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1巻

1-2

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 その言葉にハッとして、私は改めて男の姿を確認した。
 この世のものとは思えないくらいに整った顔がまず目に入る。次に美しい金色の瞳と、きらめく銀色の髪が。狩衣かりぎぬと言うのだろうか。白の上着のようなものの下に緋色の着物とはかまが覗いていて、まるで神主さんのような服装だ。
 そして男性の頭の上には――本物としか思えない狐の耳が鎮座していた。それはぴるぴると愛らしく動いている。
 まさか、この人は……

「……お稲荷様?」

 私は半信半疑で、その名前を口にした。

「そうだ。このバカ娘」

 推定お稲荷様らしい男性は尊大な態度でそう言うと、ふんと小さく鼻を鳴らした。

「……嘘だぁ」

 思わず小さく声を漏らすと、お稲荷様の眉間に深いしわが寄る。せっかく綺麗な顔をしているのに、不機嫌な表情で台無しだ。

「なぜ、嘘だと思う」
「その。もっと違うお姿を想像してたんですよ……」

 それに、精巧なコスプレの不審者っていう可能性もまだぜんぜん捨て切れていないし、という言葉を私は呑み込む。それを言えば、また恫喝どうかつされると思ったからだ。
 先ほどの怪奇現象のことも踏まえて、ひとまず彼が本物のお稲荷様である、という前提で考えるとして……いつもあんなに愛らしい声で『コン』と鳴いて食事を喜んでくれるお稲荷様が、こんなふうに脅かしてくる成人男性だなんて。
 それは……非常に残念なことだ。

「もっと小さくて可愛くて、ふわふわした毛玉みたいな小狐を想像してたのに……」

 ついついそんなぼやきが漏れる。それを聞いたお稲荷様はまなじりをつり上げた。

「あいにく小さくも毛玉でもない。それよりも……なんだ、あの不味い飯は」

 お稲荷様はそう言うと、私が作ったカレーにちらりと目をやる。

「……不味かったですか?」
「おぬし、自分で味は見とらんのか?」

 地面に下ろされ、食ってみろとばかりにカレーを顎で指し示された。
 ……いくら私が料理初心者だからって、カレーがそうそう失敗するわけないじゃない。
 ままなお稲荷様だと思いながら、お社に近づきカレーをスプーンですくう。お腹もいていたので、それを思い切り頬張った。

「うわっ。不味い」

 ……口にしたカレーは、驚くくらいに不味かった。
 まず、ルウが足りていないようで味が薄い。そして野菜の切り方が大きすぎたのか、煮る時間が足りなかったのか、中にぜんぜん火が通っていない。ジャガイモは口の中でジャリジャリするし、人参は半生どころじゃない生だ。それを噛めば噛むほど、青臭さがじわりと口中に広がった。
 肉が生じゃないのが唯一の救いだろうか。
 吐き出しそうになるのを堪え、懸命に咀嚼そしゃくしぐっと飲み込む。食べ物を粗末にしてはいけないのだ。
 ……これは、怒られても仕方がないかもしれない。

「……不味かろう」

 お稲荷様は哀愁を帯びた瞳で私を見つめる。私はコクコクと、涙目で何度も頷いた。

「これは、とても不味いですね。びっくりしました」
「……私も驚いたぞ。つい、人間の前に姿を見せてしまうくらいにな」

 ……私のご飯が不味かったせいで、お稲荷様はうっかり姿を現したのか。それは申し訳ないことをしてしまった。

「作り直せ、今すぐ」

 お稲荷様は尊大な口調で言うと、ふわりと宙に浮かんであぐらをかく。そして大きな尻尾を不機嫌そうに振った。その姿を見て、私はあんぐりと口を開けた。
 こんな不可解な力を使う人間がいるはずがない。これで『精巧なコスプレの不審者』という線は、完全に消えたわけだ。
 しかし、作り直せと言われてもなぁ……正直、どうしていいのかわからない。

「お稲荷様!」
「……なんだ」

 意を決して呼びかけると、お稲荷様はうるさいと言わんばかりに銀色の耳をぴるぴる動かしながら返事をする。

「お稲荷様はこの家の者を助け、見守る存在なんですよね」
「まぁ……そうだが」

 渋々という口調で返され、胡乱うろんな目を向けられる。そんなお稲荷様に、私は一歩一歩とにじり寄った。

「私、今すごーく困ってるんで、助けてください!」



「だからどうして、こうなるのだ!」
「大事な古橋の家の者が困ってるんですから、お手伝いくらいしてくださいよ」

 私は、再び台所に立っていた。
 ……今度はお稲荷様と二人で。
 一人で知恵を振り絞っても、この事態の解決方法なんて浮かばない。そう判断した聡明な私は、お稲荷様のお知恵を借りようと思ったのだ。
 お稲荷様のお社は古橋家五代――私で六代目になる――にわたって受け継がれてきたものだ。お稲荷様は少なく見積もっても、その受け継がれた分の時間を生きていることになる。
 そんなに長く生きているんだから、私よりいろいろな経験をしているよね。きっといいアイディアも授けてくれるはずだ。
 お稲荷様は不機嫌そうにしているけど、私の隣に立って、硬い野菜が浮いたすっかり冷えたカレーの鍋を見つめている。文句は言いつつもちゃんと母の可愛いエプロンまで着けているのだから、案外律儀な人なのかもしれない。

「食べ物を捨てるのはもったいないと思うので、これを美味しく再生する方法を二人で考えましょう!」
「これが、まともな飯になるのか……?」

 ぺしょりと大きな銀色の耳と尻尾が垂れる。先ほど怒鳴っていた時の覇気はきはなく、どこか元気もない様子だ。いつものご飯の時間はとっくに過ぎているので、お腹が減っているのかもしれないな。
 ――彼は人間の私から見て当然『異質』だ。
 なのにすでに警戒心が薄れているのは、彼が、私が生まれた時から側にいたお稲荷様だからなのかな。あの愛らしい『コン』というお礼をこの人が言っていたのだと思うと、怖がるのもバカらしくなってしまうのだ。

「しばらく母は戻りませんし。二人で知恵を絞って、この苦境をどうにかしないと……ご飯がずっと美味しくないままですよ」
「娘と小僧が家をけることは知っていたが、まさか数年もおらぬとは。なぜ、小娘に料理を仕込まずに行ってしまったのか……」
「急に決まった海外赴任でしたしねぇ」
「おのれ、カイガイフニン……!」

 お稲荷様はそう言うと、悲しげに大きな尻尾を揺らした。
 娘って、母のことだよね。長生きなお稲荷様からすると、三十代の母も『娘』扱いらしい。母が聞いたら喜びそうだ。小僧は父のことだろう。くたびれたサラリーマンである父と『小僧』という響きはなんともミスマッチだ。
 そして『小娘』が……私か。お稲荷様には名前を覚えるという習慣はないのだろうか。
 お稲荷様はどうして、うちの守り神になったのかな。
 そんなことが、ふと気になった。
 昔はお稲荷様と古橋家のことを記した先祖の手記があったそうなのだけど……先の大戦の時に焼けてしまったのだ。
 手記の詳しい内容を覚えていただろう曾祖母は祖母が幼い時に病で亡くなっており、曾祖母から口伝くでんでしかその内容を聞いていない祖母の記憶は断片的だった。
 そしてその祖母も、二年前に亡くなっている。
 せっかくお稲荷様とお話ができるようになったんだし、いずれ聞いてみたいな。
 ……それよりも、まずは目先の食事だよね。
 私は鍋に目を向ける。そして次に、お稲荷様に視線をやった。
 どうしましょうか、という思いを込めつつ見つめていると、お稲荷様がふーっと大きなため息をつく。

「……ひとまず、もっとよく煮込め。あれでは食えたものではない。野菜に皮がついておったし、できれば少し長めに」

 そしてそう口にしたのだった。
 言われた通りにくつくつととろ火で煮込んでいると、野菜がくったりとしてきたような気がする。生々しさを主張していた玉ねぎはしんなりとし、ジャガイモは見るからに柔らかそうだ。……人参だけは、見ただけじゃわからないけれど。

「お稲荷様。この人参、いけると思います?」
「味見をしてみればいいだろうが」
「……それもそうですね」

 先ほどの青臭い味を思い出して少し躊躇したけれど、味を見ないとまた悲劇が起きそうだ。おたまで人参を一つすくうと、それを指でつまんで口に入れた。そしておそるおそる咀嚼そしゃくする。
 ……柔らかい。ちゃんと煮えてる。
 私は心底安堵した。これは食べられるものだ。

「ちゃんと煮えてます! お稲荷様!」
「煮えておるのがふつうだ。たわけが」

 じろりと金色の瞳で鋭くにらまれてしまった。そうですよね、申し訳ありませんね!

「これにルウを足したら今度はちゃんと食べられるカレーに……なると思います。たぶん」

 一度失敗したので自信満々には言えないけれど、そのはずだ。
 ルウをふた欠片かけら投下して、ぐるぐると鍋をかき混ぜる。すると鍋の中身が、とろりとした重みを増した。

「もうひと欠片かけらくらい足したらどうだ。鍋の中身が多すぎる」

 お稲荷様の言う通り、私が入れた材料は規定量より多いようだ。

「なるほど。では、入れてみます」

 もうひと欠片かけらルウを足して鍋を混ぜていると、お稲荷様がまた口を開いた。

「小娘。火を点けたままだと、溶けにくそうだ。一旦火を止めてから混ぜてみてはどうだ」
「お稲荷様、素晴らしい観察眼です! 慧眼けいがんというやつですね!」
「……ふん。それほどでもない」

 口調はツンとしつつも、お稲荷様の表情は少し嬉しそうに見える。銀色の大きな尻尾は左右に振られ、耳もぴこぴこと動きせわしない。
 狐って、イヌ科だったっけ。尻尾の役割は犬と同じなのかな。これは、褒められて嬉しがっている……と思っていいのだろうか。

「ルウも溶けたっぽいですし。そろそろ完成、ということでいいですかね?」
「……いや、もう少し煮込もう。先ほどのことがあるからな」
「確かに……」

 先ほどの不味いカレーのことを思い返し、弱火で再点火する。
 ……今度こそ美味しいカレーになりますように!
 そんなことを願いながら五分ほどさらに煮込み、ご飯をチンして皿に盛り、カレーを上からかけると――
 そこには『ふつうのおうちカレー』が鎮座していた。
 野菜は皮つきだったりサイズが不揃いだったりで不格好だけれど、食べられそうな風格を感じる。素晴らしい!

「おお~っ!」

 私とお稲荷様は思わず歓声を上げた。
 ノリでハイタッチをしようとしたら、こてりと首を傾げられる。どうやらお稲荷様は、ハイタッチを知らないらしい。行き場のない私の両手がふわりと宙をさまよっただけになって、少し恥ずかしい。

「できたのなら、それを社まで……」
「いや。せっかくですし、一緒に食べましょうよ」

 帰ろうとするお稲荷様の尻尾を掴んで引き止める。するとお稲荷様は、苦虫を噛み潰したような顔になった。

「なぜ……一緒に食べねばならぬのだ」
「そりゃ、寂しいからですよ」

 一人でいるのはやっぱり寂しい。
 旅立つ父と母を見送って、私はそれを実感した。
 図々しいことは百も承知しているけれど、そんな私にお稲荷様の存在は渡りに船である。食卓は、やっぱり誰かと一緒がいいのだ。
 たとえそれが、人外であったとしても。
 人でないとはいえ、お稲荷様は我が家の守り神だ。一緒に過ごした十数年の間に、彼が悪さをしたことはない。だからおそらく大丈夫。
 私は考え方の根っこが楽天的なのだ。
 ……友人には、考えなしとも言われるけれど。

「一緒に食べてくれるなら、お酒も出しますよ。お父さんが置いていったのがたくさんあるので!」

 ワインセラーには大量のワイン、棚には焼酎しょうちゅうが並び、我が家にはいろいろなお酒がある。お稲荷様に捧げたのなら、お父さんも怒りはしないだろう。……とはいえ、高そうなのは一応避けるけど。
 神様への捧げ物としても、お酒は定番だもんね。御神酒おみきなんてものもあるくらいだし。

「くっ、酒か!」

 お稲荷様は私から見ても丸わかりなくらいに、ぐらぐらと気持ちが揺れているようだ。よかった、お酒が好きみたいで。

「お稲荷様……」

 あとひと押し、とぎゅうと狩衣かりぎぬの端を掴んでじっと見つめる。するとお稲荷様の表情は、気まずそうなものになった。

「……す、少しだけだぞ!」

 お稲荷様は大きな大きなため息をついた後に、眉間にぎゅっとしわを寄せながらそう言った。

「わぁ! ありがとうございます!」
「本当にお前は……。私を恐れるわけでもなく、あがめるわけでもなく……おかしな小娘だ」

 ……そうだ、先ほどから気になることがあったのだ。

「はるか」
「ん?」
「私、はるかって言います。そう呼んでください。お稲荷様のお名前も、教えてくれると嬉しいです」

 私には親がつけてくれた素敵な名前があるのだから、ちゃんとそれで呼んでほしい。お稲荷様の主義的にそれが不可能な場合は、小娘のままでも別にいいけれど。

「わかった、はるかだな」

 断られる想像もしていたのだけれど、お稲荷様はあっさりと私の名前を呼んでくれた。おお、名前を呼ぶ習慣自体はあったのか。

「お稲荷様のお名前は?」
「仲間内ではぎんいろと呼ばれている」

 仲間内って、他のお稲荷様のことかな。稲荷神社は、全国にたくさんあるもんね。
 どんな字を当てるか訊いてみれば、音の通りの『銀色』でいいそうだ。……見たまんまの名前だな。
 お稲荷様たちには名前を重視する習慣がないのか、それとも本当の名前を隠しているのか。なにはともあれ、呼べる名前ができたことは喜ばしい。

「では銀色様、ご飯を食べましょう!」

 カレー皿を二つ持って居間に向かうと、銀色様も尻尾を揺らしながら私の後ろをついてきた。
 炬燵こたつのスイッチを入れて、どうぞどうぞと彼に勧める。炬燵こたつははじめてなのか、最初は警戒していた銀色様も、足を入れた途端に「ほう」と息を吐いた。

「これは……なかなか」
炬燵こたつは、はじめてですか?」
「目にしたことはあるが、入るのははじめてだ。こんなに心地がよいものだとは……」

 天板に頬をぴったりつけて、尻尾をぶんぶんと振る銀色様は……成人男性の見た目をした方に言う言葉ではないけれど、非常に愛らしく見える。

「銀色様。炬燵こたつもいいけど、ご飯を食べましょう」

 私はそう言いながら、棚に並んだ焼酎しょうちゅうあさる。そしてスーパーやコンビニでも見る一般的な銘柄のものを手に取って、氷を入れたコップに注いで銀色様に手渡した。

「銀色様。お酒をどうぞ」
焼酎しょうちゅうか。焼酎しょうちゅうは好きだ」

 ふんふんと中身の匂いを嗅いで、銀色様はほにゃりと表情を緩めた。よかった、高級なものじゃないと口に合わない、なんてことはなくて。

「はるかは呑まんのか」
「呑みませんよ。私未成年ですし」
「ホーリツというやつか。人間は不便だな」

 銀色様はそう言いながら、さっそく焼酎しょうちゅうをぐびりとあおる。そして紅い唇を舌でぺろりと舐めた。

「うん、美味い」

 満足そうにつぶやいて、今度はカレーをスプーンにすくう。そしてどこか神妙な面持ちで、それを口に運んだ。
 私は銀色様の反応をドキドキしながら見守った。今度こそ、お口に合うといいのだけれど。味見をした感じは、悪くないと思ったんだけどな。
 銀色様はしばらく口をもぐもぐと動かしてから、カレーをごくりと飲み込んだ。

「うむ、今度は食べられる」

 ほっとした表情をした彼は、またカレーに口をつける。それを見て安堵感が胸に湧き、肩の力がふっと抜けた。

「ほれ、はるかも食べんか」
「あっ。そうですよね!」

 お行儀悪くスプーンでこちらを指す銀色様に言われて、私も慌ててカレーに手をつけた。カレーはごく一般的な『おうちカレー』の味がする。だが、これがいいのだ。

「ちゃんと、美味しいですね」
「あとは米がふつうの米だったらなぁ。レンジでチンする米とやらより、やはり炊き立てが好きだ」
「……明日は、お米をちゃんと炊きますね」

 スマホでやり方をきちんと調べてから炊こう。今日のような失敗をしたら、絶対にまた怒られる。そんなことを思いながらカレーを食べていると――
 指先に、毛玉のようなものが触れる感触がした。
 視線を動かしそちらを見ると、ふわふわとした白い毛の小狐が私の周囲をうろついている。これは銀色様の……関係者? かな。
 恐る恐る抱き上げると、小狐は大人しく私の腕に収まった。

「か、可愛い……!」

 もふもふだ。すっごい毛並みのいいもふもふだ。

「なんだ白丸しろまる、お前も来たのか」

 銀色様がその小狐に声をかけると、小狐は鈴の鳴るような声で『コン』と鳴いた。

「うわ~、白丸くんって言うんでちゅか? もっふもふでちゅねぇ!」

 人はなぜ、可愛い生き物を目の前にすると幼児言葉になってしまうのか。私は『白丸くん』を抱きしめて、その柔らかな毛並みを堪能した。
 白丸くんは大人しく私に抱きしめられていて、頬を時々ぺろぺろと舐めてくる。なんて可愛いお狐様なのだろう。

「……はるか。その気色の悪い言葉遣いをやめろ。白丸は神格に近い化け狐で、お前より五十年は長生きしておるぞ」

 銀色様の言葉を聞いて、私はぽかんとした。
 ……この可愛いお狐様は、父母よりも年上らしい。神格に近いっていうのは、神様に近いということかな。

「そ、それは失礼を」

 白丸くんを床に下ろして慌てて謝罪すると、気にするなというように指をぺろぺろと舐められる。
 ……可愛い、やっぱりもふもふしたい。


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