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12.妻恋
➁兄の筋
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悪寒が、体を突き抜けたのだ。
この場を後にして良いものか、まずはこの家を見張っているだろう下忍に壱蔵への知らせを頼むべきか、広がる不安に志免の心は混乱し始めていた。
まずは壱蔵を呼ぼう、下忍に繋ぎを頼んでここに残ろう、何とかそれだけ判断をつけて玄関の戸を開けると、目の前にいつも以上に難しい顔をした壱蔵が立っていた。
「壱ちゃん」
「いるな」
「うん、それが……」
志免の説明を聞こうともせず、壱蔵はまっしぐらに三和土から寝間へと上がり込んで行った。仁介の予感通り、まさか本当に斬るつもりなのかと、志免も慌てて後を追った。
壱蔵が障子を開けた正にその時、仁介が己の首に短刀を突き付けようとしていた。
「愚か者が! 」
咄嗟に壱蔵が鉄扇を投げつけて仁介の手から短刀を払い落とした。力なく畳みに手をついた仁介の左手は、保明の右手と女物の腰紐で結ばれていた。
「馬鹿……一緒に死ぬつもりだったの」
志免が紐を解き、仁介の肩を揺さぶった。
「離れろ志免。仁介が手を下すまでもなく、この兄が、柳沢諸共葬ってくれる」
「やめて,壱ちゃん」
「この男が生きている限り、また我が藩の様な小国が取り潰され、数多の家臣が路頭に迷うのだ」
保明の体を跨いだ壱蔵が刀を抜き、眼前で切っ先を真下に向けて柄を握りしめた。一撃で心の臓を止める体勢だ。そして壱蔵が勢い良く息を吸い込んで体を伸び上げた時、仁介がその足下に食らいついた。
「兄上、お許し下さいっ、お願いです、斬るなら先に、兄上に背いた私を先に」
「言われんでも成敗してやるっ、どかぬか」
「駄目だ壱ちゃん、愛洲壱蔵ともあろう男が、無腰の負傷者を斬るって言うのっ! 」
派手に蹴倒されても、仁介は狂乱の体で壱蔵に取り縋り、決して刀を振り下ろさせようとはしなかった。思わず志免も、壱蔵の右脇に回り込んで、届かぬまでも必死でその腰に抱きついて抑えようとした。
「仁介……もう、よい、よいのだ」
思い余った仁介が壱蔵の腰から脇差を奪おうとした時、背後の布団の中から制止の声がした。三人が一様に動きを止めてその声の主を見ると、彼はゆらりと上体を起こしていた。
「保明様、いけませんっ」
仁介は悲痛な声をを上げて保明の胸に飛び込んだ。保明は、愛し気にその痩せた背中を撫でながら、穏やかな顔を壱蔵に向けた。
「一別以来じゃな」
途端に壱蔵は刀を背後に回し、保明の足下に下がって静かに居住まいを正した。
「過日は、主千代丸へのご厚情、誠にもってかたじけのう存じました」
「楽しい夜であった。いや、ご立派に成人されたなら、一廉の名君となられた御器量。惜しいことであった」
「痛み入りまする」
「無様よのう。尾張の掌で踊らされているとも知らず、風魔を操っているつもりが、まんまと手玉に取られたわ」
「我が手の者も多く倒れてございます」
壱蔵が志免を、保明は仁介を、それぞれ落ち着かせるべく優しく背を撫でた。先ほどまで壱蔵が撒き散らしていた猛烈な殺気や、仁介に取り憑いていた死臭は、雪解けのようにこの部屋から消えてなくなっていた。
雪に反射した陽光が、寝間で静かに向き合う男達を照らした。
「壱蔵、私に、贖罪の機会をくれぬか」
「然るべく」
「そうか……中々の役者よのう。これを私に言わせる為の、先程の狂乱芝居であったか」
くくっと、いつもの人の悪い含み笑いをした後、保明も床を出て居住まいを正した。
「水目藩跡目の件、この保明が一命に代えて幕閣に通し、上様御裁可を得る。また尾張家の件も、二度と水目藩及びそなたら愛洲兄弟に手出しをせぬよう、封じてみせる」
「証を示して頂こう」
「容易い事。それは仁介じゃ」
その言葉に、仁介が驚いたように泣き濡れた顔で保明を見上げた。
「仁介を我が手元に引き受けたい。私が約定を違えた時は、この仁介を私から取り上げるが良い。仁介を取り上げられた私には、最早生きる道はない。仁介が即ち、私の命だ」
能吏として千代丸に対峙した時とは違う、愚かなまでに仁介に溺れたただの三十路男の目がそこにあった。画策も裏も無い真直ぐな、それでいて潤んだ瞳を、壱蔵はじっと見据えていた。
「話にならぬ。この子を貴方の慰み物に差し出す事が、どう約定の証となるのだ」
「慰み物など。仁介は既に私の半身。女であれば妻にと望んでおる」
仁介の命は保明の命。約定違えし時は、望みのままに命を取るが良い、保明は暗にそう告げていたのであった。
壱蔵は漸く刀を鞘に納めた。
「仁介、しかと見張れ。柳沢様が約定違えし時は、真っ先におまえを斬る」
深々と仁介は平伏し、兄の厚意に謝した。
同じく頭を下げる保明を一瞥し、壱蔵は志免の手を引いて部屋を辞したのだった。
この場を後にして良いものか、まずはこの家を見張っているだろう下忍に壱蔵への知らせを頼むべきか、広がる不安に志免の心は混乱し始めていた。
まずは壱蔵を呼ぼう、下忍に繋ぎを頼んでここに残ろう、何とかそれだけ判断をつけて玄関の戸を開けると、目の前にいつも以上に難しい顔をした壱蔵が立っていた。
「壱ちゃん」
「いるな」
「うん、それが……」
志免の説明を聞こうともせず、壱蔵はまっしぐらに三和土から寝間へと上がり込んで行った。仁介の予感通り、まさか本当に斬るつもりなのかと、志免も慌てて後を追った。
壱蔵が障子を開けた正にその時、仁介が己の首に短刀を突き付けようとしていた。
「愚か者が! 」
咄嗟に壱蔵が鉄扇を投げつけて仁介の手から短刀を払い落とした。力なく畳みに手をついた仁介の左手は、保明の右手と女物の腰紐で結ばれていた。
「馬鹿……一緒に死ぬつもりだったの」
志免が紐を解き、仁介の肩を揺さぶった。
「離れろ志免。仁介が手を下すまでもなく、この兄が、柳沢諸共葬ってくれる」
「やめて,壱ちゃん」
「この男が生きている限り、また我が藩の様な小国が取り潰され、数多の家臣が路頭に迷うのだ」
保明の体を跨いだ壱蔵が刀を抜き、眼前で切っ先を真下に向けて柄を握りしめた。一撃で心の臓を止める体勢だ。そして壱蔵が勢い良く息を吸い込んで体を伸び上げた時、仁介がその足下に食らいついた。
「兄上、お許し下さいっ、お願いです、斬るなら先に、兄上に背いた私を先に」
「言われんでも成敗してやるっ、どかぬか」
「駄目だ壱ちゃん、愛洲壱蔵ともあろう男が、無腰の負傷者を斬るって言うのっ! 」
派手に蹴倒されても、仁介は狂乱の体で壱蔵に取り縋り、決して刀を振り下ろさせようとはしなかった。思わず志免も、壱蔵の右脇に回り込んで、届かぬまでも必死でその腰に抱きついて抑えようとした。
「仁介……もう、よい、よいのだ」
思い余った仁介が壱蔵の腰から脇差を奪おうとした時、背後の布団の中から制止の声がした。三人が一様に動きを止めてその声の主を見ると、彼はゆらりと上体を起こしていた。
「保明様、いけませんっ」
仁介は悲痛な声をを上げて保明の胸に飛び込んだ。保明は、愛し気にその痩せた背中を撫でながら、穏やかな顔を壱蔵に向けた。
「一別以来じゃな」
途端に壱蔵は刀を背後に回し、保明の足下に下がって静かに居住まいを正した。
「過日は、主千代丸へのご厚情、誠にもってかたじけのう存じました」
「楽しい夜であった。いや、ご立派に成人されたなら、一廉の名君となられた御器量。惜しいことであった」
「痛み入りまする」
「無様よのう。尾張の掌で踊らされているとも知らず、風魔を操っているつもりが、まんまと手玉に取られたわ」
「我が手の者も多く倒れてございます」
壱蔵が志免を、保明は仁介を、それぞれ落ち着かせるべく優しく背を撫でた。先ほどまで壱蔵が撒き散らしていた猛烈な殺気や、仁介に取り憑いていた死臭は、雪解けのようにこの部屋から消えてなくなっていた。
雪に反射した陽光が、寝間で静かに向き合う男達を照らした。
「壱蔵、私に、贖罪の機会をくれぬか」
「然るべく」
「そうか……中々の役者よのう。これを私に言わせる為の、先程の狂乱芝居であったか」
くくっと、いつもの人の悪い含み笑いをした後、保明も床を出て居住まいを正した。
「水目藩跡目の件、この保明が一命に代えて幕閣に通し、上様御裁可を得る。また尾張家の件も、二度と水目藩及びそなたら愛洲兄弟に手出しをせぬよう、封じてみせる」
「証を示して頂こう」
「容易い事。それは仁介じゃ」
その言葉に、仁介が驚いたように泣き濡れた顔で保明を見上げた。
「仁介を我が手元に引き受けたい。私が約定を違えた時は、この仁介を私から取り上げるが良い。仁介を取り上げられた私には、最早生きる道はない。仁介が即ち、私の命だ」
能吏として千代丸に対峙した時とは違う、愚かなまでに仁介に溺れたただの三十路男の目がそこにあった。画策も裏も無い真直ぐな、それでいて潤んだ瞳を、壱蔵はじっと見据えていた。
「話にならぬ。この子を貴方の慰み物に差し出す事が、どう約定の証となるのだ」
「慰み物など。仁介は既に私の半身。女であれば妻にと望んでおる」
仁介の命は保明の命。約定違えし時は、望みのままに命を取るが良い、保明は暗にそう告げていたのであった。
壱蔵は漸く刀を鞘に納めた。
「仁介、しかと見張れ。柳沢様が約定違えし時は、真っ先におまえを斬る」
深々と仁介は平伏し、兄の厚意に謝した。
同じく頭を下げる保明を一瞥し、壱蔵は志免の手を引いて部屋を辞したのだった。
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