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20.Terminal:terminal

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 ***A

 ようやくミユに追いついた頃には周りの壁は無くなっていた。何十か、いや何百かもしれない。上がってきた階段の数も、フロアもどの程度かもう僕には計りかねていた。無機質に白い壁と床に包まれた階段を抜けた先、そこはビルの屋上だった。

 Yの字の先端らしく僕らの背丈を超えるような建物はもうない。僕らが過ごした住居、ミユの家も玩具のように見えた。公園もマーケットも粉粒とは言わないが、小石程度には小さくなっている。

 天気は快晴。風は怖いほど吹いていない。こんなビルの頂上に立っているのならば強い風が吹くはずなのに。今は、それがない。

「今、どうして風が吹いてないのかな、なんて思ったんでしょう」

 不思議そうに空を仰ぐ僕を視野に入れたミユは言った。

「ここもホロ。鉄柵しかないように見えて壁のように外とは隔たりがある。だからつまり外気とは触れてない部屋ってとこかな」

「まるでカバーがないプラネタリウムみたいじゃないか」

 ふとこの場所で夜空を眺めたらどうかと思ってしまう。ここはミユの母親とつながりがあるというのに、なんて無神経だろう。

「プラネタ……なんとかは知らないけれど、おおよそ見当はつくわ。どうせ景色とか眺めが良いなとか思ってるんでしょう」

 僕は嘘を付いてもミユには意味が無いと思い、頷く。

「別に疚しいことじゃないわ。私もそう思うもの。ここよりも高い建物はそうはない。どこまでも見渡せる、展望台。地平線を眺めるのに最適ね」

「だけど……君の母親とも関係があるんでしょ?」

「そうよ。私の母の未練が染みついているところ。そして私と母が唯一結びついているところ。記憶の片割れが落ちているかけがえのない場所よ」

 「それはいったい?」と、どうして母親がこんな高い建物に、しかも屋上に由縁があるのかと訊こうとした時だった。後から思えば聞くまでもない質問だったけれど、たぶん、ミユはだからこそ僕からの問いを阻止したんじゃないかと思う。

「母はここで死んだ。自分からね。他人の力に頼らず、重力にだけ身を任せて、地面へと一直線に」

「私はその光景を見ていないけど。でも、心残りがそう嘆いているの。新品のパレットに絵の具が付いたボールを投げつけたいって、そんな欲ばかりに埋もれてさ」

 どうしてここだったのか知らない。元からここだったような言い方。まるで赤子が自分の両親を無自覚のうちに認識するように、ミユもまた少なからず無意識のうちに足を運んでいたということなのか。

「それは要するに、誰かに教えられてとか、たとえば親戚の人に教えられてここを知ったというわけじゃないの?」

「ええそうよ」

 だから、ミユが僕の有り得ない問いにすんなり答えたことには驚かなかった。まさかこれもMBTの仕業なのだろうか。記憶を共有させる、言えば本人に自覚無しに記憶中枢に入り込むことが出来る。そして自由に消去、上書きが出来るということなのか。

 不思議だ。風がごうごうと喚いているように聞こえる。ホログラムで風も、音だって遮断されているはずなのに。耳鳴りのように内側へと音が刷り込まれているような違和感がする。僕の脳内にはMBTを埋め込まれていない。だから感覚共有とかその類は不可能のはず。現時点では、ホログラムを視界に入れるために簡易型の眼鏡を着けているだけなのだから。

 ミユが僕たちよりも先に、ビルの端、鉄柵の方へと走っていく。屋上からの光景を脳裏に焼き付けるためだろうか。屋上の面積はそれなりに広い。コンビニエンスストア二軒分はあるだろう。

「ちょっとまってくれ」

 僕も彼女の後を追う。走っていく少女を追いかけるなんて、傍から見れば親子のように見えるだろうか。10歳の少女と僕。前世では考えられなかった状況。

 一歩、大股に足を前に出し、ミユを視界の端にとらえた時だった。

 僕の下腹部に急激な痛みが生じた。大腸、小腸がつまっている辺りを掘られた、というよりこじ開けられた感覚。痛みだと思ったけれど、瞬時に熱で一杯になった。あつい、あつい、あつい。

「ははっ…………これがはらわたが煮えくりかえるって……ことなのかな」

 不可解にも笑いが込み上げてしまう。腹の底から溢れてしまうものだから余計に痛み、熱が増す。

 おそるおそる下を俯き、僕の下腹部がどうなっているのか確かめてみると。見覚えのあるナイフがTシャツを突き破っていた。

「君の仕業だったのか」

 崩れ落ちるように床にへたばってしまった。頬が直接コンクリートに触れているためか、顔のあたりが冷たい。だけど、下半身は燃えるように熱い。視界が白く靄がかかったようにぼやけている。頭を上げなければ叶わなかった青空も何もせずとも見ることが出来る。それが見えているのか、半信半疑だったけれど。

 右腕に力を入れ、下腹部をそっと撫でてから掌を確認する。驚くことはない、ケチャップとトマトのスムージーのような赤黒い液体がこべりついていた。

「こちらこそ。それを見ても驚きやしないとはやっぱりアンタだったのか」

 光がやっと入るほど、意識が薄くなった僕の目に映ったのは。

 紛れもなく、悦楽に浸る男の姿だった。


 ***A

 
 俺は一度過ちを犯した。何の罪もない一般人に対してホログラムナイフの使用。痛覚だけを過敏にさせる故、傷は一切残らない。物理的な傷は。

 つまり、精神的に古傷を抉る方法でもあるということだ。いくら身体面で支障が出ないとはいえ、記憶には残る。母親には見放され、父親には金の成る道具として見られ、心も体も全てを蹂躙された子供はこの世に生きる人間、一切を恐怖の対象とする。それと似たようなものだ。

 そして、俺は同じ過ちを、傷口を深く削る行為を二度繰り返した。

 本意だったのかもしれない。それが「オモシロイ」と、当時は抱いていたからと。

 だが、それも今の俺にはもう理解が出来なかった。いったいどんな感情を抱いているのか、なんてもんじゃない。どうして俺はここにいるのか、基本的なことすら分からなくなっていた。

『まーーた、やったのかい?52233272くん。一度、許してあげたのに懲りないねーー』

 上ってきた階段を下りていると脳内に声が反芻する。MBTを使った遠隔通話だ。

『ハッ、たわ言を抜かせ。何度言ったら分かる。俺はエモーショナーだ。感情をテメェらに意図的に指図され、何を考えようとも第三者の手が加わった無自覚のからくり』

『そんな奴に自制心なんてもんを持てと言うのか?笑わせるな』

 対話の主。ドクター。俺の唯一の管理者であり、感情思念センターの職員。

『無自覚。無自覚ねぇ』

 今は声しか脳に刷り込んでこないが、どうせセンター内の自室にでも籠って笑っているんだろう。中毒にでもなったかのように沸々と沸き上がる高揚という名の泡に埋もれて。

『キミさぁ。ヤサシサくんと出会って、感情のベクトルに変異が生まれたことは覚えているかい?』

『ああ。忘れやしねぇよ。そいつのおかげで俺は新たな感情が呼び起こされたんだからな』

 オモシロイ。一つしかなかった、52233272以外の感情。他人と関係を結び、そして協調、協定をおおよそながら感じ始めた頃に裏切る。それこそがオモシロイという感情の根源だと。

『それが作為的だとしたらどう思うかね?』

『作為的…………だと……?』

『そうとも。キミが公園で彼女を助け、そして身の安全を保証させ、翌日私たちがヤサシサ君を回収。それが一本のシナリオだとしたら』

 無駄な行為だ。俺にそんなことをして何のプラスがある。

『まったく、つくづく愚かな連中だ。そう感じるよ』

『ククッ。やっぱり、そう主張すると思った』

『そしてまた、キミが二度に渡るナイフの使用までもが仕組まれていて予期しているとしたら』

 不気味なんてものを越えていた。ドクターは研究者ではない。すでに人間が手を入れていい範疇ではないはずだ。

『次は…………俺はどうすると?』

 だからか、切り離されたといっても過言ではない、いやきっとそう来るだろうという予感はすでにしていた。

『キミはもう処分だネ』

 人気のないビルの最下層にて無慈悲な伝達が下ったのだった。
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