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第一話『大福餅』

八卦見娘はふくふくである・四

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 板張りの暗い廊下を手燭の小さな灯り片手に一人の女が歩いている。年の頃は二十歳くらいだろうか。目元がキリリとつり上がった、細面の美しい女だ。しかしその目は光を失いどろりとして暗い。
 女は一見して広く立派だとわかるお屋敷の中を忍び足でそろそろと歩く。その迷いのない足取りと、着古し柄がかすれた着物という身なりから、女がこの屋敷の女中なのであろうことは容易に察せられた。人々は寝静まっている刻限らしく、屋敷の中で動いているのは女だけだ。廊下はいつまでも続きそうに長く、それに沿って襖がいくつも並んでいる。

(ここが藍屋さんのお屋敷かしら。とんでもなく広いわねぇ。いくつお部屋があるんだろう)

 歩く女と藍屋の内観を眺めながらおみつは考える。そう。おみつは今、先に起こるだろう光景を『眺めて』いるのだ。
 おみつの先見はこうやって、動く画を傍観する形となって見ることが多い。稀に誰かの体に入り込み同じ体験をする、なんて見え方の時もあるけれど。そちらは触覚や痛覚までが同化してしまい場合によってはかなり心の臓に悪いことになるので、動く画の方で先見が降りてくると、おみつは心底ほっとするのだ。
 女は立派な松の木が並び、美しい玉砂利が月明かりに光る広い庭にそろりと出てさらに歩く。満月に照らされた女の顔は、風のない日の湖面のように静かに凪いでいる。なのになぜか般若のようだとおみつは思った。女の顔を見つめていると体の先の方から寒気が這い上がってくるような。そんな錯覚を覚えておみつは震えた。

(この人は、誰かに怒っているんだ)

 直感的におみつはそう感じた。
 誰に、とまではわからない。でもきっとこの藍屋の誰かになのだろう。正当な理由があってなのか、はたまた逆恨みなのか。藍屋の奉公人の扱いがひどい、なんて話はまったく聞かない。むしろよそより手厚いくらいだ。なので主人を恨んでいる……という線は薄いだろう。ならば人間関係のもつれだろうか。

『若旦那……』

 女が、ふと小さく呟いた。それは夜の闇に震えて溶けていくようなか細い声だった。

 ――痴情の、もつれ?

 そんな言葉がおみつの脳裏に浮かぶ。そして同時に一太の美しい顔も。商家の若旦那が女中に手をつけ刃傷沙汰に……なんてことはとてもよくある話だ。しかしあの誠実な一太が女中に手をつけるとは考えにくい。じゃあ女の一方的な恋慕なのか……。
 おみつはぶんぶんと頭を振って浮かんだ考えを振り払う。……一太が誰と情を交わそうが、情を向けられようが。おみつにはなんの関係もないことなのだ。おみつはこの光景を『見る』ことだけに集中しないと。
 女の足は、大層大きな蔵の前で止まった。

(藍屋さんの蔵はすごいねぇ。恐ろしいくらいに大きいわ)

 おみつはその蔵の大きさに感心する。この蔵の中に江戸中……いや、上方からも集められた豪華絢爛な反物が詰まっているのだ。その価値を想像するとおみつはくらくらとしてしまう。
 あらかじめ盗んでいたのだろう。女は懐から取り出した鍵で錠前を外すと重々しい蔵の扉を、慣れた様子で音も立てずにゆっくり開いた。女は開いた隙間からするりと蔵の中へ入り、天井までぎっしりと敷き詰められた豪奢な反物たちを見回した。そしてその中の一つ……淡く黄みがかった白に草花柄が上品に散りばめられた美しい反物を手に取った。

(盗み、か。一太さんに報告するのも気が重いねぇ)

 もっと価値の低いものなら主人からの『お叱り』程度で済むだろう。けれど藍屋の反物はそんなちんけなものではない。女にどんな事情があったとしても、番屋に突き出し然るべき罰を受けさせることとなる。
 しかし女は……手燭の火をそっと反物に近づけた。

(付け火……!)

 おみつはその大きな目を瞠った。
 蝋燭の小さな火はチロチロと生地を焼く。そして反物はあっという間に燃え出した。女は種火を他の反物へも移し、火は美しい布々を赤い舌で舐めるようにして次々に広がっていく。最初はパチパチと小さな音を立て燃えていたそれは、ゴウゴウと大きな音を立てる炎となり、すべてを灰にせんと勢いを増していった。
 ――女は、その場から逃げなかった。それどころか燃え盛る炎をじっと眺めていた。女の顔が、蔵中に灯った橙色の灯りに照らされる。先ほどまでは無表情だった女の顔は実に楽しそうに歪んでいた。

『あはは、あはははははははははは! 全部、全部燃えておしまいよ!』

 燃え盛る蔵で女は嗤う。ああ、ようやく恨みが晴れたと言わんばかりに。狂ったように実に愉快そうに嗤う。女の着物に火が燃え移りその身が焼かれても……女は逃げなかった。
 もう耐えられず、女が焼かれる光景からおみつは目を逸らした。しかし目を逸らしても嫌ななにかが焼ける音で、女が焦げていくのが伝わってくる。
 おみつは必死に耳を塞ぐ。そしてふくふくとした身を丸め、この先見が早く終わるようにと懸命に念じた。

『……若旦那……なんであたしじゃ、だめなんですかねぇ……』

 熱い空気を吸い込み、焼け焦げた喉から絞り出すように。ひゅっという息の音とともに女が呟いたのを……塞いだ耳でおみつは確かに聞いた。
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