自分の分のレシートを忘れていてね……」
松本父はそう言って、後ろの席からレシートを拾い上げた。
もちろん、なにも教えてくれなかった。
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