28 / 28
第三話『カステラ』
若旦那たちのカステラ勝負・七
しおりを挟む
カステラは、実はそれほど甘いものではない。というのも砂糖は非常に高価なもので、豪勢に使いたくても『使えない』からだ。なのでカステラは『甘いもの』だと信じて憧れ、実際食べてみると『あらまぁ、南京の方が甘いわね』なんて落胆することもままある話なのだが……
「これは、たまらぬ匂いだな。こんな甘い香りははじめて嗅ぐぞ」
工房にふうわりと漂う香りを嗅ぎながら、新一郎は瞳を閉じた。強面の侍がそうやって『うっとり』などとしている様は絵にはならないが、そんな彼の様子におみつは同じ食い道楽同士親近感を覚えた。
先ほどまで職人が練っていた生地は、型に流し込まれ焼き窯で焼かれている最中だ。大量の汗をかきながら真剣な表情で炭の量を調整する職人の隣には、おたまとおよしがしゃがみ込んでいる。まだ頑是ない彼女たちは、滅多に見られないこの光景に興味津々なのだ。
(本当にいい匂いだわ。カステラが焼ける時にはこんなにいい香りがするんだねぇ)
おみつも肺いっぱいに甘い空気を吸い込む。するとまぁるいお腹が匂いにつられて、ぎゅるりと小さな音を立てた。顔を赤くして周囲を見回したけれど、誰も腹の音に気づいてはいないようだ。おみつはほっと胸を撫で下ろした。
(そうよね、私なんぞに注意を払っている場合じゃあないものね)
そんなことを思いながら、団子のように固まっている旦那衆に目を向ける。
彼らはどんなものをおみつに食べさせようかと、ああだこうだと頭を捻っている最中だ。おみつの八卦見の常連客で、その好みを熟知している一太から情報を聞き出さんとする者も当然居たが……
「これは勝負でございますからねぇ。教えるわけにはいきませんよ」
一太はいつものおっとりとした調子で、しかしきっぱりと断るのだった。そんなところはさすが商人だとおみつは思う。
「なにか必要なものがあれば、うちの小僧に買いにやらせるよ」
佐一がそう提案すると、皆は我も我もと内緒話をするようにして佐一の耳に注文を吹き込んだ。その注文をさらに佐一から伝えられたはしっこそうな小僧は、早足で使い走りに向かう。
「旦那はなにも頼まなくて良かったんですか?」
「む、俺か? 俺は別に勝負をしに来たわけではないからな」
佐一の問いに新一郎はそう返しながら、そわそわとした素振りで窯へと視線をやる。本人はさり気ないつもりらしいが、カステラが気になっていることは見え見えである。
そんな新一郎の様子を見て、おみつはくすりと笑ってしまった。
「む……」
「あ、その。悪気はなかったんですけど」
太く濃い片眉を上げてぎょろりと大きな目を向けられ、おみつはばつが悪い気持ちになる。
「気にしてはおらぬ。ところで……お主のところには、江戸中の菓子が集まるそうだな」
突然そんな話を振られ、おみつはぽかんと口を開けた。そんな少し間の抜けたおみつの顔を見て、今度は新一郎がばつの悪そうな顔になる。彼は視線を泳がせると、困ったように頭をかいた。
(これはもしかしなくても、会話のきっかけを作ってくださったのかしら)
遅ればせてそんな考えに至ったおみつは、慌てて口を開いた。
「ええ、ええ。毎日のようにいっぱいきますよ。ぜんぶ食べきれなくて、ご近所さんに配ることもあるんです」
大抵はおみつや家族の腹に綺麗に収まる菓子だが、来客が立て続けに来すぎると家族だけでは処理できないことも多い。そんな時にはけちけちせずに近所に振る舞うのだが、それは一種の三好屋名物のようになっていた。近所を歩いていると『菓子の日はまだか』なんて子供に訊かれることも多いのだ。
「それはまことか」
迫力のある顔でぐいと距離を詰められ、おみつは冷や汗をかきながら思わず一歩下がる。
「ほ、本当でございますよ。決まった日にやるわけじゃあないんですけれど……」
「そうか……日は決まっておらぬのか」
そう言って大柄な侍はがくりと肩を落とした。その少し気の毒になるくらいの落ち込みっぷりに、おみつは少しばかり同情心が湧いてしまう。
「年明けになると、新しい年を占ってくれと毎日みたいにお客が来るんです」
「ぬ……」
「だからその時期にいらしてくださいましたら、たぶんお菓子をご馳走できますよ」
「まことかっ」
破顔する新一郎を見て、なんとも食い意地が張ったお侍だ、とおみつは自分を完全に棚に上げたことを考えてしまうのだった。
「これは、たまらぬ匂いだな。こんな甘い香りははじめて嗅ぐぞ」
工房にふうわりと漂う香りを嗅ぎながら、新一郎は瞳を閉じた。強面の侍がそうやって『うっとり』などとしている様は絵にはならないが、そんな彼の様子におみつは同じ食い道楽同士親近感を覚えた。
先ほどまで職人が練っていた生地は、型に流し込まれ焼き窯で焼かれている最中だ。大量の汗をかきながら真剣な表情で炭の量を調整する職人の隣には、おたまとおよしがしゃがみ込んでいる。まだ頑是ない彼女たちは、滅多に見られないこの光景に興味津々なのだ。
(本当にいい匂いだわ。カステラが焼ける時にはこんなにいい香りがするんだねぇ)
おみつも肺いっぱいに甘い空気を吸い込む。するとまぁるいお腹が匂いにつられて、ぎゅるりと小さな音を立てた。顔を赤くして周囲を見回したけれど、誰も腹の音に気づいてはいないようだ。おみつはほっと胸を撫で下ろした。
(そうよね、私なんぞに注意を払っている場合じゃあないものね)
そんなことを思いながら、団子のように固まっている旦那衆に目を向ける。
彼らはどんなものをおみつに食べさせようかと、ああだこうだと頭を捻っている最中だ。おみつの八卦見の常連客で、その好みを熟知している一太から情報を聞き出さんとする者も当然居たが……
「これは勝負でございますからねぇ。教えるわけにはいきませんよ」
一太はいつものおっとりとした調子で、しかしきっぱりと断るのだった。そんなところはさすが商人だとおみつは思う。
「なにか必要なものがあれば、うちの小僧に買いにやらせるよ」
佐一がそう提案すると、皆は我も我もと内緒話をするようにして佐一の耳に注文を吹き込んだ。その注文をさらに佐一から伝えられたはしっこそうな小僧は、早足で使い走りに向かう。
「旦那はなにも頼まなくて良かったんですか?」
「む、俺か? 俺は別に勝負をしに来たわけではないからな」
佐一の問いに新一郎はそう返しながら、そわそわとした素振りで窯へと視線をやる。本人はさり気ないつもりらしいが、カステラが気になっていることは見え見えである。
そんな新一郎の様子を見て、おみつはくすりと笑ってしまった。
「む……」
「あ、その。悪気はなかったんですけど」
太く濃い片眉を上げてぎょろりと大きな目を向けられ、おみつはばつが悪い気持ちになる。
「気にしてはおらぬ。ところで……お主のところには、江戸中の菓子が集まるそうだな」
突然そんな話を振られ、おみつはぽかんと口を開けた。そんな少し間の抜けたおみつの顔を見て、今度は新一郎がばつの悪そうな顔になる。彼は視線を泳がせると、困ったように頭をかいた。
(これはもしかしなくても、会話のきっかけを作ってくださったのかしら)
遅ればせてそんな考えに至ったおみつは、慌てて口を開いた。
「ええ、ええ。毎日のようにいっぱいきますよ。ぜんぶ食べきれなくて、ご近所さんに配ることもあるんです」
大抵はおみつや家族の腹に綺麗に収まる菓子だが、来客が立て続けに来すぎると家族だけでは処理できないことも多い。そんな時にはけちけちせずに近所に振る舞うのだが、それは一種の三好屋名物のようになっていた。近所を歩いていると『菓子の日はまだか』なんて子供に訊かれることも多いのだ。
「それはまことか」
迫力のある顔でぐいと距離を詰められ、おみつは冷や汗をかきながら思わず一歩下がる。
「ほ、本当でございますよ。決まった日にやるわけじゃあないんですけれど……」
「そうか……日は決まっておらぬのか」
そう言って大柄な侍はがくりと肩を落とした。その少し気の毒になるくらいの落ち込みっぷりに、おみつは少しばかり同情心が湧いてしまう。
「年明けになると、新しい年を占ってくれと毎日みたいにお客が来るんです」
「ぬ……」
「だからその時期にいらしてくださいましたら、たぶんお菓子をご馳走できますよ」
「まことかっ」
破顔する新一郎を見て、なんとも食い意地が張ったお侍だ、とおみつは自分を完全に棚に上げたことを考えてしまうのだった。
0
お気に入りに追加
487
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(14件)
あなたにおすすめの小説
一ト切り 奈落太夫と堅物与力
相沢泉見@8月時代小説刊行
歴史・時代
一ト切り【いっときり】……線香が燃え尽きるまでの、僅かなあいだ。
奈落大夫の異名を持つ花魁が華麗に謎を解く!
絵師崩れの若者・佐彦は、幕臣一の堅物・見習与力の青木市之進の下男を務めている。
ある日、頭の堅さが仇となって取り調べに行き詰まってしまった市之進は、筆頭与力の父親に「もっと頭を柔らかくしてこい」と言われ、佐彦とともにしぶしぶ吉原へ足を踏み入れた。
そこで出会ったのは、地獄のような恐ろしい柄の着物を纏った目を瞠るほどの美しい花魁・桐花。またの名を、かつての名花魁・地獄太夫にあやかって『奈落太夫』という。
御免色里に来ているにもかかわらず仏頂面を崩さない市之進に向かって、桐花は「困り事があるなら言ってみろ」と持ちかけてきて……。
御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~
裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。
彼女は気ままに江戸を探索。
なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う?
将軍を狙った陰謀を防ぎ、夫婦喧嘩を仲裁する。
忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。
いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。
※※
将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。
その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。
日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。
面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。
天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に?
周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決?
次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。
くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。
そんなお話です。
一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。
エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。
ミステリー成分は薄めにしております。
作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
インキュバスさんの8畳ワンルーム甘やかしごはん
夕日(夕日凪)
キャラ文芸
嶺井琴子、二十四歳は小さな印刷会社に勤める会社員である。
仕事疲れの日々を送っていたある日、琴子の夢の中に女性の『精気』を食べて生きる悪魔、
『インキュバス』を名乗る絶世の美貌の青年が現れた。
彼が琴子を見て口にした言葉は……
「うわ。この子、精気も体力も枯れっ枯れだ」
その日からインキュバスのエルゥは、琴子の八畳ワンルームを訪れるようになった。
ただ美味しいご飯で、彼女を甘やかすためだけに。
世話焼きインキュバスとお疲れ女子のほのぼのだったり、時々シリアスだったりのラブコメディ。
ストックが尽きるまで1日1~2話更新です。10万文字前後で完結予定。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
凄く好きなストーリーです。
早く続きが読みたい(o^^o)
一話だけ読んで面白いなあと思いました。
時代小説モノの書籍化レベルの文才なので、このまま10万字前後まで書かれて出版にならないかなーと思う内容です。
続きも読ませていただきます。
歴史時代小説大賞の読者賞と大賞をダブル受賞、今更ながらおめでとうございます。
じっくり読ませてもらいます!