愛洲の愛

滝沼昇

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15.音曲の契り

➂ 能舞台の幻影

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 やがて日が傾き始めると、客人らは池に張り出した野外舞台を眺める為の見物席に招かれた。大きな篝火が庭園のそこかしこに焚かれ、幻想的な夜の風景を客に見せていた。

 その中には柳沢保明の姿もあった。彼は、座興の為にお抱え笛奏者を連れていた。
 光友が招待したのではなく、公務故に出席を辞退した綱吉の名代として、祝いの品を手に現れたのだ。
 むげに断る訳にも行かなかった。

 能舞台には、白拍子の装束に身を包んだ稚児結ちごゆいの若者が、静かに座していた。
   客らは、篝火に照らされたその美貌に溜め息を漏らし、女か男かと囁きあっていた。左耳に花飾りをつけ、薄く化粧をしたその美貌は、無論愛洲仁介のものである。

 仁介が、やがて篠笛を奏で始めた。
 柔らかながらも幻想的な調べが、篝火の弾ける音を間の手に庭園に響き渡った。
「よおっ」
 その調べに、保明が鼓で答えた。途端に、笛の調べは優しく柔らかであったものから妖しくおどろおどろしいものへと変わった。まるで、穏やかな女が恨みに狂って鬼女に変化するかの様な、激しい音調であった。美しい笛奏者が何かに取り憑かれる様にして体をくねらせつつ狂気じみた音調を奏でる姿に、観客は皆釘付けになって魅入っていた。


 その音調を遠くに聞きながら、壱蔵は堂々と下屋敷の主殿、漆黒の回廊を歩いていた。  
 尾張家総掛かりでの接待ゆえに出払っている筈の奥の間には、無粋な殺気が満ちていた。
 迷い無く襖から突き出されてきた切っ先を叩き折り、壱蔵は逆に襖の奥へと刀を突き刺した。断末魔の叫びと共に液体が襖に飛び散る音がした。
「兄者、柳生の雑魚共は俺が引き受ける、鶴丸はこの奥だ、行ってくれ」
 ひらりと壱蔵の頭上から燦蔵が廊下に舞い降りた。巨体からは想像だにできぬ軽々とした動きである。壱蔵はその背中を軽く叩いて後を任せ、長い回廊を進み続けた。
「やあっ」
 その行く手を阻む様に、廊下の両側の障子を破る勢いで、一斉に槍の穂先が突き出されていた。壱蔵は咄嗟に体を寝かせた。その瞬間、両側の部屋で火薬玉が破裂し、煙と共に槍を手放した柳生の剣士らが吐き出されてきた。
 壱蔵は彼らに刀を手に取る間を与えず、次々に斬り倒して行った。
「でかしたぞ、志免」
 煙に包まれた部屋から、顔を覆面で覆い柿渋色の忍装束に身を包んだ志免が現れた。
 凛々しい姿で抜き身の刀を下げる志免に、壱蔵は後詰を託した。

 ぼんやりと、奥の行き止まりにある部屋から明かりが漏れていた。注意深く障子を開くが、そこにはただ行灯があるだけで、人影はなかった。
 その部屋から更に奥の間へと続く襖を開けると同時に、壱蔵は身を屈めて突き出された一の太刀を躱した。その手応えは、一廉の剣客に違いない。
 狩野派の絵が鮮やかに描かれた襖を躊躇無く斜めに切り裂き、剣客は壱蔵の前に姿をさらした。煌煌と、四隅に置かれた行灯が部屋を照らしている。と、床の間の掛け軸がふわりと揺れたのを壱蔵は見逃さなかった。
「隠し部屋か」
 床の間の仕掛けを探そうと近寄る壱蔵に、背中からの容赦ない斬撃が降り掛かった。
 壱蔵は振り向き様にそれを弾き返し、床の間の壁に背中を預ける様にして敵に対峙した。
「愛洲陰流愛洲壱蔵、口程にもなし」
「名乗れ」
「尾張柳生、荒井新右衛門」
「いや、貴様の剣は人を斬り馴れた邪剣。尾張正統ではなく、暗殺を主に担う集団、裏柳生うらやぎゅうの者であろう」
 くくっと荒井新右衛門が喉の奥で笑った。
「どちらにしても、死ぬのは貴様だ」
 ゆったりと、新右衛門が正眼に構えた。
 壱蔵は刀の柄を握り直し、息を整えつつ脇構えに刀を引きつけた。
 篠笛が嘶き、鼓が乱れ打たれる。
 戦いの断末魔の様な二つの楽器の絶唱と共に、新右衛門と壱蔵が同時に踏み込んだ。
 脇構えから体を沈めつつ刀の刃を水平に倒し、伸び上がりの踏み込みと同時にすくいあげる様にして弧を描いた切っ先は、新右衛門の打ち下ろしの袈裟懸けをかい潜る様にしてその喉元に迫った。
   新右衛門の刃先が壱蔵の右袖を裂くと同時に、壱蔵の刃先は新右衛門の頸部を断っていた。
「う、ぐぐ……」
 くぐもった呻き声を上げつつ、新右衛門は首から血を噴き出して鴨居を鮮血で染め、やがてばったりと膝をついて崩れていった。


 舞台の上で、顔中に汗を光らせたまま、仁介は片手をついて乱れた息を整えていた。
 一方見所で鼓を叩いていた保明も、額にじっとりと汗を滲ませつつ、大きく息を吐き出す様にして鼓を下ろした。
 宴席からは、緊張から解き放たれた様な切ない吐息がそこかしこから漏れた。
「な、何と言う……」
 光友も絶句したまま、舞台上で息も絶え絶えに肩を上下させている美貌の笛奏者を見つめ、次いで見所席に座す保明を振り仰いだ。

 
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