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12.妻恋
➂ 生涯ただ5日間
しおりを挟む保明と仁介は、夕日の射す縁側に火鉢を置き、並んで庭を見つめていた。残雪が淡い橙色に染まり、塀から舞い降りた小鳥が、小さな足跡を刻んで再び羽ばたいて行った。
「お寒くありませぬか」
保明の肩から滑り落ちた綿入れを掛け直し、仁介がその左肩に寄り添った。
「壱蔵という男、弟には甘いようだな」
「ええ。結局は、こうしてあなたの御側に居る事を許してくれました。優しい兄です」
「壱蔵が殊更目尻を下げていた末弟、志免とか申したな。中々可愛ゆらしい子であった」
擦り傷の残る手の甲を仁介に思い切り抓られ、保明が情けない声を上げた。
「しかし皆が己のことしか考えぬ様なこの世知辛い世に、其方らの様な兄弟がおるとは」
「両親が相次いで亡くなったのは、兄が14の時分。私は9歳、燦蔵が8歳、志免などはほんの2歳。その時から、兄は私や弟達の父にも母にもなりました。尤も、誰かが江戸におれば誰かが望月の里にと、四人が揃って暮らせた日など数える程しかございませぬが」
「それ故、互いへの思いが強まるということもあろう。少々妬けるな」
「もっと妬いて下さいまし。何を隠そう私の夢は、兄上のお嫁になる事でした」
「何と、私はおまえに、あんなクソ真面目な堅物と天秤にかけられていたと申すか」
屋敷に居た頃には決して聞く事のできなかった保明の軽口に、仁介は嬉しそうに微笑んで保明の首に両腕を回した。抗う事無く、保明は仁介の腰を引き寄せて唇を重ねた。
しどけなく膝を崩して横座りになった仁介の裾から、白い脚が露になった。太腿に巻かれてある包帯を、保明が苦悶の表情で撫でた。
「私はおまえを、お前達兄弟の命を縮める真似を……愚かであった」
「その事はどうぞ、もうお忘れに」
「私の傷を、見たのだろう、仁介」
仁介は答えず、ただ俯いた。
あの一昨日の夜更け、傷の手当の為に保明の体を丹念に清拭したのは他ならぬ仁介である。その体には無数の擦過傷と打ち身による痣、割れ竹で打たれた切り傷があった。骨が折れていなかったのが奇跡であり、保明の生半ではない鍛えぶりが伺えた。だが一方で、それほどの暦とした侍には屈辱的な、明らかに性的に穢された痕跡が生々しく刻み付けられていたのだった。
「徳川の血とは、荒淫の血であるのかのう」
綱吉に献身的に仕える己が身を皮肉るように、保明が呟いた。
「綱誠様の前では、私はただの男に過ぎなかった。囚われて手足を縛られれば、如何な上様側用人とて、ただの男。私はいとも簡単に剥ぎ取られてしまう地位や名声の為に、策士面で手を汚してきたのだ。無益な事よ」
「いいえ、あなたは上様への忠義の為に」
「忠義か。それすら、虚しゅうなった」
綱吉への忠義に囚われていた筈の保明が、その虚しさを口にしたのだ。それほどに、綱誠による手酷い拷問が保明から、ここまで上り詰めてきた保明たらしめてきたもの全てを、根こそぎ奪い去ったのだろう。
本当に、自分一人の男になってくれたのかもしれない……仁介は保明の手に縋った。
「女なれば妻に望んだ、兄に申されたあの言葉、信じてようございますね」
「女でのうても、仁介は我が連れ合いじゃ」
「ああ、嬉しい」
そう言ってしなだれかかる仁介だが、どこか寂し気な響きがあった。このような日だまりで二人仲良く並んで過ごす時間など、すぐに失われてしまうであろう事を、仁介も保明もよく承知していたのだ。
「お屋敷に、言伝を致しませぬと」
「用人の日下杢之助に文を書く故、届けてくれ。あの老人なら万事心得ておる。いや、待てよ、ここ数日の主が偽物であったと知ったら、卒中で倒れるやも知れぬぞ」
仁介の肩を抱いていた保明の腕に力がこもった。
「傷が癒えるまでの数日は、ここでおまえと二人、余人に邪魔されずに過ごしたい。爺にも、迎えには五日後に参れと申し付ける」
「五日……生涯に、ただ五日」
「そうじゃ。生涯に五日だけの、夫婦じゃ」
保明の唇に、仁介がむしゃぶりついた。音を立てて絡み付く様な口付けを繰り返しながら、仁介は涙を流していた。
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