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14.尾張徳川家
➂ 上様
しおりを挟む保明からは、暫く何の言葉も掛からなかった。無論、もう一人、高貴な威圧感を醸し出している人物もである。
その静寂の間に、鶴丸はここ二ヶ月余の間に起こった身の上の激しい変化を思い起こしていた。考えてみれば、水目の城にさえ上がった事のない自分が、いきなりこの天下の江戸城の、しかも天下人の極私的な空間に居るのである。まだ夏の頃には、甲賀の里で若い娘達に悪さをし、己の中の鬱憤を持て余していたのであった。そしてその頃に、鶴丸は志免に無体を強いたのだ。
だが、その志免は、こうして今自分が身を包んでいる一切合切の衣服を整え、明憲より拝領の小刀を手づから腰に差してくれたものである。
「そなたをここに呼んだは何故か、解るか」
唐突に、少年の様な若々しい声がした。
返答に迷う鶴丸に、保明が膝を進めて近寄り、耳元で優しく告げた。
「上様じゃ」
鶴丸は思わず呑み込んだ唾を気管に詰まらせ、激しく咳き込んだ。
「ほ、本日は、は、拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に……」
咳を何とか止めながら言上する様子を見ていた五代将軍綱吉が、朗らかに笑った。
「気を楽にせよ」
綱吉公は、まだ先ほどの問いかけの答えを待っている様子であった。だが、呼吸を整えた鶴丸は平伏したまま、答えるべきか否か迷っていた。壱蔵から、直答などの無礼を致さぬ様にと釘を刺されていたのである。
「よいよい。実はの、この余とて、町場育ちの身分卑しき母の腹から生まれたのじゃ」
「上様、桂昌院様の事をかように」
保明がそれとなく嗜めるが、その口ぶりは、親しい兄への敬愛のように優し気である。
「本来、大広間で其の方と面談致すが定法なれど、保明から其の方の事を聞いての、小煩い連中のおらぬ所で言葉を交わしてみとうなったのじゃ」
鶴丸は恐縮の体で尚も深く頭を下げた。
「其の方は最早紛れもなき越中が嫡子。余がさし許す。良いな、保明」
「これで義理の兄への顔が立ちまする」
「ぬけぬけと申すわ」
何の事かと微かに顔を上げて保明を除き見た鶴丸は、そのまま視線を綱吉公へと移した。
山の様な書物を衝立代わりに間に挟み、庭に背を向けて綱吉公が座し、その綱吉公を右肩に見る様にして部屋の端に保明が座していた。綱吉公の顔だけが、衝立のように高々と積まれている書物の向こうに見えていた。
「直答を許す。面を上げよ」
鶴丸と視線を合わせた保明が、小さく頷いて、仰せに従うよう指示した。
恐る恐る、鶴丸は顔を上げた。とはいえ、目線はあくまで書物の山に注ぎ、将軍家を直視する様な事はしたくてもできなかった。
「ここなら滅多な事では誰も立ち寄らぬ故、楽にせよ。母御は、息災か」
「は、はい」
掠れた声で、鶴丸は漸くそれだけ答えた。
「どのような母であろうと、其の方を産んだ時は命がけであった筈じゃ。余の母も、兄達の母らと諍うことを覚悟の上で産んで下された。大事にせよ」
「はいっ」
甲賀では誰もが淫売と蔑んだ母を、綱吉公が自らの言葉で気遣ってくれた事が望外に嬉しく、鶴丸は思わず涙を落とした。
「兄の事、残念であったな」
「い、痛み入りましてございます」
鼻をすすりながら、鶴丸は精一杯の感謝の気持ちを述べた。
「励めよ。尾張の方角が何を画策致そうと、この保明と余は加山家の忠節を信じておる」
「上様」
流石に保明が諌めたが、綱吉公は、娘婿の西の丸入りを強硬に反対する水戸の光圀や、御三家筆頭をかさに反意を隠そうとしない尾張の態度に業を煮やしている様子であった。
「この部屋はのう、余が保明と心置きなく学問に勤しめる唯一の部屋じゃ。鶴丸、互いに庶子上がり、心安くこれからも遊びに参れ」
「う、上様の有難き御言葉、鶴丸、終生忘れませぬ。未だ修行も覚束ぬ未熟者ではございますが、父を助け、この一命を以て上様への御奉公に誠心誠意勤めまする」
最後の方はもう言葉にならず、涙まじりの叫びの様になっていた。
だが綱吉公は優しく頷き、平伏す鶴丸の向こう、書物の山の彼方へと消えていった。
「鶴丸殿」
鶴丸が入ったのとは別の襖が閉じられてから、保明が体を起こして鶴丸を呼んだ。
「上様はのう、其方の身の上に御自身を重ねられ、いたく気にかけておられる。いや、数ヶ月前までは甲賀の里を猿の如く駆け回っていたと聞いたが、流石に越中殿の御血筋、あの英邁な千代丸君の弟御よ」
上機嫌に褒めそやす保明に、鶴丸は仁介の事を訊ねようかと顔を向けたが、保明の横顔にふと寂し気な影を見て取り、言葉を呑み込んだのだった。
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