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1巻
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アイル様はとってもお話がお上手だ。教養に溢れているってこういう人のことを言うのかしら。
一通り話を聞いた後、私はアイル様に訊ねた。
「アイル様、その! その立派なお耳と尻尾に触りたいと思うのは、いけないことでしょうか?」
これは、実はもっとも訊いておきたかったことだった。
あんなにふさふさした耳や尻尾を目の前にして、訊かないほうがおかしいと思う!
「……ルミナは、これ、気持ち悪くないの?」
アイル様は恐る恐る訊ねてきた。
気持ち悪い? どうして? と私は一瞬目を丸くしたけれど、ユーレリア王国では、獣人への偏見や差別があるのだということを思い出した。
「気持ち悪くないですよ? むしろ立派なお耳と尻尾は素敵だと思います! ふさふさで気持ち良さそうです。触りたいです」
力説する私の手をアイル様がそっと取る。
「ルミナが望むなら……いっぱい触って?」
そう言うアイル様の頬はなぜか上気し、その瞳にはうっとりとした熱がこもっていて。
目を思わず逸らしたくなるくらいになんだか色っぽかった。
な、なんでそんな顔を!
「耳や尻尾はね、弱点でもあるんだけど、私たちが気持ち良くなってしまう部分だから……番にしか触らせないんだ。ルミナが私を気持ち良くしてくれるのなら、私に断る理由なんてないよ。さぁ、触って?」
そう言ってアイル様はふさふさで大きな尻尾を差し出してきた。
でも、なんだか私の思っていた、もふもふ! ふさふさ! 気持ちいい! では済まない気がして――
今日は触るのを、遠慮しておいた。
☆ ☆ ☆
アイル様は私を膝に乗せた状態で、地図を広げて旅程の説明をしてくれた。
……こんな遠くに、連れて行かれるんだ。
美しい指先が地図の上の道をなぞるのを見ながら私はとても驚いた。
これまでほとんど家からも出たことがないのに、はじめての遠出が獣人にお嫁入りするためだなんて。今さらながら不思議な気持ちだ。
獣人の国『ライラック王国』への道のりは馬車で三日と少しだとアイル様は教えてくれた。マシェット子爵家から国境までは他領を挟みつつも割合近くにあるので、短い日程で済むのだそう。
三日でも短いのかと私が目を丸くすると、アイル様はくすくすと笑った。
「今日はフォルトという土地に泊まる予定なんだよ。そこの領主は親獣人派だから安心なんだ」
「親獣人派?」
聞き慣れない言葉に私は首を傾げた。
「このユーレリア王国には、反獣人派という、獣人に悪感情を抱く人も多いのだけれど、そうでない人々もちゃんといるんだ」
そう言ってアイル様は優しく私の頭を撫でてくれる。その手のひらの心地よさに、私は思わずうっとりと目を閉じた。
「お義姉様たちが、マシェット子爵家は中立派だと言っていました」
「うん、うん。よく知っているね。中立派は単純にどちらの派閥につくかを様子見している者たちが多いのだけれど、敵対していないだけでもとてもありがたいんだよ。交易もちゃんと持てるしね」
……なるほど、なんだか複雑だ。理解しようと眉間に皺を寄せながら考える私の頭を、アイル様はまた優しく撫でた。
「フォルトに着いたら可愛い服を買おうね。あの忌まわしい家で与えられた服なんて捨ててしまおう。美味しいものもたくさん食べてゆっくりしよう。フォルトは海が近いから海沿いを歩くのも楽しいと思うよ。ルミナがフォルトを気に入るのであれば滞在を延ばすのもいいね」
街に着いたら私としたいことを語るアイル様は、とても楽しそうだ。
それを聞いていると、嬉しい気持ちと、むず痒い気持ちと、不安な気持ちで心がそわそわとする。
――大事にされてもいいのかな。彼を信じていいのかな。愛されてもいいのかな。
そんな期待をしてしまう私と、
――大事にされると思うの? 血の繋がった父すら私を見捨てたのに? 本当に私を愛してくれる人なんているの?
期待をするなと警告する私と。
相反する気持ちで心が左右に強い力で引っ張られている感じがする。
無条件に与えられる愛を信じるということは、家族にすら愛されなかった私にはなかなかにハードルが高い。
「ルミナ?」
私はいつの間にか不安げな表情のアイル様に覗き込まれていた。
「なにか不安なのかな。言ってみて、私の大切なルミナ」
後ろから抱きしめられながら優しく囁かれる。その言葉と体温はまるで甘い蜜のようで、まだ一日も一緒にいない人なのに、私の心の硬い部分が蕩けそうになる。
「……少し、不安で。すべてが急で心が追いついていないのかもしれないです」
今の気持ちをどう表現していいのかわからなくて、眉間に皺を寄せながら私は言った。
するとアイル様は柔らかく微笑み、私の頬に自分の頬を擦り寄せた。
「そうだね、急に君を攫ってしまったから。突然すぎて戸惑うのは仕方ないことだよ」
そこでアイル様は、言葉を切って沈黙した。なにか言い辛いことを言おうとしている、そんな重い沈黙だ。私は次の言葉を促すようにアイル様を見つめた。
「……人は番を必要としない生き物だから、君は私以外の他の誰かを愛することもできるんだ。だけど私には君しかいなくて、君を手放すことができないから。その、とても身勝手なのはわかっているのだけど……私を愛して欲しい」
そう言うアイル様の表情は悲愴感に満ちていた。
獣人の番同士は生まれながらに一対で、出会った瞬間互いが番だと気づき、自然に求め合い結ばれるそうだ。
しかし番という存在を必要としない、人間が番だった場合。
恋人がもう存在する、獣人への嫌悪感が強い等、様々な理由で獣人が人間に拒絶されることはままあるらしい。
拒絶された獣人が番の喪失に耐えられず、人間の番を強引に攫うこともある。それにより獣人に悪感情を持つ人間がますます増え、獣人が人間の番を得られる機会はさらに減ってしまう。
「……嫌な悪循環だよね」
深いため息を吐きながら、アイル様は説明してくれた。
(そっか。アイル様も不安なんだ)
私が彼の愛を信じていいのか不安なように、彼も人間である私が彼を選ばないことを恐れているんだ。
「アイル様。私……愛されることにも、愛することにも慣れていないんです。だから、少しずつになるかもしれませんけど、頑張りますから!」
アイル様は、優しくて、素敵で、私をあの地獄から助けてくれた人。
彼となら、愛し愛される関係を築けるのかもしれない。
私の言葉を聞いて蕩けるような笑顔を見せるアイル様を見て、そう思った。
馬車が少し振動して止まり、御者が目的地への到着を告げた。
馬車を降りる時、まるで貴婦人をエスコートするかのようにアイル様が私の手を引いてくれた。一応私は子爵家の令嬢なのだけど今までされたことなんてなかったのだ。私の心は少し浮き立った。
馬車から降ろされたのは、見上げるほどに大きなお屋敷の前。
フォルトを治めている貴族の屋敷で今日はここに泊めていただくのだと、アイル様が教えてくれた。
屋敷は少し小高い丘の上に建っており、そこからは大きな街が一望できた。
そういえば御者さんはどんな方なんだろう? と目を向けると、そこには年下に見える少年がいた。
彼はオレンジに近い茶色の髪の少年で、頭からは長い耳が飛び出している。
「……うさぎさんだ」
口から零れた私の言葉を耳聡く聞きつけたうさぎさんがこちらへ顔を向け、ニコリと微笑んだ。
ああ、お耳がぴょこぴょこしていて可愛らしい!
「はじめまして、アイル様の番様。従者のフェルズと申します。アイル様、とてもお可愛らしい方ですね」
「そうだろう? 私の番は世界一可愛いんだ! だけど減るからあまり見るんじゃないぞ」
フェルズさんの言葉に、アイル様が満面の笑みで得意げな顔をして答える。
減りませんよ、アイル様。
……それにしても獣人さんと人間の美的感覚は違うのかしら?
私はずっと義母と義姉に醜いと言われていたし、自分でもみすぼらしい容姿だと思う。
義母たちは、長くて黒い艶めいた髪、肉感的で女性らしい体、赤い唇にきゅっと上がった大きな目……そんな派手な美女たちだったから、比べて何度も落ち込んだものだ。
「アイル様、フェルズさん。私、可愛くなんてないですよ」
私がそう告げると、なにを言っているんだ、という顔でアイル様とフェルズさんがこちらを見る。
「くすんだ金髪でぱさぱさで藁みたいですし」
「うん、綺麗なブロンドだね。毎日櫛を入れて香油を塗り込んだら、もっともっと艶々の美しい髪になるね」
「ずっと満足にご飯を食べていなかったので、肌艶も悪いですし、ガリガリですし、傷だらけですし」
「うん。綺麗な白い肌だね。華奢で折れそうな体なのは私も心配だから、これからはたくさん美味しいものを食べようね。傷のことは私はまったく気にならないと言っただろう?」
「目だって、くすんだ灰色みたいな青ですし」
「綺麗な透明の青だね。私の故郷の海のようだよ」
「顔立ちだって、整っておりません」
「なにを言っているんだい⁉ 化粧でけばけばしくごまかした君の義母と違って、君は素顔でもとても可愛らしくて妖精のようだよ! ああ、虐げられすぎて君の自己認識は大分歪んでしまっているんだね」
可哀想に、と言ってアイル様が泣きそうな顔で抱きしめてくる。
歪んでいる? そうなのかしら?
フェルズさんもなぜか悲しそうな暗い顔をしていて、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「君の自己認識を正すために、毎日可愛いところを挙げるから!」
真剣な目をして、アイル様はそう宣言した。
毎日……毎日⁉ それはすごく恥ずかしいしどう応対したらいいものかしら!
「とりあえずは、その忌々しい服を脱ぐために買い物に行こう? ルミナはどんな服が好き? 靴の好みは?」
アイル様にそう訊かれて「今まで考えたこともなかったから、なにが好きなのかわからないんです」と答えたら、アイル様が抱きしめる力を強くして、綺麗な瞳からポロポロと大粒の涙を零したので驚いた。
……旦那様は案外、泣き虫なのかもしれない。
「アイル殿! とうとう番を見つけたのだな!」
その時、朗々とした声が屋敷の方から響いた。
こちらに駆け寄って来たのは、身長が二メートル以上あろうかという筋肉質で大柄な男性だった。
白いシャツにチャコールグレーのトラウザーズ。シャツの胸元は筋肉ではち切れんばかりに膨らんでいて、声も体もとても大きい。
今まで見たことがないタイプの男性だったので、少し腰が引けてしまった私は思わずアイル様の服の裾をぎゅっと掴んでしまう。
恐る恐る、私の五十センチくらい上にあるその男性の顔を見上げると……
日焼けした精悍なお顔に燃えるような赤い髪。意志が強そうな金色の瞳。
――そして頭の上にはまぁるい獣のお耳。お尻にも長くて先っぽがふさふさの尻尾がある。
「こちらのご領主様は、獣人さんなのですか?」
獣人の領主がいるなんて……予想外のことに目を丸くしてしまう。
「違うよ、アイル殿の番殿。俺はオーランド・ミラー。この屋敷の女主人ヴィクトリア・ミラーの入り婿だ」
にかっ! とオーランド様が豪快な笑みを浮かべて自己紹介をしてくれた。
「ルミナ・マシェ――」
「ルミナ。ルミナ・アストリーと名乗って?」
オーランド様に自己紹介を返そうとしたら、アイル様に頬にキスをされながら訂正されたので慌てて言い直す。
「ル、ルミナ・アストリーと申します。オーランド様」
私の国では婚姻後は元の姓を名乗ってもいいし、夫の姓を選んでもいいという慣習になっている。獣人の国も恐らく同じなんじゃないかしら?
私はアイル様と正式な婚姻関係を結んでいないので、まだマシェット姓しか名乗れない。
けれどマシェットはいい思い出がある名前じゃないし、今後はアイル様の姓を名乗らせていただこう。
(私、アイル様のお嫁さんになるのね)
改めて実感すると少し恥ずかしくて、なんだかくすぐったい。
「オーランド殿は獅子族でね。元はライラック国の高位貴族だったのだけど……ヴィクトリア様を番と見初めて強引に入り婿になってしまったんだ」
「強引にではない! 俺とヴィクトリアは相思相愛だっ!」
ガオッ! と効果音がしそうな調子でオーランド様が吠えるので、私は思わずビクリとしてしまう。
「番に『決闘で勝ったら婿にしろ』と迫ることのどこが強引じゃないんだ。ヴィクトリア様が親獣人派じゃなければ、問答無用で衛兵に引き渡されて、立派な外交問題になっていたよ」
アイル様が呆れた顔でため息をつく。
決闘? この大柄で筋肉質で強そうな男性と? ヴィクトリア様ってどんな女性なの?
いろいろと想像しようとしたが、想像力が追いつかない。
「それと私の番を驚かせないでくれないか? 君のお相手と違って私の番は繊細で、か弱いんだ。オーランド殿のような男性には慣れていないんだよ」
「確かにアイル殿の番は小さいなぁ。触ると折れそうじゃないか! しかし物腰だけは柔らかい腹黒がとうとう番を得たか。この子も可哀想だなぁ」
「――ケンカを売っているのなら、買うけれど? それと私の番を勝手にじろじろ見るな。目を抉るぞ」
アイル様が腹黒⁉ それに目を抉るって……アイル様、発言がなんだか不穏です!
口調も荒いし、アイル様が纏う黒い雰囲気がちょっと怖い。
しかしこれは……男の友情なのか、一触即発の剣呑な雰囲気なのか。
いまいちわからずに不安になってフェルズさんに目を向けると、彼はニコニコと笑っていたので、多分いつもこんな感じなんだろう。私はほっとして息を吐いた。
そしてほっとしたついでに、私は一つ疑問に思ったことを訊いてみることにした。
「あの……どうして私が、アイル様の番だって一目でわかったんですか?」
出会い頭から番と断定され、少し気になっていたのだ。
「匂いがするんだよ、アイル殿の匂いがルミナ嬢の体から。舐められたりしたろ? マーキングされてんだよ」
こともなげにオーランド様が言う。
アイル様の匂いが……私の体からしているの? なんだかよくわからないけど、いやらしい感じがする。顔が自然に真っ赤になって、私は思わずうつむいた。
「明け透けな言い方を。私の番は箱入りだから、今少しずついろいろなことを教えている最中なんだ。そんな言い方は止めろ」
不機嫌そうに言いながら私の肩を抱きすくめ、アイル様は長く鋭い犬歯を見せてオーランド様を威嚇した。
アイル様の獣性を目の当たりにして、ああこの人は獣人なんだ……と改めて感じたけれど、不思議と怖くはなかった。
けど、殺気が! 殺気が肌を刺すようで痛いんですけど!
生まれてはじめて身近で感じる本物の殺気に、歯の根が合わなくなる。
「だから精液の匂いがしないのか。マーキングにしては薄い匂いだとは思ったんだが……」
「オーランド様。そこまでにしないとアイル様に喉を裂かれてしまいますよ」
なおも会話を続けようとするオーランド様の腰のあたりをぽんぽんと叩いて、フェルズさんが止める。
その時ようやくオーランド様もアイル様の様子に気づいたようで、かなり焦った顔をした。
「アイル殿! すまん! 今回も滞在していくんだろう? さっそく屋敷へ案内しよう!」
大きい体を丸めながら謝るオーランド様を見ながら、私は不思議な気持ちになる。
あんなに大きい体の人が、アイル様のような細身の美青年を怖がるなんて……
そんな気持ちが顔に出ていたのか、フェルズさんが小声で「アイル様は、国の三指に入る武芸者なんですよ」と補足してくれた。人は見た目によらないのね。
オーランド様もかなりお強いそうだけど、実力が拮抗している分、戦えば双方無事では済まないだろうとのこと。そんな命に関わるケンカは止めて欲しい。
「ああ、それなんだが。申し訳ないがご当主へのご挨拶は後ほどにして、先に街へ買い出しに出てもいいかな? 急にルミナを連れ出してしまったものでね。彼女の準備が整っていないんだ。街までは歩いて行くから、屋敷で馬車を預かってもらってもいいだろうか?」
「ああ、わかった。フェルズも置いていくんだろう?」
先ほどまで殺気を放っていたアイル様は、ケロリとした顔でオーランド様と会話をしている。
なんだか疲れた……そんな思いで遠い目をしていると、フェルズさんに同情的な眼差しで見つめられた。
「ルミナ、街へデートに行こうか!」
オーランド様との会話を終え、こちらを向いて明るく微笑んだアイル様は、優しげで紳士的で柔和な、私が知っている彼だった。
☆ ☆ ☆
お屋敷がある小高い丘から、街を見下ろしてみる。
あれがアイル様が向かおうと言った街だろう。かなり距離があるように思うのだけど、アイル様は歩くと言った。
私の足だとあそこまでどれくらいかかるのかしら。足手まといになるのが、なんだかとても心苦しい。
そんなことを考えていると、アイル様に軽々とお姫様抱っこをされた。
「ルミナ。ちょっと我慢してね」
まさか、抱えて運んでくださるつもりなの⁉
私は痩せこけているので重くはないと思うけれど、それでも抱えて行くには遠い距離だと思う。
「私の首にしっかり腕を回して掴まって。それと口は絶対に閉じていてね。舌を噛むと危ないから」
アイル様に微笑んでそう言われ、コクコクと頷きながら私は彼の首に腕を回した。
この体勢はアイル様との距離が近い。少し慣れてきたとはいえ、絶世の美形の顔がこんなに近くにあるのは心臓に悪い。
「一気に、街まで飛ばすから」
「えっ!」
私が問いを発する間もなく、アイル様の足が軽やかに地面を蹴った。
神速という言葉を彷彿とさせる、人間では決して出せない速さ。
アイル様の足が地面を蹴るごとに、景色がすごいスピードでどんどん背後に流れていく。これって馬より速いんじゃ!
しっかりと抱き込んでくれているおかげか思ったよりも揺れはないけれど、慣れないスピードが怖くて私はアイル様に力を込めてしがみついてしまう。
獣人の身体能力は高いと聞いていたけど、ここまでのものだったなんて。
「――!」
前方に大きな岩があるのにもかかわらず、アイル様がそのまま走っていくので私は真っ青になった。
坂だから加速がついて止まれないの⁉
(ぶつかるっ!)
怖かったけれど目を閉じる暇もない。
その時。ふわり、と浮遊感があったかと思うと、地面が遠くなり空が近くなった。
アイル様が跳躍したんだ……! なんて脚力なの!
岩の上まで飛び上がって、そのまま飛び降りて――アイル様は長い足を動かし続け、あっという間に街の前まで着いてしまった。
(あんな距離を一瞬で……)
先ほどまでいた丘を見上げると、屋敷からの距離は思っていたよりもずっと遠かった。
緊張していたからか、怖かったからか、私は一切走っていないのに息が切れている。
「ルミナ、大丈夫?」
私の頬に頬を擦り寄せながらアイル様が訊いてきたので、慌ててコクコクと頭を上下に振った。
するとアイル様が安堵したように笑う。その息はまったく乱れていない。獣人ってすごいのね……
「ごめんね、お店がもう少しで閉まる頃合いだったから。急いだ方がいいと思って」
そう言いながらアイル様は私を抱えたまま、街へ入ろうとした。
門兵さんはアイル様と顔見知りらしく、私を抱えたアイル様を驚いた顔で見た後に頭を少し下げ、すんなりと街の中へ通してくれた。
ここは結構規模が大きな街、だと思う。
以前、使用人たちと領地にある街へ買い物に行かされたことがある。その時は、こんなに人はいなかったし建物も立派じゃなかった。
今思えばお前は使用人と同じ扱いなんだ、という義母の嫌がらせだったのだろうけれど、あの時の私は純粋に家の外に出られることが嬉しかった。
アイル様に子供のように抱きかかえられている私を、街の人がちらちらと見ている……恥ずかしい。
「アイル様。私自分の足で歩けます!」
「ダメ。迷子になったり誰かに攫われたりしたらどうするの? 私が心配だからこのままでね」
抗議したけれど、あっさり却下されてしまった。
アイル様って……たまに強引な気がする。
ガッチリと抱き込まれてしまうと、私の力では脱出ができないので、大人しくアイル様の腕の中に収まることにした。
「いい子だね、可愛い私のルミナ」
私が力を抜いて身を任せると、アイル様が満足そうな顔で、ぺろりと私の頬を数回舐めた。舌の感触が生々しくて、思わず体がびくりと震えてしまう。
そんな私の様子を見たアイル様は妖艶に笑って、さらに私の首筋までざりざりと何度も舐めてきた。
「アイル様っ、人前! 人前です!」
いくら世事に疎い私でも、これが人前ですることじゃないとわかる。
私が抗議すると、アイル様は数回首筋の肌を甘く食んでから、名残惜しそうな様子で唇を離した。先ほどオーランド様に聞いた『マーキング』という言葉が頭をよぎって、なんだか恥ずかしくなり、アイル様の胸に頭を押しつけて顔を隠す。すると、アイル様が声を押し殺して笑った気配がした。
……なにがおかしいんですか、もう!
「お洋服を買おうね、ルミナ」
「はい……」
やけにご機嫌なアイル様が向かったのは、見るからに高級そうな店の前だった。窓ガラス越しに見えるお洋服の数々はどう見ても高価なもので……
こんなところに、私が入っていいのかしら。
戸惑う私を抱えたままアイル様が店内に入ると、上品そうな四十代くらいの女店主が出迎えてくれた。店内は広くて、様々な衣服や靴、宝石などが並べられている。男物も女物も扱っているようだ。
見慣れない店内に、私は思わずきょろきょろとしてしまった。
「いらっしゃいませ。アストリー公爵様。本日はどのような品をご所望ですか?」
「今日は私のものではなく、私の番の服を五十着ほど見繕って欲しいんだ。下着と靴、アクセサリーもセット分頼む。普段使いだけじゃなくてよそ行きのものも必要だな……」
「まぁ、アストリー公爵様、番を得たのですね。おめでとうございます!」
「アイル様!」
アイル様と女店主の会話の途中に、私は悲鳴のような声を上げてしまう。
「わ……私の体は一個だけなので! 五十着もお洋服は必要ありませんよ⁉」
「ああ、私の番はなんて欲がないんだ。でもねルミナ、王都に帰ったら百着ほどまた追加で――」
「アイル様っ‼」
今まで義母から与えられた粗末な麻の服二着を、自分の手で洗濯しながら着回していた私には五十着も百着も気が遠くなるような数字だ。
というかそんなに、いらない。あっても困る。
「十着で、十着くらいまででお願いします」
一通り話を聞いた後、私はアイル様に訊ねた。
「アイル様、その! その立派なお耳と尻尾に触りたいと思うのは、いけないことでしょうか?」
これは、実はもっとも訊いておきたかったことだった。
あんなにふさふさした耳や尻尾を目の前にして、訊かないほうがおかしいと思う!
「……ルミナは、これ、気持ち悪くないの?」
アイル様は恐る恐る訊ねてきた。
気持ち悪い? どうして? と私は一瞬目を丸くしたけれど、ユーレリア王国では、獣人への偏見や差別があるのだということを思い出した。
「気持ち悪くないですよ? むしろ立派なお耳と尻尾は素敵だと思います! ふさふさで気持ち良さそうです。触りたいです」
力説する私の手をアイル様がそっと取る。
「ルミナが望むなら……いっぱい触って?」
そう言うアイル様の頬はなぜか上気し、その瞳にはうっとりとした熱がこもっていて。
目を思わず逸らしたくなるくらいになんだか色っぽかった。
な、なんでそんな顔を!
「耳や尻尾はね、弱点でもあるんだけど、私たちが気持ち良くなってしまう部分だから……番にしか触らせないんだ。ルミナが私を気持ち良くしてくれるのなら、私に断る理由なんてないよ。さぁ、触って?」
そう言ってアイル様はふさふさで大きな尻尾を差し出してきた。
でも、なんだか私の思っていた、もふもふ! ふさふさ! 気持ちいい! では済まない気がして――
今日は触るのを、遠慮しておいた。
☆ ☆ ☆
アイル様は私を膝に乗せた状態で、地図を広げて旅程の説明をしてくれた。
……こんな遠くに、連れて行かれるんだ。
美しい指先が地図の上の道をなぞるのを見ながら私はとても驚いた。
これまでほとんど家からも出たことがないのに、はじめての遠出が獣人にお嫁入りするためだなんて。今さらながら不思議な気持ちだ。
獣人の国『ライラック王国』への道のりは馬車で三日と少しだとアイル様は教えてくれた。マシェット子爵家から国境までは他領を挟みつつも割合近くにあるので、短い日程で済むのだそう。
三日でも短いのかと私が目を丸くすると、アイル様はくすくすと笑った。
「今日はフォルトという土地に泊まる予定なんだよ。そこの領主は親獣人派だから安心なんだ」
「親獣人派?」
聞き慣れない言葉に私は首を傾げた。
「このユーレリア王国には、反獣人派という、獣人に悪感情を抱く人も多いのだけれど、そうでない人々もちゃんといるんだ」
そう言ってアイル様は優しく私の頭を撫でてくれる。その手のひらの心地よさに、私は思わずうっとりと目を閉じた。
「お義姉様たちが、マシェット子爵家は中立派だと言っていました」
「うん、うん。よく知っているね。中立派は単純にどちらの派閥につくかを様子見している者たちが多いのだけれど、敵対していないだけでもとてもありがたいんだよ。交易もちゃんと持てるしね」
……なるほど、なんだか複雑だ。理解しようと眉間に皺を寄せながら考える私の頭を、アイル様はまた優しく撫でた。
「フォルトに着いたら可愛い服を買おうね。あの忌まわしい家で与えられた服なんて捨ててしまおう。美味しいものもたくさん食べてゆっくりしよう。フォルトは海が近いから海沿いを歩くのも楽しいと思うよ。ルミナがフォルトを気に入るのであれば滞在を延ばすのもいいね」
街に着いたら私としたいことを語るアイル様は、とても楽しそうだ。
それを聞いていると、嬉しい気持ちと、むず痒い気持ちと、不安な気持ちで心がそわそわとする。
――大事にされてもいいのかな。彼を信じていいのかな。愛されてもいいのかな。
そんな期待をしてしまう私と、
――大事にされると思うの? 血の繋がった父すら私を見捨てたのに? 本当に私を愛してくれる人なんているの?
期待をするなと警告する私と。
相反する気持ちで心が左右に強い力で引っ張られている感じがする。
無条件に与えられる愛を信じるということは、家族にすら愛されなかった私にはなかなかにハードルが高い。
「ルミナ?」
私はいつの間にか不安げな表情のアイル様に覗き込まれていた。
「なにか不安なのかな。言ってみて、私の大切なルミナ」
後ろから抱きしめられながら優しく囁かれる。その言葉と体温はまるで甘い蜜のようで、まだ一日も一緒にいない人なのに、私の心の硬い部分が蕩けそうになる。
「……少し、不安で。すべてが急で心が追いついていないのかもしれないです」
今の気持ちをどう表現していいのかわからなくて、眉間に皺を寄せながら私は言った。
するとアイル様は柔らかく微笑み、私の頬に自分の頬を擦り寄せた。
「そうだね、急に君を攫ってしまったから。突然すぎて戸惑うのは仕方ないことだよ」
そこでアイル様は、言葉を切って沈黙した。なにか言い辛いことを言おうとしている、そんな重い沈黙だ。私は次の言葉を促すようにアイル様を見つめた。
「……人は番を必要としない生き物だから、君は私以外の他の誰かを愛することもできるんだ。だけど私には君しかいなくて、君を手放すことができないから。その、とても身勝手なのはわかっているのだけど……私を愛して欲しい」
そう言うアイル様の表情は悲愴感に満ちていた。
獣人の番同士は生まれながらに一対で、出会った瞬間互いが番だと気づき、自然に求め合い結ばれるそうだ。
しかし番という存在を必要としない、人間が番だった場合。
恋人がもう存在する、獣人への嫌悪感が強い等、様々な理由で獣人が人間に拒絶されることはままあるらしい。
拒絶された獣人が番の喪失に耐えられず、人間の番を強引に攫うこともある。それにより獣人に悪感情を持つ人間がますます増え、獣人が人間の番を得られる機会はさらに減ってしまう。
「……嫌な悪循環だよね」
深いため息を吐きながら、アイル様は説明してくれた。
(そっか。アイル様も不安なんだ)
私が彼の愛を信じていいのか不安なように、彼も人間である私が彼を選ばないことを恐れているんだ。
「アイル様。私……愛されることにも、愛することにも慣れていないんです。だから、少しずつになるかもしれませんけど、頑張りますから!」
アイル様は、優しくて、素敵で、私をあの地獄から助けてくれた人。
彼となら、愛し愛される関係を築けるのかもしれない。
私の言葉を聞いて蕩けるような笑顔を見せるアイル様を見て、そう思った。
馬車が少し振動して止まり、御者が目的地への到着を告げた。
馬車を降りる時、まるで貴婦人をエスコートするかのようにアイル様が私の手を引いてくれた。一応私は子爵家の令嬢なのだけど今までされたことなんてなかったのだ。私の心は少し浮き立った。
馬車から降ろされたのは、見上げるほどに大きなお屋敷の前。
フォルトを治めている貴族の屋敷で今日はここに泊めていただくのだと、アイル様が教えてくれた。
屋敷は少し小高い丘の上に建っており、そこからは大きな街が一望できた。
そういえば御者さんはどんな方なんだろう? と目を向けると、そこには年下に見える少年がいた。
彼はオレンジに近い茶色の髪の少年で、頭からは長い耳が飛び出している。
「……うさぎさんだ」
口から零れた私の言葉を耳聡く聞きつけたうさぎさんがこちらへ顔を向け、ニコリと微笑んだ。
ああ、お耳がぴょこぴょこしていて可愛らしい!
「はじめまして、アイル様の番様。従者のフェルズと申します。アイル様、とてもお可愛らしい方ですね」
「そうだろう? 私の番は世界一可愛いんだ! だけど減るからあまり見るんじゃないぞ」
フェルズさんの言葉に、アイル様が満面の笑みで得意げな顔をして答える。
減りませんよ、アイル様。
……それにしても獣人さんと人間の美的感覚は違うのかしら?
私はずっと義母と義姉に醜いと言われていたし、自分でもみすぼらしい容姿だと思う。
義母たちは、長くて黒い艶めいた髪、肉感的で女性らしい体、赤い唇にきゅっと上がった大きな目……そんな派手な美女たちだったから、比べて何度も落ち込んだものだ。
「アイル様、フェルズさん。私、可愛くなんてないですよ」
私がそう告げると、なにを言っているんだ、という顔でアイル様とフェルズさんがこちらを見る。
「くすんだ金髪でぱさぱさで藁みたいですし」
「うん、綺麗なブロンドだね。毎日櫛を入れて香油を塗り込んだら、もっともっと艶々の美しい髪になるね」
「ずっと満足にご飯を食べていなかったので、肌艶も悪いですし、ガリガリですし、傷だらけですし」
「うん。綺麗な白い肌だね。華奢で折れそうな体なのは私も心配だから、これからはたくさん美味しいものを食べようね。傷のことは私はまったく気にならないと言っただろう?」
「目だって、くすんだ灰色みたいな青ですし」
「綺麗な透明の青だね。私の故郷の海のようだよ」
「顔立ちだって、整っておりません」
「なにを言っているんだい⁉ 化粧でけばけばしくごまかした君の義母と違って、君は素顔でもとても可愛らしくて妖精のようだよ! ああ、虐げられすぎて君の自己認識は大分歪んでしまっているんだね」
可哀想に、と言ってアイル様が泣きそうな顔で抱きしめてくる。
歪んでいる? そうなのかしら?
フェルズさんもなぜか悲しそうな暗い顔をしていて、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「君の自己認識を正すために、毎日可愛いところを挙げるから!」
真剣な目をして、アイル様はそう宣言した。
毎日……毎日⁉ それはすごく恥ずかしいしどう応対したらいいものかしら!
「とりあえずは、その忌々しい服を脱ぐために買い物に行こう? ルミナはどんな服が好き? 靴の好みは?」
アイル様にそう訊かれて「今まで考えたこともなかったから、なにが好きなのかわからないんです」と答えたら、アイル様が抱きしめる力を強くして、綺麗な瞳からポロポロと大粒の涙を零したので驚いた。
……旦那様は案外、泣き虫なのかもしれない。
「アイル殿! とうとう番を見つけたのだな!」
その時、朗々とした声が屋敷の方から響いた。
こちらに駆け寄って来たのは、身長が二メートル以上あろうかという筋肉質で大柄な男性だった。
白いシャツにチャコールグレーのトラウザーズ。シャツの胸元は筋肉ではち切れんばかりに膨らんでいて、声も体もとても大きい。
今まで見たことがないタイプの男性だったので、少し腰が引けてしまった私は思わずアイル様の服の裾をぎゅっと掴んでしまう。
恐る恐る、私の五十センチくらい上にあるその男性の顔を見上げると……
日焼けした精悍なお顔に燃えるような赤い髪。意志が強そうな金色の瞳。
――そして頭の上にはまぁるい獣のお耳。お尻にも長くて先っぽがふさふさの尻尾がある。
「こちらのご領主様は、獣人さんなのですか?」
獣人の領主がいるなんて……予想外のことに目を丸くしてしまう。
「違うよ、アイル殿の番殿。俺はオーランド・ミラー。この屋敷の女主人ヴィクトリア・ミラーの入り婿だ」
にかっ! とオーランド様が豪快な笑みを浮かべて自己紹介をしてくれた。
「ルミナ・マシェ――」
「ルミナ。ルミナ・アストリーと名乗って?」
オーランド様に自己紹介を返そうとしたら、アイル様に頬にキスをされながら訂正されたので慌てて言い直す。
「ル、ルミナ・アストリーと申します。オーランド様」
私の国では婚姻後は元の姓を名乗ってもいいし、夫の姓を選んでもいいという慣習になっている。獣人の国も恐らく同じなんじゃないかしら?
私はアイル様と正式な婚姻関係を結んでいないので、まだマシェット姓しか名乗れない。
けれどマシェットはいい思い出がある名前じゃないし、今後はアイル様の姓を名乗らせていただこう。
(私、アイル様のお嫁さんになるのね)
改めて実感すると少し恥ずかしくて、なんだかくすぐったい。
「オーランド殿は獅子族でね。元はライラック国の高位貴族だったのだけど……ヴィクトリア様を番と見初めて強引に入り婿になってしまったんだ」
「強引にではない! 俺とヴィクトリアは相思相愛だっ!」
ガオッ! と効果音がしそうな調子でオーランド様が吠えるので、私は思わずビクリとしてしまう。
「番に『決闘で勝ったら婿にしろ』と迫ることのどこが強引じゃないんだ。ヴィクトリア様が親獣人派じゃなければ、問答無用で衛兵に引き渡されて、立派な外交問題になっていたよ」
アイル様が呆れた顔でため息をつく。
決闘? この大柄で筋肉質で強そうな男性と? ヴィクトリア様ってどんな女性なの?
いろいろと想像しようとしたが、想像力が追いつかない。
「それと私の番を驚かせないでくれないか? 君のお相手と違って私の番は繊細で、か弱いんだ。オーランド殿のような男性には慣れていないんだよ」
「確かにアイル殿の番は小さいなぁ。触ると折れそうじゃないか! しかし物腰だけは柔らかい腹黒がとうとう番を得たか。この子も可哀想だなぁ」
「――ケンカを売っているのなら、買うけれど? それと私の番を勝手にじろじろ見るな。目を抉るぞ」
アイル様が腹黒⁉ それに目を抉るって……アイル様、発言がなんだか不穏です!
口調も荒いし、アイル様が纏う黒い雰囲気がちょっと怖い。
しかしこれは……男の友情なのか、一触即発の剣呑な雰囲気なのか。
いまいちわからずに不安になってフェルズさんに目を向けると、彼はニコニコと笑っていたので、多分いつもこんな感じなんだろう。私はほっとして息を吐いた。
そしてほっとしたついでに、私は一つ疑問に思ったことを訊いてみることにした。
「あの……どうして私が、アイル様の番だって一目でわかったんですか?」
出会い頭から番と断定され、少し気になっていたのだ。
「匂いがするんだよ、アイル殿の匂いがルミナ嬢の体から。舐められたりしたろ? マーキングされてんだよ」
こともなげにオーランド様が言う。
アイル様の匂いが……私の体からしているの? なんだかよくわからないけど、いやらしい感じがする。顔が自然に真っ赤になって、私は思わずうつむいた。
「明け透けな言い方を。私の番は箱入りだから、今少しずついろいろなことを教えている最中なんだ。そんな言い方は止めろ」
不機嫌そうに言いながら私の肩を抱きすくめ、アイル様は長く鋭い犬歯を見せてオーランド様を威嚇した。
アイル様の獣性を目の当たりにして、ああこの人は獣人なんだ……と改めて感じたけれど、不思議と怖くはなかった。
けど、殺気が! 殺気が肌を刺すようで痛いんですけど!
生まれてはじめて身近で感じる本物の殺気に、歯の根が合わなくなる。
「だから精液の匂いがしないのか。マーキングにしては薄い匂いだとは思ったんだが……」
「オーランド様。そこまでにしないとアイル様に喉を裂かれてしまいますよ」
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その時ようやくオーランド様もアイル様の様子に気づいたようで、かなり焦った顔をした。
「アイル殿! すまん! 今回も滞在していくんだろう? さっそく屋敷へ案内しよう!」
大きい体を丸めながら謝るオーランド様を見ながら、私は不思議な気持ちになる。
あんなに大きい体の人が、アイル様のような細身の美青年を怖がるなんて……
そんな気持ちが顔に出ていたのか、フェルズさんが小声で「アイル様は、国の三指に入る武芸者なんですよ」と補足してくれた。人は見た目によらないのね。
オーランド様もかなりお強いそうだけど、実力が拮抗している分、戦えば双方無事では済まないだろうとのこと。そんな命に関わるケンカは止めて欲しい。
「ああ、それなんだが。申し訳ないがご当主へのご挨拶は後ほどにして、先に街へ買い出しに出てもいいかな? 急にルミナを連れ出してしまったものでね。彼女の準備が整っていないんだ。街までは歩いて行くから、屋敷で馬車を預かってもらってもいいだろうか?」
「ああ、わかった。フェルズも置いていくんだろう?」
先ほどまで殺気を放っていたアイル様は、ケロリとした顔でオーランド様と会話をしている。
なんだか疲れた……そんな思いで遠い目をしていると、フェルズさんに同情的な眼差しで見つめられた。
「ルミナ、街へデートに行こうか!」
オーランド様との会話を終え、こちらを向いて明るく微笑んだアイル様は、優しげで紳士的で柔和な、私が知っている彼だった。
☆ ☆ ☆
お屋敷がある小高い丘から、街を見下ろしてみる。
あれがアイル様が向かおうと言った街だろう。かなり距離があるように思うのだけど、アイル様は歩くと言った。
私の足だとあそこまでどれくらいかかるのかしら。足手まといになるのが、なんだかとても心苦しい。
そんなことを考えていると、アイル様に軽々とお姫様抱っこをされた。
「ルミナ。ちょっと我慢してね」
まさか、抱えて運んでくださるつもりなの⁉
私は痩せこけているので重くはないと思うけれど、それでも抱えて行くには遠い距離だと思う。
「私の首にしっかり腕を回して掴まって。それと口は絶対に閉じていてね。舌を噛むと危ないから」
アイル様に微笑んでそう言われ、コクコクと頷きながら私は彼の首に腕を回した。
この体勢はアイル様との距離が近い。少し慣れてきたとはいえ、絶世の美形の顔がこんなに近くにあるのは心臓に悪い。
「一気に、街まで飛ばすから」
「えっ!」
私が問いを発する間もなく、アイル様の足が軽やかに地面を蹴った。
神速という言葉を彷彿とさせる、人間では決して出せない速さ。
アイル様の足が地面を蹴るごとに、景色がすごいスピードでどんどん背後に流れていく。これって馬より速いんじゃ!
しっかりと抱き込んでくれているおかげか思ったよりも揺れはないけれど、慣れないスピードが怖くて私はアイル様に力を込めてしがみついてしまう。
獣人の身体能力は高いと聞いていたけど、ここまでのものだったなんて。
「――!」
前方に大きな岩があるのにもかかわらず、アイル様がそのまま走っていくので私は真っ青になった。
坂だから加速がついて止まれないの⁉
(ぶつかるっ!)
怖かったけれど目を閉じる暇もない。
その時。ふわり、と浮遊感があったかと思うと、地面が遠くなり空が近くなった。
アイル様が跳躍したんだ……! なんて脚力なの!
岩の上まで飛び上がって、そのまま飛び降りて――アイル様は長い足を動かし続け、あっという間に街の前まで着いてしまった。
(あんな距離を一瞬で……)
先ほどまでいた丘を見上げると、屋敷からの距離は思っていたよりもずっと遠かった。
緊張していたからか、怖かったからか、私は一切走っていないのに息が切れている。
「ルミナ、大丈夫?」
私の頬に頬を擦り寄せながらアイル様が訊いてきたので、慌ててコクコクと頭を上下に振った。
するとアイル様が安堵したように笑う。その息はまったく乱れていない。獣人ってすごいのね……
「ごめんね、お店がもう少しで閉まる頃合いだったから。急いだ方がいいと思って」
そう言いながらアイル様は私を抱えたまま、街へ入ろうとした。
門兵さんはアイル様と顔見知りらしく、私を抱えたアイル様を驚いた顔で見た後に頭を少し下げ、すんなりと街の中へ通してくれた。
ここは結構規模が大きな街、だと思う。
以前、使用人たちと領地にある街へ買い物に行かされたことがある。その時は、こんなに人はいなかったし建物も立派じゃなかった。
今思えばお前は使用人と同じ扱いなんだ、という義母の嫌がらせだったのだろうけれど、あの時の私は純粋に家の外に出られることが嬉しかった。
アイル様に子供のように抱きかかえられている私を、街の人がちらちらと見ている……恥ずかしい。
「アイル様。私自分の足で歩けます!」
「ダメ。迷子になったり誰かに攫われたりしたらどうするの? 私が心配だからこのままでね」
抗議したけれど、あっさり却下されてしまった。
アイル様って……たまに強引な気がする。
ガッチリと抱き込まれてしまうと、私の力では脱出ができないので、大人しくアイル様の腕の中に収まることにした。
「いい子だね、可愛い私のルミナ」
私が力を抜いて身を任せると、アイル様が満足そうな顔で、ぺろりと私の頬を数回舐めた。舌の感触が生々しくて、思わず体がびくりと震えてしまう。
そんな私の様子を見たアイル様は妖艶に笑って、さらに私の首筋までざりざりと何度も舐めてきた。
「アイル様っ、人前! 人前です!」
いくら世事に疎い私でも、これが人前ですることじゃないとわかる。
私が抗議すると、アイル様は数回首筋の肌を甘く食んでから、名残惜しそうな様子で唇を離した。先ほどオーランド様に聞いた『マーキング』という言葉が頭をよぎって、なんだか恥ずかしくなり、アイル様の胸に頭を押しつけて顔を隠す。すると、アイル様が声を押し殺して笑った気配がした。
……なにがおかしいんですか、もう!
「お洋服を買おうね、ルミナ」
「はい……」
やけにご機嫌なアイル様が向かったのは、見るからに高級そうな店の前だった。窓ガラス越しに見えるお洋服の数々はどう見ても高価なもので……
こんなところに、私が入っていいのかしら。
戸惑う私を抱えたままアイル様が店内に入ると、上品そうな四十代くらいの女店主が出迎えてくれた。店内は広くて、様々な衣服や靴、宝石などが並べられている。男物も女物も扱っているようだ。
見慣れない店内に、私は思わずきょろきょろとしてしまった。
「いらっしゃいませ。アストリー公爵様。本日はどのような品をご所望ですか?」
「今日は私のものではなく、私の番の服を五十着ほど見繕って欲しいんだ。下着と靴、アクセサリーもセット分頼む。普段使いだけじゃなくてよそ行きのものも必要だな……」
「まぁ、アストリー公爵様、番を得たのですね。おめでとうございます!」
「アイル様!」
アイル様と女店主の会話の途中に、私は悲鳴のような声を上げてしまう。
「わ……私の体は一個だけなので! 五十着もお洋服は必要ありませんよ⁉」
「ああ、私の番はなんて欲がないんだ。でもねルミナ、王都に帰ったら百着ほどまた追加で――」
「アイル様っ‼」
今まで義母から与えられた粗末な麻の服二着を、自分の手で洗濯しながら着回していた私には五十着も百着も気が遠くなるような数字だ。
というかそんなに、いらない。あっても困る。
「十着で、十着くらいまででお願いします」
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