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15.音曲の契り
➁ 粗相
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戸山にある尾張徳川家下屋敷では、用人が慌ただしく客人を出迎えては庭園に案内をしていた。
晴れ渡る冬空の下、まるで一つの農村が丸ごと入ったかの様な、鄙びた風景が広がっていた。
川があり、池があり、東屋があれば水車小屋もある。客の給仕をする女達は全て農婦のなりをし、まるで郊外の馬場で花見でもしているかの様な気分を楽しめる様な趣向が凝らされていた。また広大な敷地の中には権現社に地蔵堂、寺まであり、門前町の様に瀟洒な茶屋や出店まで立ち並んでいた。普段、軽々しく江戸の街を歩く事の叶わぬ賓客達は、本当に品物を買う事のできるこの擬似町屋で多くの土産物を購って楽しんでいた。
一方で、茶室の中や芝生に敷かれた緋毛氈の上では、室町期の艶やかな片身替わりの小袖に腰巻き姿の女達が茶を立て、茶人なら誰でも垂涎する名器が惜しげも無く披露されていた。
鶴丸は綱誠の招待客として、綱誠の茶席に侍っていた。池を眺める事のできる青空の下、広げられた緋毛氈の上の茶席で、痺れる足と格闘していた。だが、廻りには公家出身の大名家夫人、茶人、粋人として名を馳せる高禄の旗本や、大名家用人が顔を連ねている。加山家の家紋を染め抜いた裃を着た鶴丸が粗相をすれば、水目藩自体が恥をかく事となる。
まだ年若い鶴丸を、つい最前まで甲賀の山で暮らしていた出自を知りつつも、このような目立った席に座らせる事自体、綱誠の遺恨からなる陰険な嫌がらせであった。
「どうぞ御楽に」
茶を鶴丸の前に置いた女が、小声で囁いた。
「形に拘る事はございませぬ」
鶴丸が女を見上げると、女は時代がかった垂れ髪を揺らして微笑んだ。まだほんの十代と思しき若さだが、その立ち居振る舞いは堂々たるものであった。
「武門の誉れ高い加山の御血筋、茶は口に合わぬかのう」
茶器を手にして戸惑っていた鶴丸に、綱誠が嫌味を言った。如何にも深窓育ちの苦労知らずといった綱誠の青白い顔を、鶴丸は毅然と見据え、豪快に茶を煽った。
「結構な御点前にござる」
口の端を緑色に染めたまま、苦々しい顔で言い切る鶴丸に、席上から失笑が漏れた。
いたたまれずに、茶器を眺める事もせず緋毛氈の上に置いた時であった。
ぱりん
軽い音を立てて、茶器が二つに割れた。
「加山殿、これは何と言う粗相を」
鶴丸の右隣に座していた壮年の男が、綱誠との目配せの後、大げさに騒ぎ出した。
「これは、何と御詫び申し上げたら……」
「この茶器は神君家康公より賜りし名器。当家の家宝にござる。水目藩二万七千石を差し出しても足らぬものにございますぞ」
この席は、綱誠の息のかかった者達ばかりが座っていた。わざとらしく大騒ぎをする取り巻きらを綱誠はそれらしく鎮めた。
「父に報告せぬ訳には参らぬ。鶴丸殿、ひとまずこの綱誠と共に奥殿へ参り、父に事の次第を話して詫びては貰えぬか」
鶴丸は辺りを見回した。供をしてきた加山本蔵の姿はどこにも見えない。壱蔵の供を許さなかった彼は、この壮大で幻想的な世界に耽溺し、主の事など忘れて庭散策に夢中なのであろう。
「承知致しました」
蒼白な顔で鶴丸は答え、綱誠に促される様にして立ち上がった。
晴れ渡る冬空の下、まるで一つの農村が丸ごと入ったかの様な、鄙びた風景が広がっていた。
川があり、池があり、東屋があれば水車小屋もある。客の給仕をする女達は全て農婦のなりをし、まるで郊外の馬場で花見でもしているかの様な気分を楽しめる様な趣向が凝らされていた。また広大な敷地の中には権現社に地蔵堂、寺まであり、門前町の様に瀟洒な茶屋や出店まで立ち並んでいた。普段、軽々しく江戸の街を歩く事の叶わぬ賓客達は、本当に品物を買う事のできるこの擬似町屋で多くの土産物を購って楽しんでいた。
一方で、茶室の中や芝生に敷かれた緋毛氈の上では、室町期の艶やかな片身替わりの小袖に腰巻き姿の女達が茶を立て、茶人なら誰でも垂涎する名器が惜しげも無く披露されていた。
鶴丸は綱誠の招待客として、綱誠の茶席に侍っていた。池を眺める事のできる青空の下、広げられた緋毛氈の上の茶席で、痺れる足と格闘していた。だが、廻りには公家出身の大名家夫人、茶人、粋人として名を馳せる高禄の旗本や、大名家用人が顔を連ねている。加山家の家紋を染め抜いた裃を着た鶴丸が粗相をすれば、水目藩自体が恥をかく事となる。
まだ年若い鶴丸を、つい最前まで甲賀の山で暮らしていた出自を知りつつも、このような目立った席に座らせる事自体、綱誠の遺恨からなる陰険な嫌がらせであった。
「どうぞ御楽に」
茶を鶴丸の前に置いた女が、小声で囁いた。
「形に拘る事はございませぬ」
鶴丸が女を見上げると、女は時代がかった垂れ髪を揺らして微笑んだ。まだほんの十代と思しき若さだが、その立ち居振る舞いは堂々たるものであった。
「武門の誉れ高い加山の御血筋、茶は口に合わぬかのう」
茶器を手にして戸惑っていた鶴丸に、綱誠が嫌味を言った。如何にも深窓育ちの苦労知らずといった綱誠の青白い顔を、鶴丸は毅然と見据え、豪快に茶を煽った。
「結構な御点前にござる」
口の端を緑色に染めたまま、苦々しい顔で言い切る鶴丸に、席上から失笑が漏れた。
いたたまれずに、茶器を眺める事もせず緋毛氈の上に置いた時であった。
ぱりん
軽い音を立てて、茶器が二つに割れた。
「加山殿、これは何と言う粗相を」
鶴丸の右隣に座していた壮年の男が、綱誠との目配せの後、大げさに騒ぎ出した。
「これは、何と御詫び申し上げたら……」
「この茶器は神君家康公より賜りし名器。当家の家宝にござる。水目藩二万七千石を差し出しても足らぬものにございますぞ」
この席は、綱誠の息のかかった者達ばかりが座っていた。わざとらしく大騒ぎをする取り巻きらを綱誠はそれらしく鎮めた。
「父に報告せぬ訳には参らぬ。鶴丸殿、ひとまずこの綱誠と共に奥殿へ参り、父に事の次第を話して詫びては貰えぬか」
鶴丸は辺りを見回した。供をしてきた加山本蔵の姿はどこにも見えない。壱蔵の供を許さなかった彼は、この壮大で幻想的な世界に耽溺し、主の事など忘れて庭散策に夢中なのであろう。
「承知致しました」
蒼白な顔で鶴丸は答え、綱誠に促される様にして立ち上がった。
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